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第八章 秘密の漏洩




 第八章 秘密の漏洩




「アルベルト!!」

「「アル従兄さまっ!!」」

 アベルが毒を飲んで重体。

 それを聞いたケルトとレイティアたちが飛び込んできたのは大方の処置を終える頃だった。

 アベルは今寝台で静かに休んでいる。

「落ち着いてくだされ、陛下」

「爺っ。それどころではないだろうっ!? アルベルトの容態は!?」

 爺やでもある主治医ローエンを前にケルトは取り乱して訊ねる。

「落ち着かれませ、若!!」

 活を入れられてケルトが黙り込む。

「今のところはご無事じゃ」

「「今のところはって……」」

「なんの毒を飲まされたのかがわからんのじゃ。なにしろ飲んだ毒物が残っておらん。検査しようがない」

「「「そんな……」」」

 青ざめる3人に背を向けて、ローエンはまた寝台に向き直る。

「そこに控えておる女騎士にお礼を申されるべきですな」

「「マリン」」

 レイティアとレティシアが驚いた顔で、自分たちの専任護衛騎士であるマリンを見た。

 彼女はすこし青い顔で窓際に立っている。

「彼女の処置が早かったお陰で、かろうじて一命を取り留めておる。それがなければ今頃はお陀仏じゃ」

「なにをしたの、マリン?」

 レティシアが泣き出しそうな顔で訊ねる。

 マリンは困ったような顔で答えた。

「お水を大量に飲ませました。毒物を吐き出させることが、助けるための1番の近道ですから」

「ちょっと待て。それは口移し、という意味にならないか?」

 ケルトはそう言ったがマリンは平然と頷いた。

「よく無事だったな。普通は口から毒が移らないか?」

「お父さま。マリンはいつだったか言っていました。わたしたちの護衛騎士になったときから、毒物に慣れるために毎日少量の毒を、それも色んな種類の毒を接種していると。おそらくそれで毒物の類が効かなかったのではないかと」

 レイティアの説明にケルトは目を見開く。

「それで毒物を盛った者は?」

「捕らえました。今頃はリドリス公爵が尋問されている頃ではないかと」

「そうか。リドリス公が。なら安心だな」

 なにか動きがあれば報告されるだろうと思ったときに、ローエンがポツリと呟いた。

「大きくなられましたなあ」

「爺?」

「それに父上様にそっくりになられて。まあ幼い頃から面影はありましたが」

「……アルベルトのことを知っていたのか?」

「わしをだれだとお思いか? 皆様の爺ですぞ? 誕生の瞬間ご母堂様から取り上げたのはわしじゃよ、若」

 ここまで言ってからローエンは「ふぉふぉ」と笑った。

「今では旦那様と呼ぶべきかのぉ。若と呼ぶならアルベルト様の方じゃろうから」

「ウッ。旦那様と呼ばれたことがないから変な気分だ。それに知っていたのに隠していたとは爺も人が悪い」

「いやいや。なんのなんの。若ほどではござらんよ。こうして捜し出していながら、年寄りには悟らせもせなんだ」

 嫌味を言えば嫌味で返されてケルトはムッとした。

 それから寝台に近付いて甥の手を握る。

 その手は熱かった。

 熱が出ているのだ。

「助かるのか?」

「わからんよ」

 一言言われて全員が息を飲む。

「後は本人次第じゃ。本人の体力と生命力に頼るしかない。医師にできることなど僅かじゃよ」

「頼む……助けてやってくれ。わたしはこれ以上大切な人を失いたくない」

「ほんに。泣き虫なところは成長しておらんのぉ。若は」

「……こんなときくらい泣いてもバチは当たるまい」

「まあ確かに。それにしても父君と同じような容態に追い込まれるとは。なんという皮肉か」

「それは……あのときもこうだったということか?」

 あのときも毒殺だったのかと問われ、ローエンは初めてそれを認めた。

 軽く頷く。

「助けられなんだ」

「……爺」

「発見が遅すぎて助けられなんだ。それに今じゃから同じ容態だと言えるんじゃ。あの当時は流行り病もあって判断できなんだ」

「そうか」

「それに若が毒物を飲むなど、あの当時では考えられないことじゃった。
 慎重で用心深かったあの若が、盛られた毒物に気付かないなど考えられないことじゃった。
 だから、気付けんかったのじゃ。言い訳には……ならんがのう」

