第五書 国王陛下と宰相閣下




 第五章 国王陛下と宰相閣下




 アベルの身に大量の湯タンポの悲劇が襲っている頃、宮廷では国王ケルトが宰相リドリス公を前にして謁見していた。

 それにより公爵の催す舞踏会は、すこし趣が変わるのだが、それは後の話である。

 このときはリドリス公も意外な事態の連続に疲れきった顔をしていた。

「疲れきった顔をしているな、リドリス公」

「いえ。私事です」

「令嬢が家出したからか?」

「なっ」

 公爵が言葉を失ったのでケルトはすこしだけ笑う。

「実は令嬢はわたしが預かっている」

「どういうことでしょうか?」

 強張った顔の公爵に国王陛下は屈託のない笑顔を見せる。

「令嬢の居場所ならわたしが知っていると言ったのだ」

「陛下。ご存じでしたなら何故連れ戻していただけなかったのですかっ!?」

 取り乱す公爵には普段の切れ者の面影はない。

 ひとり娘を溺愛していた公爵だ。

 特に歳をとってから、なおかつふたりの夫人を迎えた後で得た娘だけに愛しくてならないのである。

 今回のことはそれ故の暴挙と受け取っていた。

 この国では一夫多妻制をとっているが、ケルトは妃はひとりしか迎えていない。

 当然だがその結果、臣下たちも複数の妻を迎えることはできなくなり、公爵も最初はケルトに遠慮してひとりしか妻は迎えなかった。

 だが、愛して迎えたその妻には重大な欠点があった。

 子供ができないのだ。

 公爵夫人とのあいだには子供は望めない。

 それは公爵としては致命的なこと。

 だから、悩んだ末にケルトに許可を貰い、ふたりめの夫人を得た。

 しかし年齢を重ねてからのことでもあり、子供はなかなか得られず、ようやく得られたのがリアンだった。

 子供に恵まれなかった公爵である。

 その溺愛ぶりは微笑ましいものがあった。

 だが、ケルトが得たのも王女ということもあって、彼は常に自分の娘と比較されるのを恐れていた。

 年齢が近かったことも災いした。

 比較する気がなくても、だれもが3人を比較する。

 その結果、公爵はいつしか王女がこなすことは、我が娘もこなすべきという、盲目的な決まりを作ってしまった。

 今回のことはそのことが招いた悲劇に近い。

「何故……か。それはわたしが問いたいな」

「陛下っ」

「レイやレティが婚約したと、わたしがいつ言った?」

「え? ですがこのあいだ……」

「あれはな。悪戯心だ」

「悪戯心?」

 公爵の眉間にシワが寄った。

 ケルトは困ったように笑う。

「いや。周りがあまりに信じているのでな。ついからかってみるのも面白そうだと思って」

「なんて傍迷惑な」

 思わず額を押さえて愚痴った公爵にケルトは苦笑する。

「つまり婚約の事実はない、ということだ」

「婚約の事実はない? では何故王女様方はお姿を消されているのですか? 陛下には殿下方のお相手として意中の方はいらっしゃらないのですか?」

 この問いにはケルトは目を伏せた。

 今アベルの下にリアンがいる。

 リアンとアベルがくっつく事態は回避したい。

 そもそもアベルは国一番と噂される吟遊詩人だ。

 これは後から知ったが、彼自身に付加価値がついている現在、彼を得ようとする者が出現することは、特に不思議はない。

 権力には靡かない男と言われているが、それだけになおかつ彼を欲しがっている者がいることをケルトは知っていた。

 彼のことを知ってから情報を集めて知ったのだ。

 だから、警戒すべき立場にはある。

 彼には冗談ぽく言ったが、彼の相手として自分の娘以外を認める気はないというのは本音である。

 敬愛する兄の子を、兄を殺したかもしれない臣下の娘などに奪われるのはいやだった。

 その本音は彼には言えなかったが。

 彼には歪みのないまま王位を譲りたい。

 父を殺したかもしれない世界と承知で戻す。

 そんな真似はしたくないのだ。

 それではケルトが王になった意味がない。

 だから、覚悟を決めて目を開けた。

「ひとりだけ……心当たりはある」

