第二章 王位継承権の行方



 第二章 王位継承権の行方



「そうか。レティがそんなことを」

 宮廷に戻ってきて1番に父ケルト王に妹姫の現状を報告したレイティアは、玉座に腰掛けた父王が面白そうな顔になるのを黙って見ていた。

「あの娘も大きくなってきていたのだな。わたしも昔などはよく王都に飛び出しては遊んでいたものだ。宮廷で得られるものなど、ほとんどないに等しいからな」

 そのお忍びのときに今の妃と出逢い結婚した強者である。

 しかし両親から強い反対にあい、ほとんど勘当同然に家を飛び出したという経歴をもつ国王だ。

 兄である前王が急死しなければ、たぶん彼が宮廷に戻ってくることはなかっただろう。

 王都で慎ましやかに母と暮らしていたと聞いている。

 前王が亡くなったとき、跡継ぎがいないという理由から、臣下たちが父を捜し始めたらしい。

 しかし野心家がそれを放置するわけもなく、父を名乗る者が5人も現れたという。

 どうやって第二王子だと証明されたのか、レイティアは知らないが。

 父が第二王子だと認められた後で、どうして平民である母を王妃として迎え入れたか?

 それはそのときにはすでに母と父のあいだには、レイティアたちが生まれていたからだ。

 母の出自はともかく父の血を引いているなら、レイティアたちは立派な父の跡継ぎ。

 だから、渋々母のことを認めたと聞いている。

 そういえば……とレイティアは気になることを思い出した。

「お父さま」

「なんだ?」

「前々から気になっていたのですが、わたしやレティが王位を継ぐに当たって、問題視されていることがあるそうですね? それは一体なんですか?」

 このことは小さい頃から何度も問いかけたが、父から答えが帰ってきたことはなかった。

 だから、このときも答えてくれると期待していたわけじゃない。

 しかし父は苦笑して答えてくれた。

「そうだな。もうレイも知ってもいい頃だろう。もっと近くに寄りなさい」

 父に言われてレイティアは玉座に近づいた。

「王位を継ぐに当たって問題視されているのは……これのせいだ」

 そう言って父が左袖をまくり上げた。

 そこには見たこともない腕輪がある。

 見たこともない……はずなのだが、どうしてだろう?

 どこかで同じ感じの物を見たことがあるような気がする。

「これがあったからわたしは行方不明の第二王子だと認めてもらえた。これはな、レイ。第二王位継承者の証だ」

「第二王位継承者の証? では第一王位継承者の腕輪もあるということですか?」

「そうだ」

「ですがわたしは……」

 レイティアにもレティシアにも、そういう腕輪はない。

 どういうことなんだろう?

「第二王位継承者までが、この証の腕輪を授けられる。これは当事者が3歳になったときに授けられるんだ。わたしも3歳のときに父上から授けられた。兄上も3歳のときに第一王位継承者の証である腕輪を授けられたと聞いている」

「その第一王位継承者の証の腕輪は今どこに? 伯父様にはお子様がいらっしゃらなかったから、伯父様がしていらしたのですか?」

 亡くなるまで前国王である伯父には子供がいなかった。

 その場合、世継ぎがいないので、当然だが伯父がしていなければならない。

 しかしこの問いには父はかぶりを振った。

「お父さま?」

「不思議なことに兄上はこの腕輪を所持していなかった。この世にひとつしかない腕輪を」

「それはだれかに第一王位継承権を譲った後だったということですか?」

 驚愕する。

 それではレイティアたちはどうなるのだろう?

「そういうことになるな。兄上はだれかに第一王位継承権を譲った。それが紛れもない事実だ」

「それでわたしたちの王位継承を認めない臣下がいるのですね」

「第一王位継承権を譲られたのが事実でも、それがだれなのかは不明だし、早急に国王は必要だ。だから、わたしが国王になるのも反対されなかった。
 だが、あれから15年。そのときに3歳だったとしたら、最低線で18歳。もしかしたらもう成人しているかもしれない。第一王位継承者はな。だから、臣下たちはレイたちの即位を認めないんだ」

