第四章 宰相令嬢と姫君たち
第四章 宰相令嬢と姫君たち
「はあ……」
このところ、アベルの口からは絶え間なくため息がこぼれるようになっていた。
それというのもこの頃、ほぼ毎日のように王様に付きまとわれているからだ。
さすがに1日中ということはないのだが、1日に一度は彼は顔を出しにくる。
そうして首を縦に振らないアベルを説得するのだ。
「王宮は楽しいぞー」というどこから聞いても、子供を相手にしているような誘い文句から始まって、この頃はネタが尽きたのか、とんでもないことを言ってくる。
なにしろ「レイは実は着痩せするタイプでな。あれで結構胸がデカイ」だの、「レティは身体のバランスがとてもいい。我が娘ながらプロポーションは抜群だ。レイには胸の大きさでは負けているが」とか。
レイやレティが聞いたら真っ赤になること請け合いのことを言い出している始末だ。
始めの頃はまだ聞きやすかった。
ふたりの話題といっても幼い頃のことが多かったし、微笑ましい親娘の思い出話として聞き流せたのだ。
だが、最近耳に吹き込まれる内容は……エロイ。
やめてほしいほどエロイ。
聞いている方が恥ずかしくなる類の話ばかりだ。
最初にそういう話題を振られたとき、さすがにふたりが可哀想になって、アベルは慌ててケルトを止めた。
しかし当の本人はケロリとして言ってきた。
「聞きたくないのか? そなたの結婚相手の話だぞ? 結婚相手のそういう話題は聞きたいだろう? 男なら」
と、平然と言われた。
これには冷や汗を掻いたものだ。
別に否定はしない。
アベルだって男だから、これが自分で選んだ結婚相手の話題なら、婚約者の父親からそういう話題を振られること自体は別に抵抗はない。
男同士の内緒話というやつだ。
娘の知らない世界、というものだから特に拘りはない。
だが、結婚相手というのは今のところケルトひとりが決めていることで、アベルは別に認めていない。
本人たちの前で言うと魅力がないと思っているのかと言われそうで、特にアベルはいやがる素振りを見せない。
しかし実際のところは結婚相手だなんて認めていないし、百歩譲ってそういう関係だとしても、本人が了承しないあいだは、ケルトの常識で言っても従兄妹同士だ。
従妹のそういうエロイ話を、だれがこっそり聞きたいと思うのか、ケルトには是非説明してほしい。
そもそも従兄妹同士だという自覚すらアベルにはないのだ。
まあ認めていないということも勿論あるのだが、それ以上に従妹として過ごしてきた時間がないので、どうしても従妹だと思えないのである。
そういう意味なら血の繋がりのないフィーリアやエル姉の方を、よっぽど家族だと認めているよな、と、アベルはしみじみと実感している。
例えばふたりの着替えの場にたまたま居合わせてしまっても、アベルは特に焦ったりしないだろう。
意識も……おそらくだがしないはずだ。
だが、これがレイやレティだったら、たぶん冷静ではいられない。
女の子として見てしまうから、慌てて謝罪するはずだ。
つまり血の繋がっている感覚がない、ということである。
それで散々ふたりのエロイ話を聞かされるというのは、アベルにとって精神的な苦痛だった。
特に肉体について言われると、どう反応したらいいやらケルトを恨みたい気分だ。
それでも父親かと彼を責めたい。
アベルならフィーリアのそういう話を他の男、特に恋愛感情を抱いているだろう相手には言いたくない。
妹を嫁にやるって複雑な気分だろうなと思っていただけに、ケルトの言動はいちいち腹が立つ。
しかもかわしてもかわしても彼はめげない。
アベルが首を縦に振るまで諦めないと断言しているほどだ。
そのせいで最近は気を抜くとため息が出る。
「はあ。あの人をどうにかして撃退できないかな? それとも俺が折れるまで、どうやっても撃退できないのか?」
こんなことを愚痴っていても意味はないと思うのだが、現状があまりに気が重すぎて、ついそんなことを口走ってしまう。
王様がこう度々王都にお忍びにきていたら、そのうち臣下たちだって疑問を抱くだろう。
王様がどこに行っているのか知ろうとするだろう。
そうしてもし……万が一だが、アベルのことがバレてしまったらどうなる?
