第四章 皇子と王子
第四章 皇子と王子
「瀬希め。あのような輩を持ち出してくるとはな。己の点数稼ぎのつもりか?」
まだ若い宰相、大志が毒々しく呟く。
彼は第一皇子、瀬希をとても個人的な理由で嫌っていた。
いや。
憎んでさえいたかもしれない。
歪んだ瀬希への感情は、そのまま不遇な第二皇子、古希への偏愛へとなっていった。
瀬希を嫌う理由は彼が誰もが認める正当で、そして優秀な世継ぎの皇子だからだ。
彼なら安心だと誰もが認めている。
それが憎らしい。
王位を継ぐなら古希でも別にいいではないか?
古希は天真爛漫で素直な良い子だ。
兄の後を追い掛けて回る些か困る一面もあるが、大志には可愛くて仕方のない皇子である。
なのに誰も古希を省みない。
誰もが瀬希ばかり見ている。
それが……腹正しい。
まるで自分を見ているようで。
古希の不遜さに自分を重ねてしまう。
「あのふたり……邪魔だな」
宰相は淡々と呟く。
瀬希の傍に他国の言葉を自在に操り、精霊とすら意思の疎通ができる者などいてもらっても困る。
それはそのまま瀬希の手柄になる。
しかしひとりは瀬希の側室だし、彼には手を出せないだろう。
下手に瀬希から遠ざけようとしたら、幾ら宰相とはいえ大志の方が危なくなる。
彼を側室として迎えるなんて、瀬希のこれまでを考えると信じがたいが、どうやら上手くやられたようだ。
例えシャーナーンの皇帝であっても、正式に瀬希のものと判断された側室である彼には手が出せない。
手を出せば略奪ということになって、格好の戦争の理由を与えてしまう。
そして誰が見ても皇帝に非がある以上、全ての国々は華南に瀬希に味方する。
そうすれば如何に世界一の大国シャーナーンとはいえ滅びかねない。
大志は権力ある宰相とはいえ、シャーナーンの皇帝ではない。
皇帝にすら無理なことをすれば、絶対に己の身が危うくなる。
「遠ざけられてもひとりだけ、か」
朝斗と名乗っている側室となった少年の兄。
彼なら遠ざけても多分問題視はされないだろう。
瀬希の側室というわけではないのだ。
そう……思っていたのだが、会食のあった夜のことだ。
「なに? 瀬希皇子があのふたりと閨を共にした?」
そんな報告が隠密行動をさせていた間諜から入った。
これで瀬希は側室をふたり迎えたことになる。
双生児の兄弟をそれぞれ側室としたことになるのだ。
だが、瀬希は一度にふたりとそういう関係になれる男だっただろうか?
そもそも第一位の側室に当たる綾都と呼ばれている子供は、ついこの間まで倒れていたのだ。
それで無理矢理こんなに早く事に及ぶなんて、あの瀬希にできるだろうか。
もしかして……まだ手は出していない?
それとも元々こうする気だった?
判断材料が少ない。
暫く様子を見た方がいいだろう。
事実だったらふたりに手を出せば、自分の方が危なくなるのだから。
そんなことを宰相が企んでいるとは知らない3人は、綾都を間に挟んで瀬希と朝斗が揉めていた。
「だからっ。なんで俺たちがここで一緒に寝ないといけないんだっ!?」
「何度も言っているだろうっ!! 綾都は狙われても身を護れないし、なによりも側室と閨を一緒にしないということは、側室から外すということ。そうなれば父上に譲るようなものだっ!! それでもいいのかっ!?」
売り言葉に買い言葉。
さっきから延々と続いているやり取りで、ふたりの間に挟まれて寝ている綾都は、「うるさいなあ」と顔に書いている。
綾都は兄と寝るのに慣れているので、同性と一緒に寝ることに特に抵抗はない。
だが、何故か兄は頻りに嫌がっていて、こうやって無駄に食い下がっていた。
なにが気に入らないのかは知らないが。
「だから、なんで俺までっ」
納得しない朝斗に瀬希が白々しく言い募った。
「ほう。だったらわたしが綾ひとりを置いて部屋に戻れと言って朝斗は同意するんだな?」
「っ」
グッと詰まった朝斗に瀬希はため息をつく。
