一部
アリシア
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この屋敷ではみんなが彼女のことを、敬意を払って「ミセス・バセット」と呼ぶことにしているそうだ。
女性使用人のトップ、つまり家政婦を担う彼女は、台所用品に始まり食料庫の管理、石鹸やリネン(糸や織物)、文房具などの調達から、家庭薬の調合、帳簿付にいたるまで、ほとんどの仕事を管理していると言ってもいい。
他に家女中と台所女中という分類があるそうだが、彼女たちを雇用するかどうかの判断と、雇用した場合は部下としての教育指導まで行うというのだから、ここまで完全無欠という言葉が似合う女性はそういないだろう。
「玄関ホール、大広間、厨房、応接室、遊戯室にシガールーム」
ミセス・バセットの歩調に合わせて、彼女が腰に下げている鍵束が擦れ合い、ジャラジャラと小刻みに金属音を立てる。
汚れ一つなく、鈍い光を放っているところから推測するに、毎日の手入れを欠かさないでいるのだろう。
この鍵束こそが彼女の地位の高さを象徴している、わたしにはそんな風に思えた。
傍から見れば重たそうな鍵の本数こそが、彼女に対する信頼の厚さを物語っている。
「書斎、図書館、ギャラリー、朝食室、そして晩餐室。あなたが覚えるべき部屋はまだ多くありますよ。もうお分かりでしょうけれど、このお屋敷には数多くの部屋があります。初めはわたくしも苦労しましたが、いまなら目を閉じたままでも目的の部屋へ辿り着けるでしょう」
「それはすごいですね・・・」
ミセスは足早に進めていた歩を止め、後を追いかけていたわたしを首だけで振り返ると「冗談です。実際にやってはいけませんよ、危険ですからね」とだけ言い、前へ向き直った。
ミセスと初めて会った時、わたしは彼女のことを、堅苦しい女性だとばかり思っていた。
ところが、いざ会話をしてみると、目上の人に対して失礼かもしれないが、意外なことに、至極真面目な顔をしながら、たまにお茶目なことを言う人だということを知った。
意外、それはお茶目。
新発見だ。
おかげで、ガチガチだったわたしの肩も、いまでは若干の緩みを取り戻していた。
が、これはこれで慣れるのに時間がかかりそうだ。
問題は、本気と冗談の見分けがつかないところにある。
「落ち着いて、一つずつ覚えていけばいいのです。いますぐに、みなと同じことをできるようになれとは言いません。既に、あなたに与える仕事は決めてあります。いいですか」
二階へと続く長い階段をテンポよく上りながら、ミセスは少しも考える素振りを見せることなく、わたしへの説明を続けようと息を吸った。
そう例えば、既に作成されてある書類を読み上げるように、それが当たり前のことだというように、伝えるべき事柄が、言うべき言葉が彼女の頭の中に揃っているに違いない。
そう思わせるほどミセスの説明には無駄がないのだ。
「あなたが今後、一人でお勤めできるようになるためにも必要な工程なのです。用を言いつけられたなら、最低でも、すぐさま目的地を思い描けるようにはなっておかなければなりません」
わたしも暢気に、よく舌を噛まずにいられるなあ、なんて考えている場合ではない。
なんせ、先にも述べたように、彼女の説明には無駄がない、つまりはメモをとる時間すら惜しくなるほど説明が早いのだから。
次から次へと紹介されていく部屋に、わたしは早くも目が回りそうになっていた。
急激な環境の変化は精神をとんでもなく磨耗するということを改めて知った。
「聞いていますかアリシア」
「はい、ミセス・バセット」
「長旅で疲れているのは、わたくしも承知しています。もう少しの辛抱ですから、しっかりなさい」
「も、申し訳ございません」
俯き加減に答えてから、しまったと後悔する。
この流れはまずいのでは。
コツ、とミセスの靴音が止んだ。
はあ・・・と呆れたようなため息さえ聞こえてきて、内心、穏やかでなくなる。
あと少しで階段を上りきるというところで彼女は、体ごと振り返ってこちらを見ていた。
「・・・アリシア」
ミセスはどういう気持ちでわたしを見下ろしているのだろう。
父の「お前は顔に出やすいところがあるからなあ、まあ気をつけなさい」という有り難い言葉を思い出したところで、時は既に遅し。
