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第三章 枯れ草の寝台

「だけど、ぼくは言ったよね? 隠し事はされたくないって。これがどういう意味になるか、わかるかい、瑠璃?」

「わたし……わたし……」

 両手で口許を覆って泣き出した瑠璃にもう一度微笑みかけた。

「きみのためならぼくは人を殺せるよ?」

「真弥……」

 驚きが、その涙で潤んだ黒い瞳に浮かんでいく。

「きみを護るためならぼくは人を殺せる。この決意は嘘じゃない。そういう真似はきみはキライだろうけど、ぼくの望みはそうでもしないと果たせない。それでもいやじゃなかったら……この手を取ってくれないかな?」

 一定の距離を保ったまま手を差し出した。

 まだだれかを殺したことはない手。

 でも、手が触れ合えば、たぶん、血塗られる手。

 その手を瑠璃が取ってくれるかどうか、それが知りたくて祈るように彼女を見ていた。

 汚れを知らない乙女。

 汚すのはぼくかもしれない。

 でも、護るから。

 命懸けで護って愛するから、だから、どうか……。




 差し出された手が微かに震えている。

 隠そうとしても痛いほどの彼の緊張が伝わってくる。

 あれほどだれかを傷つけることを厭っていた真弥が、動物さえ傷つけられないと笑っていた真弥が、瑠璃のためなら人を殺せるとまで言ってくれた。

 罪かもしれない。

 どんな理由があれ人を殺せば、それは罪だと言ったのは瑠璃だ。

 なのに彼の言葉が泣きたいほど嬉しい。

 破滅しか待っていないかもしれない。

 でも……。




 時がすべてを止めるような静寂の中で、ゆっくり近づいてきた瑠璃の手が、差し出されていた真弥の手と重なった。

 一瞬の硬直。

 そうして真弥の顔に今まで見たこともないような、嬉しそうな極上の笑顔が浮かんだ。

 瞬きを繰り返して確かめている瑠璃を掴んだ手を引っ張って抱き締める。

 それだけでただ……愛しかった。

「好きだよ、瑠璃。きみを……愛してる」

 吐息のような告白。

 腕の中で何度も頷く愛しい少女。

 泣いているのかもしれない。

 抱き締めた肩は震えていたから。

 真弥がそうであるように、きっと瑠璃もそうだろう。

 なんとなくそうわかる。

 だが、だからこそ真弥の存在は、真弥との関係は瑠璃の生命線にもなる。

 知られたら、それが最悪の密告だったりしたら、(例えば夫を迎えたと嘘でも言われたりしたら)瑠璃の生命はない。

(どうしよう? 由希のことを瑠璃に言えば、瑠璃が余計な罪悪感を抱きそうだから言えない。
 でも、なにも言わなかったら、不味くないだろうか? 彼女がうっかりぼくの名前を出したりしたら、一体どんなことになるか)

 それにあまり変な勘繰りはされたくないし。

 だいいち隠し事はされたくないと言って、瑠璃にこれほど重い真実を打ち明けさせたのは真弥だ。

 真弥も真実を返すべきだろう。

 ただその方法が問題だ。

 瑠璃が自分を責めないように話を運ばないといけないし、由希には絶対に気を許さないように注意しないといけない。

 でも、そういう人を疑うような行為を、瑠璃が受け入れてくれるだろうか。

「真弥? どうしたの? もう着替えは終わったけれど」

 言われて振り向けば、いつもの格好をした瑠璃がいた。

 そういう場合ではないし、自分で言ったことだというのに、ちょっと勿体ないな、なんてため息が出てしまう。

 そういうことを感じる程度には、真弥も普通の男だったということだろう。

 実際、自分でも絶対に淡白だと思い込んでいたのだが、どうやら違うらしい。

「なに? その顔」

「いや。初めて見た女の子らしい格好が、あまりに似合っていたから、ちょっと勿体ないなと思って」

 頭を掻いてそう言えば、瑠璃は頬を染めて顔を背けてしまった。

 可愛いなと笑みが零れる。

「ほんと。瑠璃ってすごく可愛くて綺麗なのに、今まで見られなかったわけだから、結構、損をしてきてるよね、ぼくも」

「もうやめて、真弥。恥ずかしいじゃない」

 瑠璃はもう真っ赤だ。

 もうすこし苛めてみたいなんて思ったけど、やめておいた。

 どうして好きな相手は困らせたいのかな?

