第三章 ハデスの誘惑




 第三章 ハデスの誘惑




「で? なにを知りたいの?」

 講義までは時間があるからと、ルヴィに図書館に連れてこられた来夢は、途中で何度も凝視され居心地が悪かった。

 黒髪、黒瞳が珍しいらしく、通りすぎる者すべてに注視されたのだ。

 できればこれ以上注目を集めたくないと思いつつ声を投げる。

「この世界……国の神々について知りたい」

(この世界って言ってから国って言い直した?)

 怪訝に思ったがルヴィは彼の言うとおり神話の書物を手に取った。

「この国の神々って基本的には大勢いてね? 大神ゼウスなどが有名ね。元はギリシャの神々だとか」

「ギリシャ……知ってるのか?」

 来夢の驚きの意味がわからなくてルヴィは首を傾げる。

「大神ゼウスがそう名乗ったそうよ? ギリシャ神話の大神だと」

 これこれと開いた書物を指差すルヴィに来夢も本を覗き込んだ。

 そこには精悍な顔立ちの男性が描かれている。

「これがゼウス?」

「そう伝わっているわ。ゼウスの兄神で対立している関係なのが冥府の王ハデス」

 パラリとページを捲ると黒装束の男性の肖像画があった。

 おそらくハデスなのだろう。

「ハデスは冥府以外には住めないと言って、無理にこちらに冥府を造ったらしいのよ。ギリシャではどうしていたのかしらね?」

「普通に冥府にいたんじゃないか?」

 来夢に平然と返されて、ルヴィはますます怪訝な気持ちになる。

 こちらの説明することを彼はすべて飲み込んでいるように見える。

 言葉も通じないのにそれは変だ。

「ハデスがいるなら、もしかして冥府の門番はケルベロス?」

「どうしてあなたが知ってるの? 異国人でしょう?」

 問いかけられると来夢は口を噤んでしまった。

 それで知られたくないのかなとルヴィは判断した。

「じゃあハデスの奥さんは?」

「奥様? 女神ベルセフォネー様のこと?」

「やっぱりいるんだ?」

 ハデスと共に召喚されたようだ。

「他には?」

「そうね。太陽神アポロン。月の女神アルテミス。美の女神ヴィーナス。戦いの女神アテナなどが有名ね。あとは今はいないけれどアポロンと同じ太陽神アマテラスとか、月の女神アルテミスとすごく仲のいいらしい同じ月の女神のツクヨミとか」

「なるほど」

 そう呟いてから来夢は「夢で説明されたとおりだな」とボソッと呟いた。

 しかしその言葉はしっかりルヴィの耳に入った。

(夢って?)

 疑問には思ったが顔に出さずに説明を続けていく。

「この世界には月がふたつあるでしょう?」

「うん」

 最初は驚いたけどと、来夢は心の中で呟く。

 それもあって異世界だとすんなり納得できたのだ。

 地球の月はひとつなので。

「昔は月はひとつだったのよ。月の女神がふたりになるまでは」

「じゃあ太陽も昔はふたつあった?」

「どうしてそのことを知ってるの? それは神殿の神宮や巫女たちか、もしくは王族しか知らないことよ?」

「アマテラスがいなくなったから、太陽はひとつになったのかなと思ったんだ。知ってたわけじゃないよ」

 来夢はこれでひとつ暴露してしまった。

 一部の者しか知らない極秘事項のアマテラスが現在はいない、という事実を知っていると。

 ルヴィは眉をしかめたが、それ以上顔に出すことはなかった。

「そのたったひとつの太陽で、クルスを砂漠化に追い込んでいるわけか。すげえなアポロンって」

 ぶつぶつ呟く来夢にルヴィは何度目かわからない疑問を抱く。

 調べたいと言って言葉も通じないわりに、彼は神話に詳しすぎる。

 それもこの世界の神話はそのまま召喚術に通用するものだ。

 つまり来夢の持っている知識は召喚術に関するものということになる。

 どういうことだろう?