「わたしだってなにも考えずに言っているわけじゃない。そもそもふたりを寝室に招いて一夜を過ごせば、自動的に朝斗」
「なんだよ?」
「お前も側室に迎えたことになるんだ」
「なんで俺がっ!!」
「それを言いたいのはわたしの方だ!! 全てわたしの趣味という判断になるんだぞっ!?」
確かに一時的にこの世界に来ているだけの自分たちより、死ぬまでこちらで生きていて、帝となり結婚しなければならない瀬希にとって、この事実は大きな意味を持つ。
一番大きな被害を受けるのが瀬希なのだ。
これには朝斗も言い返せなかった。
「もう諦めてこの部屋で寝るか。それが嫌でも綾は置いて行ってくれ。でないと困る」
「……どっちも嫌だ」
「往生際が悪いぞ、朝斗」
ふたりが譲らず睨み合っていると、それまで大人しくしていた綾都が、眠そうに口を開いた。
「どうでもいいけど、もう寝ない? ぼくは眠い」
「「綾……」」
「どこで寝てもおんなじじゃない。どうして兄さんはそんなに嫌がるの? ぼくが寝ているとき、兄さんもよく一緒に寝てくれたじゃない」
「そうだったのか?」
瀬希がなにを考えているのかわかるので、朝斗は赤くなって怒鳴った。
「寝込んでいたときにひとりは寂しいって泣きつかれて、一緒に眠っていただけだ。こっちの世界の奴らと一緒にするなっ!!」
「失礼な」
「どっちが」
本当にどちらも譲らないので、綾都は放置して寝ることにした。
こんなに遅くまで起きているなんて、綾都には初めてのことである。
そろそろ限界だった。
時計を見れば午後9時を指している。
腕時計はソーラー式なので今でも正確に時間を刻んでくれる。
半永久的に動くのだ。
(9時。こんなに遅くまで起きてたの初めてだよ。もうダメ。寝る)
無意識に綾都は瀬希の方を向いて目を閉じた。
スヤスヤと安らかな寝息が聞こえてくる。
睨み合っていた瀬希がふとそれに気付いた。
自分に身を委ねるように寝ている綾都に。
肩が出ていたので瀬希は寒くないように、そっと布団をかけてやった。
それを見ていた朝斗がなにを思ったのか、眠っている弟の肩に手をかけて、瀬希の方から自分の方へと向かせる。
さすがに瀬希もムッとした。
下心はなかったので。
「おい」
「この部屋で寝ろっていうんだろう? 綾も寝てしまったし。これくらいで妥協してやる」
それだけ言うと朝斗も目を閉じた。
早寝早起き。
これが朝斗の習慣だった。
何故なら綾都が早寝で遅く起きるのが習慣だからだ。
綾都の起床時間は体調に左右されるので遅くなることが多い。
そのため看病をする日課のあった朝斗の朝は早い。
眠っていただ綾都に異常がなかったか確かめるためだ。
寝ると言ったらもう寝ている朝斗に、つくづく扱いづらいと瀬希は顔に書いていた。
綾都を構いすぎても怒るし、逆に構ったら怒るからと放置していても怒る。
どうしろというのか教えてほしい。
兄の腕の中で寝ている綾都に目を向ける。
「本当に綺麗だな」
頬にかかる解れ毛を直してやって、頬に触れた瀬希は、ちょっと戸惑って自分も横になって目を閉じる。
誰かと眠るのは初めてだが熟睡できるだろうか。
そう思って眠ってどのくらい経っただろう。
ふと腕の中に温もりを感じて瀬希は目が覚めた。
眠い眼を開けば、いつのまにか綾都が腕の中で寝ている。
どうやら寝返りを打ったときに瀬希の方に来てしまったらしい。
まあいいかと判断して瀬希は目を閉じた。
綾都が勝手に寝返りを打ってきたのだし、それにまた朝斗の方を向くだろうと思ったからだ。
ただ冷え込んできたので、寒くないようにしっかりと抱いて眠った。
これが悪かった。
寒くないようにという、これでも思いやりだったのだが、本当に寒かったのか、綾都は朝になるまで瀬希の身体にひっついて、しがみついて寝ていたからだ。
そんなものだから必然的に瀬希も綾都をしっかり抱いて寝ている。
一番に目覚めた朝斗が怒り狂うのは、まあ当然だったかもしれない。
これでも四大国家のひとつ。