「しかし伯父様にはお子様がいらっしゃらなかったのでしょう? ご自分のお子様以外に王位継承権を譲るなんてこと……あるんでしょうか?」

 そこが問題なのだ。

 幾ら前王から正式に継承権を譲られていても、血の繋がりがないならそもそも王位は継げない。

 血統はなにより重視されるものだからだ。

「問題はそこなんだ。この腕輪はな、王家直系の血を引いていないと、そもそも受け継げない」

「え?」

「王家直系の血を引く者以外が、この腕輪を身につけようとしたら、全身黒焦げになって死んでしまうんだ」

「それでは?」

「男か女かはわからないが、兄上には子供がいたということだろうな。尤も。兄上の妃だった方は兄上より早くに亡くなられているから、今では確認のしようもないが」

 ケルトが宮廷を去った理由のひとつに政争が挙げられる。

 当時、宮廷内はかなり荒れていた。

 もし兄に子供がいても、その子を派手にお披露目したりはできなかった可能性が高い。

 兄の急死も暗殺の噂があるのだ。

 徐々に毒を盛られたから死んだという噂はケルトも聞いている。

 だから、ケルトは王になってから、国の安定に力を注いだ。

 兄が果たせなかった夢を果たしたかったのだ。

 あの当時、もしケルトが兄の傍にいたら、兄は死ななくて済んだかもしれない。

 それはケルトを今も苦しめている後悔である。

「でも、お父さま。ひとつだけ疑問が」

「なんだ?」

「3歳の頃から、そんなに大きな腕輪をしていたら、失くしたりしませんか? そもそも身体が大きくなっていくときに困りません?」

 首を傾げる娘にケルトは笑う。

「これは魔法の腕輪」

「魔法の腕輪?」

「よく見てみなさい。どこにも留め具がなければ、溶接の跡もないだろう?」

「そう言われてみれば……」

 不思議な腕輪だった。

 どこにも繋ぎ目がなく、また留め具もない。

 どうやって身につけているのか、まるでわからない。

「しかもな? この腕輪は持ち主の成長に合わせて大きくなるんだ」

「大きく? まさか」

 レイティアが驚いた声をあげると、ケルトは可笑しそうな顔になる。

「事実だ。わたしが授けられた頃は、この腕輪はもっと小さかった、わたしが成長するとそれに合わせて大きくなったんだ」

「信じられない」

「これは継承しようという意志がなければ外せない。次の者に継承するときにだけ取り外しができるんだ。
 だから、兄上から腕輪が消えていた以上、継承権を譲るのは兄上の意志だったという証拠になる」

「そういうことですか。それならわたしたちの王位継承が承諾されない理由もわかります。臣下たちにしてみれば、正当な世継ぎは他にいるのでしょうから」

 レイティアはため息まじりに呟く。

「しかし今ではだれも見たことがないのでしょう? 第一王位継承権の腕輪は。それでそれらしき物を身につけていたからといって、本物かどうか区別できるのでしょうか?」

「そうだな。判断する材料はやはりその特殊性だろう」

「特殊性?」

「魔法の腕輪だと言っただろう? 幾らそっくりに造っても、同じ特徴を宿す腕輪というのは造れない。本人に譲ろうという意志がなければ取り外しができず、本人の成長に合わせて大きくなり、なおかつどこにも留め具がなく溶接の跡もない腕輪。複製が可能だと思うか?」

「確かに無理そうですね。お父さまはご覧になったことは?」

「ある。さすがに世継ぎの腕輪というか。それは見事な腕輪で華麗な装飾の施された腕輪だった。あれほどの腕輪は、わたしも持っていないな」

 国王でも持てないほど高価な腕輪?