「つまりそれほど意外な人物に毒を盛られた?」

「そういうことになるかのう。例えばリドリス公爵」

「まさか。公爵ではあるまい。考えられない」

「そう。そこが落とし穴じゃ」

 一言指摘されてケルトは口を噤んだ。

 先入観がよくない。

 そう言われるのはわかったので。

「わしも公爵だとは思っとらんよ。じゃがおそらく公爵と同じくらい意外な人物が敵に回ったんじゃろうて。あの若が油断するほどの人物がな」

「毒蛇の尻尾を掴んで大蛇が出てくるかもしれないな」

 父王の不吉な言葉にふたりの王女は身を震わせた。

 交わされる会話をマリンは俯いて聞いていた。

 王族全員の爺である主治医のローエンが、アベルのことを「若」と言った。

 この場合彼に「若」と呼ばれるべき立場なのは、王家直系の血を引く王子だけだ。

 そして話に出ている毒殺された「若」とは、たぶん前王のこと。

 その毒殺された「若」とアベルが、親子揃って同じ容態に追い込まれたと言われたということは……アベルが前王の子、ということだ。

 信じたくないがアベルは前王の忘れ形見なのだ。

 それも庶子とかそんな扱いではない。

 おそらく王妃から産まれた正当な王子。

 本来なら国王になっているはずの世継ぎの君。

 そこまで考えて泣きそうになって目を閉じた。

 生命を狙われるだけの価値が、アベルにはあったのだ。

 アベル自身にこの国の未来がかかっていた。

 だから、彼は狙われた。

 そしてその可能性があると知りながら、彼が宮殿に戻ってきたのは罪を犯した家族を護るため。

 それも本来の身分である自分には敵意を持っていそうな家族を。

(まさか。……エル姉?)

 アベルがあの謁見のときに言った数々の言葉。

 それを言いそうな相手はエル姉しか思い浮かばない。

 あのシスター・エルが怪盗?

 信じがたい幾つもの話にマリンは、ただ唇を噛み締めていた。




 あれから幾つの夜が過ぎただろうか。

 アベルはまだ意識を取り戻さない。

 山場は越えたと爺は言ってくれるが、意識が戻らないことには、本当に山場を越えたことにはならない。

 ケルトは執務に追われる傍ら。

 アベルに毒を盛った者を調べることに忙しかった。

 その全権を任せているのはリドリス公爵である。

 その理由はごく簡単だ。

 アベルが毒を盛られ、兄王も毒殺だったと教えた後の、彼の反応だ。

 一瞬ケルトが殺されるんじゃないかと錯覚するほどの無言の怒りを示していた。

 あまりの迫力にケルトはしばらく声を掛けられなかった。

 それで彼ではないと確信が持てた。

 あれが演技だとしたら、公爵は人間じゃないとしか言えない。

 だから、彼に全権を委ねた。

 必ず黒幕を捕まえろと命じておいて。

 公爵からはなんの報告もない。

 だが、なにか動いているらしいというのは、ケルトにもわかる。

 そうして宮殿を揺るがした毒殺未遂事件から1週間後。

 執務を終えようとしたケルトの下にリドリス公爵がやってきた。

「なにか進展があったのか、公爵?」

「あったと申しますか、なかったと申しますか」

「どちらなのだ?」

「あの侍女を使ったのは黒幕の短慮と言うべきでしょう」

「どういう意味だ?」

「あの侍女は元から宮殿で働いていた侍女ではありません」

「と言うと?」

「陛下が即位なされてから、陛下はご自分に仕えられる立場の者を厳選されました。
 ですから毒を盛りたくても、ちょうど使える者がいなかったのでしょう。
 だから、あの侍女を使った。捕まれば足がつくことを承知で」