鏡がないので確認する術はないが、一つだけ確かなことがある。
わたしは明らかに引きつった表情をしていた。
女性使用人のトップ、つまり家政婦を担う彼女は、台所用品に始まり食料庫の管理、石鹸やリネン(糸や織物)、文房具などの調達から、家庭薬の調合、帳簿付にいたるまで、ほとんどの仕事を管理していると言ってもいい。
他に家女中と台所女中という分類があるそうだが、彼女たちを雇用するかどうかの判断と、雇用した場合は部下としての教育指導まで行うというのだから、ここまで完全無欠という言葉が似合う女性はそういないだろう。
「玄関ホール、大広間、厨房、応接室、遊戯室にシガールーム」
ミセス・バセットの歩調に合わせて、彼女が腰に下げている鍵束が擦れ合い、ジャラジャラと小刻みに金属音を立てる。
汚れ一つなく、鈍い光を放っているところから推測するに、毎日の手入れを欠かさないでいるのだろう。
この鍵束こそが彼女の地位の高さを象徴している、わたしにはそんな風に思えた。
傍から見れば重たそうな鍵の本数こそが、彼女に対する信頼の厚さを物語っている。
「書斎、図書館、ギャラリー、朝食室、そして晩餐室。あなたが覚えるべき部屋はまだ多くありますよ。もうお分かりでしょうけれど、このお屋敷には数多くの部屋があります。初めはわたくしも苦労しましたが、いまなら目を閉じたままでも目的の部屋へ辿り着けるでしょう」
「それはすごいですね・・・」
ミセスは足早に進めていた歩を止め、後を追いかけていたわたしを首だけで振り返ると「冗談です。実際にやってはいけませんよ、危険ですからね」とだけ言い、前へ向き直った。
ミセスと初めて会った時、わたしは彼女のことを、堅苦しい女性だとばかり思っていた。
ところが、いざ会話をしてみると、目上の人に対して失礼かもしれないが、意外なことに、至極真面目な顔をしながら、たまにお茶目なことを言う人だということを知った。
意外、それはお茶目。
新発見だ。
おかげで、ガチガチだったわたしの肩も、いまでは若干の緩みを取り戻していた。
が、これはこれで慣れるのに時間がかかりそうだ。
問題は、本気と冗談の見分けがつかないところにある。
「落ち着いて、一つずつ覚えていけばいいのです。いますぐに、みなと同じことをできるようになれとは言いません。既に、あなたに与える仕事は決めてあります。いいですか」
二階へと続く長い階段をテンポよく上りながら、ミセスは少しも考える素振りを見せることなく、わたしへの説明を続けようと息を吸った。
そう例えば、既に作成されてある書類を読み上げるように、それが当たり前のことだというように、伝えるべき事柄が、言うべき言葉が彼女の頭の中に揃っているに違いない。
そう思わせるほどミセスの説明には無駄がないのだ。
「あなたが今後、一人でお勤めできるようになるためにも必要な工程なのです。用を言いつけられたなら、最低でも、すぐさま目的地を思い描けるようにはなっておかなければなりません」
わたしも暢気に、よく舌を噛まずにいられるなあ、なんて考えている場合ではない。
なんせ、先にも述べたように、彼女の説明には無駄がない、つまりはメモをとる時間すら惜しくなるほど説明が早いのだから。
次から次へと紹介されていく部屋に、わたしは早くも目が回りそうになっていた。
急激な環境の変化は精神をとんでもなく磨耗するということを改めて知った。
「聞いていますかアリシア」
「はい、ミセス・バセット」
「長旅で疲れているのは、わたくしも承知しています。もう少しの辛抱ですから、しっかりなさい」
「も、申し訳ございません」
俯き加減に答えてから、しまったと後悔する。
この流れはまずいのでは。
コツ、とミセスの靴音が止んだ。
はあ・・・と呆れたようなため息さえ聞こえてきて、内心、穏やかでなくなる。
あと少しで階段を上りきるというところで彼女は、体ごと振り返ってこちらを見ていた。
「・・・アリシア」
ミセスはどういう気持ちでわたしを見下ろしているのだろう。
父の「お前は顔に出やすいところがあるからなあ、まあ気をつけなさい」という有り難い言葉を思い出したところで、時は既に遅し。
鏡がないので確認する術はないが、一つだけ確かなことがある。
わたしは明らかに引きつった表情をしていた。