この暮らしもそれまでなのだろうか。
アベルは容姿が前王にそっくりらしいので、王がアベルに逢いにきていることがはっきりしたら、おそらくその意図は掴まれる。
そうなるとさすがにごまかせないだろう。
王に連れ戻してくれと進言するかもしれない。
もしそれが孤児院のみんなの耳に入ったら……。
ブルルと慌てていやな想像を振り切った。
「自分から負けてどうするんだ? 家族を守るために俺が頑張らなきゃ」
生活費としてかなりの大金は貰った。
それこそ生涯遊んで暮らせるほどの額を。
だが、お金というものは幾らあってもありすぎるということはない。
孤児院に人が増えれば、それだけ必要な生活費も増えるし、あそこは教会でもあるから、教会の維持費も必要だ。
エル姉が寄付金を受け取らないかぎり、生活は困窮しつづける。
「俺がやらなきゃ。こんなことに巻き込まれてる場合じゃないっ」
気合いを入れて両手で頬を叩くとアベルは立ち上がった。
ここ最近サボってばかりだったので、仕事でもしようかと竪琴を手に取ろうとしたときだった。
「あれは……」
少女がひとり追われて走っているようだった。
人混みを縫うようにして走っているが、その脚はお世辞にも速いとは言えない。
追い付かれるのは時間の問題だ。
アベルは「やれやれ」とため息をついて、竪琴を手に人混みに紛れた。
「ダメッ。もう追い付かれるっ」
そう絶望的な声をあげたとき、角から出てきた手に腕を掴まれた。
「キャッ」
声を上げそうになった口を大きな手に塞がれる。
ドキドキしながら視線だけ向けると、栗色の髪に空色の瞳をした青年だった。
(素敵な人)
思わず見惚れる。
「追われてるんだろ? 黙ってついてきてくれ」
そういって青年は腕を解放すると背中を向けた。
一瞬迷ったがその瞬間、追手の声が聞こえてきた。
「どこだっ!?」
「バカがっ。見失っている場合かっ!? 逃げられたらどうなるかっ」
焦っているらしく今捕まったら、乱暴でも振るわれそうで慌てて青年の後を追った。
青年はよくわからない幾つもの路地を曲がり、やがてどことも知れない通りに出るまで案内しつづけてくれた。
人気がなくなってから足を止めてようやく振り向く。
「なんか乱暴そうなのに追われてたから、思わず助けたけど……どうして追われてたんだ?」
「……えっと」
どう答えるべきか悩んでいると、青年は困ったようにこめかみを掻いた。
その仕種がやけに幼くみえて可愛い。
「ごめん。名乗らないと俺の方が怪しい奴だよな。俺はアベルっていうんだ。きみは?」
「わたくしは……リアンと申します」
「あ。この口調……マズッたかも」
「あの?」
「ズバリ訊くけど貴族だよな?」
いきなり面と向かって指摘され答えに詰まる。
「はあ。やっぱりそうかあ。だったらさっきのって実家の追手? 家出?」
次々答え導き出す青年に答えが出ない。
言わなくてはいけないことは、すべて言われてしまったみたいなものだし尚更。
「と、なると出てくるな。あの人が」
「あの人?」
「ああ。こっちの話。とりあえずついてこいよ」
「えっと。どこへ?」
「おそらくきみの知り合いだろう人たちのいるところ。でも、安心すればいいよ。貴族の屋敷ですらないから」
「?」
疑問符はあったがリアンはそのままアベルについていった。
親切にしてくれた人を疑うような教育は、彼女は受けていなかったので。
「フィーリア。レティたちはどこだ?」
「ん? 裏庭で花壇の手入れをやってるよ。意外なことにふたりとも、花の手入れは花屋クラスなんだよね。萎れかけた花もキレイに咲かせるんだもん。すごいよ」
「そっか。じゃあちょっと行ってくる」
「お兄ちゃん、その人は?」
「あー。たぶんあのふたりの知り合いじゃないかな?」
大きいが貧相な建物に入ってすぐに青年は小さな少女とそういう会話を交わすと、リアンを連れて裏庭に向かった。
裏庭では金髪を背中で纏めた少女がふたり、セッセセッセと花壇の世話をしていた。
似たような格好をしていて、リアンには知り合いではないように見える。
その背中に向かってアベルは声を投げた。