「陛下」

「ひとりだけ王位を譲りたい男はいる」

「だれ、ですか?」

「それは言えないのだ、公爵」

「どうしてですか?」

「相手がまだ認めていない」

 王の発言には公爵は息を飲んだ。

 王位をチラつかせられて靡かないなんて信じられない。

 普通の貴族の子弟なら、だれだって飛びつくだろうに。

「王位を譲りたいことも告げた。娘たちのどちらかを娶らせたいことも言った。まあ彼が望むならふたりともでも、わたしは一向に構わないのだが」

 純愛を貫いている王の発言とも思えない内容に公爵は目を見開く。

 王から聞く話は意外なことばかりだった。

「わたしはな、娘たちの伴侶には彼以外あり得ないとまで思っている。だが、本人から色好い返事が返ってこなくて」

「信じられません。普通なら」

「そう。普通ならだれもが首を縦に振る。わたしが譲りたいのは一国の王の座だ。おまけにわたしが言うのもなんだが、娘たちはどちらもが美少女だ。王女という位がなくても、欲しがる男は大勢いるだろう。それを承知で靡かない男なのだ」

 毅然と前を向いてブレない姿勢が感じられた。

 ふと公爵の胸を懐かしい面影が過っていく。

(前王陛下……)

 前王とは親友とも言える付き合いをしていた公爵だが、その弟君である現王とはそれほど親しくなかった。

 だから、王位を継いだ後に彼に仕えることにはためらいがあった。

 あの日までは……。

『わたしはな、公爵。負けるわけにはいかないのだ』

 ある日夕陽を見ながらケルト王がポツリと言った。

 兄王の墓に詣でた帰り道のことだった。

『兄上を死に追い込んだ臣下たちに負けるわけにはいかない。兄上のためにも』

 前王は暗殺された。

 そんな噂が囁かれている当時のことである。

 真偽のほどは公爵にもわからない。

 だが、兄を慕っていたケルトが、その噂に神経質になっていたのも事実だった。

 気紛れな御しにくい気質も、王として前王とは違いすぎる強硬な態度も、すべて兄を死に追いやった現実に負けないための彼の努力だと知って、公爵は初めてこの人に仕えてもいいと思えた。

 権力には靡かない姿勢。

 それは懐かしい前王のものだった。

 あの人に子供がいれば……そう思ったこともある。

 そうすれば素晴らしい王になっただろうに、と。

(こんなときに思い出すとは皮肉だな)

 消えていた腕輪の行方は今もわからないままだ。

 その消息さえ掴めたら、この孤独な王にこんな顔をさせずに済んだだろうか。

 そんな自虐めいた考えが浮かぶ。

 海に落ちた一粒の涙を探すようなものだと知りながら。

「わたしはなんとか彼を籠絡したくてな。今はふたりを彼の下に行かせている」

「は? まさか同居させているとか、そんなオチでは……」

「いや。その通りだがなにか変か?」

 王にキョトンと首を傾げられ、公爵は宰相として頭を抱えた。

「陛下。申し上げにくきことではございますが、男をそう簡単に信用して娘を預けるべきではございませんよ?」

「そうか?」

 王はますますキョトンとしている。

 こういうところが抜けているなあと公爵はこの王が可愛くなった。

「妻に娶る気がなくても、その……えっと……肉体関係を持つことは簡単なのですから」

「ああ。そういう心配かっ」

 王は何故かポンッと両手を打ち鳴らした。

 本当にわかっているのだろうかと宰相は不安になる。

「いっそのことそうなってくれると、こちらとしても強硬な態度に出やすいんだが」

「陛下!!」

 とんでもないと諌める宰相に王はのんびり頬杖などついてみる。

「公爵の心配はわかるんだがな。あれはおそらく手は出さない」

「……どうして言い切れるのです?」

「手を出せばわたしに強硬な態度に出られる恐れがあることを、きちんと把握しているからだ」

「そこまでいやがっていると?」

「認めるのは悔しいんだがな。実際のところはそうだ。色々頑張ってはみてるんだがなあ。まるっきり効果がない。どうやれば手を出して籠絡しやすくしてくれるのか、わたしの方が知りたいくらいだ」

