第一章 教会と孤児院





 第一章 教会と孤児院





「踏んだり蹴ったりだ。ついてない」

 連れに聞こえないようにアベルは愚痴る。

 噴水に突き落とされた後、アベルは唖然として相手をみたが、相手はそれは可愛い女の子だった。

 長い金髪を背中でひとつに括っていて、可愛いエプロンドレス姿。

 一見して良家のお嬢さんといった風情だった。

 アベルにぶつかって噴水に突き落としてしまったことでオロオロしていた。

 さすがに怒るに怒れず、アベルは気にしなくていいと笑ったのだが、どういうわけか相手の少女は気に病んで引かなかった。

 幾ら責任感が強い少女だったとしても、ちょっと異常なほどに。

 それでそれとなく探りを入れると、どうも少女は行くアテがないらしかった。

 ここで出逢ったのが救いとばかりに、アベルに懐いてきた次第である。

 呆れて突き放そうかと思ったが、その事情を聞いた瞬間、少女のお腹がなった。

 少女は赤くなってお腹を何度も叩いていたが、これには怒る気も失せてしまった。

 それで結局、孤児院まで連れていくことになっている。

 まあ元々が身寄りのない人々の集まりのようなところだ。

 ひとりやふたり増えたところで困る人はだれもいない。

 しかし相手のことをなにも知らない状態で連れていくのも変だ。

 さりげなく振り返る。

 少女は後ろをついて歩きながら、物珍しそうにキョロキョロしている。

 その様子から見て、絶対に行くアテがないなんて嘘だろ、と、アベルは内心で突っ込む。

 おそらく帰る家はあるのだ。

 あるのに帰る気がない。

 もしくは帰れない。

 そんなところだろうか。

 どこかの裕福な家のお嬢さんが、親とケンカして家出でもしてきた。

 そんなところかなとアベルは考える。

「きみ……名前はなんていうの?」

「名前……ですか?」

 突然話しかけられた少女は、幾分、身構えた様子をみせた。

「そう。名前。呼ぶ名前がないと不便だし。あ。俺はアベル。アベルっていうんだ」

「アベルさ……んですか。素敵な名前ですね」

 微笑んでそう言ってから、少女はすこし間をあけた。

「わたしはレティといいます」

 答えてきた少女にアベルは一瞬だけ視線を向けたが、なにも言わず「そう」と答えた。

 本名じゃないなと読み取りながらも。

「これから俺が帰る家は孤児院だがら、ちょっと騒がしいかもしれないけど、あんまり気にしないで」

「孤児院?」

「身寄りのない者が集まって暮らしてるところだよ」

 わからないかなと思って説明すると少女は赤くなる。

「そのくらいわかります。わたしにだって」

 ブツブツと口の中で愚痴っている。

 どうやら意味が通じたらしい。

「でも、それだとわたしが行ったら、ご迷惑ではないですか?」

「困ってる人を助けるのが教会の役目だから」

「教会? さっきは孤児院って……」

「教会が孤児院を兼ねてるんだ。この辺だと珍しいらしいけど」

「確かに珍しいですね。普通は孤児院と教会は別々だし」

 そこまで言ってから、少女は首を傾げた。

「それだと生活はどうやって? 教会への寄付金だけでは食べていけないのでは?」

「あー。うん。その辺は適当にね」

「適当……」

 適当でなんとかなるのだろうかと、少女の声に出ている。

 しかしそこまでの内情を明かす必要性を感じなかったので、アベルはなにも説明しなかった。

「とりあえず怒られる覚悟だけはした方がいいな」

「どうしてですか? あ。それはわたしが怒られるのはわかりますけどっ」

「いや。数少ない余所行きの服を汚したから、姉代わりのシスターに責められるんだよ」

 ここまで言ってアベルは肩を竦めてみせる。

「この服を買うのに、どれだけのお金が必要だったと思ってるってね。それにこの服は普通に洗濯できないし」