「レイ。レティ。ちょっとこっちを振り向いてくれないか?」
「「はい?」」
そう声を投げて振り向いたふたりは泥だらけだったが、リアンには見慣れた顔だった。
「レイティア様っ。レティシア様っ!!」
感激のあまり抱きつく。
ふたりは驚いた顔でリアンを受け止めてくれた。
「「どうしてリアンが……」」
「やっぱり知り合いかあ」
「「アル従兄さま?」」
「ごめん。俺、失敗したかもしれない」
「「どういうことですか?」」
「その娘、街中で乱暴そうなのに追われていてさ。ついとっさに助けたんだ。そうしたらどうも家出みたいで、追いかけていたのは実家の追手みたいだったな」
「アル従兄さま……」
レティシアが頭を抱えれば、レイティアは呆れ返って従兄を責めた。
「その考えなしに動く一面は直さなければいけませんわ。従兄さま」
「だってそんな華奢な女の子が乱暴そうなのに追われていたら、普通は女の子の方を助けないか?」
アベルが膨れればレイティアがジロリと彼を睨んだ。
「リアンが可愛かったから助けただけでしょう?」
「レイ。キツイ。そもそもそういう意図はないっ!!」
ここしばらくのやりとりで多少は距離の縮まった3人である。
ただしふたりにしてみれば、アベルは婚姻を意識する相手である。
決してそれを忘れて接してるわけではない。
だから、こういう嫌味が出てしまうのだ。
アベルがふたりを意識していないから、尚更かもしれない。
しかしリアンにしてみれば意外な場面だった。
レティシアは深層の令嬢という言葉がしっくりくるような王女だったし、レティシアは毅然とした一面の強い自立した王女だった。
それが泥まみれでこんな貧相な場所にいる。
違和感だらけなのにその上にひとりの青年と親密に振る舞っているのだ。
意外なことこのうえなかった。
しかも聞き間違いでなかったら「にいさま」と呼んだ。
どういう意味かは知らないが。
思わず抱きついていたのも忘れ、ふたりを覗き込むと心配そうな銀の瞳が覗き込んでいた。
「リアン。一体どうしたの?」
「おとなしいリアンがどうして家出なんてしたの?」
「レイ様やレティ様の方こそ。最近、王宮ではおみかけしない日が続いているとは思っていましたが、このような場所にいらっしゃるとは存じませんでしたわ。一体どうして?」
「そのことはいずれお父さまから説明があるでしょう。今はあなたのことよ。一体なにがあったの?」
「レイ様」
心配そうに言われて涙が溢れてきた。
頼れる王女たちがいなくて家出してきたリアンである。
王女と宮廷で逢えるなら相談したかったのだ。
「父様が……」
「リドリス公?」
「宰相がどうしたの?」
ここまでのやりとりを聞いて、アベルはこっそり青ざめた。
リドリス公爵?
しかも宰相?
その令嬢を連れてきてしまったって……言い訳が通る状況なんだろうか。
まああの人が、王様が絶対に絡んでくるから、アベルが罪に問われることはないだろうが。
それそもそのことより、アベルの素性が明るみに出る可能性の方が怖い。
「王女様方がご婚約されるかもしれないからと」
「ちょっと待って。どこから出た噂なの?」
「わたしたちが婚約って……」
レティシアの瞳がアベルに向かう。
その相手ならアベルだが、彼のことはまだ父しか知らないはずである。
視線を向けられた彼は慌てて「知らないっ」とかぶりを振った。
「王宮で最近になって流れている噂です。おふたりがお姿を消されているのは、きっと陛下が内密に決められたらご婚約者様と逢瀬を重ねられているせいではないか、と」
「そんな噂が広がっているの?」
レイティアが呆れて声をあげれば、リアンは更に呆れる説明を続けた。
「父様も聞き捨てにできない噂だからと陛下にご確認を取られたようです。そうしたら」
「ああ。わかってしまったわ。お父さまのことだから否定なさらなかったのね?」
次期女王として教育されてきて、その自負も強かったレイティアは、レティシアよりも王としての父のやり方は知っている。
アベルの意志を尊重していても、そもそも諦めるつもりのない父である。
前準備としてそういうことを始めていても特に不思議はない。