 それにアポロンが砂漠化の原因と言った。

 それは聞いたことがない。

 確かに現状を招けるのはアポロンだけだが、神を召喚できる召喚師がいなくなって、そのアポロンも表に出られなくなった。

 だから、真剣にそれを疑う者もいなかったのに。

「冥府があってギリシャから神々を招いたってことは、クルスの人々は異世界との行き来もできたってことなのか?」

「それについては答えられないわ。王族だけの重要な機密なの。それにわたくしも教わっていないし、こういうところに置かれている書物には、おそらく書かれていない事実だと思うわ」

「そっか。それもそうだよな。クルスにとっては重大な知識だもんな」

「それについて知りたければ、クリス兄さまにでも訊ねるしかないんじゃないかしら? もしくはアルト兄さまか。少なくとも王女が知るような内容の知識ではないわ」

「あのふたりかあ」

 来夢は頭を抱えてしまった。

 こうしてふたりで過ごしてルヴィは違和感を感じていた。

 不思議なほどに異性とふたりきりで過ごしているという実感がない。

 何故か同性の友達とこうして過ごしているような錯覚が消えないのだ。

 どういうことなのか、自分でもわからない感覚だった。

「ケルベロスってやっぱり頭が3つあるのかな?」

「ケルベロス? いいえ。獰猛ではあるらしいけれど、頭はひとつだって聞いているわ。ただ黄金の瞳をしていて、まるで獅子のようなたてがみをもった狼みたいな体躯だって。ほら」

 そう言われて示されたページには、ケルベロスらしい獣の姿が描かれていた。

 確かにライオンのたてがみみたいなものをもった狼みたいな獣が描かれている。

「どうして頭が3つあるなんて変な想像したの? そんな動物は聞いたこともないわ」

「いや……そんな気がしただけだよ」

 まあ地球でも諸説は色々あったし、そもそも実体のない幻の獣だ。

 どういう形で召喚されていても不思議はないのだろうが、これがケルベロス。

 やはり来夢の知っている神話とは、すこし形が違うようだ。

 こういうケルベロスは聞いたことがない。

 地獄の門番というより、なんていうか獅子の姿をした狼といった感じだ。

「他の神々は?」

「そうね。あとは色々知っているけれど、有名ではないわね」

「どうして?」

「有名な神々って要するに人間に協力的だった神々なの。たとえば大神ゼウス。その昔人間のためによく動いてくれたらしいわ」

「ハデスも? 冥府の王なのに?」

「ハデスの場合はどちらかといえば、死者の管理をやってくれていたのよ。人間の魂が正しい形で転生できるように手助けしてくれていたのがハデスなの」

「へえ」

 つまり有名な神々は人間に召喚できて、その力を振るってくれた神々ということなのだろう。

 有名じゃない神々はおそらく召喚したものの、人間には扱いきれなかった神々に違いない。

「この世界に添わない魂は、ハデスによって弾かれるとも聞くわね。それも今となってはただのお伽噺だけれど」

「この世界に添わない魂?」

 来夢は真っ青だった。

 ルヴィは首を傾げる。

「どうかしたの?」

「なんでもない」

 そう答えるものの真っ青なままだった。

 それから物思いを振り切るようにポツリと呟いた。

「どうしてポセイドンを召喚しなかったんだろう?」

「え……?」

(どうして彼が実在しない海神ポセイドンの名を知っているの? そんな人には逢ったことがないわ。神官でもないかぎり、知らされない名前なのに)

 ルヴィの驚愕に来夢は気づかない。

 彼女が持っていた書物をパラパラと捲っていくだけで。

「やっぱりポセイドンらしき神々はいないな。いたら今頃は世界の様相も変わっただろうに」

「ライム。あなたどうして……」

「なに?」

 振り向いて見上げる来夢には問題発言をしたという意識は見受けられない。

 だから、ルヴィはさりげなく誘導した。

「どうしてポセイドンがいないのか、それはここに書いているわ」

 適当なページを指差す。

 彼はなにも気づかないまま、そのページに目を落とした。

 だが、その顔に疑問の色は浮かばない。

「ごめん。読んでくれないか?」

 やはり彼は文字を読めていない。

 認めていたら全く関係ないページだと、すぐに気づいたはずだ。

 だったら何故ポセイドンの名を知っている?