「はあ」

「娘たちだって彼をきらってはいないのに、これでは娘たちが可哀想だ」

「それは……お気の毒です」

 他に言い様がなかった。

 あれだけの美少女を前にして手を出さないなんて、男として大丈夫だろうかと、そんな余計な心配までしてしまうが。

「あ。男性機能の心配はいらないぞ?」

「陛下。このような場で申されることではありませんよ?」

 頭を抱える公爵に王は屈託なく笑う。

「いや。そういう心配をしているんじゃないかと思ってな。たしかにまだ経験はなさげだが、男としての機能に問題はない」

「それも調べたのですか?」

「王位を譲りたい相手なら、そのくらい調べないか? 男として不完全、または男の方が好きな男だったりしたら、そもそも成り立たない話だろう」

 この王の話はどこまで飛ぶのだろうと、宰相は呆れて言葉を失った。

 相手の男性も可哀想に。

 この王に経験の有無まで掴まれているとは、きっと思っていまい。

「だから、余計に御しにくいんだ」

「陛下?」

「肉欲も持たない。権力欲も持たない。物欲もない」

「まるで聖人君子のようですね」

「そうだな。ある意味では聖人君子だ。今はただ自分の幸せを後回しにしているだけだとしても」

「?」

「どうすれば彼に自分の幸せだって大事なのだと、わたしはなによりもそれを与えたいのだと彼にわかってもらえるのか、わたしはその方法が1番知りたい」

 遠い目をする王にさっきの考えが浮かぶ。

 もし前王に子供がいて、その子が男なら自分も同じことを思った。

 大事な娘を預けられるのは、この王子しかいない、と。

 この謁見でケルトは彼に娘の婚約については撤回させた。

 しかし現在、彼の意中の相手であるアベルの下に、公爵の愛娘が同居していることは、チラリとも悟らせなかった。

 娘の居場所を教えてほしいと公爵に泣きつかれても。

 だから、公爵が独自の情報網から娘の居場所を掴んだ後で、すこしだけ困惑することになる。




「ふむ。ここか」

 馬車から降り立った公爵は建物は大きいが貧相なのを見て眉をしかめる。

 こんなところに娘がいるのかと思うと腹が立ってきたのだ。

「だが、裏庭の花は見事だな。まるで王宮のようだ」

 花の世話が好きで庭師顔負けの腕前を持つふたりの王女。

 王女たちによって綺麗に整えられていた王宮の中庭を思い出す。

 自らの王女にそんな真似をさせても、娘たちが好きでやっていることなら、と、平然と受け流せてしまう王の器のほどを思い出しながら。

「あれ? お客さん? 懺悔にきたとか?」

 懐かしい声を背後からかけられて、ドキッとして振り向いた。

 そこに立つ青年の瞳は空色。

 懐かしい瞳の色だった。

 なによりもその顔立ちに目が奪われる。

 言葉も発せずに公爵を青年は怪訝そうに見上げている。

「なに? 用がないんなら立ち去ってくれる? 大きい馬車は通行の妨げだし」

「あ。すまない。すぐに動かせよう」

 御者に合図して邪魔にならない場所に移動させる。

 すると青年は安堵するどころか、余計に怪訝な顔になった。

「上品な格好してるなあ。もしかして貴族?」

「きみは?」

「……まさかあの人の使いじゃないだろうな?」

「あの人?」

 首を傾げる。

「違うのか? まあ王様がそう簡単には俺のことを教えるとも思えないけど」

 そっぽを向いてそう言われた。

 今、王と言ったか?

 どういうことだ?

「とにかく懺悔にきたのなら教会の方に行ってくれ」

「いや。懺悔にきたわけでは……」

「なんだよ。やっぱりあの人の使いなのか? 今度はなんだって?」

 話が……噛み合わない。

 彼はなにを言っている?

「う~ん。でも、今まではこんな身分のありそうな人、使いで寄越さなかったしなあ。あれえ?」

 青年がウンウン唸っている。

 さっき王と口走ったことを思い出してさりげなく誘導してみる。

「お元気でやっているかどうか確認するように命じられまして」

「元気もなにも昨日逢ったじゃないか。本人と」

 昨日逢った? 本人と? つまり「あの人」とは「王」ではない?

 いや。

 しかし昨日、王は宮殿にいたか?

