第七章 望まれぬ王子




 第七章 望まれぬ王子




 それは今から18年ほど前。

 ディアン王国の王宮では今まさに王妃の生命の灯火が消えようとしていた。

 国王の腕には産まれたばかりの我が子がいる。

 産まれたのは待望の世継ぎ。

 だが、そのために王妃は生命尽きようとしていた。

「陛下」

 弱々しく名を呼ぶ声に国王はなんとか王妃に我が子を抱かせようとした。

 死ぬ前に命懸けで産んだ我が子を抱かせてやりたくて。

 だが、王妃はかぶりを振る。

 抱かなくていい、と。

「何故だ? 抱いてやってほしい。そなたが命懸けで産んだ王子だぞ?」

「だからこそ、です。死んでいくわたくしが抱いてはいけない。死の影をその子に与えたくない。健やかに育ってほしいのです」

 この当時、死は穢れとされていて生は尊い奇跡と言われていた。

 死んでいく者に触れることを厭う者は多く、王妃はそれを言っているのだ。

 穢れを我が子に与えたくない、と。

 国王はそんなことは信じていない。

 むしろ産まれてきて一度も母親に抱かれたことがない方が、この子にとって悲劇だと思う。

 だが、王妃は頑として譲らなかった。

 死の間際になっても愛した女性の気高さは変わらない。

 そのことを国王は悲しみと共に受け止めた。

「どうか……王子を……護って……」

 王妃の瞳に涙が浮かぶ。

 最期の願いを言えないままに王妃はその瞳を閉じた。

 その眼はもう永久に開かれることがない。

 国王は妃の亡骸にすがって涙を堪える。

 そんな王に背後から声がかかった。

「陛下」

「無様な男と笑うか、クレイ」

「いいえ。陛下はご立派でした」

「不器用な慰めだ。そなたらしいな」

 言って顔を上げると国王は産まれてきたばかりの王子の顔を覗き込む。

 さっきまで泣いていた王子は今は健やかに眠っている。

「クレイ」

「はっ」

「この子を預かってはくれまいか」

「え? しかし」

「わたしの元で育てては危険が付きまとう。せめて成人するまで、自分で自分の身を護れるようになるまで、この子を隔離したい」

「誕生したことを隠されると?」

「時折逢わせてほしい。そうして3歳になったとき、わたしの世継ぎとして、これを譲ろう」

 そうして国王は自らの左腕を上げてみせる。

 そこに隠された腕輪は3年後、幼い世継ぎの王子に譲られることになる。

 王子はアルベルト・オリオン・サークル・ディアンと名付けられた。

 それから先、王子の行方を知る者はだれもいない。





 寝台に腰掛けていたアベルは、手の中のネックレスをじっと見た。

 これは昨夜エル姉から奪ったのだ。

 エル姉がシスターでありながら怪盗をやっていることを知ったのが昨夜。

 そのとき彼女が盗んできた品がこれだった。

 持ち主はリドリス公爵らしい。

 公爵に返すと言って奪ったが実際のところ、アベルが突然城を訪れてこれを返しに行っても問題はややこしくなるだけだろう。

 問題を起こさずにこれを返す方法は二通りある。

 まずひとつは公爵令嬢リアンを通じて城に案内してもらい、公爵と密談してこれを返す方法だ。

 公爵はアベルの身元も知っているし、リアンが案内さえしてくれれば、問題なく城へと入り公爵に逢えるだろう。

 もうひとつは国王ケルトを頼る方法だ。

 これも宮殿に入れてもらう方法は、王女たちを頼る形にはなるが。

 問題はアベルは公式には公爵の城を訊ねる資格も、王宮に立ち入る資格も持っていないことにあるのだ。

 単身で動いたところで吟遊詩人に過ぎないアベルにできることには限界がある。

 本来ならリアンに頼んで公爵とこっそり逢って返すというのが、1番波風の立たない方法ではあるのだろう。

 なのに二つ目の方法を視野に入れているのは、アベルが迷い出しているからだ。

 王子として王宮に戻るべきかどうかを。

 これが切っ掛けになるんじゃないか。

 そんな気がしてすぐには決められない。

「王宮に行ったら……そのまま戻ってこられない、なんてことにはならないよな?」

 ケルトはまだアベルのことを公にする気はなさそうだった。

 でなければとっくにアベルの身辺は慌ただしくなってきているだろう。

 でも。

「貴族は悪どいに決まってる……か」

 エルの言葉が脳裏から消えない。

