第六章 王位を継ぐということ
第六章 王位を継ぐということ
アベルがずっと疑問に思っていたことを問いかけて、当事者でもあるケルトから答えが返ってきたのは、宰相リドリス公に素性がバレたときだった。
アベルの年齢と当時の状況から考えて、アベルが誕生したのが18年前であること。
その直後に王妃が崩御していること。
そしておそらく王妃の身体の弱さから考えて、王妃の死因がアベルを産んだことにあることも聞いた。
自分のせいで母親が死んだと言われれば、自覚なんてなくてもいい気分にはなれないが。
ケルトは不安そうにアベルの顔を覗き込んだ後で話を続けた。
「当時の宮廷の様子は、わたしは詳しくは知らない。その辺はリドリス公の方が詳しいだろう。わたしは妃、いや、その当時はまだ妻だったが、妻と出逢って王宮から飛び出していたし」
「生易しい状況ではありませんでした」
リドリス公の言葉にアベルがピクリと眉を動かす。
レイティアたち3人も不安そうにアベルを見ていた。
「先々代の王。あなたにとってはお祖父さまに当たられる御方の時代から、長く続いていた戦争の影響もあったのだと思います。前王はその戦争を終結させられましたが、その結果国は乱れ政争が激しくなってきていました」
「わたしが王宮を捨て妻を選んだ理由も、実は政争にあったんだ。兄上を拝してわたしを王にという動きが活発化していた」
「「お父さま」」
「わたしはそれはいやだった。正当な世継ぎであり戦争まで終結させたのは兄上なんだ。なのに兄上が聡明で扱いにくいからと、第二王子であるわたしを王に迎えようとする。だったらわたしがいなくなればいい。そう思ったんだ」
「アンタ」
アベルが驚いたようにケルトを見ている。
そこには今まで彼が見知っていたふざけてばかりのケルトはいなかった。
王位継承について悩んだひとりの国王がいた。
「兄上は賢王とまで呼ばれていたが、その理由の多くは貴族ではなく、平民を優遇する政治にあった」
「素晴らしい国王陛下ではあられましたが、貴族にとっては自分たちを優遇してくれない扱いにくい王でもありました。それで第二王子であられる現王を王にという動きが活発化したのです」
それがどれほどケルトを追い詰め苦しめたか、アベルにもわかるような気がする。
自分に向けてくれる無償の愛情。
それを思えば彼がどれほど亡くなった兄を慕っていたかわかるからだ。
その兄と対立するように仕向けられる。
兄から王位を奪うように画策される。
彼には辛いことだっただろう。
「当時わたしは妻と出逢って恋に落ちて、妻を取るべきかそれとも王子として生きるべきか岐路にきていた。
だったら……と決断したんだ。兄上にすべてを押し付けるのは気が咎めたが、自分がいない方が兄上のためになる。そう判断したんだ」
そこまで言ってケルトは眼を伏せた。
「だが、それから数年後。兄上は突然亡くなった。本当に突然だった。わたしはその訃報を街中で聞いたほど突然だった。信じられなかった。あんなに元気で病気ひとつ知らなかった兄が死ぬ。その現実が」
「その当時おそらく王子は3歳になられて、王位継承権を意味する腕輪を譲られた直後だったと思われます。ですがその事実は知られていませんでした」
「知られていない? なんで?」
アベルが怪訝そうに問いかけると公爵は面目なさそうに答えた。
「前王のお立場があまりに危うくて、おそらくお世継ぎが生まれたと明らかにできなかったのでしょう。
だから、お子様が生まれたことを徹底的に隠された。腕輪を譲ったことすら隠された。
前王がご崩御された後で腕輪が消えていたことから、一時的に騒動が起きました。どこかに第一王位継承者がいるのではないか、と」
「ここからは事実を知った後のわたしの推測になるが、そなたを託されたクレイはそなたの身に危険が迫っていることを知った。
クレイの元に置いておけば、いつそなたのことが発覚するかわからない。
そもそもクレイは将軍。3歳の幼子を育てることなど不可能。
ましてやずっと傍にいて護ることもできない。だから、そなたを安全な街中に隠すべく孤児院に預けた」
「木を隠すなら森の中というわけですね。わたしも正直なところ、どこかに消えた王位継承者は見付け出せないだろうと、海に落ちた一粒の涙を見付け出すようなものだと思って諦めていましたから」
ふたりの話に耳を傾けてアベルは今は亡き将軍に思いを馳せる。