 姿を……見ていない。

 一日中。

 思わず青ざめた。

「なんで俺が王都の道案内なんてやらないといけないんだ? それくらい自分でやれっていうんだ。一応王なんだし」

 顔を背けてぶつぶつ愚痴る様子に、やはり王なのだと知った。

 しかし王が彼に逢いにきた。

 しかも1日をかけて彼に王都を案内させた?

 あれだけ街のことには詳しい王が?

 それは一緒にいる口実以外のなにものでもない気がした。

「それに俺より王都の裏道に詳しいくせに、なんだって俺をいいように振り回すんだよ? アンタのところの王様は?」

 王を相手にしているとは思えない口調である。

 ふと王から聞いた話が蘇った。

 王位を譲りたいと言われても靡かない男。

 あれほどの美少女の王女たちを前にしても聖人君子のように振る舞える男。

 そしてこの容姿。

 まさか。

「とにかくっ。俺は元気だから余計な邪魔しないでさっさと帰ってくれよ!!」

 邪険に追い払われそうになったので、思わず彼の左腕を掴んでいた。

「待ってほしいっ!!」

 そう言った瞬間手に触れた硬質な感触にハッとする。

 青年もハッとしたのか、慌てて腕を振り切っていた。

 お互いに見詰め合うその一瞬が永遠に思えた刹那、緊張を打ち破る声がした。

「アルベルトッ。見付けたぞっ」

 ガバリッ。

 そんな音がしそうな勢いで彼に背後から抱きついたのは、見紛うことなき王だった。

 呆気に取られて固まる。

「……懐くな」

「そんなに邪険にしなくても。忙しいなか様子を見にきたのに」

「見にくるもなにも使いの者を寄越しておいてなにを言ってんだ、アンタは!!」

 勢いよく振り向いた青年に怒鳴られて、王がキョトンとした顔になった。

「使いの者?」

 王の視線がゆっくりとこちらを向いてくる。

 やがてその目が丸く見開かれた。

「意外なところでお逢いしますね、陛下」

「……そうだな」

 ふたりの剣呑なやり取りに青年が「あれ?」といった顔になった。

「あれ? 使いの者じゃなかったのか? さっきそう言われて」

「わたしは一言も陛下の使いだとは申し上げておりませんが?」

 念のため敬語で返す。

 青年はみるみる強張った。

 陛下との関係を知られたくなかったと思っているのは間違いない。

「お名前を聞かせて頂いてもよろしいですか、陛下?」

 答えず目を泳がせる王に一応クギを刺す。

「偽名ではない方をお願いします」

「ふう。こうなるとそなたはごまかせないな。アル」

 ゴンッと拳骨が降ってきて、アルと呼ばれた青年が頭を抱えて踞った。

「いきなりなんだよー?」

「なんでもかんでもわたしと結び付けて納得するな。どうしてくれるんだ? この事態」

「そんなこと言われても、こんな上品そうな格好した人がきたら、普通はアンタの使いかと思うだろっ!! ここには縁のない人種だし」

「そうでもないだろう。現在はひとりだけ、こういう格好の者がきても、おかしくない素性の者がいるはずだ」

「あ。リアンのお父さん?」

 青年が唖然として立ち上がった。

 それでやはり陛下の言っていたことは嘘でもなんでもなく、陛下は娘がここにいることを知っていたのだと知る。

 これはどうやら問い詰めるべき事柄が増えたようだと感じながら。




「アル従兄さま? どうして宰相と……」

 建物の中に入ると出迎えてくれたのは双生児の王女だった。

 どちらも唖然としている。

 思わず頭を抱えた。

 あまりに違和感のない姿に。

「陛下」

「バカ。その名で呼ぶなっ」

「ですが」

「適当な偽名で呼んでくれ。わたしはここでは素性を隠しているんだ」

「はあ。とにかくもうすこしなんとかならなかったのですか? おふたりの姿が痛々しいです」

「しっつれいな人だなあ」

 青年はそう言うと怒って先に行ってしまった。

 置いて行かれたようで寂しくなる。

 肩を落とすと陛下がとんとんと叩いてくれた。

 顔を向ける。

「気にするな。あれは知られたくなかったことを知られて拗ねているだけだから」

「はあ」

「とにかくあまり貧富の差を意識した態度は取るな。彼はそういうことには敏感だぞ?」

「気を付けます」

 彼にきらわれるのは避けたかったのでそう言った。

 陛下が屈託なく笑う。

 陛下のこういう笑顔は前王そっくりだ。

 これで何故偽者が出現したのか不思議で仕方ない。

 どこから見ても血の繋がりの有無なんて明白だろうに。

 あの人と同じ顔をした彼。

 彼が笑うところにはまだお目にかかっていないが、笑うともっとそっくりなのだろうか?