「だからっ。どういう出自の侍女なんだっ!?」

「すこしややこしいのですが。これを」

 差し出された書類をケルトは手に取った。

 それは毒を盛った侍女の身上書だった。

 家系図までついている。

 ここまで調べたのなら、それはまあ1週間ぐらい必要だっただろう。

「ん? ちょっと待て。これは……」

 あの侍女はつい最近行儀見習いという名目で城にあがっていた。

 それまでは侯爵令嬢として暮らしていたらしい。

 あまり知らない家の出だが。

 その母親はある公爵家の令嬢。

「アドレアン公爵? まさか……」

 リドリス公爵家の好敵手にして前の宰相。

 アドレアン公爵。

 その孫娘があの侍女だった。

「嘘だろう。だって彼は兄上がリドリス公爵と同じく無二の親友と信じた相手じゃないか」

「はい。わたしも良き好敵手だと自負しておりました」

 お互いに好敵手だと認め合い、お互いに前王に二心なく仕えている。

 そう信じていた相手。

 この現実を受け入れるためにリドリス公爵にも時間が必要だった。

「わたしも当時の状況を思い出してみたのですが、前王がお倒れになったとき、その前日に王の元へ参ったのがアドレアン公爵です」

「……確かなのか?」

「確かです。前王とわたしがチェスを楽しんでいるときに、不意にやってきて内密の話があるからと、わたしは追い出されましたから。
 お倒れになる前日の夕方のことです。すこし調べましたが、当時のことを知る侍従が、公爵は夜遅くまで陛下とご一緒だったと証言しています」

「そのときの様子をもっと詳しく教えてくれ」

 低い声でそう言った。

 信じがたい人の裏切りを前にして。

「深夜に頼まれて運ばれたワイン。今回と同じ手だな」

「はい。あのときに巧くいったので、今回も同じ手を使ったのではないかと」

「しかし状況証拠ばかりでは手が打てない。そもそも迂闊に手が出せないぞ。アドレアン公爵が相手では」

「厄介ですね。黒幕が大きすぎます」

「宰相が代わったのはわたしの独断で、それまでずっと宰相を務めてきた家系だからな。
 迂闊に手は出せない。それを踏んで孫娘を使ったのか? バレても手を出せないと踏んで」

 卑怯だと思う。

 親子揃って生命を狙うなんてあんまりだ。

 兄上が、アルベルトがなにをした?

 ただ世継ぎに産まれただけだ。

 正しいことをしただけだ。

 それで何故殺されなければならない?

