第四章 閻魔と来夢
第四章 閻魔と来夢
「ふう。危なかった」
冷や汗を拭うように冥府に戻ってきたハデスは、その足で地獄に向かった。
地獄と冥府は隣り合わせというか、表裏一体で存在していて、冥府の役割と地獄の役割はほぼ一緒だった。
どうしてそんな無駄なことをしたのか、ハデスは知らない。
クルスライムは「だって大勢いる方が楽しいじゃない?」なんて言っていたが、そのクルスライムですら現状を忘れているようだ。
そもそもハデスの妻はベルセフォネーということになっているが、それはあくまでも地球での話。
こちらに召喚された際、ハデスは最初ひとりだったし、ベルセフォネーに至っては、召喚されたのがずっと後ということもあって、ふたりの夫婦生活はほぼ終わっている。
それに……ハデスはこちらに召喚されてすぐに心変わりしていた。
クルスライムに一目惚れしたのだ。
当のクルスライムからは色好い返事はもらえなかったが、それはそれで満足している。
ハデスは元々飽き性だったし、手に入ってしまえば飽きることを熟知している。
だから、手に入らない方がいいという価値観のもとにクルスライムと接していたからだ。
しかし実際のところ、クルスライムがこちらを去ってからというもの、心変わりするだろうと思っていたハデスの愛情は、彼女に独占されたままである。
不思議なのだが彼女だけが特別なようだった。
だから、彼女の帰還を感じ取ったとき、即座に助けようと思ったのだ。
もちろん彼女が本来の力を得ているなら、そんな助力など不要。
それもわかっていた。
だが、彼女から感じる力は弱く昔と状況が一変している今、彼女にひとりで相対させるのは気が咎めた。
だから、迎えに行ったのだが、当のクルスライムには「別人だ」と言われた上に「男だ」と拒絶される始末。
つくづく素っ気ないと感じているが、そんなところもいいとも思う。
しかしハデスは冥府の王なので、個人で動くには限界がある。
ケルベロスが代理をできるなら、別に任せてもよかったのだが、そもそもケルベロスでは冥府は治められない。
だから、地獄へ向かっているのだ。
同じ王という立場にありながら配下に恵まれ、孤高を保っているもうひとりの地獄の王、閻魔に逢いに。
閻魔には牛魔王という配下がいて、王座を巡って争えるほどに力が拮抗している。
といっても実際のところ、閻魔の方が力が上だとハデスは見ている。
牛魔王は力がすべてで、その部分で閻魔に負けているのだ。
それにハデスも閻魔が相手だと互角だろうなとは思うのだが、牛魔王が相手だと負ける気がしない。
つまりはそれが格の差なのだろう。
「あやつにクルスライムを任せるのは非常に気が重いが仕方ない。他に適した者がいないのだから」
そんなことを呟きながら、ハデスは閻魔の居城に立ち入った。
冥府の王ハデスだと知って、閻魔の配下たちが恐れるようにその場を離れる。
そういった面もハデスと閻魔は似ていた。
どちらも自分のことには無頓着だが配下には恐れられ、また敬われているという面で。
王の間に行くと閻魔は牛魔王を相手に遊んでいたようだった。
ハデスにはよくわからない遊びだが、閻魔が元々いた世界ではよく知られた遊びだとかで、閻魔はよく牛魔王を相手に遊ぶようだ。
唸っている牛魔王を放置して閻魔がふっとこちらに顔を向ける。
黒髪はハデスと同じだが、ハデスは漆黒の瞳だが閻魔の瞳は赤い。
血のようなその色が閻魔の特徴だ。
「これはこれは。冥府の王ハデス。珍しいところで逢うものだ。そなたがここを訪れるなど幾年振りか」
「閻魔王はまた牛魔王をからかって遊んでいるのか? 牛魔王は不服そうだが」