 そんな疑問が兆す。

「お父さま、もしかしてアル従兄さまのこと……バレています?」

「さすがにレイは聡いな。リアンを迎えにきて鉢合わせて、彼が勝手にわたしの使者と間違えて暴露してしまったんだ」

「なんていうか。従兄さまらしい」

 微笑むレティシアに公爵は今更ながら気付く。

 ふたりが彼のことを「にいさま」と呼んでいることに。

「あの」

「なんだ?」

「もしかして陛……あなたの隠し子ですか?」

 首を傾げて問いかけると陛下には爆笑され、どこかで聞き耳を立てていたらしい本人には戻ってきて頭を殴られた。

 えらく手が早い。

 老人を殴らなくてもいいだろうに。

 こういうところは似ていないなと思う。

 しかし老人を殴るなという発言は、しっかりしていたらしく、彼には呆れられた。

「どこが老人だって? こんな元気な老人見たことないって」

「はあ。まだ45ではありますが」

「まだ働き盛りじゃないか。老人なんて言うんじゃないって」

「ありがとうございます」

 頭を下げると彼は赤くなってそっぽを向いた。

 あれ?

 こういうところは似ている。

 さっきから目まぐるしく変わる感情についていけない。

 こんなに動悸が激しいのは久しぶりだ。

「あー。リドリス公。初恋に右往左往する少年みたいな眼はやめるように」

「とんでもないことを平然とおっしゃらないでください」

「そういう眼をしていたぞ?」

 からかわれて赤くなる。

 確かにこの気持ちは初恋に似ている。

 初めて純粋な友情を感じた人を取り戻したような、この感覚は。

「はー。なんか貴族の会話ってついていけなーい」

 ぶつぶつぼやいて彼はまた歩き出した。

 陛下に背を押されたのでついていく。

 ふたりの王女もしっかりついてきた。

 どうやら王女たちには隠し事はしていないらしい。

 まあ宮廷で聞いた話が彼のことなら、隠し事なんてないのだろうけれども。

 しかし頭が痛い。

 彼は一体何者なのだろう?

「お兄ちゃん。またお客さん?」

 2階へ上がると幼い少女と愛娘が一緒にいた。

 娘の両腕には大量のシーツがかかっている。

 思わずムッとして睨む。

 娘はオドオドと顔を伏せた。

 すこし反省する。

 すると彼が声をかけた。

「フィーリア。しばらく俺の部屋にはだれも近付けないでくれ」

「でも、もうすぐ夕飯だよ?」

「パスする。なんならどこかの酒場で食うから」

 彼がそう言った瞬間、再びゴンッと派手な音が彼の頭上でした。

 彼が頭を抱え込む。

「お父さま。そう何度も殴ったらアベルさんがバカになってしまいます」

 レティシアが青年の頭を撫でたが、王は一向に堪えていなかった。

 そっぽを向いて話し出す。

「アベル殿はお幾つですか?」

 ずっと気になっていたことを問いかけた。

 青年は気まずい顔を背ける。

「18」

 なるほど。

 前王が亡くなり現王が即位したのが15年前だから、当時彼は3歳ということになる。

 それならまあ腕輪が継承されていても不思議はないか。

 王位継承権の腕輪はどちらも継承者が3歳にならないと継承できない。

 彼は当時やっと3歳になったばかり。

 それがなければ今頃、身許を証明する物はなにもなかっただろう。

「でも、何故わたしに隠していたのだろう……?」

 思わず疑問が口から滑り落ちた。

 彼は怪訝な顔をし慰める声をかけてくれた。

「どれほど信頼できても言えなかっただろう。当時は」

「そう……ですね」

 当時の宮廷がそれほど荒れていたのは事実だった。

 とても子供が生まれたと明らかにできないくらい。

 大切に扱わなければ生まれたばかりの赤子など、あっという間に殺されただろうから。

 父としては当然の決断。

 でも、自分には知らせてもくれなかったあの人が、彼を託したのはだれなんだろう?