 信頼させて毒殺するなんてあまりにむごい。

「アドレアン公爵……わたしを敵に回したこと……後悔させてやる」

「陛下」

「敬愛する兄を殺されて、愛する甥を殺されかけて黙っていられるほど、わたしは優しくないし軟弱でもないのだ。どんな手を使っても潰してやる!!」

「お手伝い致します。わたしも親友をその御子息を殺されかけて黙っていられるほど、人間ができておりませんので」

 一礼する公爵に似た者同士のケルトは、ひっそりと笑顔を返した。





「レティ。そろそろ休みなさい。今度はあなたが倒れるわ」

 姉に優しく肩を揺すられても、レティシアは動かない。

 じっと寝台の傍に付き添ったままで。

 ふたりの背後にはマリンが無言で控えている。

「いやよ。離れない」

「レティシア」

「だってもう10日になるのよ? 従兄さまはいつお目覚めになるの? 本当に峠は超えたの? だったらどうして目覚めないのっ!?」

 泣き崩れるレティシアをレイティアは強く抱きしめた。

 もう限界なのだ。

 レティシアはもう精神的に耐えられる限界を越えている。

 でも、アベルの眼が覚めないかぎり、レティシアが傍を離れるとも思えなかった。

 困り果てたとき、トントンとノックの音がした。

「はい?」

「おふたりとも、こちらですか? リアンです」

「リアン? どうぞ、入って」

 レイティアが妹を抱いたまま、そう声を投げれば公爵令嬢リアンが入ってきた。

 心配そうにふたりをみる。

 実は眠っていないのも部屋に戻っていないのも、レティシアだけに当てはまることではなく、説得している当のレイティアも部屋には戻っていなかった。

 それどころか疲れている妹姫が、無意識に眠ってしまっても、彼女はじっとアベルの様子を見守っていた。

 それをマリンは知っている。

 従兄妹だとしても度を越えたふたりの態度に、もしかして……と疑いだしている。

 態度には出していないけれども。

「アルベルト様の意識は……戻られましたか?」

「戻ったように見える?」

「まだのようですね」

「ごめんなさいね? 毎日お見舞いにきてもらって」

「いいえ。わたくしなど公爵家の城から日参するくらいしかできなくて。おふたりに比べればお恥ずかしいかぎりです」

 小さくなる公爵令嬢にマリンは眼を細める。

 この人もなの? と。

「とりあえずお食事をお持ちしました。おふたりともろくに召し上がっていらっしゃないのでしょう? どうかお召し上がりになってください」

「でも」

「毒は入っていません。なんならわたくしもご一緒しますから」

「バカね。リアンのことは疑っていないわ。それはお父さまのご様子をみていてもわかるもの。リドリス公爵を疑っていないことが。でなければアル従兄さまのことで全権を委ねたりしないわ」

「そうですね」

 そういうリアンもすこし痩せたようだ。

 ろくに眠れていないのかもしれない。

 それから3人はマリンの給仕で食事を摂った。

 今はそのくらい信じられる人材がいないということである。

 だれもかれもが疑心暗鬼に陥っている。

 それは明白な事実だった。

 食事を終えるころ、レティシアが言った。

「ごめんなさいね、マリン」

「はい?」

「本当は孤児院に帰りたいのでしょう? アル従兄さまのことを伝えに」

「お父さまが口止めしているのと、それからわたしたちの身を案じて帰らないのでしょう? ごめんなさい。あなたの足手纏いになって」

 ふたりに揃って謝罪され、マリンはかぶりを振った。

「この状況では仕方がありませんから。それに今戻っても皆にどう伝えればいいのか見当もつきません。
 まさかアベルが毒を盛られたなんて言えませんし。言ってもお見舞いにもこられませんからね。居場所が宮殿では」

