序章
序章
今日も穏やかに夕陽が沈んでいく。
何事もなく日は過ぎて人々が家路につく頃、青年はじっと中空を眺めていた。
今日は久し振りの貴族の邸宅でのパーティーにお呼ばれしていたのだ。
彼。
アベルはそういう儲けられる機会は、なるべく逃さないようにしている。
ただでさえ裕福とは縁のない生活なのだ。
儲け時を誤ってはならない。
なのに。
口から深々とため息が漏れる。
「エル姉に今日の仕事場が、貴族のパーティーだって知られたのが失敗だったな」
噴水の傍に腰かけたまま、だれにともなく愚痴る。
彼の姉代わりでもあるシスター・エルは大の貴族嫌いだ。
貴族と名のつくものなら、なんでもキライで、寄付金なども絶対に受け取らない。
相手が好意や善意で申し出ていても、だ。
おかげで生活はいつも火の車。
アベルが小さい頃に遊びで覚えた吟遊詩人の腕前がなかったら、果たして今頃生きていたかどうか怪しい。
とっても怪しい。
なにしろ教会は孤児院も兼ねているのに、エル姉は寄付金を受け取らないのだ。
貴族が名をあげるためとはいえ、善意を前面に申し出ていても。
そのためにアベルが小さい頃などは食べる物にも困る始末。
アベルが何気なく始めた吟遊詩人が大当たりしなかったら、きっと自分も子供たちも飢え死にしていた。
しかし吟遊詩人を名乗るからには、儲けるために貴族や裕福層は避けては通れない。
彼らこそ吟遊詩人に大金を投じてくれる相手だからだ。
選り好みしていたら、得られるお金も得られない。
しかしエル姉にはその論理も通じない。
とにかく「いやっ!!」の一点張りで通してしまうので、アベルはなるべく自分の仕事先は知られないようにしている。
普段からとても気をつけていたのだ。
なのに今日に限って知られてしまった。
「忌々しい」
呟いてポケットからカードを取り出す。
今日のパーティーの招待状だ。
これがないと入れないとかで、パーティーで演奏するだけのアベルにも送られてきた。
それですべてがバレてしまった。
エル姉は恐ろしい勢いで怒り狂い、アベルを部屋に閉じ込めた。
パーティーに出られない時間帯になるまで。
おかげで解放された今、こうしてすることもなく、夕陽を眺めている状態だ。
貴族はここ最近の怪盗騒ぎのせいで、開場時間を過ぎると、招待状を持っていても会場には入れてくれない。
その時間はとっくに過ぎていて、つまり招待状があって、パーティーには欠かせない吟遊詩人でも会場には入れないのだ。
「これでまたひとつ信頼を失ったなあ。もし悪い噂でも広がったら、俺、どうするんだ?」
さすがに心配だ。
今では孤児院を支えている生活費も教会の維持費も、捻り出しているのはアベルだというのに。
悪い噂が広がって仕事がなくなったら、とたんに生活は成り立たなくなってしまう。
「とりあえず……こんなところでボーッとしていても仕方ががないから帰るか。フィーリアも心配しているだろうし」
エル姉に閉じ込められた後で、さすがに怒って孤児院を飛び出してきたので、妹代わりのシスター見習いフィーリアが、とても心配そうに見送っていた。
それはわかっていたのだが、あのときはだれのせいで苦労していると思っているのかと思うと、どうしても我慢できなかったのだ。
立ち上がったとき、だれかにドンッとぶつかられた。
完全に不意をつかれたので上体が揺れる。
「あっ」
高い声が悲鳴のような声を出すのを聞きながら、アベルの身体はそのまま噴水の中に落ちていった。