 カードが届く前に出掛ける準備を整えていたので、アベルはパーティー用の正装を着ていた。

 アベルにしてみれば、かなり奮発して買った服だ。

 それはエル姉も知っているので、この系統の服を汚すと、それはそれは責められる。

 本当に普通に洗濯できないらしくて、使う洗剤やら洗い方やら、すべて特注になるらしい。

 高価な服というのは扱いも特殊らしいのだ。

 その辺はフィーリアに任せきりだから、アベルは詳しくは知らない。

 だが、だからこそ、このことで責められると強く言えないのだ。

 フィーリアに迷惑をかけたと責められると言い返せないので。

 しかしアベルが思索に耽っているあいだ、少女はふしぎそうに首を傾げていた。

「せんたく?」

 意味を知らないと言いたげな声にアベルが振り返る。

 少女はそれは不思議そうな顔をしていた。

(もしかして?)

「洗濯……知らない?」

「あ。いえ。知っています」

「ふうん。知ってるんだ?」

 白々と問えば少女は必死になって頷いた。

 どうやらこれで誤魔化せると思っているらしい。

 思っていた以上の箱入り娘だ。

 これは早々に迎えがくるに違いない。

 それまで丁重に相手をすればいいかと、アベルは早速覚悟を決めた。

 こういうお嬢さんの道楽には、まともに相手をしないに限る。

 でないとエル姉がキレるし。




 教会がみえてきて隣に建っている大きいが古ぼけている建物の扉を開ける。

 少女もおっかなびっくりついてくる。

「フィーリア。ただいまー」

 声を投げるときも、どうしてか「エル姉、ただいま」とは言えなかった。

 いつもなら「エル姉、フィーリア。ただいまー」なのだが、このときばかりはエル姉の名前は出せなかった。

「あっ。お帰りなさい、お兄ちゃんっ!!」

 シスター姿のフィーリアが現れた。

 金髪を肩で揃えていて瞳は紫。

 自慢の妹だ。

「ただいま、フィーリア」

 頭を撫でるとフィーリアが幸せそうな顔になる。

 まだ14歳。

 それなのに家事をすべて任せて、おまけにシスター見習いとしての仕事もある。

 苦労させてるなとつくづく思う。

「お兄ちゃん、その人、だれ?」

「ああ、うん。レティっていうんだって。行くアテがないとかで、腹を空かせてたから連れてきたんだ。なんかある?」

「んー。お夕飯の残りなら。あ。お兄ちゃんの分もちゃんとあるよ?」

「わかってるよ。フィーリアが俺の分を食べるとは思ってないから」

「それからお姉ちゃんがお兄ちゃんに謝っていてほしいって」

「……」

「お姉ちゃん、とても後悔してたよ? 自分の価値観を押しつけたって。全部お兄ちゃんのお世話になっているくせにでしゃばりだったって。お兄ちゃんが出て行った後で泣きそうな顔してた」

「……そっか」

 エル姉はたしかに貴族がきらいで、貴族絡みだと暴走してしまう。

 だが、感情で動いても、こうやって反省することのできる女性だ。

 だから、アベルは彼女をきらえないのだ。

 どれほど苦労させられていても。

 今頃、教会の掃除でもして反省している頃だろう。

 後で慰めておこうと心に決める。

 そうして控えめに立っている少女の方を振り向いた。

「こっちにおいで。食べさせてあげるから」

「ごめんなさい。ご迷惑でしょう?」

 レティがそう言えば、あからさまに怪訝な顔になって、フィーリアがアベルの耳許に囁いた。

「お兄ちゃん。このお姉ちゃん、帰る家がないなんて嘘でしょ? こんな上品な孤児みたことない」

「ああ。多分家出だと思う。まあ本人が家に帰れないって言うんだ。今は面倒をみておいて迎えがきたら、そのときに考えればいいだろ? 本人が帰りたがるかどうかは別として」

