第二章 地球の神々
第二章 地球の神々
食事の席はなんの問題もなく進んでいたが、来夢は時々かけられる質問に答えるのに忙しくて少々うんざりしていた。
来夢が油断したころにクリスは質問を投げてくるのだ。
たとえばケリーやアンナと逢う前はどうやって過ごしていたのだ、とか。
あのふたりとはどうやって出逢ったのだ、とか。
奴隷ではなかったらしいが、どうして奴隷のフリをしていたのか、とか。
指摘されたくないことばかり次々と問いかける。
それも来夢が油断しきっているときに。
たとえばそれまで来夢はろくな食事に当たっていなかった。
そのせいで王族の食事がこんなにおいしいとは思わなかった。
それまでが散々だったので、美味しい料理に当たる度に喜び、つい夢中で食べてしまうが、そんな頃合いを見計らってクリスは問いかけてくるのである。
熱いスープを飲んで舌を火傷しそうになり、それを第二王子アーノルドにからかわれて言い返したときなどに、フッと口を挟んでくるのだ。
来夢はすっかり油断しているものだから、うっかり答えそうになったりして、そのうちこの王子は油断ならないと思えるようになってきた。
客人扱いをするのも来夢を丁重に扱うのも、すべて来夢を油断させて真実を引き出すためにだと気づいた。
日本にいたころなら気づきもしなかった駆け引きに来夢はげっそりした。
たかが16の子供の自分が、どうしてそんな真似をしないといけないのか、本当はこの油断ならない王子に食ってかかりたかった。
そんなことをしたらどんな目に遭うかわからないということで、つい口を噤んでしまうけれども。
疲れるばかりの食事が終わり、来夢はやっと自室へ引き上げることが許された。
そのころには第二王子アーノルドも、第一王子ルヴィもクリスの意図に気づいていた。
クリスは来夢のことを詳しく知りたくて彼を油断させ、情報を引きだそうとしていたのだと。
来夢が疲れ切った足取りで自室へと引き上げて、クリスも食事の席を立とうとしたときに、フッとアーノルドが、アルトが問うた。
「兄上。彼は何者なのですか?」
「どういう意味だい、アルト?」
立ち上がったクリスが振り向いて弟に問い返す。
弟はそんな兄をまっすぐに見返した。
「兄上。ぼくをごまかそうとしても無駄ですよ。兄上は彼から情報を引き出したがっていた。だから、彼を油断させ何度も引っかけようとした。それは何故ですか?」
「クリス兄さまは今日、大神殿に行ったはずよね? それがどうして彼みたいな人を連れ帰ることになったの?」
幼い妹にまで首を傾げられ、クリスはふたりが揃っている傍へ行き、ふたりの目の前に布にくるまれた漆黒の髪を置いた。
「「これは?」」
「わたしが今日大神殿に行った理由は知っているだろう? そこで大神宮から手渡されたものだよ。大神殿に穴が空いた後に落ちていたものらしい」
ルヴィは人の髪ということで触りたがらなかったが、軍人であるアルトはなんの抵抗もなく細い髪を手にした。
目の前に翳す。
「漆黒の髪?」
「え?」
ルヴィが来夢が出て行った扉を振り返る。
彼の色彩をみたときはルヴィも驚いたものだが。
彼と同じ漆黒の髪が大神殿に空いた穴の傍に落ちていた?
それは不可解極まりなかった。
「すこし情報を集めてみたけれどね? 大神殿になにかが落ちてきたところを目撃した者はいない。真昼だというのに、だ。
そして穴が空いたその場所に直後落ちていたのがこれだったわけだ。どう考えても落ちてきたのは漆黒の髪の人間、ということになるんだよ、ふたりとも」
「お言葉を返すようですが、兄上。いくらなんでも人間が落ちてきたなら助かりませんよ。神殿に穴を空けるなんて人間には無理です」
「そうだね。わたしもそう思うよ」
もし万が一にも落ちてきたのが人間としよう。
どうやったら空から落ちるのか不明だが、その場合、 落ちてきた人間は神殿に激突するわけで、どう考えても潰れるのは神殿ではなく人間の方だ。
助かるわけがないのだ。
「しかし神殿にあの空いた穴はちょうど子供がひとり通り抜けられる程度の穴だった。そして彼が身を寄せていたのは神殿の工事の際に責任者をやっている奴隷の親子の元」
「それはたしかに疑ってくださいと言っているようなものね。でも、あの色を持っていたならもっと騒がれそうなものだけれど?」
首を傾げる妹にクリスはため息をつく。
「彼は決して姿をみられないように全身をマントで覆い顔もフードで隠していた。あの色を隠すためだろうが、後ろ暗いところがなければ別段隠す必要はないだろう? むしろ珍しい色を持っているということで、予想外の幸運な話だって舞い込んだかもしれない」
「それは確かに。あの外見ですしね。貴族に気に入られて……ということも考えられないではない」
「それにね? ふたりもさっきのやり取りで気づいたかもしれないけれど、どうも彼は出自を問い詰められたくないようだ」