 レイティアの脳裏にアベルの顔が浮かんだ。

 まさか、とは思う。

 確かに彼のしていた腕輪は孤児院育ちの青年には相応しくない物だ。

 だからといってすぐに繋げるのも無理があるだろう。

「お父さまがその腕輪を、わたしたちに譲らなかったのは何故ですか?」

「これを譲ってしまうと、ふたりが第一王位継承者ではないことを証明することになる。それは世継ぎ不在の今、政治的に困るんだ」

 確かに父がしているのは第二王位継承者の腕輪。

 それを譲り受けたということは、第一王位継承者、つまり世継ぎではない証拠になる。

 それは世継ぎ不在という形になっている現在、政治的に避けた方が無難だ。

 正当な王女であるレイティアたちが、第一王位継承権を持っていないとなると、邪な考えを持つ臣下たちが暗躍しないとも限らない。

「しかしそれではいつまでもお父さまの後継者が決まらないのでは?」

「わたしとしては兄上に本当に子供がいたのなら、その子に王位を譲りたいのだ。レイたちにはすまないが」

 父がどれほど今は亡き兄を慕っていたかは、レイティアも知っている。

 聡明な国王だったようで、父は兄と対立したくなくて、宮廷を去ったとまで言っていた。

 だから、その兄に子供がいたのなら、その子に王位を譲りたいと願うのは、ごく当たり前に思える。

 なによりも前王の嫡子なら王位を継ぐ権利がある。

 しかしそれはレイティアには歓迎できないことだった。

 レイティアは今まで将来、女王になるために頑張ってきた。

 妹を巻き込むまいと過保護に育ててきたのも、自分が女王になって妹には苦労をさせまいと思ってきたからだ。

 たしかにその重責から解放されるのは嬉しい。

 しかしそれが確定してしまうと、これまでの苦労はなんだったのかと、そう問いたい気分になるのも事実だった。

「そういえばお父さま」

「なんだ、レイ?」

「伯父様って素敵な方だったんですね」

「いきなりどうした?」

 苦笑する国王にレイティアは微笑む。

「いえ。レティを迎えに行ったときに、伯父様にそっくりな青年と出逢って。すごく素敵な方だったので、伯父様もとても素敵な方だったのでしょうねと思って」

「兄上にそっくり?」

「そういえばとても見事な腕輪を隠していらっしゃいました。あれほどの腕輪にはお目にかかったことがありません」

「……」

「なんだかご本人は知られたくないご様子でしたが」

「その人は……どこに? どんな青年だっ!?」

 突然、身を乗り出した父王に驚きつつレイティアは答えた。

「孤児院を兼ねた教会に身を寄せておいでですわ。どうも小さい頃に孤児院に預けられたとかで、ご本人もそれ以前のことは憶えていらっしゃらないようです。院長の神父様がそうおっしゃっていましたから。とても聡明な青年でした」