華南の世継ぎだというのに、拳骨で起こされた瀬希は、怒り狂った朝斗を宥めるのに、かなりの時間を費やすことになる。
当然かもしれないが後になって目覚めた綾都は、原因でありながらなにがあったのかさえわからず、ふたりの不仲の原因を問い詰めたのだった。
「ふう」
中庭の花壇のところで綾都がため息をついている。
正門前に作られた花壇で、ここは一般に解放されているから、あまり近付くなと瀬希に止められている場所だ。
さすがにふたりも綾都が、こんなところにいるとは思わないだろう。
「どうしてあのふたり、あんなに仲が悪いのかな」
目覚めたときには最悪だった。
瀬希は朝斗を無視しているし、朝斗はなにか知らないが瀬希を許せないらしく、同じように無視しているのだが、瀬希がなにかする度に文句をつけては喧嘩を繰り返していた。
ふたりとも綾都には心配をかけまいと振る舞うのだが、だったらもうちょっと仲良くしてほしい。
「どうかされましたか? 綾都様?」
呼び声に振り向けばレスターが立っていた。
背後には昨日ジョージと呼んでいた近衛隊長が控えている。
レスターの護衛といったところだろうか。
座り込んだまま綾都はニコッと笑う。
「おはよう。レスター王子」
「もうこんにちはの時間ですよ、綾都様」
「その綾都様っていうのやめてよ」
「え? でも」
「歳もそんなに変わらないんだし、綾都、もしくは綾でいいよ」
「綾? ですか? 女の子みたいですね。本当に同性ですか?」
「……精霊はなんて言ってる?」
綾都の問いの意味はジョージには伝わらないのだがレスターには伝わる。
精霊たちは綾都のことは男だと教えてくれている。
つまり疑う余地はないのだが、そう信じるにはあまりに美少女過ぎた。
「じゃあ遠慮なく綾って呼ばせて貰いますね」
「うん。ついでに敬語もやめてほしいな」
「はあ。でも」
「慣れてないから肩が凝る」
「そう? じゃあやめるね。ボクも敬語嫌いなんだ」
「ふふ」
綾都が笑うとレスターが隣に並んできた。
「綾って呼ばせて貰う代わりに、ボクもレスターでいいよ」
「でも、王子様なのに」
「それを言うならきみは瀬希皇子のご側室だよ? 普通はこんなふうには話せない相手だよ」
それを言われてしまえば綾都にも言い返せない。
実際のところ、綾都は未だに側室がなにかすら理解していないのだが。
「なにかあったの? 遠くから見てもため息ばかりついているように見えたから気になってきてみたんだけど」
「瀬希皇子と兄さんが喧嘩ばかりしてて」
「でも、昨夜きみたちふたりと瀬希皇子はご一般に過ごされたんだよね?」
言葉の裏の意味を綾都は理解しない。
「そうなんだけど」
あっさり認められて、レスターは綾都は鈍いのか、それとも大物か判断しかねた。
「なんか朝起きたらふたりとも最悪の状態で」
「う~ん。さすがにボクにどうにかできる問題とは思えないね。もしかして綾が原因なんじゃない?」
「どうして?」
「おふたりとも綾には普通の態度を取っているんだろう?」
「うん。どっちもぼくにはやさしいよ。だから、余計に気まずいんだけど」
綾は本当に気まずそうな顔をしている。
同じ側室という立場で綾と兄が揉めるならまだ理解はできる。
だが、側室に迎えられた朝斗と側室に迎えた瀬希が衝突するとなったら、原因はもうひとりの側室、綾都しか考えられなかった。
「もしかしてお兄さんが瀬希皇子のご側室になったのってきみのため?」
「多分ね」
「だったら間違いなく原因はきみだね」
「どうして?」
「きみを取り合って喧嘩してるんじゃないの?」
レスターはクスクスと笑っている。
年齢では綾都の方が年上だが、どうやらレスターは歳の割にませているようだ。
いや。
そうならざるを得なかったといったところだろうか。
「なんでぼくを取り合うの? 仲良くしてくれた方がぼくは嬉しいのに」
「う~ん。それはボクに言うんじゃなくて、おふたりに直接言った方がいいよ。きみが泣きつけば、きっとおふたりの態度も変わるよ」