 自分で自分がよくわからない。

 でも、もし違う男に似たような科白を言われて、瑠璃が同じ反応を見せたら……ちょっと想像したらなんか……ムカッときた。

 なんだか自分で自分に振り回されている気がする。

 ちょっと落ち着かないと。

 ぼくがこんな調子だと、ぼく以上に免疫のない瑠璃を戸惑わせてしまうから。

 そのくせ困らせてみたいんだから、変だよね、ぼくも。

「真弥?」

 下から窺うように見上げられ、ちょっと笑ってみせた。

 ごまかし笑いだったのだが、瑠璃はホッとしたようだった。

「今日はちょっと時間あるかな? 大事な話がしたいんだ。きみに」

「夕刻くらいまでなら。巫女のお仕事は大抵夜にあるから昼間は暇なのよ」

「ふうん。巫女の仕事ってなにをするのかな?」

 いつも通り湖の畔で隣り合わせで腰掛けた。

 違っていることがあるとしたら、真弥が瑠璃の肩を抱き寄せていて、瑠璃が肩に凭れかかっていることぐらいだろうか。

 甘えられてなんだか嬉しくなる。

「色々あるけれど基本的には託宣のための潔斎とか、村長とか、部落の顔役との打ち合わせとか。そんな感じね。巫女のお仕事で1番重要視されるのが、託宣のための潔斎と託宣を行うときの儀式よ」

「へえ」

 全然知らなかった。

 瑠璃を見ていると、そういうややこしい手順はいらないような気がするのに。

「でも、だれもわかってないのよ」

「え?」

「歴代の巫女がどうだったかは知らないわ。でも、わたし……本当は託宣をするのに、そういう手順っていらないのよ」

 言われても納得しかしなかった。

 真弥にはそういう特殊な能力はないが、なんとなく瑠璃を見ていると、不思議な感じがするから変だと思ったのだ。

 さっき力を使うのに儀式がいると言われて。

「例えば村長から戦についての託宣を求められたとするでしょう? そうするとわたしには意見を求められたときに、すでに答えは出ているの。託宣はすでに終わっているのよ」

「それなのに儀式をするの?」

「大人ってどういうわけか、きちんと儀式をしないと信じないの。バカよね。儀式をしてもしなくても、意味も結果も変わらないのに」

「じゃあ西の部落との戦を止めたのは、もしかして瑠璃だった?」

 驚いた声で問いかけると瑠璃は笑った。

 それで答えがわかった。

 だったら戦が起きなかったことを知っていても不思議はない。

 むしろ当然だ。

 止めたのは他ならぬ瑠璃なのだから。

 あれはもしかしたら自分の託宣が受け入れられたかどうか、確認しただけなのかもしれない。

 だから、受け入れられていると知って、あれほど嬉しそうに笑ったんだ。

「村長は一体どんなふうにきみに託宣を求めたんだい?」

「いつもと同じよ。西の部落が攻めてくるかもしれないから、その規模とか、そういったことを託宣してほしいと」

「言いたくないけど言い訳だね。あれはもし起きていたら、間違いなく悪いのはこちらだったよ」

 だって仕掛ける側なのだから。

 というより用意周到にすでに準備はされていた。

 巫女が許せば即座に戦が始まっただろう。

 そのために向こうを混乱させて、わざと国主を狙ったのだ。

 向こうの戦意を高めるために。

 そうすれば向こうから攻めてくる。

 こちらがやったという証拠さえ残さなかったら、ただその疑いがあるというだけで、攻めてきた西の部落が悪いと建前が揃うから。

 現在の村長はそういう意味では知恵に優れていたし、そういうことにかけて余念がなかった。

 私腹を肥やすため、領土を増やすための戦を自分から起こしていた。

 瑠璃にはそれがどう聞こえ、どう受け取ったのだろう?

「わたしにも視えていたわ。村長の手の者が、西の部落の国主を狙ったのでしょう?」

「すごいね。一言言われただけで、そこまでわかるんだ、きみは?」

 驚いてそう言えば瑠璃はやるせない笑顔をみせた。

 あんまり特別だと言われたくないのかもしれないな。

 普通に扱ってほしいのかもしれない。

 気をつけよう。

 今まで知らなかったことだから、つい素直に受け答えしてしまった。

 愛しい女性は傷つけたくない。

「真弥にはこの森はどう見えているの?」

「どうって……すごく綺麗な豊かな森だと思うけど? だから、気に入ってるし。瑠璃は?」

「この湖は青いけれど近くの河は赤い」

 それは血の色ということなのか?