両親のことを問いかける度、辛そうな眼をしていた将軍の顔が浮かぶ。
「そなたは色々言っていたようだが、そういう背景なんだ。
何度そなたに問われても、クレイには両親の名は言えなかっただろう。
そなたを捨てたわけではない。そのことも教えられなかっただろう。
そなたにはなにひとつ事実は言えなかったはずだ。言えばどこから悟られるかわからない。
そもそも兄上は賢王で知られていた。いくらわたしが即位した後でも、名が知られていないということはあり得ない。そなただって知っていたはずだ」
「うん。知ってた。前王の名なら」
「両親の名を訊ねてその名を出されたら、そなただって素性を疑ったんじゃないのか?」
「そうかもしれない」
すぐには前王が両親だとは信じられなくても、同じ名が両親だと言われたら、もしかして自分が王子? とは疑ったかもしれない。
特にこんな豪華な不思議な腕輪をしていたこともあり、幼かったこともあって絶対に騒ぎ出したはずだ。
自分こそが世継ぎの王子だ、と。
根拠なんてそれしかなくても、きっとそう言って騒いだ。
そうしたらアベルを護ろうと尽力してくれたクレイの努力を、きっと水の泡にしてしまっていただろう。
その結果、アベルが殺されたりしたら……クレイならきっとそう考える。
臣下たちにしてみれば真偽のほどが重要なんじゃない。
そう主張されること自体が目障りなのだ。
ましてアベルは知らなかったが、その主張はすべて正しい。
証拠もある。
それを承知していれば、クレイ将軍にはアベルにどれだけ責められても、反発されても真実は言えないということになるのだ。
疑いがあるというだけで狙われるのに、アベルの場合は疑いでは済まない。
事実なのだ。
だったらアベル本人にも徹底的に隠すしかない。
認めたくなくて否定していたはずなのに、説明されればされるほど、自分の境遇と合っていて逃げ場がなくなっていく。
この腕輪が証明するようにアベルは世継ぎの王子なのだろうか。
「でも、そんな状況じゃあ、もし今前王の世継ぎが発見されても歓迎されないんじゃあ」
「その心配はいらない」
「?」
「わたしも兄上の死を知って反省したんだ。もしかしたらわたしが王宮を去らなければ、兄上が死ぬことはなかったんじゃないか、と。
だから、兄上に子供がいないと知って、わたしが捜されていると知ったとき、偽者が出現するのは承知で名乗り出た。
兄上が果たせなかった夢を果たしたくて。そしてもし本当にどこかに第一王位継承者が、兄上の後継者がいるのなら、その子に王位を譲りたくて」
「アンタはそのためだけに王になったのか?」
問いかけるとケルトは「そうだ」と頷いた。
「その当時わたしにはすでに娘たちが生まれていた。わたしが第二王位継承権の腕輪をしている以上、どれほどの後ろ楯を持つ偽者がいても、わたしが本物だと証明されるのはたやすいはずだ。
だったら妻とも引き離されずに済むだろう。そういう計算もあった。子供が生まれていなければ、もしかしたら妻とは別れろと言われたかもしれないが、わたしの跡継ぎは生まれた後だった。だったらなんとかなる。そう判断して」
「それからのことはわたしもすこしは知っています」
「レイ」
アベルが声を投げるとレイティアはすこしだけ微笑んだ。
「お父さまはふざけてばかりいるように振る舞っていますが、王としてはとても努力されていました。
臣下たちの暴走を防いだり、国の治安の安定を図ったりと、寝る暇も惜しんで努力されました。
それも今思えばアル従兄さまのためだったのですね。いつかアル従兄さまが見付かったときに安全に王位を譲るために」
アベルの知らないところで色んな話が動いている。
ケルトは強情に振る舞っていたが、アベルのためにそれだけの苦労をしたのだと、押し付けがましいことは一度も言わなかった。
ただふざけた態度で同意させようと食い下がってきただけで無理強いはしなかった。
どうしてだろう。
こんな話を聞いてしまうと、王位を継ぎたくないと言い張るのが、彼の主張通りただのワガママにしか思えない。
アベルが王位を継ぐためにケルトは王となり、これまで努力してきたというのに。
「俺は……どうしたらいいんだ」
座り込んで頭を抱えてしまうアベルを、だれもが声もなく見詰めている。
「どんなに王様が孤児院の皆の面倒は見ると言ってくれても、教会のことも任せろと言ってくれても、それが恒久に続くとは思えない。