「そうかな?」
「うん。きっとね」
レスターが笑って言ったとき、ジョージがスッと前に立った。
「ジョージ?」
レスターが座ったまま近衛隊長を見上げる。
〈馬車が来ます。あれは……シャーナーンの紋章!?〉
「え」
レスターが驚いた声を出して立ち上がった。
付き合いで綾都も立ち上がる。
程なくして正門を通過して大きな馬車が入ってきた。
レスターは咄嗟に綾を背に庇った。
綾都は小さいので年下の彼の背にでも隠せるから。
でも、綾都は彼の背からそっと顔を出して状況を見守っている。
好奇心旺盛な綾都にこういう場面で大人しくしろと言われても無理だ。
レスターの前で馬車が停まり、中から立派な体躯の青年が降りてきた。
歳の頃は20歳前後だろうか。
金髪に青い瞳をしていて肌は透き通るような象牙。
だが、鍛えてあるせいか、ある程度日に焼けていた。
「こんなところでお逢いしようとはな。レスター王子。実は貴方の国へ出向いたばかりなのだが」
「お久し振りです、カイン皇子。この度はご足労させてしまったみたいで申し訳ありません」
「いや。華南でお逢いできたなら都合がいい。瀬希皇子と共に我等が逢える日というのはなかなかないからな」
瀬希の名前まで出されてレスターは笑みを口許に浮かべつつ苦々しい気分だ。
「カイン。いつまで入り口を塞いでいる気だ? わたしが降りられない」
馬車の中からそんな声がして綾都はムッとする。
(降りられない? どこが? あれだけ大きな扉なんだから、身体をずらせばいいじゃない)
そんなふうに綾都は怒ったが、カインと呼ばれた皇子は怒ったふうもなく、スッと身体をずらした。
レスターは声の主を知っていたので身体を強張らせている。
カインは軍に所属しているし、度々旅にも出ているから、こうして出会したり自国に訪れられるのも、まだ理解はできるがこの声の主が出向くという事態が理解できない。
ゆっくりと獅子と例えたいような青年が降りてくる。
外見的特徴は典型的なシャーナーン人だが、美貌がずば抜けていた。
カインは凛々しい美貌だが、この若者はなんていうか王者の風格がある。
綾都は唖然と彼を凝視した。
(歳の頃は23、4歳ってところ? それとももう少し下かな? あれだけ威厳があると年齢も年上に見えるだろうし。瀬希皇子も皇子の貫禄があると思っていたけど、なんか桁が違うね。この人。間違いなく皇子だ。シャーナーンの)
「久し振りだ。レスター王子」
「お久し振りです。アレク皇子。貴方がお越しとは思いませんでした。なにか我が国にご用でしたでしょうか?」
「急用というほどのものでもない。諸国漫遊の旅とでも思ってくれればいい。そなたの方こそどうして華南に? 確か国交はないはずだが?」
「その国交を開くために華南に来たのですよ。瀬希皇子の噂も予々聞いていて親しくないと思っておりましたし」
ダグラスへ偵察に行っていたことなどおくびにも出さないレスターである。
アレクはクッと笑った。
「瀬希皇子か。確かに噂には聞いている。相当優れた皇子だとか。逢うのが楽しみだ」
「とても優れた皇子で、それに素敵な方です。お逢いになればアレク皇子にもご理解頂けると思います」
「そなたがそんなふうに言うのは珍しいな。瀬希皇子はそれほど優れた皇子なのか? これは益々逢わねばならんな」
「すぐに人と比較なさるものではありませんよ、アレク皇子。アレク皇子はアレク皇子で素晴らしいし、瀬希皇子には瀬希皇子にしかない良さがある。それを認め合っても羨むことはあってはならないと思います」
「つまらないな。優等生の返事だ」
そう吐き捨てたアレクの視線が、レスターの背後から顔だけ出している綾都に向かう。
軽く口笛を吹きそうになって慌ててやめる。
「随分綺麗な姫君を連れているな。いつご婚約なさったのだ? レスター王子?」
「え?」
意外なことを言われてレスターが背後を振り向いた。