 そんなものがいつも見えている?

 それはどんな気分なのだろう?

 よく正気を保てるものだ。

「村に近づくほど森は血塗られていく。村には濃い血臭が立ち込めているわ」

 口にする瑠璃の方が傷ついているようで、なにもできないから、救ってやれないから、ただ抱き締めた。

 見たくなくても、そんな現実を見るしかない瑠璃を。

「血臭が死臭になったら、この部落は終わりよ」

「だから、戦を止めたのかい? たしか言っていたよね? 人の生命を奪い合う戦は、天命の理に背く行いだから、いつか報いが襲うと」

 今ならあの言葉は巫女としての託宣だとわかる。

 問うと瑠璃は小さく頷いた。

「あなたには感謝しているのよ、真弥」

「え?」

「あのとき、あなたに逢って戦がなんなのか、剣士がなにをする仕事なのか、そういったことを教えられなかったら、きっと気づかなかったから。
 あなたにはわかりにくいかもしれないけれど、巫女の力は正しく理解した上で行われないと意味を違えてしまうの」

「それは村長がきみを騙して戦の託宣を求めた場合、それが悪い方向へ働くものなら、きみがそうと信じて言った託宣も、意味を変えるということかい?」

「そうよ。あなたから色々なことを教えられたから、わたしは現実に気づけたのよ。それは感謝しているわ。それにあのままだったら、あなたにも迷惑をかけたもの。わたしは真弥を護りたかった」

 愛しかった。

 巫女としての役目でもあったのだろう。

 滅びへと向かう部落を救いたいという気持ちも本物だっただろうが、その中に人を殺せないのに戦場に赴かなければならない真弥を気遣う心が、護りたいと思い詰める気持ちがあった。

 そう思うと無性に愛しくてならなかった。

「気づいたときは愕然としたわ。あれほど輝いて見えた部落が今は淀んでいる。滅びへとはっきりと向かっている。その意味を村長の託宣を求める声で知ったわ」

 好戦的で貪欲な村長の思惑を瑠璃は、巫女としての力で見抜いたのだろう。

 狡猾な村長が舌打ちする姿が見えるような気がした。

 瑠璃に先手を打たれてしまえば、村長がどんなに戦を起こしたくてもできないのだから。

「きみが自分を責めるようなことじゃないよ。たとえきみが巫女だとしても、だよ。選ぶのは人間なんだから。そういうときに止められなかったことで、きみが自分を責める必要はないよ。裏切りは人間だけの悪徳だからね」

「そうね。それが天命の理なら、確かにどうすることもできないわ」

 そのときにすべてが終わると、瑠璃の悲しそうな顔が言っていた。

 こんなに細い肩に大勢の生命がかかっている。

 そう思うとたまらない。

 どれほどの重責に耐えているのだろう?

 なんとか機会を作ってなるべく早く彼女を救い出したい。

 そのために人を殺すことになっても。

「瑠璃」

「なあに?」

 見上げてくる瑠璃に以前は見られなかった女の子らしい優しい輝きがあった。

 甘えてくれていると思うと、それだけで嬉しい。

 たったひとりの愛しい女性に頼られるって、嬉しいことなんだと今更のように噛み締める。

「きみのことは色々と聞いたから、今度はぼくのことを聞いてほしい」

「話してくれるの?」

「きみにここまで打ち明けさせたのはぼくだよ? 自分の言葉を裏切るような真似はできないよ。それにきみには聞いてほしいし。ただ」

「ただ?」

「なにを聞いても自分を責めないでほしい。それだけは約束してくれるね?」

 瑠璃は意味を理解しかねていたらしいけど、やがてしっかりと頷いてくれた。

「ぼくはね。小さい頃はそれなりに恵まれていたと思うよ。優しい両親に愛されて育ったし。でも、10歳になったときに両親を亡くしてしまって」

「そう。でも、想い出はあるのでしょう?」

「そりゃあね。悲しい思い出もあるし、楽しい思い出もあるよ。思い出すと切なくなるけど」

「過去に囚われてはいけないわ、真弥。あなたがご両親に愛されていたのは事実でしょう? その結末がどれほど悲しいものでも、あなたがそれに負けて楽しい思い出さえ、悲しいものに変えてしまったら、亡くなったご両親が可哀想だわ。きっとあなたのことが心配で、黄泉の国でも安心していられないもの」