 今では知っている者の方が少ない神なのに。

「あれ? このページに載ってる神って阿修羅じゃないのか?」

 3つの顔を持つ神が描かれていて、その姿は仏像でよく見掛ける阿修羅に似ていた。

 来夢が怪訝そうにルヴィを見る。

「どういうことだよ? これ、ポセイドンのページじゃないだろ?」

「あなた……神話を調べる必要ないんじゃない?」

「え?」

 来夢は驚いた声を上げたが、ルヴィは真剣なようだった。

「少なくともあなたはこの国の神話について、とても詳しい部類に入るわ。大神官にも匹敵するんじゃないかしら」

 これには来夢もなにも言えなかった。

 知らないあいだに地球での知識を披露していたようだと気づいて。

「どこで覚えたのかは知らないけれど、あなたが知りたい知識は、わたくしでは教えられないわ。わたくしよりあなたの方が詳しいみたいだもの」

「それはその」

 たしかに来夢は昔から神話には興味津々で、色んな国の神話を調べていたから、年頃の同性と比較すれば物知りな方だ。

 だが、そのせいでここで疑問視を向けられるとは思わなかった。

 できれば召喚術について問いかけたかったが、どうやら状況が許さないらしいと来夢にもわかった。

 墓穴を掘ったことを苦く噛み締めながら。

「じゃあわたくしはそろそろ授業の時間だから」

 そい言って本を閉じたルヴィに来夢もなにも言えなかった。

 彼女が閉じた本のページには見覚えのない神が描かれている。

 首を傾げる。

「さっき開いたページに載っていた神って?」

「え? ああ。力の番人ドルトスね」

「力の番人ドルトス?」

 これは聞き覚えのない名前だった。

 この世界特有の神だろうか?