そこではちょこんと綾都が顔を出している。
これでは隠している意味がないとレスターは青くなる。
「いえ。この方はわたしの婚約者では」
「では側室に? 勿体無い」
「いえ。そういうわけでも」
レスターの歯切れが悪い。
瀬希に対してライバル意識を抱いているらしいアレクに、その瀬希の側室だとは言いたくないのだ。
綾都を思わね争いに巻き込みそうで。
「兄上。その者華南の服装を身に纏っています。それにどうも男物を着ているようなのですが」
兄が気を取られている人物をよく見ようとカインは早速綾都を観察している。
いつの間にかジロジロ見られている綾都は咄嗟にレスターの背にしがみついた。
「綾都様」
「ごめん。なんか怖い」
ふたりとも格が違うというのだろうか。
それとも次元が違うというべきか。
綾都は凝視されるだけで凄く怖かった。
「男? これが?」
アレクはレスターがいるのも忘れ、ズカズカと彼に近付いた。
レスターは咄嗟にどうするべきか行動を決めかねている。
背後に回ったアレクが綾都の顎に手をかけた。
怯えたように見開かれた漆黒の瞳を見詰める。
「これが男? 確かに外見は華南のものだが、特徴は華南とは違うような? それに随分立派な服だ。もしかこの者を奪いに来たのか? レスター王子?」
真横から言われてレスターは顔がひきつる。
そんなつもりは毛頭ないが、ここで否定してもややこしくなる気がする。
どうやればこの場を凌げるだろう?
「シャーナーンのアレク皇子とお見受けします。どうかその者を離して頂けませんか?」
よく聞き慣れた声がして綾都は振り向きたいのだが、顎をまだアレクに固定されていて振り向けない。
全く動じていない声にアレクが、綾都の顎を捉えたまま視線を向ける。
既にカインは兄の傍に寄っていた。
瀬希が臆することなく近付いてくる。
その様子をふたりのシャーナーンの皇子はじっと眺め、レスターは救いを求めるように彼を見た。
「そなたは?」
「華南の第一皇子、瀬希と申します。初めまして」
「そなたが瀬希皇子かっ!?」
アレクは大袈裟に驚いた。
何故かというと本気で驚いたからだ。
カインと同じ年なのは聞いていた。
だが、カインも歳の割りに大人びていると思っていたが、瀬希はまた趣が違う。
清涼感のようなものを醸し出していて、見ているだけで目が吸い寄せられる。
レスターが逢えばわかると言った意味がわかった気がした。
静かに器の大きそうな青年だ。
「綾がなにか失礼をしたなら謝ります。綾は怯えております。どうか離して頂けないでしょうか」
「この者は綾というのか。そなたのなんだ?」
「わたしの第一位の側室です。その意味がおわかりなら手をお離しください」
黒い瞳は揺るぎなくアレクに据えられている。
自分を前にしても全く臆しない者にアレクは初めて出逢った。
レスターですらアレクの前では多少は身体を強張らせ身構えるのに、瀬希は全くの自然体だった。
ぶつかり合う視線の強さは互角。
アレクは内心で「面白い」と笑った。
こういう相手は今までいなかった。
どうしてもっと早く逢いに来なかったのかとも思う。
付き合いさえあれば退屈しない時間を過ごせただろうに。
「この者。両国の友好の証にわたしに譲らぬか、瀬希皇子」
「お戯れを。できない相談です。すぐにお離しください。綾が怯えているのは、これ以上見たくありません」
「戯れ? 何故だ? わたしにもまだ妃も側室もいない。第一位の側室として迎えることは可能だ。そなたと立場は全く互角。それでも不服と?」
「……政治の道具にはできない相手です。お諦め下さい」
瀬希は全く譲らない。
頑固さでこの華南一を誇る瀬希である。
これはどう言っても譲らぬだろうなとアレクにもわかる。
だが、瀬希がそこまで執着する者なら、もっと欲しくなった。
「そうだな。どうしても手放せないというのなら我が妹姫、シャーリーをそなたの正妃として嫁がせよう。その代わりにこの綾という者をわたしに譲れ」