一方的な負担なんて普通は無理だ。ましてや俺が王位を継ぐからとそういうことをするのは、他の人々から見れば王族の横暴だ。それがわかっていたら安心なんてできない」
「そういうことを気遣うそなたの目線はすでに王の目線だ」
ケルトに頭を撫でられてアベルは震える。
そんなふうには思えない。
普通に危惧しているだけだ。
「そなたはそんなふうに思っていないかもしれない。だが、普通ならそうすることで民衆がどう思うか、貴族たちがどう思うか、そんなところまで考えない。
普通の者なら自分が助かればよしとする。それをせずに王族の横暴などと考えられるそなたの目線はすでに王だ」
「俺は自分が王に相応しいなんて思えない。孤児院の皆を見捨てられるとも思わない。この生活を捨てられるとも思えない」
アベルがムキになったように言い募ると、ケルトは苦笑して頭を撫でてくれた。
「そのことに答えを出せるように、わたしも協力する。だから、そんなに自分を卑下するな」
ケルトの優しさが胸に痛い。
本当なら今この国が平安なのはすべてケルトの手柄で、それを受け継ぐべきなのはレイティアたちだ。
それがわかっていて「はい。そうですか」と王位は継げない。
ましてやその代償とばかりに、ふたりの内どちらかを妃とすることもできない。
自分は今出口のない迷路にいる。
アベルにはそんなふうにしか思えなかった。
隠されていた真実を知ることで。
「すまないがリドリス公」
アベルが落ち着くのを待ってケルトがふと声を投げた。
娘に対して声を投げようとしていたリドリス公が王を振り返る。
「なにか?」
「すこしだけ話がある。こちらへ」
ケルトに促されてリドリス公爵は部屋の外に連れ出された。
どうやら他の者には聞かれたくない話らしい。
扉を閉めてすぐ王は扉に凭れかかった。
なんだろう? と、思う。
「アルベルトのことなんだがな」
「はい?」
「わたしは娘たちのどちらか、もしくは両方を彼と結婚させて王位を譲るつもりだ」
「やはりそうでしたか」
別に王女との結婚を王位に絡めているわけではないのだろう。
そういう条件の場合だけ彼に王位を譲るつもりではないのだ。
だが、彼のことが発覚したときに王女との婚姻が絡んでくるのはもはや明白。
それがわかっているから、そういう条件を出した。
そんなところだろうか。
「アルの素性がはっきりし、その立場が明確になったとき、おそらく娘たちのどちらかとの婚姻が臣下たちから進言されるはずだ。違うか?」
「そうですね。おそらくそうなるのではないかと」
「しかし彼が妃に迎えるべき相手は、なにもわたしの娘たちに限定される話でもない」
「陛下?」
「おそらくリドリス公の令嬢なら、臣下たちも文句は言わないはずだ。彼の結婚相手として」
「それはそうかもしれませんが」
「そしてリドリス公。そなたも娘と結婚させるなら、アルがいいんじゃないのか?」
ジロリと睨まれて乾いた笑いを返す。
それは彼の存在が発覚する前に考えたことだったので。
彼の素性を知ってから考えなかったと言えば嘘になるが、王の意図は知っていたので敢えて考えないようにしていたというのが実情だ。
確かに大事な娘を預けるなら彼がいい。
だが。
「現実問題としてそれは困ります」
「ほお? わたしはてっきりリドリス公なら、娘の結婚相手にアルを……と考えそうな気がしたが?」
「考えなかったと言えば嘘になります」
「わたしを相手に堂々とよく言えるな。さすがはリドリス公だ」
感心する王に笑う。
「ですがあの娘は一人娘っす。一人娘が王妃になったら、わたしの家は途絶えてしまいます」
「養子を迎えれば……」
「もしそれが現実になった場合は、確かにそれしか方法はないのでしょうが、その場合もわたしの血筋は絶えてしまいます。
世継ぎの君と娘のあいだに生まれた子供を、わたしの後継の更に後継として迎え入れないかぎり。
それは養子相手にも失礼ではないでしょうか? 子供が生まれても継がせないとなったら」
「確かに公爵の後継を養子相手が継いだ後で、その後継問題で更に揉めそうではあるが」
ふうとケルトはため息をつく。
自分のことではないので、もっと軽く考えていたが、公爵の血筋も家柄も立派なものだ。
敬愛する前王の息子だからと娘を託すことはできない、か。
家を伝えていくために。
「しかし養子縁組した子息が、もし公爵の孫である王女や王子の異性となる性別の子供を得たら、なにも問題はないのではないか?