アベルに視線を向ければゲンナリした顔をしていた。
「はい。陛下は特に否定はなさらなかったと父様は申しておりました」
「あの人はっ」
いきなりアベルが憤った声を出し、リアンがキョトンと彼を振り向く。
すると慌てたように笑顔をみせる。
引きつってはいたが。
首を傾げるリアンである。
「それでリアン。どうしてあなたが家出する羽目になったの? わたしたち……まだ婚約なんてしていないのだけれど?」
「だったらそれを父様に打ち明けてください、レティシア様っ!!」
リアンの気迫にレティシアは怖じ気づきながらも、オズオズと言い返した。
「その前にあなたの事情を教えて? このままではわたしたちも、どうすればいいのかわからないもの」
「父様がおっしゃったのです。王女様方のご婚約が事実なら、公爵家のひとり娘であるわたくしも、そろそろ身を固めるべきだと」
「ちょっと待って」
呆れてレティシアが言いかけると、そういう決め付けは1番キライなレイティアが怒った声を出した。
「それってあなたに結婚を強要しようとしたってことなの?」
「強要というか。婚約者を選ぶように言われただけです。明日……決めるようにと」
「「「明日っ!?」」」
3人がビックリして声を出す。
リアンは泣き出しそうな顔をした。
「そのために明日舞踏会がお城で開かれます。国1番と噂に高い吟遊詩人まで招いたとかで。父様はその舞踏会で公爵の後継に相応しい殿方を決めるようにと。わたくしの……婚約者として」
「「それがいやで家出してきたの?」」
尤もだと言いたげな声にリアンが泣き出しそうに頷く。
アベルはそこまで聞いて、ゴソゴソと懐を漁った。
「従兄さま? なにをなさっているの?」
レティシアが声を出す。
アベルはマジマジと取り出した招待状を見ていた。
「あら? その招待状は明日の舞踏会のための?」
「アル従兄さま……どういうことなの?」
レイティアににじり寄られて、ここ最近でこういうときのレイティアの怖さを知ったアベルは慌てて後退る。
「いや。国1番かどうかは別として、その招待された吟遊詩人って、どうやら俺みたいだなあ。アハハハハア」
「「従兄さまっ!!」」
ふたりに怒鳴り付けられて、アベルは否応なく部屋へと連行されていくのだった。
3人の少女がじっと一枚の招待状を睨んでいる。
差出人はリドリス公爵。
宛名はアベル殿、となっている。
まちがいなく吟遊詩人としてのアベルを招く招待状だった。
「どうしてわたしたちに黙っていらしたの、従兄さま?」
「どうしてって」
レイティアとレティシアの部屋に連行されたアベルは、否応なく彼女たちの取り調べを受けていた。
彼女たちにとっても親しい公爵令嬢リアンの婚約者を決めるための舞踏会にアベルが呼ばれていた。
それは見過ごせない事実だ。
リドリス公爵が前王の顔を忘れているとは思えない。
公爵は前王の時代にはまだ宰相ではなかったが、その頃から宮仕えをしていて、前王の側近的な立場にいた。
その功績が認められて宰相になった人物だ。
当然だがアベルの顔を見れば顔色を変えただろう。
ふたりにしてみれば絶対に報告しておいてほしかった事実だったのだ。
報告されていれば父王に頼んで、うやむやにできたのに。
父王にしてもアベルの素性が今明るみに出ることは避けたいはずだから、快く相談に乗ってくれたはずだ。
でなければアベルの自由意志で結婚相手を選ぶ、なんて悠長な意見は出せなかっただろう。
そのアベルが自分で素性を明かすような行動に出てどうするのかとふたりは言いたい。
問題の舞踏会が明日に迫っているというのも頭が痛い。
今から父王に頼んでも、どうにかできるかどうか、非常に危ういからだ。
責められたアベルはどこか遠くを見ている。
それがふたりには歯がゆかった。
アベルがまだ従兄としては振る舞ってくれていないことがわかるので。
「従兄さまっ。目を逸らさないで、わたしたちの目を見て、ちゃんと言ってっ。どうしてなのっ!?」
食い下がるレイティアをリアンが驚いた顔で見ている。
彼女の知っているレイティアは、こんなに感情過多ではなかったのだが?