 大なり小なりそれが民たちの感想でもあるとアベルは知っている。

 さすがに兄王の後を継ぎ善政を行っているケルトのことを悪く言う民はいない。

 だが、彼に逆らうようなことばかりしている貴族のことは民たちはみな嫌っている。

 アベルはそれを知っているのだ。

 だから、本来ならエル姉だってリドリス公爵は、その前例から外れることくらい承知しているはずである。

 なのに許せないという感情に負けて彼から物を盗んでしまった。

 それが世継ぎ不在の宮廷の荒れ方を示しているようで、アベルは昨夜ほど自分の責任について考えた夜はない。

「そもそもこんなネックレスを盗んで、どうやって貧しい人々に分け与えるんだ?」

 お金を盗むならまだわかる。

 だが、こういう物を盗むのは、エル姉のただの私怨にしか思えない。

 貴族が大事にしている高価な物だから盗んだ。

 そうとしか思えないのだ。

 それともアベルは知らないが、こういうブツを売り払う場所でもエル姉は知っているんだろうか。

 でも、日がな一日教会でのお務めに励み、ほとんど外に出ないエル姉に、そういう場所へ行く時間があるとも思えない。

 行っている素振りもなかったし。

 と、いうことはやはり裕福な貴族への嫌がらせなのだろうか。

「決めたっ。やっぱりあの人を頼ろう。まだ公爵とは親しくないし、そもそも1回しか逢ってないから、なんか逢いにくいし。
 それに……俺に対してどんな感情を持っているかわからないから、エル姉を許してほしいと言っても受け入れてくれるかわからないから」

 もしこれがとても大事な物だったりしたら、公爵だってエル姉を許す気にはなれないだろうし。

 そのときできればケルトに庇ってほしい。

 都合が良すぎるだろうか?

 普段邪険にしているくせに、こういうときだけ頼るというのも。

 でも。

「悩んでても仕方ないか」

 ネックレスを丁寧に布でくるむと、それを懐に忍ばせてアベルは部屋を出ていった。




 しばらく3人を捜して歩くと裏庭にその姿があった。

 リアンがレイティアたちから花の世話について教わっていたようだ。

「肥料を与えすぎないようにね?」

「それから雑草は丁寧に刈って。土はなるべくキレイにしてあげて」

「こうですか?」

 ぎこちない手付きでリアンが花の世話をしている。

 3人はホントに仲が良いなと思う。

「精が出るな」

「「アル従兄さまっ」」

「アルベルト様」

 振り向いた3人が驚いた顔になる。

 時刻はまだ昼間だ。

 この時間はアベルは街に出ていることが多いので驚いたらしい。

「街へ出掛けられていたのではなかったのですか?」

 レイティアが驚いた顔で訊ねる。

「悩み事があって部屋で悩んでた」

 公爵と逢ったときのことかと3人が顔を見合わせる。

「レイとレティに頼みがあるんだけど。それからリアンにも」

「「「なんでしょうか?」」」

「レイたちには俺を宮殿に連れていってほしいんだ」

「「アル従兄さま?」」

 ふたりとも驚いた顔をしている。

 アベルがそんなことを言い出すとは思っていない顔だった。

「リアンにはそれに同行してほしい。できれば王様の前で公爵にも逢いたいから」

「アル従兄さま。どうかなさったのですか? そんなことをおっしゃるなんて」

 レティシアの問いかけにアベルは首を傾げる。

「理由は宮殿に行ってから説明するよ。決心が鈍らないあいだに行きたいんだ。ダメかな?」

「ダメだなんてそんなことはありませんっ」

「でも、宮殿に行けばここへ戻ってこられないかもしれませんよ? お父さまだってなんておっしゃるか」

 心配してくれるふたりにアベルは笑った。

「そういう事態になっても一度は戻ってくるつもりだから心配はいらないよ」

「戻ってくるとどうして断言できるのですか、アル従兄さま?」

「戻りたいと言って戻れるようなら、わたしだって家出しないで、宮殿からお忍びで出掛けていました」

 呆れるふたりにアベルは困った顔だ。

「そう問い詰めなくてもよろしいのではないですか?」

「「でも」」

「アルベルト様にはお考えがおありな様子。きっとなにかあったのですわ。戻れなくなることを承知でも、宮殿に行かなければならない事情が。そのことで悩んでいらしたのではないでしょうか?」