もし養子相手が息子を得て、リアンがアルとのあいだに娘を得たら、その内のひとりを公爵夫人として嫁がせても不都合はない。
それなら養子相手の血筋も残るし、公爵の正当な血も受け継がれる。それなら問題ないだろう?」
「確かにそれなら問題はないでしょうが、もしリアンに王子しか生まれなかったら?」
「うーん」
「しかも世継ぎの君しか生まれなかったら? その場合、子供を養子縁組することすら不可能になります。世継ぎなら継ぐべきものは玉座ですから」
「難しいな」
「はい。ですから考えはしましたが、すぐにその考えは捨てました。それに陛下はそのことでわたしにクギを刺そうとなさって、わたしをここへ呼ばれたのでしょう?」
「まあそうなんだが」
こめかみを掻いて頷くケルトに公爵は苦笑い。
「だったら考えるだけ無駄ですよ。もし血筋が途絶えてもいいと、家を捨てても娘の結婚相手に世継ぎの君を、と考えていても陛下にはそれをお認めになる意思がない。
陛下がどれほど強情で意思の強靭な方か、わたしはだれよりも存じています。
そんなことになったら陛下を敵に回してしまいます。さすがにそれは遠慮したいので」
「だったらアルには手を出さないと思っていいんだな?」
「わたしはそのつもりです」
言い切る公爵にケルトは深々とため息を吐き出した。
「陛下?」
「そういうところが曲者なんだ、公爵は」
「なにか?」
「リアンがどう思うかはわからない。そういう意味だろう?」
「まあわたしは娘ではありませんので、わたしがその意思を捨てていても、娘が世継ぎの君をどう思うか、それはわかりませんね。ただ」
「ただ?」
「娘は殿下方をとても慕っています。
陛下がおっしゃったように、殿下方が従兄であられる世継ぎの君をもし特別な感情で想われている場合、おそらく娘は世継ぎの君に惹かれていても、その感情を認め殿下方から奪おうとはしないでしょう。
わたしは娘にはそういう教育はしておりませんので」
公爵は跡取り娘であるリアンには、王女殿下たちのよき相談相手となるよう教育してきた。
現在の3人の良好な関係は、その事実と殿下方の人柄によって保たれていると言っていい。
その状態で親友と認める王女殿下方の想い人を奪うなんて真似はリアンにはできない。
それは確かだった。
「なら後はアル次第ということか」
「どういう意味でしょうか?」
「アルが妃はひとりと決めているかどうかという意味だ」
「はあ」
陛下曰く。
これが貴族の子弟として育ったのなら、当然だが陛下の影響で妻はひとりと定めているだろう。
だが、彼は平民として育っている。
その場合、普通の感覚として妻を複数持つという感覚で育っていても不思議はない。
それがすこし気掛かりだと陛下は言った。
王女との婚姻を断れなくても、リアンも妃にと望まないか。
それが気掛かりだと。
危惧は尤もだったが聞いた直後に言い返した。
「それは大丈夫ではないでしょうか?」
「何故そう言い切れる?」
眉を上げて訊ねる王に首を傾げた。
「彼が教会を兼ねた孤児院育ちだからです」
「ふむ」
「教会関係者のあいだでは結婚というものは、とても神聖視されています。結婚とは一対一でするもの。そういう感覚で育っていても不思議はないんです」
「確かに。二人目の妻を迎えることは可能でも、教会が許可しないという話はよく聞くからな」
一夫多妻制の国でありながら、実際に複数の妻を持つ男というはごく稀だ。
何故なら教会が許可しないからである。
公爵のときも教会の神父や司祭たちを納得させるのに、かなり苦労した覚えがある。
自分たちが結婚しないせいか、司祭たちも神父たちも結婚を神聖視していて、複数の妻を持つことを忌避している傾向が強いのだ。
そこで育ったのがアベルである。
それなら妻はひとりと定めていても不思議はないか。
「しかし妻はひとりと定めていても困るんだがなあ」