「この世界で力の均衡を司っている神よ。ゼウスですら彼を無視して力を振るえないらしいわ」

「へえ。『はじまりの女神』でさえも?」

「『はじまりの女神』は特別よ。どうしてあなたが知ってるの? ドルトスの名前は知らなかったのに」

 問われても来夢にも答えられない。

 しかしこれであの夢が普通の夢ではないことは明らかになった。

 どうして来夢があんな夢を見たのかはわからないままだが。

「とりあえずありがとう。そろそろ部屋にもど……」

 言いかけて来夢の眼が点になった。

「あれ? 眼の錯覚かなあ?」

「どうしたの?」

 眼をゴシゴシこする来夢にルヴィが怪訝な声を出す。

「あれ、なんに見える?」

 来夢が指差す方をルヴィが振り向く。

 同時に彼女の身が竦む。

「ケルベロス」

「やっぱりケルベロスに見えるんだ? 眼の錯覚じゃない?」

 獰猛な唸り声をあげる獣にふたりして後退する。

「なあ。どうしてだれも気づかないんだ? 図書館ならもうすこしくらい人がいたって」

「ここは王族専用の図書館なのよ。兄さまたちでもないかぎり人はいないわ」

「それって絶体絶命って言わない? アハハー」

 来夢の乾いた笑い声にもルヴィは反応を返せない。

 そのとき、唸るケルベロスを撫でる手が見えた。

 徐々に姿を現す黒衣の青年にふたりして眼を瞠る。

「落ちつけ、ケルベロス。警戒させるのは得策ではない」

「「冥府の王ハデス」」

 ふたりで彼の名を呼ぶ。

 名を呼ばれた彼は冥府の王の呼び名には相応しくない屈託のない笑みを見せた。

「そなたを迎えにきたぞ、ライム」

「なんで」

 来夢が強張って後退る。

 ルヴィも意外なことを言われ、ふたりを交互に見た。

「そなたが地上にいるのは困る。だから、冥府まで迎えにきた。どこか変か?」

「全部変だよっ!! なんで俺が冥府に行かないといけないんだっ!?」

「ベルセフォネーもそなたを待っている。駄々をこねずにこい」

「話通じてないしっ!!」

 来夢は力一杯拒絶しているが、ハデスは聞いていないようだった。

「どうしてそこまで駄々をこねる? 悠久の時代離れ離れだったからか? だが、この世を去ったのはそなたの方だ。我々の落ち度にされても」

「いい加減にしろっ!! なんのことかわからないっ!! 人違いも程々にしてくれよっ!!」

「人違いではない。そなたはクルスライム。そうだろう?」

 ギクリと強張った来夢に意外な呼び名を聞いたルヴィも驚いたように彼を凝視する。

「しかし嘆かわしい。何故に男装など?」

「男装……?」

 来夢がブルブルと震える。

 絶対そうだ。

 ハデスはだれかと来夢を人違いしている。

 同じ名前らしいが絶対に人違いだ。

 大体来夢は男装なんてしていない。

 これが普通の格好だ。

 少なくともまだ。

 怒りを込めてハデスを睨みつけた。

「あんた……本格的に人違いしてるよ。俺は男装なんてしてない。俺は……男だっ!!」

 言い切るとハデスが「ガーン」と顔に書いて固まった。

 どうやら意外すぎたようである。

「男? 男? 本当に?」

「なんで嘘つかないといけないんだよ? 初対面のあんたに嘘ついても、俺にはいいことひとつもないだろっ!!」

「だが、ケルベロス」

 ハデスが困惑と顔に書いて、自らの傍で踞る門番に声を投げる。

「彼……はクルスライムだろう? 気配がそうだし力の波動もそうだ。おまけに生命の脈動まで。これで人違いと言われても……」

「悪いがご主人様、彼はまだ覚醒していない。我にはご主人様のようには感じられぬ。そこにいるのはただの人間の子供だ」

「覚醒前? なるほど。なら男でも不思議はないな」

 なにやら納得するハデスに来夢は拳を震わせた。

 人違いだと言ったのに、どうやらハデスは人違いじゃない方に納得したようだ。

「どうやら人違いだと思い込んでいるのはそなたの方だ、クルスライム」

「だからー。なんでそうなるんだよ?」

 来夢は話が通じなくてイライラしている。

「わたしは冥府の王。魂の輝きは間違わない。それにケルベロスもそなたが覚醒前だと言っているし、その場合そなたに自覚がなくて、まして男でも大した問題はない」

「問題だらけだろっ!! 大前提として人違いってのがあるっ!! そもそも魂の輝きとか言われたって、そんなのだれが信じるよっ!?」

「少なくともそこにいる少女は信じると思うが?」

 ハデスにルヴィを指差され、来夢はすがるように彼女を振り向いた。

「信じたなんて言わないよな?」

「……悪いけれどどちらの言っていることが事実なのか、わたくしには判断できないわ。だってライム。相手は冥府の王なのよ? 彼の言っているように魂の輝きは……ごまかせないわ」

「そんな」

「ただあなたがごまかしたくて、必死になって嘘をついているようにも見えない。申し訳ありませんが冥府の王。ここは退いて頂けませんでしょうか? ライムもなにがなんだかわかっていない様子。今無理強いするのは可哀想です」