「兄上っ!?」
カインが慌てているが、アレクは弟の方を振り向かない。
レスターには瀬希が大事にしている者だから、彼は奪いたいのだとわかっている。
それは瀬希にもわかっているだろうが。
瀬希ならまだ信用できる。
だから、秘密も明かしたのだ。
だが、アレクでは……。
「アレク皇子。これ以上のごり押しは禁忌に触れますよ」
「……レスター王子」
突然割って入ってきたレスターに、アレクが不服そうな目を向ける。
「綾都様は瀬希皇子がとても大切にされているご側室。今の貴方のやり方は禁忌に触れる。諦めた方が利口だと思いますよ?」
「そなたにそのような忠告を言われる日が来ようとはな」
アレクは忌々しそうに綾都から手を離した。
綾都は反射的に瀬希に向かって駆け出していく。
瀬希は両手を広げて受け止めてくれた。
「瀬希皇子!!」
「間に合ってよかった。だから、ここに来てはいけないとあれほど念を押しておいただろう?」
「だって皇子が兄さんと喧嘩してるからっ!!」
「あ。あれは……」
言い訳をしようとして瀬希も現状を思い出した。
綾都の肩を抱いてアレクたちを振り向いた。
いつの間に準備されたのか、アレクたちは近衛たちに囲まれて悠々と立っている。
レスターもスッと瀬希の背後に控えた。
「改めて初めまして。ようこそ華南へ」
「「初めまして」」
どちらも決して友好的とは言えない声だった。
どうやらアレクにとって自分はライバルらしいと瀬希は感じ取った。
これから苦労しそうだなと内心でため息をつく。
物凄い人に目をつけられてしまったようだと感じながら。
華南の帝との謁見を無事終えて、貴賓のための部屋に案内されたアレクは、早速弟に責められていた。
カインは確かにアレクに心酔しているが、間違っているときは正面から責めてくる大事な部分をきちんと持っているので。
「どういうつもりなんだ? アレク? 瀬希皇子にシャーリーを嫁がせるなんて、あんな場所で言い出して!!」
兄弟だけになるとカインの口調も変わる。
瀬希やレスターと逢っていたときのふたりは余所行きの顔だ。
決して素顔ではない。
それは瀬希やレスターにしても同じだろう。
素顔で触れ合うことのできない関係だった。
「どういうって……どうしても瀬希皇子から、あの綾という者を奪いたかったんだ。レスター王子に阻止されたし、なによりも瀬希皇子が頑として譲らなかったが」
「確かにあの頑固さは凄いな。アレク相手に一歩も負けていないし」
噂でも聞いたことのなかった遠い異国の東国の皇子、瀬希があれほどの逸材だとはふたりとも思っていなかった。
ライバルは叩き潰すものと思っているアレクにしてみれば、歯応えのあるライバルで有難い限りなのだろう。
瀬希にはどんだ災難かもしれないが。
レスターは優しすぎて、アレクには物足りないところがある。
それでも油断できないだけのものを彼がなにか秘めているのがわかるので、アレクは彼を最も警戒しているのだが、瀬希はどうやらそれを超えそうだった。
力のあるなしではない。
内に秘めた資質。
それで瀬希はレスターを超えている。
アレクとすら逼迫するかもしれない。
それはカインも認めていた。
並の男ならあんな風にアレクに睨まれれば、その眼光を真っ直ぐに受け止めることなどできないので。
「しかし男なんて、それも一度他の男のものになった男なんて手に入れても仕方がないだろう? アレクはそういう趣味だったか? それはまあかなりの美少女振りではあったが」
「ああ。それなんだがな。あれはどう見ても童貞で処女だ」
「え? なんでそんなことがわかるんだっ!?」
純情なカインは青くなったり赤くなったり忙しい。
「男も女も知らない感じだったな。あの綾と呼ばれていた側室は」
「……しかし側室というのは閨の相手をするためのもので」
カインはしどろもどろである。
この弟はこれだから可愛いとアレクは笑う。
それは屈託のない優しい笑顔だった。