「エルお姉ちゃん、怒るよ? もしこのお姉ちゃんが貴族だったりしたら」

「そうだったとしても、困ってることには違いない。エル姉がそこで追い出すのは、シスターとして失格だろ? そこはフィーリアも説得しろよ。とにかく飯も食えないくらい困ってるのは確かなんだからさ」

「食べられるだけのお金があって食べないのに困ってると言われても……」

「あのな、フィーリア。貴族って案外、金持ってないものなんだ」

「そうなの?」

 きょとんとした顔になるフィーリアにアベルは重々しく頷いた。

「金持ち金持たずっていうのかな。貴族は出歩くときに金を持ち歩かない。つまり家出なんてしても、食べるお金は持ってないってことなんだ」

「それで家出してなんとかなるの?」

「普通なら悪い奴に攫われて終わり、なんだろうけど、この娘の場合、俺と逢ってるからな。その分、運がよかったってことで」

「お兄ちゃんの貧乏クジを引く損な一面変わってないね」

 呆れたように言われて、アベルは慌てて咳払いした。

「とにかくっ。飯だ、飯っ!!」

 アベルは大股に歩いて行ってしまう。

 フィーリアはクスクス笑って、呆気に取られているレティの方を振り向いた。

「お兄ちゃん、先に行っちゃったから追いかけよう?」

「あ。はいっ」

 慌てて返事をするレティに世間知らずな一面が覗いて、フィーリアは改めて実感した。

 レティの運のよさを。

 アベル以外に拾われていたら、今頃どうなっていたか。

 その辺をわかっていないらしいので、レティの運のよさも本物だと感じていた。





 時刻は深夜。

 孤児院の一室に院長兼神父のシドニーとシスター・エル。

 そしてシスター見習いのフィーリア。

 最後にアベルが集まって頭を悩ませていた。

「どうするの、アベル?」

 シスター・エルは不機嫌だ。

 明らかに自分たちとは住んでる世界の違う少女をアベルが連れてきたのだ。

 おまけにすぐ来ると思っていた迎えは来なかった。

 少女レティは今健やかに眠っていたりする。

 一応あの後エルにも紹介して、シドニーの許可ももぎとり、レティはここへの滞在を許された。

 しかしそれはだれもがすぐに迎えがくると踏んでのことだった。

 全く迎えがこないと言うのは想定外だ。

 彼女の身なりこそ、そこそこ上等だが一般の平民と言っても通用するていどだ。

 だが、立ち居振舞いというのだろうか。

 みせる態度や振る舞いが、どうみても平民のそれではない。

 明らかに貴族層、違っても裕福層のものだった。

 アベルたちと同レベルではないのは明らかだ。

 そんな少女を匿っていたら、最悪、誘拐ととられるかもしれない。

 シスター・エルはそれを危惧しているのである。

 保護しているだけなのに誘拐したと思われるのではないか、と。

「取り敢えず本人が身元については話したがらないんだ。今はどうすることも……」

 シドニー神父が言いかけたとき、人一倍耳のいいフィーリアが立ち上がった。

「だれか来たみたい。この靴音……マリンお姉ちゃんかな?」

「「マリンが?」」

 アベルとエルの声が重なる。

 やがてすぐに控えめなノックの音がした。

「シドニー様はいらっしゃいますか」