「だって……普通の仕事だぞ? なんでそれを一々レイティアたちに相談しないといけないんだ?」
「普通の仕事って……従兄さま。相手は公爵よ? 宰相なのよ? 普通に考えて『普通の仕事』にはならないと悟ってほしかったわ」
「レイティア」
「そうね。公爵と従兄さまが顔を合わせる事態は、わたしが考えてもマズイと思うもの。姉様が怒るのも無理ないわ」
「レティシアまで……」
アベルが不満そうにいつも自分の味方をしてくれる少女の名を呼んだ。
「あの……」
「なにかしら、リアン?」
振り向いた3人にこの事態を招いた当事者でありながら、まだ話の流れのみえないリアンは怪訝そうに問いかけた。
「失礼ですがレイ様、レティ様。先程からなにを問題視されているのかがわかりません。どうして父様と彼が逢うのに問題があるのですか? 彼は普通の吟遊詩人なのでしょう? それは国1番かもしれませんが」
「それは」
年齢的に前王の顔を知らないらしいリアンを前にして、さすがのレイティアも言葉に詰まる。
「レイ。アルベルトはここか?」
そう言って呑気に入ってきたのは、この場の救い主とも言える国王ケルトだった。
「陛下っ」
リアンが驚いた声を出し、入ってきたケルトも呆気に取られて彼女を見た。
「どうしてリドリス公の令嬢がいるんだ?」
「お父さま。よいところへ参られました」
「レイ?」
「こちらへ」
レイティアに引き摺られて、リアンに聞こえないところまで連れていかれたケルトは、そこで詳しい説明をされた。
呆れた顔で甥の傍へ戻ってくる。
そうして膨れている彼の額を軽く小突いた。
「なにすんだっ!!」
国王相手でも態度の変わらないアベルにリアンが目を丸くする。
「わたしもレイティアに賛成だ。そなた……もうすこし自分のことを自覚した方がいい」
「そんなことを言われても」
「とにかくその明日に迫った舞踏会をなんとかしなければな。欠席はできないのか、アル?」
「できないよ。家まで迎えがくるんだ。さすがにそれをかわすのは……」
「なるほど。娘の婚約者を決める舞踏会とあって、公爵も国一番の吟遊詩人は欠かせないと判断したというところか」
「国一番ねえ」
「認めたくなさそうだが、実際にそなたは国一番の吟遊詩人で知られているぞ?」
「そうなのか?」
「貴族のあいだではそなたを招けるのと招けなかったのとで格の差が出るという噂まである」
「へえ。知らなかった」
アベルが驚いた声をあげると、ケルトは意外なことを指摘してきた。
「そなたとレティが出逢った日に、そなたが欠席した舞踏会があるだろう?」
「え? あるけど……それがなにか?」
「なにか? ではない。その貴族は今面目丸潰れで、社交界の恥さらし扱いだ」
「なんでっ!?」
飛び上がるアベルにケルトは呆れた顔になる。
「そのくらいそなたが出るのと出ないのとでは扱いが違うということだ。もちろん招待して断られたら、その比ではないらしい。公爵も必死になるだろうな」
「知らなかった。俺……今まで招待されたときの金額によっては断ってきたんだけど。それって?」
恐る恐るといった声にケルトは無情に事実を告げた。
「それは……なんというか、欠席されるより扱いはひどくなるな。気の毒に」
しみじみした声にアベルは今まで足蹴にしてきた貴族たちに謝りたくなった。
そんなつもりは毛頭なかったのに。
「あの……陛下?」
「なんだ?」
振り向いた国王に公爵令嬢は勇気を振り絞って声を投げる。
「彼は一体どういうご身分の方ですの? 幾ら国一番の吟遊詩人とは申せ、陛下や王女様方が関わられているなんて不自然すぎます」
「そのことはいずれ報告する日もくるだろう。今は打ち明ける気はない」
「陛下……」
「とにかく明日に迫った舞踏会をなんとかしなければな。そもそも公爵家から迎えがきてしまっては、レイたちの素性までバレかねない」
「やはりそう思いますか、お父さま?」
「公爵家の使いの者が王女たちの顔を知らないということはないだろう。さすがにそれはマズイ。ましてやそこに令嬢がいたとなっては醜聞になる。どうするべきか」
悩んでいたケルトは、やがて顔をあげた。
次々と指示していく。
アベルはそれを守りたくはなかったが、だったらバレてもいいのかと脅されて、仕方なく彼の提案を受け入れることにしたのだった。
そして舞踏会当日。