 疑っていると言いつつも庇ってくれたルヴィに来夢は感激の目を向ける。

「そういうわけにはいかないのだ」

「何故でしょうか?」

「このままではドルトスたちが気付く。気付けば反乱が起きるだろう」

「力の門番ドルトスですか? 反乱? どうして?」

 ルヴィの問いかけにハデスはため息をつく。

「クルスライムが戻ってきたのに、クルスライムとしては存在していないからだ」

「わかりません。なんのことですか?」

「アマテラスをどうした? クルスライム?」

 問いかけには答えずにハデスはそう言った。

 言われた来夢は夢で聞いた情報を思い出す。

「俺は知らない……って言いたいけど、どうもアマテラスは元の場所。つまり日本にいるらしいよ。だから、ここにはいない」

「なるほど」

 ハデスが納得の声を出すのと、ルヴィが驚愕の視線を向けるのは同時だった。

「ではますますそなたには一緒にきてもらわなければならない。アポロンが気付けばそなたを放置しないだろうからな」

「だからー。俺がアマテラスの居場所を知ってるのは事実だよ? でも、それは教えてもらったからで、アマテラスが消えたのは俺のせいじゃない。それでなんでアポロンに恨まれないといけないんだ?」

「そういう道理はあの悪戯小僧には通用しない。そもそもクルスライム。そなたがそなたであるという現実の前に、その言い訳は通用しないのだ」

「そんな無茶苦茶な」

「とにかくこいっ!!」

 近付いてきたハデスに二の腕を掴まれ、来夢は否応なく引き摺られていった。

「ちょっと放せよっ!!」

「匿ってやろうと言ってるんだっ!! すこしは大人しく従えっ!! 幾らおまえがクルスライムでも……」

 言いかけたハデスが振り向いて息を飲んだ。

 来夢の目に怒りが浮かんだからだ。

 慌てて腕を放す。

「クルスライム。腕は放しただろう? だから、そんなに怒るな」

「俺を無理に拉致しようとしておいて怒るな、だって? どうやったら言えるんだ? そんなこと」

「バカっ。そなたが本気で怒って力を解放したら、それこそアポロンたちに気付かれるっ!! 今気付いているのは俺だけなんだっ!! そのことに感謝してっ」

「感謝? 人を拉致しようとした奴に感謝なんてできるかーっ!!」

 来夢が叫んだ瞬間、ハデスは小さく舌打ちするとケルベロスに声を投げた。

「ケルベロス。クルスライムを刺激しないためにわたしは去る。だが、そなたは残れ。残ってクルスライムを護れ」

「いらんっ。そんな守護なんてっ」

「……人を都合のいいように振り回そうとするな、ふたりして」

 ケルベロスの抗議も無視してハデスの姿は消えた。

 殴ってやろうと身構えていた来夢は、相手が消えてムッとして顔を背ける。

「あの……」

 ルヴィが恐る恐るケルベロスに声を投げた。

「置いて行かれましたけど冥府に戻らなくていいのですか、冥府の門番ケルベロス?」

「ご主人様がいないと我ひとりの力では冥府の門は潜れない」

「まあお気の毒に」

 あの台風のような主人に振り回されているのかと思ったら、ルヴィはこの恐ろしい番犬に対する恐怖も薄れてしまった。

 ハデスはなんだか印象と違う神だったと思う。

「クルスライム」

「その名で呼ぶなよ、ケルベロス。人が聞いたら誤解するだろ。クルスはこの世界の名前なんだから」

 このやり取りでルヴィは彼の本名は、本当に「クルスライム」なのだと知った。

 それならまあ隠そうとするのもわかる気がする。

 普通に名乗ったら神官たちに大罪人として追われるか、もしくは神の遣いとして崇められるか。

 どちらかだっただろう。

 そして来夢が真実、大神殿を破壊した人物なら、崇められるよりも大罪人と判断されかねない。

 だったら無理もないかと思った。

「しかしあなたはクルスライムだ。他の呼び名など知らぬ」

「ふう。なんだよ」

 言い返すのを諦めて来夢は問い返した。

「我はご主人様の命により、これよりあなたの守護につく」