 その嫉妬にも似た疑問も王は見抜いてくれたようだった。

「クレイ将軍だ」

「え……?」

「彼が託された相手はクレイ将軍だ。そして亡くなった後、将軍がこの孤児院に彼を預けた。目を欺くために」

 主題がぼかされていても自分にはすべてが伝わる。

 彼の生命を狙う者たちから護るために、世継ぎが託されたのは当時の近衛隊の将軍クレイ。

 そして王が亡くなった後も彼はそれを完遂するために、大事な世継ぎの王子を孤児院に預けた。

 つまりあの人の人を見る眼は正確だったということだ。

 将軍は見事にすべてをやり遂げた。

 自分が死んだ後も彼を18になる現在まで護り通しているのだから。

 自分なら……どうしただろう?

 あの人が死んだ後であの人の血が引く王子が手元にいたら、彼に王位を継がせようとしたんじゃないだろうか。

 そうしたらおそらく彼は殺されていた。

 あの当時はそんなことも見抜けないほど自分も若造だった。

 だから、打ち明けてもらえなかったのだろう。

 あの人に。

 決してあの人のせいではない。

 自分が未熟だったのだ。

「あのさ」

 気まずそうな彼が声を投げてくる。

 その顔があの人に重なって見える。

 打ち明けなかったことで落ち込まれて慰めようとしているような彼の顔に。

「よく……わからないけど、アンタのせいじゃない」

「あなたは不思議な人ですね」

「なんとなくそう言わないといけない気がしたから」

 顔を背けて彼はそう言った。

 その様子を娘が怪訝そうに見ている。

「娘も同席していても構いませんか?」

 王を見て問いかける。

 王はムッとしたような顔をした。

「構わないがアルは譲らないぞ。そなたにはやらない」

 この発言には呆れて笑い彼の方が陛下を殴っていた。

「痛いぞ、アル」

「俺はだれのものでもないぞ。変な発言するんじゃないっ!!」

「言ったはずだ。わたしは欲しいものは譲らない、と」

 真正面から見据えられて彼が言葉を失った。

 これ以上はこの場ではマズイかなと判断して割り込む。

「とりあえず部屋に行きましょう。ここでする話でもないでしょう?」

「つくづくそなたは敵に回したくないが、敵に回ると言うなら受けて立とう。レイもレティもいいな?」

「えっと」

「お父さま?」

 ふたりの王女が戸惑っている。

 見捨てたのか彼はそのまま自室へ歩き出した。

 その後を娘の腕を握って追いかける。

 取り残された少女が不安そうに自分たちを見送っているのを感じながら。




 部屋に通されたが、案内された部屋はたしかに個室だった。

 だが、世継ぎの自室と思うとあまりに侘しく悲しくなってくる。

 しかしそれを顔に出すと彼を不機嫌にすると思って耐えた。

 おそらく彼はそういう境遇をなんとも思っていない。

 むしろ王位を得ることをきらっている。

 だから、陛下は苦労していると言ったのだろう。

 世継ぎのくせに彼が王位を継ぐことを否定しているから。

「アルベルト」

 王がそういえば彼を発見したときに王がそう呼んでいたと思い出す。

「リドリス公に腕輪を見せてやれ」

「でも」

「宰相は敵じゃない。信じられなければ、そなたの下にリアンを置いたまま放置したりはしなかった。こうして鉢合わせする可能性だってあったんだから」

 つまり王はこの事態も想定済だったということだ。

 彼の下に娘を置いていたのは王の自分への信頼の証。

 そう思うと誇らしい気分になる。

 じっと彼を見た。

 渋々彼が左腕の袖を捲りあげる。

 その下からあらわになる腕輪。

 懐かしさに涙が浮かぶ。

「父様……どうして泣いているの?」

「いや。あまりの懐かしさについ」

「懐かしい?」

 リアンが不思議そうな声を出す。

 そんな娘にふたりの王女が説明してくれた。

「リドリス公はアル従兄さまのお父さまと親友だったっておっしゃっていたわ」

「え?」

「その当時の功績で宰相になられたって」

「だから、信頼できる唯一の人。そんなふうにおっしゃっていたわね。それはあなたをここに置いていたことでも証明されているわ」