「……そうだね」

 苦い笑みになったけど、すぐに後悔した。

 巫女の境遇がどういうものか、はっきり知らなかったせいで。

「わたしには両親の記憶そのものがないもの。あなたはそれだけでも恵まれているのよ?」

「……ごめん。無神経だったよ」

 巫女の素質が確認された時点で、神殿に引き取られ、後継者として育てられる。

 そのことは知っていた。

 でも、まさか両親の記憶すらないなんて思わなかったのだ。

 それなら真弥の方が恵まれていただろう。

 少なくとも愛されて大切にされた楽しい思い出がたしかにある。

「これからはぼくが瑠璃の家族になるよ。楽しい思い出をあげるから」

 悲しみを瞳に浮かべながらも、瑠璃は嬉しそうに笑ってくれた。

 強がりの笑みですらなかったことが却って痛々しかった。

「突然、両親を亡くしたぼくを父の親友だったおじさんが引き取ってくれたんだ。そこには幼なじみの少女もいて、そこからかな。ぼくが笑えなくなっていったのは」

「え……」

「幼なじみのその娘は、ぼくにすごくなついてくれていてね。小さい頃から後ろをついて回っていたし、小さい頃はそれだけで、ぼくもやんちゃな幼なじみに、ちょっと扱いに困るなという程度の気持ちだった。でも、成長するほどだんだん度を越してきて……」

「どういう意味なの?」

「なに不自由ない暮らしを保証されていて、周りから大事にされて、自分は常に正しい。なにひとつ間違ってない。どんな望みも自分が口にすれば許される。そういう考えを当たり前のように持っていた」

 人は罪を犯して生きる生き物だと瑠璃は思う。

 どんな人間だってなにかしらの罪は犯している。

 自分だけは間違ってないなんて、だれにも断言できない。

 なのにそれを信じて育った少女もいるなんて信じられなかった。

「何度、説得してもわかってくれないんだ。そういう態度を続けて、そういう考え方でいたら、本当の友達なんて得られない。孤立するだけだって。でも、遂にわかってもらえなかったけど」

 なにを言えばいいのかもわからないと、瑠璃の複雑な顔が言っていた。

 真弥が複雑な境遇らしいということは知っていた。

 性格的に考えればそういう少女に、真弥が好意を寄せるというのはありえない気がする。

 むしろ苦手なのではないだろうか?

 それでもお世話になっていたら、あまり強いことも言えないだろう。

 だから、真弥はあまり激しい感情を表に出さない。

 いつも笑っていて鷹揚に見えているのは、おそらくその反動。

 真弥は自分でも知らないあいだに、周囲にも気づかれないように、自分を殺して生きてきた。

 もしそうだとしたら真弥が素顔を見せてくれていたのは、瑠璃の前だけかもしれない。

 自惚れかもしれないけれど、真弥は瑠璃の前でだけは本心から笑ってくれていた。

 そう思うから。

「今も辛い?」

 心配そうな声にふと真顔に戻って、真弥が嬉しそうに笑い、かぶりを振った。

「きみがいてくれるから辛くないよ、瑠璃。きみが傍にいてくれて、ぼくを想ってくれて、そうして笑ってくれるなら、それだけでぼくは救われる。きみの微笑みがぼくの心の支えになるから」

 飾らない言葉。

 言葉に嘘などないと瑠璃にもわかる。

 嬉しいのと同時になんだか恥ずかしくなった。

「ただね。きみにも薄々わかっただろうけど、ぼくの意志とは関係のない部分で、まあ色々と噂される立場にいてね」

「それって……幼なじみの少女のこと?」

 複雑そうな問いに真弥は頷いた。

「想われていることは知っていたんだ」

「……」

「きみには変な誤解をされたくないし、隠していて勘繰られるのもいやだから、敢えて正直に話すけど」

 この前置きですこし不安になった。

 真弥とその娘は、ただの幼なじみではない?