「いらないんだけどなあ」

「そうもいかないだろう」

「どうして?」

「あなたがクルスライムである以上、世界はあなたを放置してくれないからだ」

「人違いだと思うんだけど。同名の別人だろ、それ」

「人違いかどうかはあなたが判断することではない。それこそ力の門番ドルトスたちが判断すること」

「……なんか納得いかないな。なんで自分の価値を人に決められないといけないんだ?」

 ムッとする来夢にケルベロスは笑った。

「変わったな、クルスライム」

「変わったって……そりゃ人違いだから変わったようにも見えるだろ」

「人違い、、か」

 ケルベロスはそれだけを言って黙り込んでしまった。

 来夢も黙り込んだ相手にこれ以上否定しても意味がないので口を噤む。

 そんなやり取りをルヴィがじっと見ていた。




「キャーッ!!」

 あちこちで上がる悲鳴。

 その中心にいる来夢は頭を抱え込む。

 こちらでは神の番犬のはずなのに、やはり地獄の番犬と言うべきか。

 ケルベロスは恐れられているようだった。

  ケルベロスを見た人々が一斉に悲鳴を上げるのを見て、来夢はつくづくと自分の不幸を噛み締める。

 こんなものを置いていったハデスを恨みたい。

 目の前にいたら今すぐ殴ってやりたい。

 しかし相手がいないのでは、この怒りも向けるべき矛先がない。

 肩を落とす来夢の傍で一緒にいたルヴィが気の毒そうな顔をしている。

「あなた。あのままハデスと一緒に冥府に行った方が、まだよかったかもしれないわね。これから……揉めるわよ?」

「俺のせいじゃない」

「我のせいでもない」

 白々と言い返すケルベロスに来夢はカッとなった。

「どこから見てもおまえのせいだろっ。どうしてくれるんだ、かの混乱の坩堝!!」

「我が冥府の門番だからといって無闇に怯える方が悪い。門番ということは、だ。我に気に入られなければ、そもそも冥府には行けない。冥府に行けないと転生できないということなのだから」

「冥府に行けない魂はどうなるんだ?」

 素朴な、とっても素朴な質問にケルベロスはケロリと答えた。

「そうだな。我が食うか、閻魔が食うか。どちらかだ」

「閻魔大王までいるのかよ?」

「ふむ。そなたが招いたのだろう? そう驚かなくても」

「招いてないっ。変な言い方するなっ」

「しかしな。我はともかく閻魔に喰われた魂は浄化され転生できる。それだけでも救いだと思うが?」

「我はともかくって。ケルベロスが喰った魂は?」

「地獄の業火に焼かれ、悶え苦しんだ後でようやく転生が許される。それもご主人に許されれば、だが」

「気に入られるための条件って?」

「一言で言って顔の良し悪し?」

「は?」

 呆気に取られる来夢にケルベロスは大真面目に言ってのけた。

「ご主人様はあれで面食いなのだ。顔の悪い男も女もキライでな。ゼウスを思い出すとかで」

「ゼウスって醜男だっけ?」

「ご主人に言わせれば、どれほど顔が良くても、性根が腐っているから醜男なんだそうだ」

「つまり顔の良し悪しって性格も込み?」

「そういうことになるな」

 人柄込みで顔を判断されて、それで不細工と判断されたら地獄へ落ちると聞いて、来夢は今更のようにこの世界の転生のシステムが不憫になった。

 生前の善行だけを問われた方がまだマシな気がする。

 性格が多少悪くても善人だっているだろうに。

「閻魔よりご主人様の方がマシな採点だと思うぞ? 閻魔は嘘ひとつ生前についていただけでも喰うからな」

「そりゃ怖い」

 嘘をつかない人間なんていない。

 つまり閻魔大王にかかると、すべての人間が喰われるということだ。

「だからこそ閻魔には浄化という能力が備わっているのだが」

「なるほどねえ」

 閻魔はたしかに善行にはうるさい。

 嘘ひとつついていただけで魂を喰う。

 しかし喰われた魂はすべて浄化され、結局のところ転生できるのだ。

 これは本当にハデスの方がマシなんだろうか?