「どういうことですか、レイ様? レティ様?」

 ふたりの王女が陛下を振り向いた。

 陛下はリアンの腕を取り彼に近付けた。

「腕輪をよく見てみるんだ、リアン」

「えっと。なにか文字が刻まれて……アルベルト・オリオン・サークル?」

「アルベルト・オリオン・サークル・ディアン。それが彼の本名だ」

「ディアン!?」

 リアンの瞳が忙しく王族のあいだを行き来する。

「そう。賢王と呼ばれた前王、わたしの兄の唯一の忘れ形見。第一王位継承権を受け継ぐ者だ」

「王子様?」

「うーん。俺はそれを認めてないんだけどね」

「でも、皆さんそう言われてますよ? レイ様たちだってにいさまって」

「あれは従兄のにいさまって意味よ」

 レイティアが朗らかに笑う。

「彼が、えっとあなたが第一王位継承権を持っているって……じゃあだれが王位を継ぐんですか?」

「陛下としては彼に継いでほしいようだ」

「父様。知って?」

「いや。ここにくるまでは知らなかった。ただ宮殿で陛下に王位を譲りたい相手がいるとだけ聞いていたんだ。それでだれなのだろうと思っていて。ここへきて彼の顔を見て彼の漏らした言葉を聞いて、それでもしやと疑った」

 陛下から事前に聞いていた王位継承に関する話。

 彼が漏らした言葉。

 そして彼の容姿。

 すべてが答えを導き出してくれた。

「俺……そんなに前王に似てる?」

「あなたのお父上でしょう。そのような言い方はいけませんよ」

「……そんなことを言われたって自覚がないんだ」

「アルのそれは自覚がないんじゃなくて、自覚したくないだけだろう?」

「陛下? どういうことですか?」

 ここで陛下から聞いたのは意外な内容だった。

 彼がこの孤児院と教会の生活を成り立てている?

 それはまあ国1番の吟遊詩人なんて噂も広がるはずだ。

 そこまでの腕前の吟遊詩人なんて聞いたこともない。

 しかも彼は旅をしていない。

 旅をせずに生計を成り立てている吟遊詩人なんて一握りだ。

 そうして大抵そういう吟遊詩人は貴族の専属になるものだ。

 それすらせずに生計を成り立てている。

 それは彼がそこまで優れた腕を持つ吟遊詩人である証。

「それは国1番と称されるはずですね。納得しました」

「たしかに兄上の子なら納得だが、ちょっと凄腕すぎる。おかげで王位を継ぎたくないと駄々をこねる始末だ」

 陛下がそう言って愚痴ると彼がまた陛下を叩いた。

「痛い」

「駄々をこねるなんて言い方をするからだ。自己主張だっ!!」

「そなたが足蹴にしているものは、この国全体なんだぞ?」

 グッと返事に詰まる彼に陛下は畳み掛ける。

「本当なら継ぎたくないで済む話ではないんだ。それを同意を得るまで待ってやっているんだ。これを駄々と言わずになんて言う?」

 二の句が継げないのか彼はプルプルと震えている。

 なんだか火山が爆発する前みたいな変な感じがする。

「陛下。それ以上は慎まれた方が宜しいでしょう」

「だが」

「前王は頑固なところがおありでした。彼が気性まで前王に瓜二つなら、意固地になられる可能性もございます」

「うっ。忘れていた」

 王が冷や汗を掻いているのを彼は横目で見ている。

「とにかく。このことはここにいる者だけの秘密なのですね?」

「そうだな。アルベルトが認めない以上公にはできない。公にしてアルが王位を継ぎたくないと言っていることがはっきりしたら厄介な事態になる」

「前々から訊きたかったんだけどさ」

「なんだ?」

「なんで俺がっていうか、世継ぎが素性を隠して雲隠れしないといけないんだ? そもそも俺の素性を知っていたはずのクレイ将軍からも、そういう話は一切聞いてないし。ちょっとおかしくないか?」

 この彼の問いかけには陛下とふたりして顔を見合わせてしまった。

 女の子は女の子同士で顔を見合わせている。

 彼にすべてを話すときがきているのかもしれないと陛下は重々しく呟かれた。
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