「ぼくも最初は意思表示をはっきりしていたんだ。多少は遠慮をしていたけど、だからといって心に添わないことを強制されるのはいやだったから。だけど、彼女は無意味に力を持ちすぎていた」

「力?」

 不思議そうな瑠璃に真弥は苦笑する。

「瑠璃のような不思議な力じゃないよ。言わば権力さ。人が必ず屈するものだよ」

「権力。そう。そうなの」

「小さい頃から独占欲が目立って、おまけに境遇的にワガママに育ってさ。自分が好きならぼくも好き。そう信じて疑わないんだ」

 ある意味で素直で正直な少女なのかもしれない。

 間違っていることでも、それが正しいと信じていたら、素直に思い込めるほど。

 それは悲しい素直さだと瑠璃は思った。

「何度かは違うって言ったし、まあそういう問題で言い争ったりしたけど、全然わかってくれないんだ。ぼくの言うことなんて信じてもくれない。叶わない望みなんてないから、必ずぼくは手に入る。そう思っているみたいだね」

「……人の心ってそんなふうに強制で動くものなの?」

 眉を寄せた瑠璃の声に「まさかっ」と言い返した。

 優しい瑠璃には、そういう傲慢さが信じられないのか、理解できないと顔に書いていた。

「それは幼なじみとしては、ぼくも好きだとは思っているけど、正直に言えば苦手なんだ」

 やっぱりと言いたげな顔だった。

 そんなにわかりやすいのだろうか?

 真弥の好みって。

「もし生まれや育ちが違って、幼なじみとして物心つく前から一緒にいなかったら、ぼくはまず彼女には近づかなかったよ。はっきり言って傷つけるのもなんだと思ったから、今はまだそういうことは口にしていないけどね」

「どういう生まれ育ちであれ、人から欠点を指摘されたら直す努力が必要だわ。その娘はそんなことすらしないの?」

「しないんじゃなくて、どうしてダメだと言われるのか、何故自分がいけないのか。まずその辺からしてわかっていないんだよ」

 これには瑠璃は絶句していた。

 それだけ彼女が純粋だということだろう。

「彼女の常識の中には、間違っているのは自分かもしれないという考えそのものが存在しないんだ」

「それで家を出ることにしたの? 我慢できなくなって?」

 ため息まじりの問いかけにかぶりを振った。

 瑠璃がきょとんとした顔になる。

「彼女は独占欲が強いって言っただろう? しかもどんなワガママでも通る境遇にいるって」

 頷くと真弥は何故かため息をついた。

「一緒に暮らすようになる前から、ぼくが他の女の子と仲良くしていたり、ひどいときは一緒にいるだけで相手を苛めるんだよ」

「そういう真似はよくないわ」

 複雑そうな声だった。

 真弥の恋人としての意見か、それとも巫女としての意見か、一体どちらだろう?

 瑠璃は優しいから。

「これが徹底しているというか、ほとんどの女の子が彼女の取り巻きだったし、男だって彼女の生家がもつ権力を恐れて、面と向かって逆らわない。
 だから、ぼくのせいで彼女に睨まれた娘は、ひどいときは対人恐怖症になったり、もっとひどいときは死のうとした娘までいたよ」

「真弥」

 真弥がそのことで自分を責めるのを気遣うような声だった。

 やりきれない。

 自殺騒ぎはただの一度だったけれど、あれ以来、真弥は孤立する道を選んだ。

 自分から進んで人と付き合わなくなった。

 真弥が神秘的と言われる原因を招いた事件だったのである。

「それ以来ダメなんだ。人に近づくのが怖くて。自分のせいでだれかが苦しむかもしれない。そう思うとだれかと親しくなることができなかった」

「あなたがめったに本心を見せずに、いつも笑ってばかりいるのは、そのせいだったのね。でも、あなたが自分を責めるようなことではないわ」

 そうやって孤立しても、現状は変わらない。

 黙って耐えて我慢しないで、自分の気持ちははっきり言うべきだ。

 それで傷つけても、争っても。

 一度は立ち直れない状況になっても、いやなことはいやだと言わないあいだは、真弥には自由はない。

 真弥がはっきり言わなければ、よけいに自分の過ちにも思い込みにも気づけない。

 真弥が黙って耐えているかぎり、由希の勘違いを増長させる。

 瑠璃にそう言われて理解できたから首肯した。

 真実を言うならとっくに決別しているのだけれど。

「だから、ね。おじさんから彼女の気持ちを受け入れて、一緒になってくれないかと言われたとき、いい機会だからとはっきり拒絶したんだよ、ぼくは」

「え? それって……」

「瑠璃?」

 声に動揺を感じて振り向くと、瑠璃は何度も瞬きをしていた。

「まさかその幼なじみの少女って……」

 大体わかったらしい瑠璃に苦い気持ちで頷いた。

「わかったみたいだね。そうだよ。きみのお傍付きとしてあがっている由希だよ」

「あなたが由希の……。じゃあ由希が縁談を断られたのは……」

 自分のせいかと責める口調だった。

 だから、振り向いて瞳を覗き込みはっきりと口にした。

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