 一般の庶民が毒を盛られるというのは常識的に考えてあり得ない。

 毒はそう簡単に手に入る物ではないのだ。

 これが狩猟を生業にしている者なら、手に入れる方法もあるだろうが、一般人なら普通は毒物など目にする機会もない。

 なのにアベルは毒を盛られた。

 今も意識が戻らない。

 そんな説明できるわけがない。

 説明したらきっと皆アベルに逢いたがる。

 だが、今彼がいるのは宮殿だ。

 皆には逢いにくることができない。

 それがわかっているから、どう伝えればいいのか、皆目見当もつかないのだ。

 だから、戻れなくてホッとしている自分がいることをマリンも自覚していた。

 冷たいなとは自分でも思うのだが。

 ただシスター・エルのことは、ずっと脳裏で引っかかっていた。

 彼女が怪盗なのだろうかと。

 もしそうならアベルがこんな目に遭ったのは彼女のせいでもあるのだ。

 なのにアベルが王子だなんて知ったら、きっと彼女は反発する。

 アベルを憎み恨む。

 自分たちを騙したと。

 そうなったらきっと自分はエル姉を許せない。

 だから、帰って確かめるのが怖い。

 そういう部分も確かにあるのだった。

 エル姉を慕っていた気持ちは嘘じゃない。

 なのに裏切られることが怖いのだ。

 アベルのときとは事情が違う。

 彼の場合はおそらく彼自身も知らなかった素性だ。

 そのことは彼のせいじゃない。

 知って戸惑ったのは彼の方だろうから。

 だが、エル姉は違う。

 前代の怪盗とアベルは言っていた。

 つまり怪盗は代々続いているのだ。

 本人には怪盗をやっているという自覚もあっただろうし、それを隠して周囲を騙している自覚もあっただろう。

 この場合、裏切ったのはエル姉の方だ。

 なのにエル姉を庇おうとしたアベルを当のエル姉が恨む、憎む。

 そうなったら自分もきっとエル姉を嫌う。

 憎んでしまう。

 それが怖い。

 無自覚で自分でも知らない秘密を抱えていたアベルと、自覚して周囲を騙していたエル姉。

 どちらが悪いかと言われれば答えは簡単だ。

 でも、エル姉にそんな常識が通じるとも思えない。

 アベルが王子であるという現実に拘るエル姉には。

 だから。

「顔色がお悪いですね。なにか心配事でも? マリン様」

「いえ。なんでもありません、リアン様。お気にかけていただけて光栄です」

「そうですか? 本当にお顔の色が優れませんけど」

「本当になんでもありません」

「もしかして怪盗の話?」

「レイ様」

「それはあなたにもショックでしょうね。アル従兄さまの知り合いということは、あなたとも古くからの知り合いって意味だもの」

「だれなのか心当たりでもあるの?」

 レティシアに問われてマリンは固まった。

 彼女には駆け引きという思考はない。

 ただ純粋に思いついたことを言ってくる。

 だが、だからこそタチが悪いのも事実だった。

 不意をつかれて誤魔化せないことが多いからだ。

 だが、ここは頑張って平静を装った。

「いえ。だれなのか考えてはみているんですが、心当たりがなくて……。あればやめるように説得もするんですけどね。アベルの行動を無駄にはしたくないですから」

「あなたはまだアル従兄さまのことをそう呼ぶのね」

 レイティアに言われてマリンは目を伏せる。

 恐れ多い言動であることは自覚していたから。

 彼は世継ぎの王子なのだから。

「本当はアル従兄さまがだれなのか、薄々悟っているのでしょう?」

「なんのことなのかわかりません」

 そうシラを突き通すことだけが、マリンの現実を受け入れたくないという唯一の抵抗だった。

(だってあたしだってアベルのことを)

 もう伝えることさえ許されないかもしれない。

 疑いが事実ならこの3人の令嬢だって彼を想っている。

 高貴な令嬢が似合う男性。

 それが王子としてのアベル。

 自分にはもう……手が届かない。

 その現実が辛かった。

「うっ……ここは?」

 突然そう声がして4人は脱兎の如く寝台に近付いた。

 覗き込めばアベルがその空色の瞳を開いている。

「爺っ。すぐにきてっ」

 今は別室で休んでいる爺をレイティアが慌てて招いた。

 アベルが意識を取り戻したことで、事態は急速に動いていくことになる。




「そうか。あの青年は助かったか」

 大きな椅子の向こうに隠れている男性がそう呟いた。

 報告にきていた彼の娘が泣き出しそうな声で訴える。

「お願いです、お父様っ!! リージアを助けてくださいっ!! 悪いようにはしないと必ず助けるからと、そう申されるから、こんなことに手をお貸ししたのですっ!! あの子を……リージアをどうか助けてくださいっ!!」

「なにを怯えている、フィリシア?」

 クルリと椅子を回転させて隠れていた男性が振り向いた。

 黒髪に黒い瞳をした老人だ。

 前王の教育係でもあり、そのため親友と呼ばれた人物。

 年齢的にリドリス公の好敵手と呼ばれるには不都合のあった人物。

 そう呼ばれることが不快だった。

 ずっと年下の男が何故自分の好敵手などと言われるのか納得できなかった。

 現王は自分がリドリス公爵を宰相にしたと思っているかもしれない。

 だが、現実はそうじゃない。

 前王がまだ健在な頃から宰相の代替わりの準備は進んでいた。

 密かに、ではあったが。

 自分はずっと宰相の家系に産まれて、死ぬまで宰相だと信じていたのに、前王はリドリス公爵を宰相に迎える準備を着々と進めていた。

 あの日。

 前王に毒を盛った日。

 前王は訪れてきた自分にこう言った。

『そなたに落ち度があるわけではないのだ、アドレアン公爵。ただいつまでも同じ体制でいてはいけない。
 新しい風が王宮には必要なのだ。そのためには宰相の代替わりが必要。聞き分けてくれないか?』