 そんな挨拶を投げながら入ってきたのは、女だてらに騎士をやっているマリンだった。

 この近所が実家でアベルたちとも兄妹同然に育ってきた少女である。

 凛々しい立ち姿にエルが嬉しそうに出迎えた。

「久しぶりね、マリン。こっちに戻ってきたのは何年ぶり?」

「お久しぶり、エル姉。早速で悪いけど……レティがこなかった?」

「レティって……マリン、知り合いなのか?」

 アベルが驚いた声を出すと、マリンがその漆黒の瞳を光らせた。

「アベル。またアンタなの?」

「いや。また俺かと言われても……」

「迷子を見つけたらすぐに騎士団に報告すること。何度言わせたら気が済むのよ? ここに連れ込むなってっ!!」

「迷子って……レティはどう見ても15は過ぎてるだろ? 16くらいじゃないのか?」

 呆れ顔になるアベルにマリンは強気で言い切った。

「家に帰れなくなってるなら迷子でしょうがっ!!」

「そりゃあそうかもしれないけど、飯を食わせるくらいいいじゃないか。本人だって見知らぬ俺の前で腹を鳴らすほど減ってたんだし」

「ああ。お労しい」

 頭を抱え込むマリンに、どうやら彼女が迎えらしいと悟って、シドニー神父が割り込んだ。

「それでマリンは彼女を迎えにきたのかい?」

「迎えと言いますか……」

「違うのかい?」

「いえ。迎えには違いないのですが、レティが素直に戻られないのではないかと危惧していて」

 マリンはシドニーを尊敬しているので、あからさまに態度が違う。

 我が身と比べれば多少は不満も出るが、アベルは納得して呟いた。

「まあなあ。彼女は身元に関することは、一切話さなかったし。明らかに家出って感じだったからな。マリンが迎えに来たところで素直に帰らないだろうけど」

「アンタねえ」

 マリンが呆れている。

 どうやら説得しろと言いたいらしい。

 確かにアベルは子供の世話は慣れているし、職業柄。女性の相手も慣れている。

 普通なら説得くらい容易いのだが、なんとなく気が進まなかった。

 それは多分彼女が見知らぬ世界を一生懸命、知ろうと努力していたからだろう。

 レティは知らないこと、わからないことを、わからないままでは終わらせなかった。

 わからなくても理解できなくても、必死になって理解しようと、自分でも同じことをしようと努力していた。

 でなければとっくに騎士団に報告している。

 家出なのははっきりしていたし、罪に問われる可能性も熟知していた。

 だから、普通なら届け出ているのだ。

 レティが世間を知ろうと、あんなに必死でなければ。

 家出したのにもなにか理由があるんだなと、親子喧嘩くらいの理由ではないと知ったから報告する気が失せた。

 そのことではエルにもシドニーにも問われていたアベルである。

 同じことをマリンに責められても答える言葉がない。

「説得する気がないの? アンタが説得すれば一発でしょうに」

「マリンが彼女と親しいならわかるはずだ。これは軽い気持ちでの家出か?」

「……」

「彼女には彼女の考えが意志がある。それを無視して連れ戻そうとするなよ。そりゃ彼女の両親でも出てきたら、俺だって素直に説得するけどさ。親に心配をかけるのは、やっぱりよくないと思うから」