「いや。中々楽しいぞ? 牛魔王以外ではダメだな。わたしに怯えて話し相手にすらなってくれない。ハデスも牛魔で遊ばないか?」
「悪いが遠慮する。牛魔王は席を外してくれないか?」
ハデスの率直な物言いに牛魔王は不機嫌そうだったが、閻魔に目だけで指図され仕方なく退室していった。
こういうところに本来の力関係が出ているとハデスは思うのだが、牛魔王は認めようとしない。
一人勝ちしているこの男に彼が勝つつもりがないのだという現実に。
近付いていくと最近地獄でも流行っているというワインを手渡され、ハデスは先程まで牛魔王が座っていた席に腰を下ろした。
「それで? 何用だ?」
閻魔が口を開く。
彼が飲んでいるのはジュースだ。
こちらはハデスが彼に教えた物である。
こうして互いの文化を教え合うことが、ハデスと閻魔のあいだではよくある。
それだけ親しく交流しているということなのだが。
「惚けなくていい。わたしが、俺がどこに行っていたかなど閻魔なら知っているはずだ」
「まあ、な。手酷くフラれたようだな、ハデス」
「……フン。そのつれないところがあの人の良さだ」
「いや。そこまで素っ気なくされていて諦めないのはある種の奇跡だな。感心する」
「そんなに褒めなくても」
本気で照れているハデスに嫌味を言った閻魔は通じていないと知って苦笑する。
この男はこれだから憎めない。
こんな気性でなければゼウスに全知全能の神という座を奪われはしなかっただろうに。
実際のところ、力ではハデスの方が上なのだし。
しかしその優れた力と相反するように、ハデスはお人好しだ。
冥府の王というのが似つかわしくないほどに。
だが、それでも冥府の王。
苛烈な気性も持ち合わせていた。
でなければ閻魔とは親しくなれない。
どちらの要素が欠けていても、今の自分たちの関係はなかっただろう。
「それで? フラれた愚痴でも言いにきたのか?」
「いや。閻魔に頼みがある」
「わたしに頼み? そなたが?」
「俺と違って閻魔には優秀な配下がいる。だから、頼めると思った」
「……なんの話だ?」
「あの人を……護ってほしい」
そげなく袖にされていても、まだ案じているハデスに閻魔は呆れる。
ここまでくると一種のバカだ。
そもそもクルスライムが去るとき、ハデスが全身全霊で引き止めていれば、もしかしたら引き止めることに成功したかもしれないのに。
クルスライムはこの世界を愛していた。
だから、去りたくなかった。
だれかに引き止めてほしかった。
だが、だれも引き止めはしなかった。
1番に引き止めてほしいと瞳で請われたのがハデス。
そしてハデスはそれに気付かなかった。
引き止めてもらえないと知った彼女に泣きつかれたのが閻魔。
けれど閻魔は2番目だということが許せなくて、結局のところ彼女を引き止めたりしなかった。
……後悔しなかったと言えば嘘になる。
特に彼女の最期を知ったときは、2番目でもいい。
引き止めればよかったと激しく悔やんだ。
そんな閻魔にハデスは彼女を護れという。
他でもない。
1番彼女に愛されていた身でありながら、その現実にその価値に気付かず受け流しているハデスが。
「そなた……わかっているか? そんな真似をすれば必ず後悔するぞ。あのときのように」
引き止めなかったことで後悔したのはハデスも同じだった。
あの後何度も愚痴られたからだ。
後悔するぐらいなら引き止めろと何度喉から出かかったことか。
ハデスが自分の気持ちの真剣さを自覚していれば、あの悲劇は避けられたのだ。
なのにハデスは今頃になってそんなことを言う。