 さっきの説明通りなら閻魔の方がマシな気がするが。

「地獄の業火に焼かれるかどうか、それは結局本人の資質次第だ。人殺しはどこまでいっても人殺し。改心しても罪は消えない。だから、苦しむ。
 そういう意味で喰われた瞬間だけの苦しみですむ閻魔より、ご主人様の方がたしかに厳しい。だが、それだけの価値があると我は思う」

「そこまでお話ししていいのですか、ケルベロス? わたくしもいるのですが?」

 割って入ったルヴィにケルベロスは彼女を見て小さく笑った。

「構わない。どのみちクルスライムは知っていたことだ。本人は今忘れているのだろうが」

「全く。どれだけ人違いだって言ったら納得してくれるんだよ?」

 前髪を掻き上げる来夢にケルベロスは呆れたような目を向ける。

「「ルヴィ!!」」

 そこまで話したとき彼女を呼ぶ声が聞こえた。

 振り向けばクリストファーとアーノルドが強張った顔で立っている。

「クリス兄さま、アルト兄さま」

 ルヴィは手を振ったが、ふたりは動かない。

 それでなにを警戒しているのか、ルヴィはようやく気付いた。

 常識はずれなハデスとのやり取りで、彼女もちょっと感覚が麻痺していたようである。

「ケルベロスを恐れる必要はありませんわ、兄さまたち、彼はライムの護衛のためにいるのです」

「ライムの護衛のため?」

「どういうことだ?」

 キョロキョロと視線を彷徨わせるふたりに、ケルベロスが近付いていった。

 思わずふたりが身構える。

「そなたたちは?」

「エルクトの第一王子クリストファー」

「同じく第二王子アーノルドだ」

「なるほど。ふたりを兄と呼ぶということは、そなたは王女だったのか?」

「あ。言っていませんでしたね。すみません」

 振り向いたルヴィに謝罪され、ケルベロスはすこしだけ困惑の声を出す。

「もしかして竜王の花嫁とはそなたのことか?」

「……はい。ご存じでしたか」

(竜王の花嫁?)

 来夢は首を傾げたが続いたケルベロスの言葉には、思わず待ったをかけそうになった。

「竜王の花嫁になりたくなければ、クルスライムを頼るといい。クルスライムの言葉なら、竜王たちも耳を傾けてくれるはずだ。クルスライムの望まぬことは竜王たちにはできない」

「はあ。ですが本人は人違いだと申しておりますが?」

「ふむ。そこが問題だな」

 ケルベロスの言葉に来夢は頭を抱え、聞き逃せない単語にクリスとアルトは妹に問いかけた。

「「ルヴィ。どういうことだ(い)?」」

「そのお話はお部屋でしましょう。これ以上ケルベロスを見ていると、周囲が恐怖のあまりおかしくなってしまいます」

 ひっきりなしに上がる悲鳴にふたりは周囲を見て妹の意見を受け入れた。

 部屋に向かいながらクリスが妹に問いかける。

「ところでケルベロスを置いていったのは、やはりハデスかい?」

「はい。図書館に急に現れて」

「そう。神々が動くなんていつ以来だろう?」

 首を傾げてケルベロスを見るクリスに、当のケルベロスは知らん顔だ。

 今口を開く気はないと意思表示されてクリスも諦めた。

 部屋につくまでの辛抱だと。

「なんで俺がこんな目に……」

 しみじみと嘆いている来夢をじっと観察しながら。




 ハデスが現れてからの一部始終を聞いて、思わずクリスは頭を抱え込んだ。

「それで? ライムは本当はクルスライムというのかい?」

 問われて来夢はそっぽを向く。

「たしかに俺は来栖来夢だ。でも、ハデスたちの言っているクルスライムじゃない。人違いだよ。そもそもハデスたちの言ってるクルスライムって女性らしいし」

 男装と指摘されたことを思い出して来夢は不機嫌だ。

 首を傾げる兄の横でアルトがケルベロスに声を投げた。

「実際のところはどうなんだ? 本当に人違いなのか、ケルベロス?」

「さて。どうだろうな」

 惚けるケルベロスにクリスは呆れたような目を向ける。

「惚けるくらいなら冥府に帰るべきだったのでは? ここに残っている時点で人違いだとは思っていないことは明白ですよ」

「我等がどう思っていようとクルスライムにとって人違いなら断言できない。その事情も察するべきだ。人の世の王子よ」

 ケルベロスはのらりくらりと逃げている。

 断言しない彼にクリスは不機嫌になる。

「そもそもクルスライムとは何者です? どうしてライムがその人だと判断されると、力の門番たちが反乱を起こし、アポロンまでが行動を起こすんですか? そもそも神々は今動けないはずでは?」