決して他人には見せない顔だ。
「歳はよくわからないが、随分幼く見えた。なのにかなり大事にしている感じだったからな。瀬希皇子が大事にしすぎて成長を待っている。そんなところじゃないか? あれはまだ肉体関係は持っていない。賭けてもいいぞ」
「……だが、それなら側室とは言わないんじゃ……」
「ああ。そうだ。本当に大事にしていて成長を待っているのだとしても、側室に迎えている事実が解せない。その場合、側室に迎えたいとしても我慢するだろう。もっと時期を見合わせるはずだ」
瀬希の人柄ならそのはずなのだ。
見抜いた人格と現実が合わなくて、アレクは首を捻る。
「なのに側室に迎えている。その矛盾が解せない。周囲はきっと肉体関係はあると思い込んでいるだろうからな。そうさせる必要がどこかにある、ということかもしれない。カイン」
「なんだ?」
「あの綾という側室のこと、密かに調べてくれないか?」
「おれは馬に蹴られて死ぬ趣味はない」
「……大丈夫だ。あれはどちらにも恋心はないと俺は見ている」
「だが、アレクにも逆らうほど大事にしていたじゃないか」
「だから、彼を手放せない理由が、どこかにあるんじゃないかと疑っているわけだ。調べてくれないか? 帝からも瀬希皇子からも、彼は華南人だと聞いたが、あの顔立ちは華南人のものじゃない」
「……確かに」
それは認めざるを得なかった。
噂に聞いているダグラス人の色彩を持ちながらも、顔立ちは異国人を思わせるという人型の召還獣を思わせる。
あの綾という少年の存在はそれを意識させた。
「気取られるなよ」
「おれはそこまでドジじゃない」
そう言ってカインは出ていった。
窓辺に立つアレクの脳裏に怯えたように見上げていた漆黒の瞳がよみがえる。
綺麗に澄んでいたら、きっと見惚れるほどだっただろう。
「怯えさせたのは失敗だったかもしれないな」
誰にどう思われても気にならなかった。
小さな子供に怯えた眼で見られた。
ただそれだけのことが胸を刺す。
そしてその子供は助けを求めるように、アレクの手を振り切って瀬希皇子の胸に飛び込んだ。
思い出して唇を噛む。
何故だか腹立たしかった。
心が痛みを訴えるほど。
不思議な心の訴えるほど。
不思議な心の動きにアレクは翻弄される。
さっきカインに頼んだ調査は、もしかしたら単に彼のことが知りたい。
そんな尤もらしく意味付けしただけかもしれない。
そうとは認めたくないが。
その日の夜にはアレクの元にカインが戻ってきていた。
カインが情報源として目をつけたのは、実は宰相、大志だった。
瀬希皇子を目の敵にしている彼なら、きっと獣医学ひた隠しにしているような秘密でも、他国の皇族の自分たちにでも打ち明けるだろうと踏んで。
そしてその読みは的中した。
カインは重苦しい顔付きで、兄の前に立っている。
「随分戻ってくるのが早かったが、もうわかったのか?」
「ああ。宰相に的を絞れば簡単に情報は手に入った。私情で動く宰相では、どれほど有能でも国のためにはならないという見本だな」
「どうしてそんな憂鬱そうな顔をしている?」
アレクは不思議そうに弟を見ている。
弟の様子から余程の情報を掴んだのだろうとはわかる。
だが、ここまで重苦しい雰囲気になる情報というのに心当たりがなくて。
「あの綾と呼ばれていた側室の本当の名は綾都というらしい」
「綾都……綺麗な響きの名だな」
「華南の名前は嫌いだと言っていたくせに」
ボソリと言われてアレクがちょっと顔を赤くした。
「綾都には双生児の兄がいて、そいつの名前は朝斗というんだが、ふたりとも瀬希皇子の側室らしい。綾都が第一位。朝斗が第二位だ。綾都を側室に迎えるまで、瀬希皇子は男も女も近付けなかったとかで、綾都を連れ帰ったときは周囲は泣いて喜んだそうだ」
「連れ帰った? どういう意味だ? 華南の貴族でもなんでもない?」
「あのふたりの素性は全くの謎だ。本当のところ帝も知らないらしい」
帝も知らない?