 天涯孤独のアベルが言うと重さのある言葉である。

 とっさにマリンも言い返せなかった。

「説得したければ自分でやれよ。俺を頼るな」

「アベル」

「お兄ちゃん。そんな言い方……」

「俺の目からみて彼女は自分に必要なことをこなしているようにみえる。だから、俺からは説得したくない。それでも説得したければ自分で説得しろ。他人を頼るんじゃない」

「わかった。もう頼まないからいい」

 マリンは唇を噛みしめてそう言った。

「シドニー神父。レティはどこですか?」

「2階の客室で寝ているよ。しかし今から起こすのかい? 明日にしてあげたら」

「レティのご両親がとても心配されています。連れ戻すのがわたしの役目です。申し訳ありませんが」

 それだけ言ってマリンは踵を返した。




 それからしばらく経っても、マリンは2階から降りてこなかった。

 時折、言い争うような声が聞こえてくる。

 それを階下で聞きながら、アベルたちは難しい顔をしている。

 案の定レティが帰ることに同意しないらしい、と。

 やがて仏頂面のマリンがひとりで階段を降りてきた。

「マリン?」

 シドニーが心配そうな声を投げる。

「玉砕しました」

「そう……なのかい?」

「申し訳ありませんが、しばらくレティをお願いします。わたしは彼女のご両親に報告して、なんらかの手を打ちますので」

「それはいいけど彼女……どこの家の令嬢なの? まさか貴族じゃないでしょうね?」

「お姉ちゃん……」

 フィーリアがエルの手を引っ張るが、エルはマリンを睨む眼を外さない。

 アベルとシドニーは男同士で顔を見合せた。

「ごめんなさい、エル姉。それについては触れないで」

「マリン……」

 エルが複雑な声を出す中、マリンがアベルを振り向く。

「ちょっときて」

「なに?」

「いいからきなさいっ!!」

 怒鳴られてアベルは孤児院の外まで連行された。

 人気のない静かな住宅街。

 マリンと向かい合って立ち、アベルは不思議そうな顔をしていた。

「アンタは貴族にも顔がきくでしょうし、隠しても隠せないだろうから、今から教えておくわ」

「彼女の素性について?」

 それしかないと思って問うとマリンは苦い顔で頷く。

「アンタが貴族相手に商売してること、わたしは忘れてないわよ」

「だろうな。仕事柄知られてるとは思ってた」

「アンタって飄々としてるのに、肝心なところでボケてるというか。それだけ顔が広くてどうして気づかないの?」

「なんの話?」

 首を傾げればマリンは絶望的な顔をした。

「レティと聞いて、あの金髪と銀の瞳をみて、どうして気づかないの? アンタほど貴族の事情に通じた人が」

「レティ……金髪、銀の瞳?」

 呟いてふと思い出す。

 噂に聞いていた人の名を。

「まさか……レティシア王女?」

 このディアンの王女で姉、レイティアと共に第一王位継承権をもつレティシア。

 彼女は第一王女レイティアとは双生児で、従ってその関係で王位継承権も同等。

 第二王女だが情勢次第では女王になるかもしれないという立場にいる。

 呟けばマリンが苦い顔のまま頷いた。

 当たっていたと知って青くなる。

「自立を歓迎したい。アンタさっきそんなこと言ってたけど、そういうワガママが許されるお立場だと思う?」

「それは……」

 彼女が王女なら確かにこの行動は無謀と言わざるを得ない。

 本当にアベル以外が拾っていたら、どうする気だったんだろう。

「わたしだってレティシア様が自立をしたいなら歓迎したい。そのための手助けだってしたいと思ってる。でも、現状は無謀よ」

「確かに……」

 第一王女ではなく第二王女を擁立したい派閥はいる。

 現実に存在するのだ。

 そんな輩に捕まっていたら利用されただろうし、第一王女派に捕まるのも危険だ。

 確かにマリンがキレるだけの理由があったのだと今更のように納得した。

 しかし一般の平民であるアベルが、そこまで貴族の事情に詳しいのもどうかと思うが。

 マリンがそのことに疑問も抱いていないことが、尚更変な気分だ。

 アベルはそこまで貴族の世界に踏み込んでいるのだろうか?