「最後の部分だけ答えるが、動けないというのは誤りだ」

「「「え?」」」

 3人が息を飲み、来夢もキョトンとケルベロスを見た。

 それがなによりもの答えだったが。

 つまり神々は動けないのではなく、神々を召喚する力を人間たちが失っただけで、神々は動く意思さえあれば動けたのだ。

「厄介な」

 思わず呟いたクリスに「厄介だと言いたいのはこちらの方だ」と、来夢は言いたい文句を飲み込んだ。

 反乱の動機となるらしい「クルスライム」と来夢が人違いされているのだ。

 このままではすべての責任が来夢のものになる。

 そんな事態を歓迎できるわけがない。

 しかしクリスたちは冷静だった。

 顔を見合わせて頷き合う。

「そちらの言っていることがすべて事実だとして、だ」

「ライムのことが人違いであろうと本人であろうとハデスは彼を助けようとした。それは反乱を起こす方が悪い。そう受け取っていいのですか?」

「反乱というものがどういうときに起きるか、人の世の王子たちにはわからぬか?」

「どういうとき?」

「主に対する不満が爆発したとき?」

 ふたりの声にケルベロスは頷く。

「そういうことだ」

「つまり……『クルスライム』とは神々にとって主人的な位置にいた人物?」

「悠久の時代離ればなれではあったが、その関係性は変わっていない。だからこそ力の門番ドルトスたちは反乱を起こすし、クルスライムに裏切られたと思っているアポロンも放っておかないのだ」

 クルスライムがどういう人物かは、まだだれにも飲み込めていない。

 そもそも人間なのか神なのかすら不明だ。

 だが、ライムが同名を名乗っていて、冥府な王ハデスにすら本人と言い切らせるほど似ていることも事実。

 これは厄介なことになったとクリスたちは頭を抱えるのだった。

「迷惑だよなあ。俺は別人なのに」

「この際別人かどうかは重要ではないと思うよ、ライム」

「クリストファー王子?」

「周囲がそう判断している。そしてそれを否定しても信じてもらえないほど、きみがその『クルスライム』に似ていること。それは紛れもない事実だ」

「この場合、別人と言い張ったって、例えばライム。おまえが『クルスライムか?』と訊かれたら、『そうだ』と答えるしかないだろう? 実際同じ名前なんだし」

「そこで別人かどうかは重要じゃない?」

 来夢の険のある声にクリスたちは頷く。

「別人だと判断できないほど似ている。それがすべてだよ」

「これが発覚すると厄介ですね、兄上」

「そうだね。ライムが危険視されかねない」

 頷くクリスにケルベロスがクギを刺した。

「クルスライムに余計な手出しはさせない方が身のためだ」

「どうして?」

「絶対的な力の前に人は無力だ。ご主人様ですら撤退するしかない力の持ち主。元々ドルトスたちの反乱も、アポロンの抗議もクルスライムには無意味なこと。人間がそのクルスライムに逆らう。それを神への反逆と取る神々も当然いるということだ」

「すべての神々が反乱するわけではない?」

 クリスの問いにケルベロスは肯定する。

「むしろ反乱はごく一部の過激派のみと思った方がいい。そこで人間がクルスライムを襲ったら、他の神々が黙っていない」

「天罰がくだる?」

「その可能性は否定できないな」

「俺……別人だよ?」

 来夢の声にはだれも反応できなかった。

 いくら彼が別人だと否定しようと、周囲が彼を本物だと認めている。

 それがすべてな気がして。
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