閻魔には愚かなことにしか思えない。
人の心は移ろうものだ。
身近にいる人に心は動かされていく。
それは彼女でも例外はないのだ。
あの頃1番身近にいたハデスに心を寄せたように。
なのに……。
「後悔なんて失ったときほどひどく感じることはないだろう。例え俺が愛されなかったとしても、だ」
「そなたはバカだ。どうして気付かない? 彼女が見ていたのは」
「閻魔だろう?」
究極の勘違いに閻魔は開いた口が塞がらなかった。
呆気に取られてバカげたことを口にするハデスを凝視する。
「彼女の瞳に映っていたのは、いつも閻魔だった。だから、閻魔なら彼女を引き止めるだろうと思っていたんだ」
「そなた……もしかして本物のバカか?」
「その言い方はひどい」
「いや。今の話を聞いてどうしてハデスが行動に出なかったのかよくわかった。ここまでいくと救いようがないな。本物のバカだ」
「いくら閻魔でもひどいぞ、それは」
見えるはずのものを見ずに無闇に手探りしていて、なにを言っていると閻魔は言いたい。
ハデスがここまでバカだとは。
そもそも彼女に1番に召喚されたのが自分であるという時点で気付けと思う。
閻魔が召喚されたのはハデスより後だ。
正確には2番目。
だから、自分たちは似たり寄ったりの立場も相まって親しい反面、反目もした。
だが……。
「それとも二郎真君が好きなんだろうか? 閻魔に対してよく当て付けのように二郎真君の名を出していたが」
「いや。あれはただな好奇心だと思うが……そなた本当にバカだな」
「バカバカとひどいぞ、閻魔」
「いや。本気でそう思ったから。天然記念物ものの鈍感さだ」
「じゃあ釈迦如来? 彼女は俺たちの神話より、そちらの方に関心があるようだったが」
どんどん話がズレていくハデスに閻魔は面白そうに彼を眺める。
これほど愉快なことはない。
ハデスがここまでバカだとは思わなかった。
1番の恋敵に愛する女性の護衛を頼もうとしている。
バカげたほどの純情だ。
だが、だからこそあの頃は愛されたのだろう。
ハデスはあの頃のまま変わっていない。
変わったのは彼女の方だ。
閻魔に護衛を頼むことで、それがどう転がるか、ハデスは全く意識していない。
これではズルい真似はできないなと、閻魔は内心でため息をつく。
無理に心をねじ曲げる真似はできない。
だが、自分なりに誠意を尽くすのなら許されるのではあるまいか。
そんなことを思ってしまう。
「閻魔しか頼めない。俺が実力を認めている男は閻魔だけだ。閻魔以外の男には頼めないんだ。引き受けてくれないか?」
「構わないが……番犬を置いてきたのだろう? そなたの番犬とわたしは犬猿の仲だが?」
「ああ。そういえばそうだったな。ケルベロスの奴、俺以外に王を名乗っている閻魔が許せないとかで、閻魔にはよく突っかかってるから」
「絶対にぶつかるぞ。いいのか? そもそもそなたがいないと番犬では冥府に戻れないし」
「うーん。そこは閻魔に大人になってもらって」
「バカを言うな。わたしにも自尊心はある。ことごとく逆らってくる番犬に優しくなんてできないぞ」
「だったら俺の方から閻魔と協力しろと言っておく。俺の方から全く護衛を出さないというのもやりたくないから」
「全く。そなたときたら」
どこまで真っ直ぐなのかと閻魔は今更のように思う。
この男が全知全能の神だったら、向こうの神話も変わっただろうに。
まあ尤も。
その場合、自分たちがこれほど親しくなることはなかったのだろうが。
「あ。ところで彼女は男だと言っていたんだが、どういうことだろう?」