 弟王子が宮殿から逃げ出すしかなかった現状。

 それを嘆いていた前王はそんなことを言っていた。

 体制が変わらないなら変えるまで。

 そんな強い眼をして。

 自分がそう育てたはずだった。

 王として揺るぎなく進んでいくよう教育したはずだった。

 だが、その聡明なる王に自分が掌を返されるとは思ってもみなかった。

 今はまだ水面下で進んでいる計画。

 だが、それが露見してからでは遅い。

 あのとき、決意した。

 殺すしかない、と。

 宰相を代替わりさせると発言される前に、王を殺すしかない、と。

 だから、受け入れることを笑顔で伝えて最後にワインを呑みたいと告げた。

 お好きなワインを用意しました、とも。

 前王は疑わなかった。

 あの男は確かに聡明だったが、一度信じた相手を疑えない気性の持ち主だった。

 そして……そう育てた自分は、それを1番知っていた。

 だから、容易かった。

 王を手にかけるという弑逆は。

 ただ……躊躇いはあったかもしれない。

 王に盛った毒は遅効性だった。

 即効性を盛ることはできなかった。

 本当はだれかに気付いてほしかったのかもしれない。

 王に毒が回るまでに。

 でも、だれも気付かなかった。

 手遅れになるまで。

 だから、自分は王を弑逆した大罪人になってしまった。

 王の柩に縋って流した涙は、今思えば後悔の涙だったのかもしれない。

 だが、王の遺体を見て青ざめた。

 消えていたのだ。

 王子か王女が産まれないかぎり、王の腕から外れないはずの継承権の腕輪が。

 青くなって徹底的に捜した。

 二の舞は演じたくなくて。

 父を殺した仇。

 そう思われて反撃されるのが怖くて。

 でも、見付からずに時は過ぎて、自分は宰相のままでいられるのだと、前王の子に反撃されることもないのだと安堵した頃、現王が即位した。

 そうして儚い夢は費えた。

 現王は徹底的な政治の改革を行った。

 その手始めが人材派遣のやり直し。

 的確な場所に的確な人材を。

 そういう方針の王だった。

 そうしてその王が新しい宰相に選んだのもリドリス公爵だった。

 何故だと何度悔しい想いを噛み締めただろう。

 どうして自分はリドリス公爵に負けるのだと。

 あんな年下の男などに。

 おまけに前王とは違い大した繋がりを持っていなかった現王は、アドレアン公爵である自分を大して重用はしなかった。

 大臣にはしてくれたが、それだけだった。

 家の権力はどんどん小さくなり、今では同じ公爵家だというのに、リドリス公爵家の足元にも及ばない。

 代々続いた宰相の家系。

 その名前だけで生かされている家柄だった。

 何度も信用してもらおうと王に声をかけ、お傍に置いてもらおうとしたが、現王はあまり人を信用して近付けない。

 その理由が兄王が暗殺されたためだと知ったときは因果応報。

 この言葉が脳裏を過った。

 前王のときも現王のときも信頼を得たのはリドリス公爵のみ。

 何故だっ。

 そう思って噛みしめる奥歯が痛む。

 それでも前王を可愛い教え子を手にかけた苦しみからも解放され、諦めることに慣れ始めた頃、彼が……現れた。

 前王に生き写しの青年が。

 素性は知らない。

 噂ではただの国1番の吟遊詩人という話しだった

 だが、怖かった。

 彼を前にするのが。

 吟遊詩人という肩書きも前王を思い出させたから。

 前王は竪琴の名手で大変な歌い手だった。

 国1番との誉れも高い吟遊詩人という一面も持っていた。

 それを知る自分には同じ吟遊詩人で国1番の吟遊詩人の異名を持つ瓜二つの青年というだけで、彼が目障りで……怖かったのだ。

 即座に殺そうと思えるほど。

 だが、彼は生き長らえた。

 前王のようには容易くは殺せなかった。

 現王は知っただろうか。

 リージアの背後にいるのは自分だと。

 そう思った心の隅で笑う。

 知ったところで手は出せまい。

 代々宰相を努めてきた家系という事実は消えない。

 いくら権勢を失ってきていても、相手が王だったとしても、そう簡単に手を出せる家系ではない。

 でなければいくら人手がなくても孫娘は使えない。

 殺せても殺せなくても、孫娘が捕まれば露顕する確率は高かったのだから。

「そう怯えることはないのだ、フィリシア。我々がなにをした?」

「なにをって……お父様。人を殺そうとしたではありませんか」

 震える娘の声にニヤリと笑う。

「たかが吟遊詩人だろう? 死んだところでだれの迷惑にもならない」

「迷惑にはならない? 陛下がどれほどお怒りか、お父様はご存じないのですかっ!! リージアとの面会も……断られているくらいなのに。もしリージアが処刑されたりしたら」