 リアンの取りなす声にふたりとも仕方なさげな顔になる。

 それから支度を整えるため孤児院へ向かった。

 そこではマリンがふたりの着替えなどを用意してくれていた。

 庭仕事をした後はいつも服などが汚れてしまうため、マリンは付き添わず着替えなどの準備をしてくれているので。

 サボっているように思われがちなマリンだが、護衛騎士は縁の下の力持ち。

 見えないところでしっかり働いている。

「アベル。アンタ。レイ様方のお着替えに立ち会うつもり?」

 部屋に一緒に入ってきたアベルを見てマリンが目の色を変えた。

 うっかりしていたアベルは慌てて扉に逃げる。

「ごめん。俺も支度してくるよっ!!」

「支度?」

 アベルが飛び出していった後でマリンは首を傾げた。

「ごめんなさい。今日は正装をお願いするわ。もちろんリアンの分も」

「レイ様?」

「宮殿に帰ることになったの。もちろんお世話になった孤児院の皆さんにお礼もせずに戻るつもりはないから一時的なものだけれど」

「……もしかしてアベルも一緒にですか?」

「そうよ?」

 屈託のない笑顔を向けられて、マリンは問いかけても無駄だと悟った。

 レイティアは詳しい事情を教える気がないのだ。

 そしてレイティアは3人の少女たちの中ではリーダー的存在。

 彼女に教える気がないなら、当然だがレティシアもリアンも教えてくれない。

 仕方がないかとマリンは慌てて3人の支度を急いだ。





 遠くに見えていた宮殿が目の前まで迫ってきている。

 レイティアたちは当然だが、王家所有の馬車などは用意していなかったため、今回利用したのは辻馬車である。

 王女たちが辻馬車で宮殿に戻るというのも問題だとマリンなどは食い下がったが、レイティアたちは一向に気にしていなかった。

 というのもアベルが「決心が鈍らないあいだに行きたい」と言ったからである。

 宮殿に使いを出して馬車を用意する時間も惜しんでいる。

 彼女たちにはそう思えた。

 だから、渋るマリンを押し切って強行突破したのである。

 もちろんアベルが睨まれたのは言うまでもない。

 何年前だっただろうか。

 吟遊詩人として働き出す前のことだ。

 アベルは腕試しのつもりで国王主催の剣術大会に出たことがある。

 そのときは確かまだ7歳くらいだった。

 クレイには反対されたが教え込まれた剣術が、どのくらいの腕前か知りたくて押し切ったのだ。

 あのときはいいところまでいったよな、と、アベルは振り返る。

 幼年の部に出たのだが、アベルはいい線までいっていた。

 だが、後少しで優勝という段階にきて、クレイが急に怖い顔をして言った。

『アベル。次の試合にはわざと負けるんだ』

 卑怯な八百長試合などを嫌っていたクレイが言うとは思えない科白だった。

 アベルは「なんでっ。どうしてっ」と食い下がったが、彼は頑として譲らなかった。

『近衛隊長のわたしから剣を教わっているアベルが勝つのは当たり前だ。恥ずかしいとは思わないのか』

 特別な稽古を受けているアベルが勝つのは当たり前。

 それを恥だと思え。

 そう言われて結局アベルは不本意なまま次の試合はわざと負けた。

 勝てた試合だった。

 その試合に勝てば次は国王の御前試合だったのだ。

 おそらくわざと負けろと言われたのはそのせいだろう。


 決勝戦は国王の前で行われる御前試合。

 いくらまだ7歳の幼子とはいえ、ケルトが兄王の幼少期の顔を忘れているはずがない。

 アベルを見れば顔色を変えただろう。

 だから、わざと負けさせた。

 そういうことだろう。

 悔しい思いを噛み締めたアベルは、遠くなる城を見て決心した。

 こんな悔しい思いをするなら剣の道には進まないと。

 城へくるのはあれ以来二度目だ。

 でも、あのときは大会が行われていた広場に行っただけだったから、国王との謁見を希望して入城するなんてさすがに初めてだ。

 宮殿への立ち入りはレイティアたちのお陰で顔パスだった。

 どんな場所も素通りできる。

 だが、アベルの顔を見て顔色を変える者の多さにさすがのアベルも頭が痛かった。