首を傾げるハデスに言ってみる。
「そなたの眼には男に見えたか?」
「男だと言われればそう見えたが、そう見えない面があったのも事実だ。どっち付かずというか」
「ではその通りなのだろう」
「というと?」
「どちらでもない。またどちらでもあるということだ」
「よくわからない」
「その内わかる。そなたも仮にも冥府の王だ。上辺に騙されるわけがないだろうから」
「閻魔にはわかるのか?」
不思議そうなハデスに閻魔は答えずに笑った。
素直なハデスが「ズルい」と拗ねたのは言うまでもない。
ケルベロスがやってきて来夢の周囲は一変した。
それまでも特に親しく振る舞ってくれる人がいたわけじゃない。
宮殿にはきたばかりだったし外見のこともある。
だから、どう変わったのか自分でもよくわかっていない。
だが、悪化したんだろうなということは、なんとなく見当がつく。
「ケルベロス。頼むから距離を空けてくれよ」
どこに行くにもついてこられて、来夢はホトホト困っている。
ケルベロスがいるとだれも近付いてきてくれないのだ。
彼に言わせればそれにも正当な理由があるということだが。
「クルスライムをひとりにはできない。ご主人様の命令だ」
「そうかもしれないけど、これじゃ肩が凝るよ」
どう言っても譲らないケルベロスに、忠義ものだなあなんて来夢は考える。
あのどこか1本ネジがトンでるようなハデスのどこに、それだけの魅力があるのかは知らないが。
どうしても引き下がってくれないので、来夢は最後の手段に出た。
用を足すフリでやってきて、フッと振り返る。
「まさか中までついてくるとは言わないよなあ?」
「ここは……」
「獣の用足しは草原と相場が決まってるよな?」
嫌味を言われてケルベロスはスゴスゴと引き下がった。
それを見届けて来夢は中に入る。
用は足さずに1番奥まで進み、その更に奥にある窓へと近づく。
臭いを消すためか、こういうところにはすべて外へと続く窓がある。
それを来夢は知っていた。
人間用は足さないと生きていけないのだから。
尤も。
最初は使い方がわからなくてケリーに教えてもらったが。
窓枠に手をかける。
そうして片足を引っ掛けて、よいしょっと外に転がり出た。
ベタッと地面に落ちて慌てて顔を上げる。
宮殿から逃げる気はない。
ケリーたちに危害を加えられる恐れがあるから。
ただケルベロスからすこし離れたかったのだ。
まだ気付いていないのを確認して、来夢は一目散に駆け去った。
どこをどう走ったのか、来夢は知らない間に見覚えのない回廊まで移動していた。
クリスたちも来夢がひとりで出歩くことを嫌うので、来夢はあまり宮殿内部に詳しくない。
そのせいか自分がどこにいるのかわからなかった。
「ここ。どこだろう?」
首を傾げる。
そのとき横から伸びた腕に口を塞がれ、来夢はシタバタと抵抗した。
視線だけを向ける。
そこにいる青年の格好はどこからどう見ても神官のものだった。
(もしかして大神殿の神官? ヤバい!!)
慌てて抵抗するものの、相手はなんなく来夢の抵抗を捩じ伏せていく。
「おい。早く連れてこい。殿下方に見付かるとマズイ。何度要求しても引き渡していただけないのだから」
柱の影からそんな声がする。
その声の方向へ青年は来夢を引き摺り出した。
暴れても暴れてもそもそも体格が違うので勝負にならない。
引き摺られていくしかない来夢は、内心で自分の行動を悔やんでいた。
素直にケルベロスに護られていればよかった、と。
(あー。こういう相手には普通はさ、なんとかしてくれる正義のヒーローみたいなのが出てくるべきじゃないの?