「……すこし勝手な意見ではありませんか? 先程はそうでないと困るとおっしゃっていたでしょう?」
「そうなんだが。ここしばらく娘たちの様子を見ていて、どうやらアルへの好意が本物らしいとわかってきてな」
「はあ」
「ふたりの娘がふたりともアルを想っている。そこでアルがひとりしか迎えないと、ふたりの娘の内から妃を選ぶと、当然残りはフラれることになるだろう?」
なにを危惧しているかわかって公爵はすこしだけ笑う。
リアンを相手には認められなくても、娘たちが相手なら彼がふたりの妃を迎えることには反対じゃない。
むしろ娘たちの気持ちが彼へと傾いているなら、そうでないとフラれる方が可哀想だ、といったところだろうか。
こういうところは王も治世者ではなく、ひとりの父親だなといった感じだ。
「なんていうか陛下は可愛い御方ですね」
「おい。皮肉か、それは?」
王がじっとりと睨んでくるので公爵は小さく笑った。
「いえ。そういうことを気に病まれるところは、一国の治世者ではなく父親だと思えたのでつい」
「当たり前だろう。わたしだって一介の父親だ。娘たちが泣くとわかっていることを歓迎はできない」
「そうですね」
それにしても王はちょっと変わった人だ。
今更のようにそう思う。
王位を継いでもらうために色々と努力しているとは言っていた。
しかし今日ここにきてから見たこと聞いたことが、王の「努力していること」なんだろうか?
どうにも腑に落ちない。
「なんだ? そんな顔をして」
「いえ。陛下は王宮で世継ぎの君に王位を継いでもらうために、色々と努力なさっているとおっしゃっていましたが、こちらへきてから知った数々の言動の、一体どこが努力なのかすこし悩んでいまして」
「そんなに変なことをしたか?」
首を傾げる王に笑う。
「王位を継いでもらうための努力というよりは、むしろ親しくなるための努力のように感じられましたので」
簡単に言えば気安い態度だったということだ。
王位はそんなに気楽に継げるものとはない。
そういうことを教えているかどうか、それを疑問に思ったのだ。
「それは当然だ。わたしは彼に叔父として認められたいのだ。それに王としての自覚なら彼にはすでにある」
「そう……なのですか?」
「王となることが楽なことではないことも、自分が王位を継ぐことで生じる問題も、彼はすべて把握している。だから、尚更王位を継ぐことに同意しないんだ」
「なるほど」
確かに先程のやり取りではそんな感じだった。
彼は前王の王子らしく聡明に見えたから。
「今は王としての自覚とか、王となることで歩む修羅の道についてとか、そういうことに覚悟を持たせるよりも、自分は望まれて生まれてきた。こうして叔父にも従妹にも望まれている。自分は愛されているのだと、そのことを自覚してほしいんだ」
「陛下」
「先程説明しただろう? 彼がここでの生活を成り立てていると」
「はい」
「そのために彼は自分の幸せを後回しに考えている。自分を犠牲にしてもいいと思っている。それがこの歳まで育ててくれた人々への恩返しだと決めつけている」
王の気掛かりそうな口調に王宮で聞いた言葉が蘇る。
彼に自分の幸せだって大事なのだと、王はそれを1番与えたいのだとわかってほしいと。
それをわかってもらえる方法を1番知りたいと王はそう言っていた。
あれはこういう意味だったのか。
自分が支えているものの重みを知っているから、彼は自分の幸せを二の次にしている。
二の次にしてそれていいと、それが正しいと思い込んでいる。
自分の幸せには大した価値はないと決めつけている。
だから、王は彼に自分自身のことを振り返ってほしくて彼を振り回すのだろう。
もっと自分を大切にしろ。
王はそれを教えたいのかもしれない。
確かにある意味で彼は聖人君子だ。
自分の幸せを後回しにして納得できる人種がどれほどいるか。
しかも彼はそのことを疑問を抱いていない。