 前王がこれほどまでに忘れられていないとは、アベルは想像していなかったので。

 それはまあ親友だった公爵などは鮮明に憶えているだろう。

 それほど面識のなかった者でも忘れていないのだから。

 マリンはチラリ、チラリとアベルを盗み見ていた。

 アベルは舞踏会などに出席し演奏するときのための正装を着ているが、人々がアベルを見るとヒソヒソと噂話を交わしているのが気になるのだ。

 アベルが国1番の吟遊詩人と言われていることは知っているが、それにしても異常なほどだ。

 国1番の吟遊詩人の噂は知っていても、その顔を知っている者は稀。

 そう言われていることをマリンは知っていたから。

 つまりその路線からアベルが騒がれることはないということである。

 噂だけが先行してだれもアベルの顔を知らないのだ。

 それで一目見ただけで噂の吟遊詩人だと騒がれるわけがない。

 なのに年老いた者、少なくとも王や公爵と同年代、もしくはそれ以上の世代の者はアベルを見ると青くなって噂話に勤しむのだ。

 これを疑問に思わないわけがない。

 やがてマリンは4人を先導して謁見の間に辿り着いた。

 国王にはすでに連絡がいっているはずである。

 その場に公爵を招くようにレイティアから指示があったが、その理由もマリンは知らない。

 入城の鐘が鳴りマリンは恭しく扉を開けた。

 鐘が鳴りやまないあいだにアベルは謁見の間へと通された。

 当然だが下座だ。

 その場で上座に立つべきは第一王女のレイティアなので、彼女を先頭にし続いてレティシアが並び、その後ろにリアン。

 アベルは更に後ろにいた。

 だが、4人が入ってきた途端居並んでいた老人たちが、ギョッとしたようにアベルを見て固まった。

 困ったなとアベルはこめかみを掻く。

「レイティア、レティシア。どういうことか説明を聞こうか?」

 玉座からケルトが声を投げた。

 その顔は険しい。

 どうしてアベルを連れてきたと顔に書いているようだ。

 公爵も同じように渋面だった。

「申し訳ございません、陛下。この度のこと、わたしの判断ではありません」

「どういうことだ?」

 ケルトが眉を寄せる。

 こういう場での作法はアベルは知らないので、呑気に割って入ってしまった。

 それが非礼だと知らなかったので。

「レイティアたちに宮殿に俺を連れていけって言ったのは俺だよ。別に彼女たちのせいじゃない」

「……黙ってください、従兄さま」

 レティシアに囁かれ、アベルはキョトンとした。

 しかし時すでに遅し。

 アベルがレイティアを呼び捨てにしていることから、ざわめきは更にひどくなった。

「ふう。そなたはなにを考えているのだ? 大臣たちもいるのだぞ?」

「え? なにか悪いこと言ったか? 事実を言っただけなんだけど?」

 まだ理解しないアベルにケルトは頭を抱えてしまった。

「とにかく人払いを」

 ケルトが言いかけると大臣たちが焦ったように割り込んできた。

「それはなりません、陛下っ」

「だが」

「この場は人払いをするべき場ではございません」

「まるで我々が同席していては、まずいことでもおありのようにも受け取れますが?」

 痛いところをつかれてケルトは黙り込んだ。

「……アンタら邪魔だから下がっててくれる?」

 アベルに睨まれて大臣たちが冷や汗を掻く。

 賢王と言われ敬われていた前王の影を見て。

「必要なら王様がきちんと説明するだろ。大臣のくせして、それすら待てないのか?」

「あなたは一体?」

「俺がだれだろうとどうでもいいだろ。大臣なら王命には従えよ」

 アベルの逆らうことを赦さない目付きに大臣たちは慌てて一礼し去っていった。

 それを見送ってケルトが思わず感心して呟いた。

「さすがだな。わたしではああはいかないぞ」

「……俺の実力……って言ってやりたいけど、違うことはアンタも知ってるだろ。知っててそういうことを言うのは嫌味だぜ?」

 アベルに文句を言われケルトが笑う。

 それまでのやり取りに飲まれていたマリンは慌ててアベルを小突いた。

「なにすんだ、マリン」