「レイティア様だってご心配されているわ。レティシア様はレティシア様だけのお考えで動けるお立場にはないの」

「それは本人もわかってるんじゃないかな」

「アベル?」

「俺がさっき自立したいならさせればいいって言ったのは、彼女が必死になって世間を知ろうと努力していたからだ。少なくとも無責任な行動じゃない。俺はそう感じたよ」

「でもっ」

「過保護なだけではなにも変わらないよ」

「無責任なこと言わないでっ。それでなにかあったら、だれが責任を取れるのっ!?」

「マリン。少なくとも王族なら、国を統べるべき立場に立つのかもしれないなら、自分の言動の責任は自分で取るべきだ」

「……それじゃ通らないのよ、現実は」

「自分の後始末もできない者が国を統べる。それでいいと思ってるのか、マリン?」

「それは……思ってない。思ってないけど実際になにかあったら、責任を求められる者が絶対に出るのっ」

「それを片付けるのも彼女の責任だろ?」

 どう言っても譲らないアベルにマリンは深々とため息をついた。

「アベルってホントに頑固だわ。しばらく忘れてたわ」

「悪いな。だれ譲りかは知らないけど頑固で」

「バカ」

 呆れたように言い返してから立ち去ろうとして、ふとマリンがアベルを振り向いた。

 アベルは不思議そうにそんな彼女を見る。

「アベルは……」

「なに?」

「だれ譲りかはわからないってさっき言ったけど、わたしよく似た人……いえ。御方を知ってるわ」

「へえ。マリンの知ってる偉い人に俺が似てるって?」

「柔和そうな顔立ちなのに、一度決めたことを譲らないところなんてそっくりよ」

 笑う彼女に笑ってみせた。

 遠ざかる彼女を見送って、ふと左腕に視線を落とす。

 服の下に隠された物を思い浮かべる。

 それはずっしりと重い気がした。






「おはようございます」

 翌朝、食堂に現れたレティことレティシア王女は、そう言って深々と頭を下げた。

 受け入れたアベルたちは驚いた顔をしている。

「昨夜はマリンがお騒がせして申し訳ございませんでした」

「いや。それはいいのだが……帰らなくていいのかい?」

 シドニー神父の優しい声に、レティシアが答えようとしたとき、表で馬の蹄の音が響いた。

 ハッと彼女が顔色を変える。

 アベルは窓からそっと外を覗き込んだ。

 道を塞ぐようにして、豪奢な馬車が止まっている。

 ただし身分がバレないように配慮されたのか。

 王家所有の馬車ではなかった。

 その扉を恭しくマリンが開けている。

 優雅に降りてくるのはレティシアと同じ顔をした女の子。

 おそらく第一王女レイティアだろう。

 さすがにふたり揃ったらエル姉にバレるんじゃないかとアベルも青くなる。

「アベルさん?」

 彼女の呼び声にアベルは苦い顔を向けた。

「お姉さんが迎えにきたみたいだよ、レティ」

「え……どうして知って……」

 青ざめるレティシアにアベルは苦い笑み。

「俺さ、これでも吟遊詩人なんだよ。そういうことには詳しいから」

「吟遊詩人? あの舞踏会などでもよく演奏する?」

「そう。だから、俺に隠そうとするのは無理」

「そうだったんですか。騙して申し訳ございません」

 深々と頭を下げるレティシアにアベルは微笑んでみせる。

「悪気がなかったことはわかってるから構わないさ」

「ですが」

「俺に対する言い訳よりお姉さんに対する言い訳を考えた方がいいんじゃないか?」

「そうですね。どうしましょう」

 オロオロするレティシアに昨日の彼女が思い出される。

 本当に箱入りなんだなあ、と。

 自分とは偉い違いだ。

「どうしてお兄ちゃんがレティさんのお姉さんを知ってるの?」

 フィーリアの声にアベルが振り返る。

 シドニーもエルも怪訝そうにふたりを見ている。

「顔を見ればなんでわかったのか、すぐにわかると思う」

 その言葉は間もなく証明された。

 何故ならフィーリアが出迎えて連れてきた少女は、レティシアに瓜二つだったからだ。

 シドニーもエルも唖然としている。

 格好も似たり寄ったりで、入れ代わったりされると、見分けられなくなりそうだった。

「レティ」

 マリンに先導され入ってきた少女は、そう名を呟くなり彼女の頬を叩いた。

 これにはアベルも唖然とした。

 王女同士で殴り合いになるのかと。

 だが、レティシアは叩かれても反撃はしなかった。

 無言で怒りを示す姉姫に頭を下げる。

「ごめんなさい。姉様」

「悪いことをしたとわかるのなら戻っていらっしゃい」

「悪いことをしたとは思ってるわ。でも」

「まだ戻りたくないなんて駄々をこねるつもり?」

「駄々をこねるとかじゃなくて、わたしはもうしばらくここにいたいの。お父さまたちだって説明したら、きっとわかってくださるわ」

「だったら先に説明したら? わたしが迎えにきている時点で、あなたが判断を誤ったことは証明されているわ」

「だって……戻って説明したら、きっと二度と出られない」

 泣き出しそうなレティシアにアベルは可哀想になった。

 彼女は王女として必要不可欠な行動を起こしているだけなのだ。

 説明不足なのは否めないかもしれない。

 でも、説明不足だったという理由だけで責められるのは気の毒だった。

 さて。

 王女殿下をなんて呼ぼう?