「吟遊詩人を殺そうとしたくらいで、ワシの孫娘を殺せるものか」

「お父様……現実が見えていますか? あの青年が本当にただの吟遊詩人に見えるのですか?」

 娘の声に苛立ちが増す。

「それ以外のなんだというのだ?」

「あれほど前王に瓜二つなのに」

「ただ似ているだけの平民だ。どこにでもいる吟遊詩人だろう」

「お父様がお育てになった前王陛下も、国1番の吟遊詩人と讃えられていましたね」

「帰れっ!!」

 逆鱗に触れる一言に気がついたら、そう叫んでいた。

「お父様、どうかお願いですっ。リージアをっ」

 叫びながら使用人に連行される娘を苦々しく睨み付ける。

 忘れていたい疵を掻きむしる無神経さに苛立ちながら。

「助かった……か。だれの加護なのやら。とりあえずは次の手を模索するべきか。生かしていてはいけない。あの青年は死ぬべき存在だ。過去の亡霊め」

 だれに向かって吐き捨てた言葉なのか、自分でもわかっていなかった。

 自分が一体なにに怯えているのかが。




 ため息が癖のように出る。

 どうやら自分は毒を盛られたらしい。

 素性もハッキリしていないのに、だ。

 この状況では孤児院にも帰れない。

 みんなに手紙を書いて旅に出たことにしたくても、そもそも字が書けない。

 まだ身体が自由にならないのだ。

 代筆してもらおうにも、孤児院のみんなに字を教えたのはアベルで、アベルの文字かわからないということはないだろう。

 それで誤魔化せるとも思えない。

 マリンに孤児院に様子を見に行ってもらおうとしたが断られてしまった。

 今は宮殿から動けない、と。

 まあ確かにアベルが毒を盛られた以上、他の王族だっていつ毒を盛られても不思議はない。

 ふたりの王女の護衛騎士を専任で勤めるマリンが、今宮殿を離れることが難しいというのはわかる気がする。

 しかしとなると他に頼める相手がいないのも事実だった。

 当然ながらレイティアたちも安全のため、宮殿から動けない状態だし、唯一宮殿に住んでいないリドリス公爵令嬢リアンも、何人もの護衛をつけられている

 とても孤児院まで行ってくれ、と頼める状態ではない。

「ふう。でも、喉をやられなかっただけ、まだマシだと思わなきゃな。喉と指は商売道具だし」

 呟いてから苦く笑う。

 商売道具?

 この現状で?

 そもそも二度と孤児院に戻れない可能性だってあるのに。

「アルベルト。元気にしているか?」

 不意の声に振り向けばケルト王が入ってくるところだった。

 背後にリドリス公爵を引き連れている。

「犯人見付かった?」

「いや。まだだ」

「ホントに?」

「何故疑う?」

「いや。歯切れが良すぎるのが気になる」

 偏見かもしれないがケルト叔父は嘘をついているときほど饒舌になる傾向があるような……気がする。

「本当に見付かってはいないのですよ、アルベルト王子」

「……でも、俺に毒を盛ったあの侍女は捕まえたんだよな? どうしてるんだ?」

「そなたが気にする必要はない」

 そっぽを向くケルトにアベルは困った顔になる。

 どうやら恨んでいるらしい、と。

 それを証明するようにリドリス公爵が声をかけてきた。

「あまりその話題は出されませんように。陛下が不機嫌になられますので」

「だってどうしてるのか気になるし」

「自分を殺そうとした相手を気に病んでどうするんだか。ちょっと善人すぎるぞ?」

「でも、あの娘……進んで殺そうとしたようには……見えなかったんだよなあ。ワインを注ぐ腕が震えていたし、俺に毒入りワインを勧める声も掠れていたし」

 今思えばどうして気付かなかったのかと自分を責めたい気分だ。

 気付いて躱していたら、あの娘が捕まって罪人扱いされることもなかっただろうに。

「本当にそなたはバカだ」

 髪を撫でる手が震えている。

 見上げると泣き出しそうな目が見えた。

「叔父さん?」

「もう……あんな想いはさせてくれるな」

 抱き締める腕が震えているから、どんな言葉も掛けられなかった。

 自分が死にかけたせいで、どんな痛みを与えたか気付いて。
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