「アンタはなにを偉そうに大臣方に命令してるの!? 大体相手は国王陛下よっ!! すこしは弁えなさい!!」

「そんなこと言ったって……あんなのただのオッサンだろ」

「オッサン……?」

 マリンが固まり国王陛下は拗ねてみせた。

「オッサンはひどいぞ」

「あー。悪かった。拗ねないでくれ……叔父さん?」

 初めて叔父と呼ばれ、ケルトは瞳を見開いたが、すぐに笑顔になった。

 満面の笑顔の国王を見て、国王を「おじさん」呼ばわりしたアベルを叱ろうとしたマリンは仕方なく口を閉じた。

「それで? リドリス公をこの場に呼んだのもそなたなのか?」

「ああ。うん」

 アベルは気まずい顔で言ってからリドリス公の顔を見た。

 王の傍に侍って公爵はじっとアベルを見ている。

「リアン。これ公爵に渡してくれないか?」

 すぐ目の前に立つ公爵令嬢にアベルは、そう言って懐から取り出した物を握らせた。

 戸惑いながらリアンは黙って受け取り父親へと近付いた。

 公爵は黙ってそれを受け取り布から取り出した。

「これはっ」

 目の色が変わる公爵にアベルはこめかみを掻いている。

「おや? それは先日公爵が賊に盗まれたと騒いでいた家宝のネックレスじゃないか?」

 横から見ていたケルトが言う。

「お訊ねしてよろしいでしょうか? これを……どこで手に入れられました?」

「話すと長くなるけど、その前に……ごめんっ」

 アベルに勢いよく頭を下げられて公爵は戸惑っている。

「それ盗んだの。俺の知り合いなんだ」

「どういうこと、アベル?」

 マリンが絶句している。

 アベルの知り合いということは、マリンの知り合いでもあったので。

 幼い頃の付き合いの者しかいない間柄なのだ。

 その中のだれかが泥棒だなんてマリンには信じられなかった。

「詳しい説明をしなさい。できるな?」

 ケルトに諭されてアベルは唇を噛む。

 レイティアたちも意外な成り行きに驚いていた。

「詳しい説明はする気できた。でも、盗んだ相手を許してやってほしいんだ」

 これにはだれも答えなかった。

 公爵の城から家宝を盗んだのが、今話題になっている怪盗であることは、公爵もそしてケルトも知っている。

 アベルはそれがだれなのかを知っているという。

 なのに許せと見逃してくれと言うのだ。

 できる相談ではなかった。

「それがどういう意味を持つ言葉なのか、そなたは承知しているのか?」

「承知しているつもりだよ」

「いや。わかっていないな。わかっていたらそんなことを言えるはずがない」

 ケルトに断言されてアベルは悔しそうな顔になる。

「公爵家の城から家宝であるこのネックレスを盗んだのは巷で騒ぎになっている怪盗だそうだ。
 予告状もきたという話だ。つまり前科が沢山あるということ。それを見逃せとそなたは言う。罪を犯したことは承知で許せ、と」

「だってそれは……俺たちの罪なんだ。叔父さん」

「わたしたちの罪? 何故?」

 首を傾げるケルトにアベルは街中で平然と行われている貴族たちに対する不平不満を打ち明けた。

 それ故の犯行であることも告げた。

 これには支配階級の者はすべて黙り込んでしまった。

(何故そういう理由でアベルの罪なの? アベルは庶民でしょう?)

 話の飲み込めないマリンは怪訝そうにアベルを見ている。

「貴族なんて全員が悪どい。罪を犯していない貴族なんていない。だから、宰相はその頂点に立つ悪者だ。そんなふうに言われて」

「そうか。だが、どういう理由があれ罪は罪だ。我々はそれを取り締まらなければならない。それはわかるだろう?」

「わかるよ。だから、公爵に直に逢わないでここにきたんだ。危険を承知でね」

 苦い笑みを見せるアベルにケルトと公爵は顔を見合わせる。

「俺のせいだと……責められてる気がした」

「そなたのせいではない」

「慰められても惨めなだけだよ、叔父さん」

「そうではない。本当にそなたのせいではないのだ。赤ん坊のそなたになにができた?
 まだ3歳だったそなたになにができた? むしろ本当にそういう反抗的な動機から犯行に及んだなら、責められるべきなのは民の不満を解消できなかった王たるわたしだ」