あり得ない現実だ。
しかしそれは人としては不完全。
だから、人間には聖人君子なんてあり得ないと王は皮肉ったのだろう。
ある意味で聖人君子。
その意味は自分の幸せを知らないから。
それを知って意識するようになって、彼は初めて「人間」になれる。
そういうことなのだろうと理解した。
どうやら彼を立派な世継ぎにするのは大変そうだ。
今は人として当たり前の感情を殺している状態だから。
ポロロン。
屋根の上で竪琴の音色が流れる。
だが、それも途切れがちで不安定な音だった。
音の発信源はアベルだ。
彼にしては珍しい音である。
「お兄ちゃん」
ひょこんとフィーリアが顔を出した。
アベルが落ち込んだ顔を向ける。
「どうした?」
「ううん。食事のときから元気がなかったから気になって」
「心配かけてごめんな。なんでもないよ、フィーリア」
「お兄ちゃん」
フィーリアが複雑そうな声を出す。
「お兄ちゃん。変わったね」
「え?」
「レティさんがきてからお兄ちゃんは変わったよ」
答える言葉が浮かばない。
変わらざるを得ないことばかりが起きて、アベルは変わったのかもしれない。
否応なく。
もうそれまでと同じではいられない。
それは確かだったから。
「隠し事もいっぱいするようになった」
「そんなことないよ」
「ほら。その笑顔も作り笑顔」
フィーリアに苦い顔をされてアベルは言葉に詰まる。
「お兄ちゃん」
「なんだ?」
眼を逸らして合わせないアベルにフィーリアは真剣に言い募った。
「お兄ちゃんがなにを隠しているのかは知らない。でも、お兄ちゃんはお兄ちゃんだよね?」
「……フィーリア」
「いきなり居なくなったりしないよね?」
居なくなったりしない。
昨日までなら確信をもって言えた言葉なのに今はどうしても言えない。
答えられないアベルにフィーリアは悲しそうに笑った。
フィーリアが部屋に戻ってからも、アベルは屋根の上に寝そべって星を見ていた。
これまで普通だったことが、どんどん普通じゃなくなっていく。
変わらずにいたいのに変わるしかなくなっていく。
それが辛い。
「俺は……どうなっていくんだろう?」
自分で自分のことが見えなくて怖い。
そう思ったとき、近くの屋根の上に人影が見えた。
驚いて上体を起こす。
月の光でシルエットになっているが、だれかが屋根の上を跳んでいるようだ。
「もしかして噂の怪盗?」
見付かったらヤバい気がして、慌てて屋根から部屋に戻ろうとしたとき、相手からは見えない位置まで移動したときだ。
黒い影が孤児院の屋根に着地した。
息を殺す。
「ふう」
漏れた声に更に驚いた。
「エル姉?」
ハッと振り向く気配がしてそのとき、月明かりが相手の顔を照らし出した。
黒装束に身を包んでいて見慣れない格好だったが、そこにいたのはまさしくエル姉。
シスター・エルだった。
「エル姉。なにしてるの?」
「アンタこそ。もう寝ている頃じゃないの? いつもなら」
「俺のことはいいからっ。エル姉はなにしてるんだよっ!? その格好なにっ!?」
アベルに問い詰められてエル姉は諦めたような息を吐いた。
「説明するから部屋に戻って。追われてるのよ。見付かるじゃない」
頭の中は疑問符だらけだったが、アベルは素直に部屋に戻った。
アベルの部屋は1番広いので話し合いを聞かれる心配がないとかで、アベルはエル姉に部屋へと連行された。
すこし待っていると夜衣に着替えたエル姉が戻ってきた。
夜に逢うことはないのですこし新鮮だ。
「アンタに見付かったのは失敗だったわ。孤児院の人には見付からないように気を付けていたのに」
「エル姉」
「なに?」
「エル姉が噂の怪盗だったのか?」
「噂の怪盗っていうのが、なにを意味するのかは知らないけど、盗みを働いていた者という意味ならそうよ」
「……なんで」
信じられない。
シスターとして敬虔で悪いことは悪いと指摘していたエル姉が怪盗?