この世界なら……そうだなあ。悪者なら閻魔大王にでも退治してもらうとか)
そう考えたとき、来夢の周囲でギュルギュルと妙な音がした。
引き摺っていた青年も隠れていた神官たちも、驚いたように来夢を見ている。
その来夢もなにが起きたのかわかっていなかったが。
ただひたすら考える。
悪いことしたら閻魔大王に舌を抜かれるなら、こいつらこそ抜かれるべきだ、と。
虹色の魔方陣が顕れたのはその瞬間だった。
異様なその光景に神官たちは金縛りにあったように動けない。
虹色の魔方陣からひとりの青年が現れる。
黒髪に赤い瞳。
異様なまでの風格と威厳を兼ね備えた青年が。
その眼がゆっくり神官たちを捉えた。
来夢はびっくりして彼を凝視している。
「ふむ。自分でくる前に召喚されてしまったな。さすがはクルスライムというべきか」
ハデスと話し合っている最中にいきなり召喚されてしまった閻魔は、自分を凝視している少年を見てそう呟く。
顔立ちもなにもかも違う。
だが、ハデスにすら同一人物と感じ取らせたほど、なにも変わっていない少年がいる。
懐かしいなと瞳を細めた後で閻魔はその場を一瞥した。
神官たちが震え上がる。
彼らは閻魔王の姿を見知っていた。
神話で伝わっているからだ。
彼が閻魔だとわかるので怖くて動けないのである。
「神官たちも落ちたものだ。彼には手出ししないでもらおうか? 閻魔王の名において彼には手出しさせない」
閻魔が片手を差し出すと神官たちが苦しみ出した。
来夢はなにが起きたのかわからないまま、彼らをじっと見ている。
口を押さえる腕も解放されて戸惑いながら。
気絶する程度だけ彼らの周りの空気を抜いた閻魔は、死なない程度にそれをやめると片手をおろした。
バタバタと倒れる神官たちを眺めてから、来夢がゆっくり閻魔を振り返る。
「あの……本物の閻魔様?」
「閻魔様、か。そなたにそんなふうに呼ばれるとは思ったこともなかったが」
「え? だってあの嘘をつくと舌を抜く閻魔様だよね?」
「そなた。すこし考えて話しなさい。それは子供に言い聞かせる話で、現実のわたしとは関係がない。それは確かにわたしは嘘が1番キライだが」
「だったら魂を喰っちゃう閻魔様?」
「だから、様はいらない。そなたに様なんて呼ばれると気持ちが悪い」
閻魔に顔をしかめてそう言われ、何故だか来夢は叱られた気がして小さくなる。
ハデスと立場は似たり寄ったりのはずなのに、この威厳の差はなんだろう?
「どうしてそんな顔でわたしを見る?」
「いや。ハデスと似たような立場にいるはずなのに、この威厳の差はなにかなあって考えてた。
ハデスが相手のときは怒られても叱られてる感じはしなかったのに、閻魔……王だとなんかすごく叱られてる感じがして肩身が狭い」
「いや。それはただ単にハデスがバカなだけだと思うが?」
苦笑いの閻魔王にそう言われ、思わず来夢は身を乗り出した。
「そうだよなあ? ハデスってバカだよなあ? よかった。俺だけじゃないんだ。そう感じてるの。仮にも冥府の王をバカって感じたから、俺がおかしいのかと思ってた」
思い切り安堵する来夢に事情を知っている閻魔もすこしハデスに同情する。
まさか拒絶されただけではなく、そんな感想を持たれているなんて想像もしていないだろうに。
ちょっと気の毒だった。
「それより魔方陣が邪魔だ。消してくれないか? このままでは返還されてしまう」
「え? でも、俺、なにもしてないけど?」
「自覚がないのか? とにかく虹色に輝いているこれを消したいと願うのだ。返還したいではなく消したい、と」
「消したい?」
そう願えと言われて願った途端、閻魔が立っていた魔方陣は消滅した。
閻魔を残して。
来夢はキョトンとそれを見ている。
「この潜在能力。やはりクルスライムだな」