「レイティアっ。もう無理っ」
真っ赤な顔をしたアベルが布団から顔を出した。
熱湯を注ぎ込んで冬場しか使わない湯タンポを大量に作っていたレイティアは無情にも彼を布団に逆戻りさせる。
「うわっ」
「諦めてくださいな。まだまだ入れないと」
「今いつだと思ってるんだっ!? 暑いっ!!」
「暑くないと意味がないでしょう? 我慢なさってください」
無情に言い放ってレイティアはまだまだ湯タンポを放り込んでいく。
その度にアベルの顔が赤くなっていった。
季節は真夏。
真夏に湯タンポ……地獄だなとアベルは思う。
冬なら気持ちいい湯タンポも、場違いな真夏に使用されると一種の凶器だ。
気が遠くなる。
この係をレイティアがやっているのは、レティシアはアベルに甘いので、ここで彼が泣きついたら許してしまうだろうという彼女の読みのせいだった。
これならレティシアの方がよかったと、アベルがしみじみと感じたのは言うに及ばず。
それを読み取ってしまうレイティアって怖いと、今更のように感じていた。
ケルトの出した案というのは、まず彼自身が公爵を宮廷に呼び出す。
令嬢の婚約についての真偽を問い質すためだ。
そうして王女たちの婚約の事実がないことを明かす。
その上で令嬢に婚約を強制することをやめさせる。
そこまでが彼の仕事。
ここからがアベルたちの仕事なのだが、まず公爵家からの使いには、アベルが風邪をひいて喉をダメにしたと告げる。
話すことすらできないと。
それを証明するために使われたのが、この大量の湯タンポ。
使者が確認したいと言った場合に、アベルが熱さえ出していないのでは疑われる。
それを回避するため、彼の体温をあげるために使用されているのだった。
もちろんこのニセ風邪の事実を知っているのは、レイティアたち事情に通じた者だけ。
真実味を増すためにフィーリアたちにも、アベルは夏風邪をひいたことにしろ、と指示されている。
アベルは最初はじっと我慢した。
だが、あまりの暑さに我慢できずに叫んだのだが、返ってきたのがレイティアの無情な反応だったというわけだ。
黙々と湯タンポを作っている横顔を見て、アベルは何気なく思う。
怒ってるなあと。
舞踏会に招待されていることを明かした辺りから、レイティアの、いや、レイティアだけじゃない。
レティシアまでどこか落ち込んだ顔をしている。
どうしてそんな顔をさせてしまうのか、アベルにはわからない。
男の仕事だから黙っていただけだ。
それがそんなにいけないのだろうか?
疑問が視線に出たのか、レイティアが振り向いた。
「従兄さま?」
「公爵の舞踏会に招待されていることを隠していたのって……そんなに悪いこと?」
「ですからそれは申し上げました。従兄さまのお立場的に」
「そうじゃなくて」
「従兄さま?」
「レイやレティ的に、だよ」
黙り込んでしまうレイティアに「やっぱりな」と微笑む。
「怒ってただろ?」
「……怒ってなんていません」
「怒ってたよ、ふたりとも。俺はそういうのには敏感なんだ」
人の顔色を読みながら生きてきたから、感情を読み取るのも得意。
そう言うとレイティアは痛ましそうな顔をして、そうして諦めたのか理由を言ってくれた。
「従兄さまは人の感情を読み取るのが得意だなんておっしゃるけれど、ちっとも得意じゃないわ」
「ひどいな。人の取り柄を全面否定しなくても」
「だっていつまで経っても、わたしたちを従妹だと認めてくれないんですもの」
「レイティア……」
「伯父様そっくりなお顔立ち。お父さまにも似ている気性。そこまで親族を意味する特徴を持っていても、従兄さまはまだわたしたちを従妹だとは認めてくれていません」
「そんなことは」
「認めてくれていたら王位を継ぎませんか、普通は?」
まっすぐ目を見て言われて、アベルは言い返すべき言葉を失った。
たしかに王位を継ぐことを認めないということは、レイティアたちにとっては自分たちとの血の繋がりを否定されているように感じるのかもしれない。
そう気付いて。
「レイティアはそれでいいのか?」
「え?」
「レイが女王として相応しくなるために頑張っていたことは、俺は知ってるつもりだよ。そういう噂には敏感だったからね。吟遊詩人として」
「それは昔のことです。元々王位継承権だって正確なものではなかったし。従兄さまが気にされるようなことは……」