 悩みつつ声を投げる。

「あのさ、レティのお姉さん」

 声をかけられたレイティアがアベルを振り向く。

 その眼がすぐに驚きで見開かれた。

「伯父様?」

「は?」

 まっすぐに自分を見て言われたが、アベルは一瞬シドニーのことかと誤解した。

「シドニー神父。知り合いですか?」

 アベルがシドニーを振り向いて問う。

「いや。あれはどうみてもアベルを見て言ったのでは?」

「え? でも、俺まだ18ですし、おじさんなんて言われる歳では……」

 18でおじさんだったら、シドニーなんておじいちゃんだ。

 そう呆れ返るとレイティアも失態に気づいたらしい。

 慌てて咳払いした。

「ご、ごめんなさいっ。あなたがあまりに伯父様に似ているので、つい」

「伯父様って亡くなった伯父様? お父さまの兄上の? アベルさんはそんなに似ているの?」

「レティは伯父さんの顔、知らないのか?」

「わたしはそういうことには疎くて。姉様が知る必要はないからと、肖像画も見せていただけなくて」

「へえ」

 本物の箱入り娘だなとアベルは思う。

 双生児の姉からも大事にされていたようだ。

 しかしお父さまの兄上ってことは現国王の兄君だよな?

 確か現王は元々は第二王子で、前王が急死したせいで突然、王位を継がなければならなくなったはずだ。

 前王には子供はいなかったと聞いている。

 その前王にアベルが似ている? 不思議な偶然もあるものだ。

「不思議な偶然だな」

「不思議な偶然? そう……ですね」

「姉様?」

 妹の心配そうな問いかけにレイティアは微笑んだ。

「なんでもないのよ、レティ」

「話を戻すけどレティのお姉さん」

「申し訳ございませんが、わたしにもレイ……という名がございます。そういう呼び方は不本意です」

 悔し紛れにごまかす声にアベルはちょっと笑う。

 笑われてレイティアが赤くなった。

「じゃあレイ。俺からも頼むから、もうすこしの間だけ、レティの好きにさせてやってくれないか?」

「ですが、これはわたしたちの問題で」

「だからこそ、俺たちの問題だろ?」

「なにをおっしゃりたいのですか」

「レティは将来的に必要な行動を起こしてるだけだ。それは同じ立場に立つレイにならわかるはずだ。ここで得る体験はレティにとって、もしかしたらレイにとってだって得難いものになる」