「あたしの家系はね。元々神職と怪盗というふたつの顔を持つ家系だったの」
「ふたつの顔?」
「表の顔が敬虔なシスターや神父なら、裏ではあくどい真似をする貴族から金品を奪い、貧しい人に分け与える。そういうことをやっている家系だったという意味よ」
「盗みは悪いことだって子供たちを諭していたのはエル姉じゃないか」
刺々しくなった声にエル姉がやりきれない顔で笑う。
「前王の時代にね。父さんも母さんも怪盗をやめようとしたことがあったの」
「え?」
「前王なら信じられる。国を救ってくれる。それなら怪盗はもういらないだろう。そう判断して怪盗家業から足を洗おうとしていたの。でも、そんな矢先に前王が亡くなって……暗殺されたという噂も流れたわ」
「……暗殺」
そんな説明は受けていない。
父かもしれないと説明を受けた人が、実は暗殺された可能性があるなんて。
でも、そんな可能性があったら、それが噂だけだとしても、だ。
あのケルトがそれをアベルに教えるだろうか。
むしろそういう不安の芽をすべて潰して危険のない状態でアベルに王位を譲りそうだ。
問いかけるべきなのだろうか。
ケルトに。
「やっぱり貴族に頼るのは間違いだった。父さんたちはそう判断したわ。そうして怪盗家業を続けたの。今はあたしが継いでるわ」
「なんで……隠してたんだ?」
「アンタねえ。大声で言えると思ってるの? 実は怪盗やってますって」
呆れ顔で言われて言葉に詰まる。
確かに言えないだろう。
だが。
「今日はリドリス公の家だったから、ちょっと手こずったわ」
「リドリス公!? なんでっ!? あの人は別にあくどい貴族じゃないだろっ!?」
ケルトの人柄を信じているアベルは、彼がリドリス公爵は信じられると言ったことで、公爵のことは信じていた。
なによりアベルも吟遊詩人として公爵の噂は聞いていて、それで信じられると判断した部分もあるのだ。
なのに。
エル姉はそっぽを向いて言った。
「貴族なんて全部あくどいに決まってるわ。宰相なんてその頂点じゃない」
エル姉の偏見は知ってるつもりだった。
だが、これは……。
「エル姉。リドリス公爵からなにを盗んだんだ?」
「これよ」
エル姉が差し出したのは豪華なネックレスだった。
リドリス公爵なら持っていても不思議のないものだ。
「大事に宝物庫に保管されていたわ。絶対にあくどい真似をして手に入れたのよ。だから、1番高価なこれを奪ってやったわ」
これを聞いた瞬間、バシッとエル姉の頬を叩いていた。
エル姉が驚いたように見上げてくる。
「アベル?」
「エル姉が貴族に偏見を持ってることは知ってたよ。でも、ここまでひどいとは思わなかった。真実さえ見抜けないほどだとはね」
「あたしはっ」
「リドリス公の噂なら俺もよく聞いたよ。エル姉たちが1番讃えていた前王。その時代に側近となり、その功績で宰相になった人だ。ただの善人だよ?」
「貴族に善人なんていないわっ」
「なんでそんなことがエル姉にわかるんだ?」
問いかけるとエル姉はムキになったように言い募った。
「貴族なんて民から税金を巻き上げて暮らしているだけのっ」
「エル姉。だったらその頂点だった前王は?」
「っ」
「殺されるところまで民の味方をしたんだよ?」
「それは」
今度はさすがのエル姉も言い返せないようだった。
これが政治が荒れるということなのだろうか。
政治が荒れると国も荒れる。
それを目の当たりにしている気がした。
「これは俺が公爵に返すから」
そう言ってネックレスを奪った。
エル姉は俯いたきり顔を上げない。
「怪盗家業はもうやめてほしい」
「……アベル」
「きっと国はよくなるから。貴族たちだって変わるから」
変えないといけないのだとアベルは感じていた。
自分が……変えないといけない。
でないとこういう悪循環は終わらないのだと。