「あんたもそれを言うのか、閻魔王? 俺は確かに来栖来夢だけど、あんたらの知ってるクルスライムじゃないっ!!」
腹立たしげに叩き付ける来夢に閻魔は優しい笑顔を向ける。
「そなた……今は東洋人の顔をしているな。名はなんと書く?」
閻魔に手を差し出され、来夢は彼の掌に「来栖来夢」と書いた。
「これで来栖来夢か。変わった呼び方だ」
「閻魔よりマシだと思うけど。それに俺の名前は来夢で来栖が苗字だよ」
「なるほど。今度は来栖来夢で姓名を意味しているのか。なるほどな」
「今度今度ってまた人違いしてる?」
来夢がムッとして睨むと閻魔はなにも言わずに笑った。
余裕のあるその笑みに来夢は唇を尖らせる。
そこへ焦ったようにケルベロスが駆け込んできた。
「クルスライム!!」
「ケルベロス」
振り向いた来夢が名を呼ぶ。
そこに無事な来夢の姿を見て安堵したとき、ケルベロスは傍らに立つ閻魔王の姿にギョッとした声を出した。
「閻魔王!? 何故ここにっ!?」
「ご挨拶だな、番犬?」
「番犬って言うな!!」
「わたしは来栖来夢に召喚されてここにいる。咎められる謂れはないな」
「召喚されたのならさっさと返還されろっ!! クルスライム!! 呼び出したときの魔方陣は!?」
「え? あの虹色の変な模様? 閻魔王が消したいって願えって言うから、願ったらホントに消えちゃったけど?」
「つまり……閻魔王は還れない?」
自分がやったことをまるで理解していない来夢にケルベロスは途方に暮れた。
召喚されたのに返還されるために必要な魔方陣が消滅しているのだ。
今の来夢が自分で魔方陣を呼び出したりできない以上、閻魔は地獄へは戻れないということである。
「謀ったなっ」とケルベロスは閻魔を睨んだが、すぐにハデスの映像が現れた。
『ケルベロス』
「ご主人様!!」
『閻魔にクルスライムを守護するよう護衛を頼んだのは俺だ』
「我がいるのにどうしてそんな真似を」
『本当は自分で付き添いたいほどなんだ。冥府の王である以上俺にはできないが。閻魔なら代理がいるからできる。だから、頼んだ。ケルベロスも閻魔に協力してクルスライムを護ってくれ』
「協力? この男と?」
ケルベロスがいやそうに吐き捨てる。
閻魔は苦笑した。
ハデスにはああ言ったが、閻魔にしてみればケルベロスの嫌悪はわかりやすい分、適当に受け流しやすかったので。
さっき「バカだよなあ」なんて言ってしまったハデスが現れて、来夢は気まずくて顔を背けている。
「そなた……妬いているだろう? ハデス」
閻魔に指摘されたくないことを指摘され、ハデスは慌てて咳払いした。
当の来夢に通じていなかったので、この嫌味は意味を持たなかったが。
ハデスは来夢が危地に陥ったとき、召喚した相手が閻魔で妬いているのだ。
その顔に不満の色があるので閻魔にはわかりやすい。
こういうところが可愛いなどと笑っていたが、ハデスは気付かない。
とことん冥府の王らしくないハデスなのである。
『とりあえずクルスライムが一度召喚術を使ってしまった以上、気付いた者が他にいても不思議はない。クルスライムの護衛をよろしく頼む、閻魔』
わかった、と答える前にハデスは消えてしまった。
妬いていることを指摘され、照れて逃げたのだろう。
「ハデスは可愛いと思わないか?」
「可愛い? ウーン。バカなところを可愛いと言えばそうかも」
妬いていることを指摘され、恥ずかしくて逃げ出すなんて可愛いではないか。
そう言おうかとも思った閻魔だったが、それを言うのはなんだか悔しくて言えなかった。
来夢がハデスに傾きそうで。
「とりあえずそなたが世話になっている者のところへ行こう。いきなり出てきて住まわせてくれというのは、さすがに身勝手な望みだろうから。許可はもらわなくては」
「閻魔王って律儀なんだ?」