「……」

「おままごとでもいいんだよ。知らないことを知らないままで終わらせず知ろうとする努力。それは尊いものだよ」

「ですがお父さまがなんとおっしゃるか」

「そうだなあ。マリンが護衛として付き添う……じゃ納得しないか?」

 首を傾げるアベルにマリンが食って掛かる。

「どうしてわたしを巻き込むの、アベルっ!!」

「へえ。じゃあレティを放っておけるんだ? マリンに?」

「っ」

 グッと詰まるマリンにアベルが人の悪い笑みを見せている。

「もしかして1本取られたことを拗ねてる?」

 レイティアはアベルに顔を覗き込まれ赤くなった。

 なんだかこの人は調子が狂うと顔に書いている。

「まあレティが起こした行動は、本来ならレイが起こすべき行動だろうから、多少は拗ねるだろうなあ」

「あの、アベルさん?」

「わからないか? レイはレティに負けたから悔しいんだよ」

 指摘されてレイティアの顔がますます赤くなる。

 レティシアは意外そうに姉姫の顔を見た。

「悔しいのならレイも真似したらいい」

「アベルっ。勝手に話を進めないでっ」

 シスター・エルが慌てだす。

 明らかに貴族らしいふたりを受け入れるなんて、彼女的には遠慮したいことだから。

「エル姉、シスター失格。神のお慈悲はどこいったんだ?」

 呆れ顔で言われて言葉に詰まる。

 シドニーは苦笑していて、フィーリアは不安そうにアベルを見ていた。

「とにかくレイがどうするかはともかく、レティはもうしばらくこのままでいさせてやってくれ。その方がレティのためだから」

 真摯に説得されてレイティアは妹姫を振り向く。

「あなたはどうしたいの、レティ?」

「わたしはもっと知らないことを知りたい。知ることは大事だと思うから。それは昨夜散々感じたの。わたしは籠の中の鳥だって。このままじゃいけないって」

 女王になるならないは別として王族として、このまま民のことをなにも理解しないままではいけない。

 それは昨夜レティシアが感じたことだった。

 必死な妹の様子にレイティアはまたため息をついた。

「戻ってお父さまを説得してみます。それまではマリンをつけておくわ」

「ありがとう、姉様っ!!」

 抱きつく妹を抱き止めて、レイティアはまたため息をついた。

「あなたはお名前はなんて申されましたか?」

 振り向いたレイティアに問われて、アベルが答えようとしたとき、子供が投げ合っていたらしい木の棒が、突然、窓ガラスを割って飛び込んできた。

 レイティアに向かって一直線に。

 マリンも無言で庇おうとしたが、それよりも顔を覗き込めるほど近くにいたアベルの方が早い。

 とっさにアベルは彼女を腕に抱いて庇い、左腕でガラスの破片や木の棒を受け止めた。

「っ」

 声にならない声が漏れる。

 それは予想外の衝撃を伴ってアベルの左腕を襲った。

 シャツが破れ、なにかが露出する。

 肌かとだれもが思ったが、それは肌ではなかった。

 腕の中に抱き込まれたレイティアはマジマジとそれを見た。

 二の腕全体を覆っている、それは黄金の腕輪。

 唐草模様を用いていて、幻獣が描かれた華麗な装飾を施された高価な。

 孤児院育ちの青年には似つかわしくない品だった。

「これは……」

 レイティアの目にも王族でも持てるかどうかの品だとわかる。

 思わず腕が伸びた。

 触れられて我に返ったアベルが慌てたように身を引く。

「ごめん」

 それだけを言ってアベルは部屋に駆け去った。

 この腕輪だけは人目に触れないようにしていたので。

 その意味はシドニーしか知らない。

 あの腕輪は普通の腕輪ではないのだ。

 おそらくアベルの身許を証明する唯一の品。

 何故ならアベルがこの孤児院に預けられたとき、彼はすでにあの腕輪を身につけていたからだ。

 彼が両親の元にいた頃に与えられた。

 そう思うべき品。

 もしかしたら由緒正しい家柄の子息ではないか。

 シドニーはそう疑っていた。

 それほど高価な腕輪だったので。

 人目に触れないように指示しておいたのもシドニーである。

 人目に触れれば騒動になりそうだったので。

「神父様。あの腕輪は?」

 レイティアがぼんやりと問いかける。

 第一王女であるレイティアでも、ほとんど見かけないほど高価な腕輪。

 それをしている者が普通の身分の出身のわけがない。

「申し訳ございませんが、わたしにもわかりかねます」

「では彼がここにくる前から身につけていた?」

「はい。それ以上のことはわかりません。アベルは孤児院に預けられるまで、どこでなにをしていたか、なにも憶えておりませんので」

「そうなのですか。やんごとなきご身分の方とお見受け致しましたが」

「変なこと言わないでっ」

「お姉ちゃん」

 はっきりとは見たことはなくても、あの腕輪がそうとう価値のある物だとわかるシスター・エルは震える声を出す。

 弟分のアベルが貴族階級の出身かもしれないなんて、彼女には受け入れられないことだったので。

 もし事実だとしても捨てられていた時点で関係ない。

 それが彼女の意見だった。

「でも、あの腕輪に使われていた紋章。どこかで見たような……」

 レティシアも遠くを見る顔になる。

 意外な発見にだれもが言葉を失っていた。
1/1ページ
スキ