「歳は?」

「たしか……18だとか。わたしがつい『伯父様?』と呼んでしまったら、まだ18だからおじさんと呼ばれる歳じゃないとかおっしゃっていましたし」

「まさか……」

 信じがたいと呟く声に、レイティアは不思議そうに父王を見ていた。




 レティシアはあれ以来、孤児院の手伝いをして日々を過ごしていた。

 出逢ったときにアベルに問いかけた孤児院の生活を成り立てる方法については、すこししてから理解した。

 アベル本人が吟遊詩人として身を粉にして働いて、孤児院や教会の生活を成り立てているのだ。

 彼に言わせれば、それがこの歳になるまで育ててくれたシドニー神父への恩返しだという話だった。

 アベルの歌声は素晴らしく、ふと耳にしただけで聞き惚れる。

 そこまでの腕前を持っていなければ、とても現状維持できなかっただろう。

 普通に家庭を支えるのだって大変なのに、アベルが支えている家計は孤児院に教会だ。

 普通の稼ぎでなんとかなるわけがない。

 それをなんとかしてしまうのがアベルだと、フィーリアが自慢していた。

 フィーリアがシスター見習いなんてできるのも、アベルのおかげだと彼女はとても誇らしそうに言っていたものだ。

 シスターになるには専門の学校に通わないといけないのだ。

 つまりシスターになるにもお金がかかるということである。

 それを可能にしているのもアベル、という話になるのだ。

 彼がいなければこの孤児院も教会も、そしてフィーリアの将来も、すべて成り立たない。

 お金はたしかにないかもしれない。

 レティシアからみれば、彼らの食事風景や着ている服などは、とても質素だ。

 だが、そこにはお金では買えないものがある。

 アベルの人柄を知るほど、レティシアは彼のことが気になりだしていた。

「エルさんはどうして貴族がキライなんですか?」

 教会の掃除をしながら、ふとレティシアは気になっていたことを問いかけた。

 一緒に掃除をしていたエルがふと手を休める。

「どうして……ねえ。一言で言えば貴族がいても、なんの役にも立たないからよ」

「でも貴族がいないと、この国は成り立ちません。貴族たちが政を動かしているのだし」

「政で私腹を肥やすのも貴族だしね?」

 エルに皮肉を言われてレティシアは黙り込む。

 そういう貴族が多いのも事実だったので。

「前王だって貴族たちが暗殺したって専らの噂じゃない。あれほど国のために尽くしてくれた王様を」

「え? まさか」

 まるで知らされていない噂に、レティシアは耳を疑う。

 彼女は箱入り娘なので、こういう噂は耳に入らないからだ。

「あたしはまだ子供だったけど、噂でよく聞いたわ。貴族ではなく平民のことを考えてくださる王様を煙たがって、臣下たちが殺したって」

「嘘」

「貴族たちは平民のことなんて、なんとも思ってないの。平民に味方すれば王様だって殺すほどよ?」

 信じないとかぶりを振るレティシアに、エルが言い返そうとしたとき、教会の扉が開いて声が響いた。

「エル姉、裏庭の花、摘んでいい?」

「裏庭の花?」

 レティシアが呟くとエルは振り向いて笑った。

「またお墓参りに行くの、アベル?」

「ああ。月命日だしさ。好きな酒でも供えてやりたくて。花は必需品だろ?」

「摘んでいいけど丸坊主にはしないでよ? アベルはすぐにたくさん摘むから」

「わかってるって」

 そのまま出ていこうとするアベルの背中に、ここには居ずらかったレティシアは慌てて声を投げた。

「アベルさんっ」

「なに?」

 振り向いたアベルが問いかける。

「わたしも行っていいですか?」

 必死なその様子とこの場の妙な雰囲気に気づいて、アベルはまた揉めたなと察する。

 レティシアの素性には気づいていなくても、薄々貴族だと思っているエルは、彼女とは反りが合わない。

 そのせいでレティシアが居ずらくなることが多いのだ。

 またそれかと納得して声を出した。

「いいけど。ただの墓参りだから退屈だと思うよ」

「構いません。お墓参りは大切だから。わたしも伯父様や伯母様のお墓参りは欠かさずにやっているし」

「ふうん。だったらおいで。連れていくから」

「ありがとうございます」

 明るい笑顔で答えるレティシアがくるのを待って、アベルは出ていった。




 裏庭で花を摘んだアベルは、街の酒場ですこし高級な酒を買うと、街外れに向かって歩き出した。

 レティシアが案内されてきたのは小さな墓だった。

 墓地にあるのかと思っていたが、墓があったのは街外れの丘の上である。

 ポツンと建っている粗末な墓。

 刻まれた名はクレイ。

 どこかで聞いたような? と、レティシアは首を傾げる。

「クレイ将軍。アンタが好きな酒を持ってきたよ。飲んでくれよ」

 そう言ってアベルが酒をカップに注ぐと墓の前に置いた。

 クレイ将軍と言われ、レティシアはようやくどこで聞いたのか思い出した。

 数年前に亡くなった近衛隊の将軍だ。

 父の警護もやっていた腕の立つ将軍で、父も彼を信頼していた。

 どうしてアベルが?