「嘘をキライそれで人々を罰する以上は自分も筋道を通す。当然のことだろう?」
来夢に笑顔で言われて閻魔もすこし嬉しかった。
そんなふたりを見てケルベロスは不機嫌そうだったが。
そうしてこの日から来夢の護衛はケルベロスに加えて地獄の覇王、閻魔王が加わったのだった。
来夢はケルベロスに案内されるまま、第一王子クリストファーの下を目指した。
当然かもしれないが閻魔の姿はこの世界では有名である。
元の世界、地球では想像でしかなかった閻魔の姿だが、こちらでは実体を持っている分、人々の意識も違う。
地獄の覇王、閻魔の登場に周囲は青くなって黙り込んでいる。
「閻魔王はさあ」
突然話し出した来夢に閻魔は歩の速度を落とさないまま振り向いた。
「閻魔でいい」
「でも」
「閻魔王とは称号だ。普通にわたしを呼びたいのなら閻魔でいい」
元々そなたは閻魔と呼んでいたしという言葉を閻魔は飲み込んだ。
自覚のない来夢には過去と比較されるのか1番いやなことだと掴んだからだ。
そう言われ来夢がニコッと笑う。
あどけない笑顔だなと閻魔は思う。
クルスライムの頃とすこしも変わっていない。
「閻魔はさあ。ハデスと仲良いのか?」
「何故だ?」
「いや。さっきハデスが俺の護衛を閻魔に頼んだとかなんとか言ってたじゃん? それって護衛を頼まれて引き受ける程度には仲が良いってことだよな?」
「まあ普通に知己ではあるが」
友人というのともすこし違うなと閻魔は思う。
ハデスとの関係は言葉では片付けにくい。
「友達?」
「さあ。どうだろうな? 友人という言葉では括れない関係な気はする」
「閻魔ってハデスより年上?」
「それはわたしも知らん」
「そうなのか?」
「そもそもわたしもハデスも神話上の存在。年齢を意識することそのものが変だ。
地球では実在していたというよりも、あの頃はあくまでも信仰の中の存在だったわけで、年齢なんてあってなきが如しだったからな」
「ふうん」
確かに地球上では実在していたと言われると来夢としても違和感はある。
そんなの聞いたこともないからだ。
だから、こちらにきてから実体を得たというのなら、なんとなく納得はできる。
こちらに召喚されることで神々は実体を得たのだろう。
だから、年齢を問うことが間違い。
そう言われると納得するしかない。
「クルスライム。そんな男と会話する必要はない。どうしてご主人様のときと対応が違うんだ?」
納得できないと割って入るのはケルベロスである。
唸るようなその声に不満の色がある。
不満をぶつけられた来夢は困ったような顔になる。
「それはハデスに言えよ。あいつを相手にこういう態度は無理だよ。なんか腹が立つから」
「何故だ!?」
振り向いてクワッと目を見開くケルベロスに思わず来夢は後退った。
「ケルベロス。怖い」
元々が獰猛な獣の姿をしているのだ。
こんなふうに威嚇されたら来夢としても怖い。
来夢も普通の少年なのだし。
まあこちらにきてから、こういう非日常的な出来事にも、だいぶ耐性はできた気はしているが。
「番犬。自分の姿を意識して振る舞え。来夢を怖がらせてどうする?」
閻魔が庇うように来夢を抱き込む。
その様子にケルベロスは益々唸る。
それがハデスを気遣うあまりの言動であると、肝心の来夢は気付かない。
閻魔の腕の中でこのふたり(?)って本気で仲が悪いなあなんて感じていた。
それからしばらくは無言で歩いた。
なにしろ案内役のケルベロスが不機嫌で、来夢も口を開けなかったのだ。
そうしてどのくらい歩いたのか、ケルベロスはひとつの扉の前で立ち止まった。
「そこに人の世の王子たちはいる。どうやら執務室のようだな。自室ではなさそうだ」
「どうしてわかるんだ?」
「自室はやはりニオイが濃い。執務室などの仕事で使用する部屋のニオイとは、まるで違うものだ。だから、区別もできる」