「レティが驚くほど世間を知らないのだって、権謀術数に疎いのだって、レイティアが大切に庇ってきたからだ。汚い現実は自分が受けて妹を守ってきた。
それだって自分が女王になって、妹には苦労させまいとしたからだ。そういう噂ならよく入ってきたよ。一吟遊詩人の耳にもね」
「それは……」
たしかにそれは事実だった。
レイティアは双生児でありながら、レティシアのことは過保護に扱ってきた。
それは妹に苦労させたくなかったから。
王位継承にはそれだけの痛みが伴うから。
それは父を見ていて知った。
でも。
「だからといって従兄さまに身を引いてほしいわけでもありません」
「……強いな、レイティアは」
「そうでしょうか? わたしは事実を言っているだけです。あなたしか王位を継げないんです。どうしてそのことをもっと真剣に考えてくださらないのですか?」
「ごめん。そのことはもうちょっと時間がほしい」
目を伏せるアベルにレイティアもなにも言えなかった。
彼がすんなり「わかった」と言えない事情は彼女にもわかるので。
幾ら父がその不安を解消してやるからと約束しても、彼から不安は消えないだろう。
わかるから黙って湯タンポ作りに戻った。
それから午後になって慌ただしく公爵家から使いがきた。
公爵自身が急なお召しに驚いている状態なのだ。
それでも前々から決まっていて招待状も出している舞踏会を中止にはできない。
しかし肝心の公爵令嬢が行方不明。
使者の混乱はだれの目から見ても明らかだった。
あからさまなアベルの仮病にも気付けないほど。
実はアベルは使者がきた頃には気絶していた。
暑すぎてダウンしたのだ。
そのときはレイティアは心配になって、アベルを揺り起こそうとした。
しかしこの状態で彼の意識があったら、使者の前でボロを出しかねないと気付いて、その場は我慢した。
公爵側の急激な事情の激変に加えて、登場できないと格の違いまで噂されてしまう国1番の吟遊詩人の急病である。
使者は慌てふためいて公爵家の城に戻った。
それを見届けてレイティアたちは慌ててアベルの寝台から、大量の湯タンポを取り出しはじめた。
「姉様っ。湯タンポはまだあるのっ!?」
「まだまだあるわっ。どうしましょうっ。わたしったらつい入れすぎたかも」
泣き出しそうなレイティアが次々と湯タンポを取り出していく。
王女である彼女たちには、殿方の布団を捲りあげるなんて知識はないので、当然手探りだ。
「あの……レイ様、レティ様。湯タンポを取り出す前に、とりあえず布団を脱がせてあげた方がいいのではないでしょうか?」
恐る恐るリアンが口を挟む。
アベルの尋常じゃない汗に怯えたのだ。
どこまでが自分の事情かはわからないが、彼がこんな状態にされたのにリアンも絡んでいるのだし責任を感じて。
「え?」
「それもそうね。でも」
どちらもが赤くなって動かない。
3人とも深窓の令嬢なので、その一歩が踏み出せなかった。
そこへ声が響いた。
「うわあ。何事!?」
「フィーリア様!!」
「お願い!! アベルさんの布団を脱がせてください!!」
そっくりな顔の少女に泣きつかれて、フィーリアが慌ててアベルに近付いた。
「お兄ちゃん!! 生きてるーっ!?」
ババッと布団を捲り上げて、フィーリアは汗だくなアベルの身体を揺すった。
思わず感心する3人である。
自分では考えられない行動だ。
その勇気にただただ脱帽。
そう思ったときだった。
リアンの目に彼の左腕が飛び込んできた。
(あの服の下に隠されている物は腕輪?)
大量の汗のせいで服がじっとりと濡れて、その下に隠された物の形が露になっていた。
模様とか、そういったものは見えないが、かなり大きな腕輪をしているようだった。
「うわっ。すごい汗っ。服も着替えなきゃっ」
フィーリアがテキパキとアベルの服を脱がせていく。
レイティアとレティシアは慌てて背中を向けた。
リアンも背中を向けようとして凍りつく。
脱がされた服の下。露になった左腕。
そこにある物を見て。
「なんて見事な腕輪なの」
感心するリアンの声にレイティアがギョッとして彼女の腕を引いた。
「リアンっ。見ないでっ」
「レイ様?」
「殿方の着替えを覗くなんて淑女としてやってはいけないことよ?」
「すみません」
謝って背中を向けたが、リアンの脳裏から一瞬だけ垣間見た腕輪が消えることはなかった。