それはアレクにとっても意外な情報だった。
「ある日王都にお忍びに出ていた瀬希皇子が、どこからか連れ帰った双生児。それが綾都と朝斗らしいんだ。連れ帰ったその日に綾都が側室に迎えられ、レスター王子が訪ねてきたこともあって、綾都と朝斗は初めて皇族として会食の席に出た。事件はそのときに起きたそうだ」
「事件?」
ここでカインから聞いたのは、会食の最中に突然、綾都がルノール語を話したこと。
そしてそのふたりにはルノール人にしか見えないはずの精霊が見えること。
そういう内容だった。
実際にはなにがあったのか、理解しているのはルノール人だけらしい。
華南人には見えないので、綾都と朝斗が精霊を前になにをしたのかは、華南人にはわからなかったからだ。
ただ精霊たちの騒動が終わった後の、ルノール人の興奮が凄すぎて、余程凄いことをやったのだろうと、華南人たちにもわかったという。
「おれの推測だが瀬希皇子は知ってるんじゃないか?」
「会食の席でなにがあったのかを、か?」
「あのふたりは瀬希皇子の側室だ。なにがあったか打ち明けていても不思議はない。だから、華南人で詳しい事情を把握しているのは、おそらく瀬希皇子ひとりだ」
「成る程な」
思いがけない情報にアレクは深々とため息をつく。
「それとアレクの推測を裏付ける証言と、逆に否定する証言を聞いてきた」
「なんだ?」
「まず裏付け証言。綾都が側室に迎えられたとき、彼は随分と体調を崩していたらしいんだ。どうやら彼は虚弱な体質らしく、あまり健康ではないようだ。そのせいで瀬希皇子は大事に自分の宮に隠している状態らしい」
「つまり側室に迎えてからも肉体関係を持つことはなかった?」
「その時点ではな。だが、レスター王子がやって来た夜、瀬希皇子は正式にふたりを側室として迎えている。閨を共にしたと公になっているな。これが否定する証言だ」
どうだ。
これでも綾都は処女だと言えるかと目線で指摘されて、アレクは難しい顔になった。
状況証拠は確かにクロだ。
綾都は瀬希に抱かれていると見るべきなのだろう。
だが、アレクの男としての勘は、綾都は汚れを知らないと訴えている。
あの怯えたような眼も躯も、とても男も女も知っているようには見えなかった。
幾らアレクが勝ち気とはいえ、顎を掴まれただけでガタガタ震えていたほどだ。
普通ならシャーナーンの世継ぎ相手なら誘惑してくるものなのに。
それもなかった。
抵抗ひとつできず瀬希皇子が助けてくれるのを待っていた。
あの様子からは男を知っているとは思えない。
「それでも俺は……彼は童貞で処女だと信じる」
「……頑固だな。そんなに気に入ったのか、彼が?」
「気に入る入らないの問題ではなく、男としての勘だ。これでも俺はお前と違って、それなりに遊んできた。両手で足りない数の恋人と付き合ってきたんだ。経験者かどうか、それくらいならすぐにわかる」
「悪かったな」
遠回しにまだ童貞のくせにお前に言えるのかと言われて、カインは赤い顔を背ける。
「なんて言うんだろうな。彼の見せる反応は演技ではないし、演技ではないとなると、どうしても経験しているようには見えないんだ」
「……騙されないことを祈る。それで? どうするんだ? まさかダグラスまで行かない間に、それらしい人物に逢えるとも思わなかったが」
「明日ロベール卿に接触してくれ」
「ロベール卿に? おれはあいつは好きじゃない」
「だが、ルノールで素直に情報を漏らしそうなのは彼しかいない。レスター王子に問い掛けても、多分無駄だろうから。彼が一番情報を把握している気はするんだがな。でなければあそこまで庇わない気がするから」
「おれは朝斗と呼ばれる兄の方は知らないが、レスター王子はあの綾都と呼ばれていた側室を、どうもこちらに渡したくないみたいだったな。明日ロベール卿から情報を聞き出して、それがどう転ぶか」
カインの言葉にアレクは頷く。
「惜しむらくはレスター王子もロベール卿も精霊使いではないことだろうな」
カインはそう言ったが今度はアレクは頷かなかった。
以前から胸に燻っていた疑惑が浮かぶ。
それが当たっているかどうか、明日はっきりするような気がした。
ロベールには精霊使いの力はない。
彼にできるのは精霊を見ることだけ。
それも特殊な光景などは見られない程度の力しかない。
その彼の判断と綾都をこちらに渡すまいと振る舞ったレスターの態度の違い。
その意味がはっきりすれば、この疑惑にも答えが出る。
そんな気がした。