「レティシアなら知ってるかな。クレイ将軍のこと」

「はい。お知り合いだったんですか?」

「俺を孤児院に預けたのがクレイ将軍らしいんだ」

「え?」

「両親を亡くした俺をクレイ将軍には育てられないという理由で、孤児院に預けてくれたらしい。つまり血の繋がりはないんだ」

「そうだったんですか」

「育てられないのはよくわかるよ。近衛隊の将軍だ。小さな子供を育てている余裕なんてなかっただろうし、クレイ将軍は生涯独身だったから尚更だよな」

「そうですね。お親しかったのですか?」

「あー。剣術は叩き込まれたかな?」

 だから、アベルは見かけより逞しいのかと思って、レティシアは赤くなる。

 アベルは顔つきだけなら美青年で通るし、荒事とは縁がなさそうだが、実際には少々の戦闘なら軽く勝ってしまうくらいの腕前の持ち主だ。

 腕力もあって腕力自慢の男を倒してしまうほど。

 初めてそんな一面を目にしたときは、あまりに外見と似合っていないので(おまけに職業は吟遊詩人だし尚更だ)ビックリした覚えがある。

「アベルさんは将軍を慕われていたのですか?」

「……今はね」

「今は?」

「小さい頃は俺の両親を知っているはずのクレイ将軍が、俺にはなにひとつ教えてくれないことで、よく対立していたから」

「アベルさん」

「両親の名を知りたくてケンカになったこともあった。どうして教えてくれないんだって」

 アベルの素性を知る唯一の人。

 なのに彼はアベルにはなにも教えてくれなかったのだ。

 別に大層な望みを持っていたわけじゃない。

 ただ普通に両親の名を訊ねただけだ。

 亡くなっているのだから知ったところで意味はない。

 アベルはそう思って問いただしたが、将軍が教えてくれることは遂になかった。

 一時は恨んで反発もした。

 でも、将軍は死ぬまでアベルのことは見放さなかった。

「ズルいよなあ。死なれてしまったら、いつまでも恨めない」

「アベルさん」

「今はこれでよかったと思ってる。俺は自分の境遇を不遇だとも不幸だとも思ってないから」

 そう言ってアベルは地面に座り込むと竪琴を奏でだした。

 クレイ将軍が好きだった歌を歌い出す。

 レティシアは目を閉じてその歌声に聞き入った。




 娘を連れて馴染みの将軍の墓に向かっていたケルトは、ふと眉を寄せる。

「この歌声は……」

「素敵な歌声。まるで天使のよう」

 レイティアはうっとりと目を細める。

「天使、か。兄上が聞いたら、なんて思ったかな」

「どういう意味ですか、お父さま?」

「いや。兄上の歌声にそっくりだから、ついな」

 苦笑する父が伯父を思い出していることがわかるので、レイティアは口を噤むしかなかった。

 やがて目の前に広がった光景にケルトは息を呑んだ。

「兄上」

 若かりし頃の兄がそこにいる。

 地面に座り込んで昔よく歌ってくれた歌を歌っている。

「あら? アベル様……?」

 レイティアの呼び声にアベルがふっと顔をあげる。

 同時に竪琴の音も消え歌声も途切れた。

「姉様っ。お父さままでっ」

 レティシアが驚愕の声を出す。

 アベルは慌てて立ち上がった。

「ということは王様? おいおい。冗談だろ」

 呟く声も兄によく似ている。

 記憶の中の兄そのままの姿にそのままの声。

 歌声まで同じ。

 そんな偶然あるのだろうか。

 夏だというのに彼は長袖を着ている。

 ケルトのように。

 汗ばんだその服の下に腕輪らしい物を隠しているのがうっすらと見える。

 確かめたい。

 そんな衝動に駆られていた。

「レティ。元気にしていたか?」

 アベルを視界に入れながら、ケルトはそう言った。

 レティシアは嬉しそうに頷く。

「お父さまはどうしてここへ?」

「クレイに報告したいことがあって墓参りにきたんだが、まさか先客がいるとは思わなかったな。クレイとはどういう関係だ?」

 アベルは答えられなかったが、レティシアがさっき聞いたばかりの、彼の生い立ちについて父王に話して聞かせた。

「クレイから本当になにも聞いていないのか?」

「教えてくれなかったんだ。それをどうしろって?」

「いや。嫌味ではないんだが。名は?」

「……アベル」

 答えるまでに間が空いたことに気づいて、ケルトはアベルの空色の瞳を覗き込んだ。

「本当の名は別にあるのだろう?」

「……」

「お父さま?」

「どういうことですか?」

 娘たちの問いかける声にケルトは、自分の推測を打ち明けた。

「おそらくアベルというのは通称だ。彼には本当の名は別にある」

 それはケルトの体験からくる確信だった。

 疑っていることが事実なら、彼は自分の本当の名は知っているはずである。

 腕輪に刻まれるからだ。

 持ち主の名が。

 持ち主が代わる度に刻まれる真実の名。

 それだけはごまかしがきかない。

 アベルはそっぽを向いていたが、レティシアとレイティアの問いかける視線に負けて打ち明けた。

「アルベルト・オリオン・サークル。俺が知っているのはそれだけだ」

 名付けからして、やはり普通の身分ではなかったらしいと、レイティアは納得する。

 ケルトは今聞いたばかりの名を口の中で繰り返した。

(アルベルト・オリオン・サークル。それが略称だとしたら、おそらく続くのはディアン。正式名はアルベルト・オリオン・サークル・ディアン)

 世継ぎはサードまで名付けられるのが決まり。

 彼の名付けが、それに従っているとしたら間違いない。

 彼は兄の、前王の世継ぎなのだ。

 後は腕輪を確認できれば動きようもあるのだが。

「何故名を隠していた?」

「平民には聞こえない名付けだし、普段名乗るには目立ちすぎるからって……クレイ将軍がアベルと名乗れって」

(つまりクレイは知っていたわけだ。彼が兄上の子であると。いや。もしや世継ぎと承知で王都に匿ったのか? 彼を護るために)