 違う、違うとアベルはかぶりを振った。

「前王の時代にその怪盗の前代は怪盗をやめようとしたらしい。前王なら民を楽にしてくれる。信じられる。そう思って」

「わたしが相手ではそう判断してもらえなかったということか。結構辛いな」

「そうじゃないよ。前王が暗殺された時点で、その怪盗たちは貴族を見放したってだけだ」

「……暗殺って」

 ケルトが驚いた声を出す。

「その怪盗に言われたよ。民のことをだれよりも考えてくれて、だれよりも民を味方をしてくれた前王は、それ故に暗殺されたって。……本当なのか?」

 真っ直ぐに問いかける視線にケルトは眼を伏せる。

「……真偽のほどはわたしにもわからない。だが、一時期そういう噂があったのは事実だ。そしてその可能性が無ではないことも」

「そっか。やっぱりな。アンタはそういうことは俺には言わない。そんな気がしたよ」

 アベルがそう言えばケルトは一言だけ「済まない」と謝った。

「なんでアンタが謝るんだ?」

「何故って」

「アンタは精一杯やってくれた。本当ならアンタがするべきことではないのに必死になってやってくれた。そのことを誇ればいい。謝る必要なんてない」

「しかし」

「謝らないといけないのは俺の方だ」

 真剣な眼をするアベルにだれもが言葉もなく彼を見た。

「そんな現実を目の当たりにするまで、俺は現実を見てなかった。
 自分の周囲にある小さな現実を護りたくて、もっと大きな現実に目を向けなかった。
 その結果親しい人が罪を犯した。俺がやるべきことをやろうとしないから。そんな俺たちに愛想を尽かして」

「だから、きたのか、ここに? すべてを覚悟して?」

「俺が家族を護らなきゃ。ずっとそう思ってた。思ってたから否定してたんだ。なのにその家族を俺は護れなかった。
 俺がやるべきことをしないから。自分が果たすべき責任を果たさないから。これは俺の罪だ。その瞬間そう感じたよ」

 どうして彼がその怪盗を許してほしいと言うのか、だれもが理解した。

 彼はその人を怪盗にまで追い込んだのは自分だと思っている。

 だから、罪に問われたくないのだ。

 そのために認めなかった現実とも正面から向き合う決心をして。

「もしわたしが今回だけは目を瞑ると言ってもだ。その怪盗が、盗みをやめる保証があるのか? 次は見逃せないぞ?」

「わかってる。だから、二度とさせないよ」

「そなたがここにきた時点で、そなたはもうその人の傍には戻れない。それでどうやってやめさせる? できない約束はするべきじゃないな」

「孤児院にいる皆にすべてを正直に話す。その上で俺がやるから、もう盗みはやめてほしいって説得する」

「……従う保証がどこにある?」

「その人のことは俺が1番よく知ってるよ。そしてその人も俺をよく知ってる。俺の言っていることが真実だと理解してくれたらしないと思う」

 お互いの真実を知っているから言えること。

 それはケルトにも伝わった。

 ケルトは彼が自分を責める気持ちもわかったので、今回は見逃してやってもいいようなしたが、肝心の被害に遭った公爵がどう思うかわからなかったので、黙って成り行きを見守っている公爵を振り向いた。

「公爵はどう思う? その怪盗を許せそうか?」

「アルベルト様」

 名を呼ばれアベルが彼を見た。

 意外な名で呼ばれたアベルを見てマリンが目を見開く。

 なによりも宰相である公爵に「様付き」で呼ばれるという事態が飲み込めない。

 だが、アベルは疑問を抱いていないようだった。

「これは我が家の家宝です。公爵夫人になる奥方が代々受け継いできた宝物。その価値は値段ではないのです。受け継いできた歴史です」

「うん」

「愛娘リアンに譲るために大切に守ってきた家宝。それを盗まれたのです。心労は凄いものがありました」

「……ごめん」

 それしかアベルに言える言葉はなかった。

「少なくともわたしはその怪盗が言っているような、横暴な貴族ではないつもりです。なのに狙われた。その事実をアルベルト様はどうお考えですか?」

「今回のことはやり過ぎだと思う。俺も公爵は違うだろって責めたんだ。そんなことも見抜けないくらい、貴族への不満が高まっていたみたいだった。だから、俺は自分のせいだと」

「それは違いますよ」

「リドリス公」

「あなたの存在が知られていて、あなたがそうしていることで責められたのなら、それはあなたのせいかもしれない。
 ですが現状であなたのことを知っている者などいないのです。それであなたの責任になるわけがない」

「でも」

「百歩譲ってあなたにも責任があるとしても、それは根本的な部分で関わっていることだけです。盗みを働く人の責任はその人にしか取れません」

 なにも言えなかった。

 宰相としての冷静な言葉に。

「あなたがその人を庇うことが、その人のためになるのでしょうか? 盗みを働いても咎められないことが、その人にとって良い事だと本当にお思いですか?」

 罪を犯してその責任を問われないことが、本当に本人にとって良い事かどうか?