「へえ」
感心しながら来夢は扉をノックした。
「どうぞ」
聞こえてきたのはクリスの声だった。
ということは彼の執務室かなと思いつつ来夢は扉を開けた。
「ライム」
中にいたクリスが驚いたように来夢を見ている。
その傍には報告でもしていたのかアルトの姿がある。
彼も驚いた顔で来夢を見ていた。
「どうやってここまできたんだい、ライム? きみは宮殿の内部には詳しくないはずだけれど?」
「ケルベロスに案内してもらった」
「なるほど。冥府の門番とはいえ、やはり獣。鼻は確かだということか」
納得したクリスの横でアルトが怪訝そうな声を出した。
「背後にだれかいるのか、ライム? 人の気配を感じるが」
「あ、うん。ハデスが俺の護衛を頼んだらしくて、護衛がひとり増えたんだあ。それで紹介してくれっていうから連れてきた」
「「護衛?」」
呟いて顔を見合せるふたりの前で来夢が中に入り、続いて神話でよく知られた姿をした閻魔が入ってくる。
さすがのふたりも息を飲んで硬直した。
まさか閻魔と対面することがあろうとは思わなかったので。
「まさかとは思うけれど閻魔王……ですか?」
「如何にも。これから世話になるからな。挨拶くらいはするだろうと思ってな」
「ハデスに護衛を頼まれたって何故? そもそもハデスはケルベロスを置いていったはずじゃあ?」
「確かにハデスに護衛を頼まれはしたが、正確にはわたしがここにいるのは、栗栖来夢に召喚されたからだ」
「「召喚っ!!」」
ふたり揃って叫んでからクリスが来夢に問いかけた。
「きみ……媒介を持っていたのかい?」
「媒介? いや。そんな変なの持ってない。そもそも召喚したって言われたって、俺、なんにもしてないし」
「しかし現実に閻魔王はそこにいる」
「栗栖来夢には召喚の際に媒介はいらぬ。念じるだけでよい」
「「まさか」」
ふたりの驚愕の声に閻魔は淡々と答えた。
「だが、事実だ。今の栗栖来夢では立て続けの召喚は難しいだろうが、力を取り戻しはじめたら、もっと楽に召喚ができる。そうすればわたし以外にも召喚される神は出てこよう」
「つまりライムには神々が召喚できる?」
「それ故にクルスライムなのだ」
断言されてふたりとも黙り込んでしまった。
それは現時点で最強の召喚師ということなので。
「なんかよくわからないけど閻魔の部屋はどこになるんだ? クリストファー王子」
「ちょっと待て。わたしの部屋ということは番犬は?」
「え? ケルベロスは俺の部屋にいるけど?」
「番犬」
低い声で名を呼ばれ、逆鱗に触れたとわかったケルベロスはとっさに距離を空ける。
閻魔の逆鱗に触れるとさすがのケルベロスでも対抗できないので。
「ハデスはそこまでしろと言ったのか?」
「護衛をする以上同室は当たり前だろう。眠っているときになにかあったらどうする?」
「ほお。では着替えや入浴の際は?」
ケルベロスは答えない。
実はその際も同室なのだ。
さすがに来夢に嫌がられるので視線は向けない。
部屋の隅に陣取って来夢の方は見ないが、絶対に傍を離れない。
そういう事情なのだ。
来夢がうっとうしくなって逃げ出したのも無理はないのである。
「どうやら殺されたいと見える」
閻魔からゆうらりと陽炎のようなものが立ち上る。
それが怒りのオーラであると部屋にいた3人にもわかった。
思わず青くなって後ずさる。
「クルスライム!! 助けないか!!」
「いや。でも……今の閻魔、怖い。止める勇気なんてないよー」
来夢は部屋の壁まで後ずさって顔を背けている。
「薄情者ーっ」
そんなケルベロスの絶叫が響いたが、部屋にいた3人は絶叫が聞こえなくなっても、頑なに顔を背けていたのだった。
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