 孤児院に預けたのも、その後何度も様子を見にきていたのも、そして何度問われても両親の名を教えられなかったのも、彼が兄王の子だとしたら不思議ではないのだ。

 彼が孤児院に引き取られたのが15年前だとすると、当時はケルトが即位したばかりだが、前王は賢王で知られていたので、その名が知られていないということは考えられない。

 つまり素性を知らずに育っていようと、彼には両親の名は言えないということになるのだ。

 言ってしまえばそれが前国王であると彼にもわかるだろうから。

 彼が育ってきた背景はすべて彼が生来の世継ぎであることを示している。

 まさか彼を預けたのがクレイ将軍だとは。

 謀叛と受け取るのは簡単だが、この場合、兄に忠誠を誓っていたクレイ将軍だ。

 彼の身を護るために匿ったと見るべきだろう。

 そのくらい当時の政争は酷かったから。

 3歳の幼子など簡単に殺されてしまう。

 なにしろ彼は賢王と言われた前王の嫡男。

 その血筋の正統性と父王の偉大さ故に、彼を疎ましく思う者はきっと少なくない。

(3歳か。幼いな。そんなに幼ければ街に避難させるのも無理はない。クレイらしいというべきか)

 堅物と言われていたクレイは、王家に対する忠誠も半端ではなく、それ故にケルトも彼を信頼し身辺警護を任せていたくらいだ。

 それだけに兄王の子供の存在を隠していたのが事実なら、感心もするが反面、教えてほしかったとも思う。

 すべてを墓の中に持っていくのは、やはり反則だと感じてしまうものだ。

 もしだれも気づかなかったら、どうするつもりだったのだろう?

 この現状ならその確率も高かっただろうに。

「レイから聞いたが、それは見事な腕輪をしているそうだな?」

 突っ込まれたくないことを突っ込まれ、アベルは答えに詰まる。

「わたしですら持てないだろうという腕輪に興味がある。一度見せてはくれまいか?」

「……悪いけどこの腕輪は人様にお見せするような代物ではないんです。王様のご命令でも従えない」

 そっぽを向いたまま、アベルは素っ気なく言い放つ。

 その様子はケルトには兄王に似てみえた。

 兄王も優しげな容貌に似合わず、一度言い出したら退かない一面があった。

 顔立ちだけではなく、彼は真実の意味で兄王に似ているらしい。

 そう思うだけで嬉しくなる。

 時が逆流して兄と逢っているようで。

「王として無理強いしたいわけじゃない。だが、意味もなく見せろと言っているわけでもないんだ。ここはわたしの言うことを素直に聞いてくれないか? 王として無理強いはしたくないからな」

「どうしてそんなに俺の腕輪なんかに興味があるんだ?」

「では訊くがだれから譲り受けた腕輪か、それともどこでどうやって買った腕輪か、そなたに説明できるのか?」

「それは」

 言葉に詰まる様子を見て、ケルトはやはり彼にも覚えのない頃から、所持しているのだと見抜けた。

 だから、手に入れた過程や謂れを訊ねられても答えられない。

 そういうことなのだろう。

 そして疑っていることが真実なら、腕輪が普通の品ではないことは彼も承知しているはず。

 だから、尚更答えられないのだろう。

「もしかすると普通の腕輪ではないのではないか?」

 この問いにも彼は答えない。

 ただ頑なに顔を背けているだけで。

「とにかく見せてもらう」

 同意をもらうのを諦めて彼に近づこうとしたら、彼は警戒するように身を遠ざけた。

「わたしが王であることは、そなたも理解しているはずだ。逆らっても意味がないとは思わないのか?」

「いやがっているのを無理に確認することが王様のやり方なのか?」

 嫌悪を瞳に浮かべて彼が言う。

 兄そっくりの顔で、そんな表情をされるのは、さすがに堪えた。

 娘たちも心配そうに見ているので、黙って左袖をまくりあげた。

「まあ驚いた。お父さまも腕輪をなさっていたのですね」

 レティシアがそう言えば、これまで自分たちにすら秘密にしていた父が、急にそれを明かしたことで、レイティアは怪訝な気持ちになる。

 アベルも自分の腕輪とよく似た腕輪を見て息を飲んだ。

「このとおりわたしも腕輪をしている。この腕輪と対になった腕輪をわたしもずっと探していたのだ。
 レイティアから話を聞いて、そなたのしている腕輪こそが、そうではないのかと疑っている。
 だから、確認したい。協力してくれないか? そなたにとっても悪い話ではないはずだ」