 自分に問い掛けても答えは見えなかった。

「もう一度よくお考えください。罪を犯した者は償わなければなりません。なんのための法律ですか?
 善悪はなんのためにあるのですか? そして治世者の責任とはそういう形でとるべきものかどうか。もう一度よくお考えください」

「俺……間違ってる? 叔父さん」

 振り向いたアベルに不安そうな目を向けられてケルトは困ったように笑った。

「そうだな。間違ってるとも言えるし、間違っていないとも言える」

「どっちなんだよ、それ」

「人としては間違ってはいない。自分のせいで罪を犯したなら救いたい。そう感じることは親しい人を守りたい人間としては当然の心理だ。
 だが、そこからこういう形で責任を取ろうとするのは……治世者としては過ちだな。その程度の覚悟では国は治められない」

 この王の発言にはマリンはわからないように息を飲んだ。

 今確かにアベルを治世者と言った。

 アベルが国を治めると言った。

 どういうことなのだろう?

 そのとき、王が立ち上がった。

 謁見ではありえない行動に出たのだ。

 玉座から降りてアベルの正面に立ち彼の髪を撫でる。

 その仕種に愛情が籠もっていた。

「悩みなさい」

「叔父さん」

「そなたの悩みは無駄にはならない。それにそういう場面でもし微塵も責任を感じないなら、それもまた治世者としては失格。だから、悩みなさい。正しい答えを導き出せるように」

「まだ……捕まえない?」

「怪盗の素性も知らぬのに捕まえるも捕まえないもないだろう? そなたが口を噤んでいるかぎり、そなたの周囲に怪盗がいるかもしれない。という憶測でしかない。安心しなさい」

 この言葉にホッとしたアベルだったが、続いた言葉に心臓を抉られた気がした。

「だが、もし今度怪盗騒ぎが起こって捕まったら、そのときは庇えない。わかるな?」

 今は見てみぬフリをしてくれる。

 だが、次にエル姉が怪盗を騒ぎを起こしたときは、おそらくアベルの周囲の人間は見張られている。

 すぐに捕まるだろう。

 そのときは庇えないと言われて、アベルは絶対に彼女に盗みはさせるまいと決意した。




 その日の夜はアベルは宮殿に泊まるように言われた。

 アベルが意外な形で人々の前に姿を見せてしまったので、このまま孤児院に帰すことに問題があると判断されたせいだ。

 宮殿にいればケルトや公爵が護ってやれる。

 だが、一度孤児院に戻ってしまえば、護衛の数も減るし(アベルは知らなかったが、素性がハッキリしてから、ケルトに護衛をつけられていたらしい。こっそりと)どうしても危険が増す。

 だから、泊まっていくように言われたのだ。

 アベルは窓辺に腰掛けて遠くに見える街明かりを見ている。

 宮殿は高台にあるので街明かりが見渡せるのだ。

 こうして宮殿から王都を眺めることがあろうとは想像すらしなかった。

 あのとき、レティシアに逢わなかったら、今こうしているアベルはいなかっただろう。

 すべてが運命だったのだろうか。

 アベルはここに戻る運命だったのか。

 そう思ったとき、ノックの音が響いた。

「アベル。起きてる?」

「マリンか? 入れよ。起きてるから」

 答えると静かに扉が開いた。

 騎士姿のマリンが戸惑ったような顔で立っている。

「レティたちの護衛はいいのか?」

「このところ休みがなかったからって、同僚が気遣ってくれて今夜は非番なの」

「そっか」

 アベルはまだ彼女には詳しい説明はしていない。

 ケルトに口止めされたからだ。

 宮殿に戻ってくる気にならいいが、今のアベルの覚悟では、王子としては迎えられない。

 だから、黙っているように、と。

 甘かったなあと今更のように感じている。

「アベル」

「なに?」

 顔を上げればマリンが真っ直ぐに見据えてくる。

 曇りのない視線。

 それが心に痛かった。

「アンタは何者なの?」

「何者って。吟遊詩人のアベルだよ。それはマリンが1番よく知ってるだろ?」

「そうね。今日までは知ってるつもりだったわ。あの謁見に立ち会うまでは」

 言われて当たり前のことを言われ口を噤む。

「アンタは何者なの? アルベルトってだれのこと?」

「……ごめん。今は言えない」

「アベル」

「近い内に話すことにはなると思う。でも、あの人に……王様に口止めされてるから今は言えない。あの人には借りがあるからな」

「借り?」

「大きな借りだよ。生涯をかけても返せるかどうかわからない借り。その貸し借りにレイやレティを巻き込んでいるのが、俺としても辛いんだけど」

「なんの話?」

「なんでもない」

 肝心なことはなにも言えないアベルに、マリンが食い下がろうとしたときに、またノックの音がした。

「だれ?」

「お休み前のワインをお持ちしました」

 女の子の声がしてアベルはマリンを見上げた。

「寝る前のワインなんてあるのか、マリン?」

「レイティア様やレティシア様は紅茶を好んで飲まれるわ。お休み前にワインを好まれるのは陛下くらいかしらね。その陛下も王妃様の元へ出向かれる夜には飲まれないと聞いているけれど」

 身体が弱く酒類を飲めない王妃のために、ケルトは妃の元へ出向く夜には酒類は飲まない。

 彼の正妃は今長く患っていて、離宮で静養しているのだ。

 従って夜に出向くと言っても、どちらかといえば看病に近い。

 夫婦として過ごす時間は最近では看病に充てることが多いとマリンは聞いていた。

「アンタはまだ成人してないから、ワインは用意しないと思うけれど、陛下が気を回されたのかしら?」

 この国の成人年齢は20歳である。

 飲酒もそれまでは認められていない。

 だが、吟遊詩人などをやっていると飲酒は早くから始める。

 だから、ケルトが気を回したのかとマリンは思ったのだ。

 そう言われてしまえばアベルとしても断るのは気が引けた。

「わかったよ。どうぞ」

 そう答えて侍女を通す。

「失礼します」

 立ち入ってきた侍女はガタガタと震える手でアベルの手にグラスを渡し、そのグラスにワインを注いだ。

 赤ワインだ。

「なにをそんなに緊張してるんだ?」

 アベルが怪訝そうに問いかけても、侍女はなにも言わない。

 ただ強張った笑みを浮かべるだけで。

 それでアベルはもしかして前王の顔でも知ってるのかなと勝手に納得した。

 呑むつもりはなかった。

 確かにアベルは職業病飲酒はできる。

 仕事のときに呑むことがあるからだ。

 だが、それほど好きではなかったので、ここで受けたのはケルトの好意を無にしないためで呑む気はなかった。

 だが、侍女がじっと手元を見たまま下がらない。

「なに?」

「……どうぞ……お呑みください」

 聞き取りづらかったが、どうやら呑むまで下がらないつもりらしい。

 諦めてアベルはグラスを煽ろうとしたが、さすがにここまでくるとマリンも異常に気付いた。

 就寝前の飲み物などを用意するのは確かに侍女の仕事だが、それを飲むのか飲まないのかは主人に委ねられる。

 気分的に飲みたくないときだってやはりある。

 なのに無理強いして飲ませようとするなんて、どう考えてもおかしい。

「アベル。ちょっと呑むのは待ってっ」

 そう止めようとしたときには、アベルはグラスを煽っていた。

 とっさにマリンはグラスを取り上げようとしたが、それよりアベルの手からグラスが落ちる方が早かった。

 グラリとアベルの上体が揺れる。

 倒れかかるアベルをとっさにマリンが抱き止めたとき、侍女が脱兎の如く逃げ出そうとしていた。

「だれかっ。その侍女を捕まえて!!」

 マリンの声に反応して近くにいた近衛たちが侍女に飛びかかる。

 小さな少女は悲鳴を上げて捕まった。

 それを見届けてマリンは慌ててアベルの身体を揺すった。

「アベル!! アベル!!」

 まるで人形のように力なくアベルの首が動く。

 その唇から血が流れていた。

「なに? なにを飲まされたの?」

 グラスを確かめたが、すでにワインは残っておらず、なにが混入されていたか確認もできない。

 マリンは慌てて近くにあった水瓶から水を直接口に含み、アベルに口移しで飲ませた。

 なにを飲まされたとしても状況から考えておそらく毒物だ。

 だったら水を大量に飲ませて吐き出させるのが1番の近道だから。

(お願い!! 助かって!!)

 そう祈りながら何度も口移しを繰り返した。
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