「まさかお父さま……彼がそうだと疑っていらしたのですか?」

 レイティアが驚いた声を出す。

「まだ確信があるわけじゃない。ただ彼の容姿と持っている腕輪。その類似点がどうにも気になる。わたしの思い過ごしなら、彼には迷惑な話かもしれないが」

 見えない話にアベルは眉をひそめる。

「なんの話をしてるんだ?」

「詳しい事情を知りたければ腕輪を見せてくれ。思い過ごしの可能性がある以上、今はなにも言えない」

 ケルト王は真剣なようだった。

 アベルは一度は見せようかと思ったが、もしケルト王の疑惑が当たっていたら、自分の平穏な暮らしを根底から崩されそうだと気づいて、最終的には思い止まった。

 いつまで経っても腕を差し出さない彼にケルトは不安になる。

 誠心誠意を尽くしたつもりだが、彼には通じていないのだろうが、と。

「アルベルト?」

 彼の本名らしい名を呼んでみる。

 だが、彼は違うというようにかぶりを振ってみせた。

「俺はアベルだ。アルベルトじゃない」

 そのまま背を向けようとする彼にケルトは慌てて声を投げた。

「真実から逃げ出すのか? 真実の自分から」

「王様がなにを知っているのかは知らない。でも、俺はアベルのままでいたいんだ。俺の平穏な暮らしを壊さないでくれ」

「偽りの平穏だ」

 冷たく言い返されてアベルが立ち止まる。

 しかし振り向くことはなかった。

「そなたが真実わたしが疑っている素性の者なら、そなたにはそなたにしかできないことがある。それから逃げ出して偽りの平穏に浸っている。
 そなたの両親はそれを喜ぶだろうか? その腕輪がわたしの知っている腕輪なら、そなたにそれを譲ったそなたの両親は、決してそんなことは望んでいない」

 顔も名前も存在すら知らない両親の名を出されて、アベルは理不尽な怒りに支配された。

「子供を捨てた親がなにを望むって? そんなものに応える義務は俺にはないね」

「捨てたわけではない!!」

 感情的に言い返してきたケルト王にアベルがようやく振り向いた。

「生きたくても生きられなかった苦しみを、大事な子供をおいて死ななければならない辛さを、そなたがわからずにだれがわかってやるのだっ!?」

「まるで俺の両親がだれなのか知っているみたいな口振りだな」

「確実な話ではないかもしれない。だが、その腕輪がわたしの知っている腕輪なら、そなたの両親のことは、わたしがだれよりも知っている」

 アベルの両親を国王が知っている。

 アベルの両親はそういう身分の人なのか?

「そなたにそなたの両親のことを話してやりたい。だから、そなたがしているという腕輪を見せてくれないだろうか」

  会釈程度ではあったが、ケルト王はたしかに頭を下げた。

 そのことにアベルだけでなく、彼の娘たちまで驚く。

「頼むから見せてほしい。そなたがしているという腕輪を。人違いなのか本人なのか、わからないままでいるのは、わたしにとっても辛いのだ」

「「お父さま」」

 ふたりの驚く声を聞きながら、アベルは諦めて元の位置に戻った。

 このまま無視して孤児院に帰ったら、ものすごく後味悪そうだったので。

「これでいいのか?」

 アベルはそう言って左袖をまくりあげた。

 二の腕を覆うほどに大きな腕輪があらわになる。

 唐草模様を用いていて幻獣を刻み込まれた華麗な腕輪。

 それに使用されている紋章は、ケルトには見慣れたものだった。

 代々の国王だけが受け継ぐ紋章。

 元々が第二王子であったがために、ケルトには受け継げなかった正当な王家の紋章。

「ああっ。やはりっ」

 感極まってケルトの瞳に涙が浮かぶ。

「あの……?」

 アベルが強ばった声を出したとき、ケルト王の両腕がアベルの身体を包み込んだ。

「アルベルト。よく……よく生きていてくれた!!」

 震える腕に抱かれながら、アベルは困った顔を向けていた。
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