「確かに出自に関することになると口を噤んでいたわね。これまでどうしていたのか、とか。出自を掴まれそうな問いには口を噤んでいたもの」
「あと名前も本名かどうか怪しい」
「どうしてですか?」
不思議そうに問う弟に兄は名を問いかけたときのことを打ち明けた。
「わたしが名を問いかけたとき、彼は確かにクライムと言ったんだ」
「クライム? でも、兄上は確かライムと彼を呼んでいませんでしたか?」
「クライム? と問いかけたときにライムだと否定されたんだよ。それで気づいたけれど彼がクライムと名乗ったように聞こえたとき、彼は最初の一文字のクを口走ったあとで、すこしの間を空けてライムと付け足したんだ。だから、わたしは繋げてクライムだと思ったんだが、どうやら彼はライムと言いたかったらしい」
「つまり? ライムという名が本名だとしても、正式名ではない可能性があるってことね? クという名のつく正式名を彼は持っているかもしれない、と」
「そういうことになるね。ライムと呼べば普通に反応するから偽名ではないんだろう。だが、正式名ではないはずだ。彼にはきっと違う正式名がある」
「もしかしたら姓を隠している?」
アルトの問いにクリスは困ったように笑う。
「しかし正式名を名乗るときに姓から名乗ろうとする者がいるかい? わたしたちだって名前から名乗るだろう?」
「しかし他国には名前から姓へと繋がる名付けではなく、姓から名前に繋がる名付けもあるとぼくは聞いていますよ」
「そうなんだけれどね。まだライムというのが名前なのか姓なのか、その判断を下すのは早計だろう。どうして彼は奴隷のフリをしていたのか、これまでどこにいてどうやってこの国にきたのか、知りたいこと知らなければならないことは数多い。先入観は禁物だ」
「アルト兄さま」
「なんだ、ルヴィ?」
「わたくしが聞いたかぎりでは姓から名前に繋がる名付けの場合、ライムなんて名前を名付けられることはないと教授たちは言っていたわ。
例えばアキラとかイチロウとかスズとか、そういう名付けだって。姓だとしてもおかしいわ。姓の場合もっとライムという名付けはありえないから。
それはどちらかといえば、わたくしたちと同じ名付けの法則でしょう?」
ライムという名付け自体すこし変わっている。
こちらでもほとんど聞かない名前だ。
本当に彼は何者なんだろう?
答えの出ない問いを胸に3人は黙り込んでしまった。
そのころ、当の本人の来夢は食事時の疲労が祟って寝台に寝そべっていた。
今になってつくづく思う。
「俺…来夢って名前で助かったかも」
日本では栗栖という名字も珍しければ来夢という名も珍しかった。
栗栖に関してはクリスと呼べば、そういう名付けは普通にあった。
珍しい名付けには違いなかったが。
だが、来夢が生まれた頃には来夢というような名付けは、正直なところ珍しすぎて目立ってばかりだったのだ。
おかげで来夢は昔、特に小さい頃は自分の名前が好きではなかった。
栗栖と名乗れば外人みたいだとからかわれ、来夢と名乗れば変な名前だとイジメられる。
その繰り返しだったからだ。
クルスライム。
続けて名乗ればまるで外国名である。
そのせいで来夢は自分の名前が好きではなかったのだが、こちらにきて来夢でよかったとつくづくと感じた。
来夢と名乗って不思議がられることがほとんどないからだ。
変わった名前だと思われても偽名だと思われることはない。
こちらでそういう名前が普通だからだ。
クリストファーやアーノルドみたいに。
万が一圭介とか大地とか、そういう日本名だったら、おそらくこちらでは浮いてしまっていただろう。
正志とか勇気とかそういう名前もダメだ。
海外で名乗っても通用する名前。
そうでなければもっと早くこうして連行されていただろう。
「あー。でも、勇気ならユーキとか、ユウキとか発音すれば通用するか」
でも、来夢でよかったと感じたのは生まれて初めてだ。
父や母は心配しているだろうか。
なんとかして元の世界に戻りたい。
もしかしてペガサスを操ってみせたあの王子なら、この世界の者に本当のことを打ち明けたら、元の世界に戻る方法も考えてくれるかもしれない。
けれど、それはひとつの賭だ。
最悪の事態を招く恐れだってある。
よく考えて動かなければならないだろう。
「なんで齢16でこんな苦労を背負わないといけないんだ、俺?」
つくづくツイてないと感じる。
まあ学校で倒れたあのときから来夢がツイてないのは明らかだったけれど。
「とにかく今日は寝よう」
呟いて布団にもぐり込んだ。
久しぶりのフカフカの布団。
気持ち良くて深く考えることもできないままに、来夢は夢の世界へと落ちていった。
来夢はどことも知れない世界の中にいた。
夢だなとすぐにわかる。
だって足元が雲だ。
感触のない雲の上を歩けば、すこし先に女性らしき影があった。
顔も姿も見えない。
でも、シルエットで女性だとわかる。
その女性は雲の隙間から下を覗き込んでいる。
『なにしてるんだ?』
来夢が問いかけるとその女性は微笑んだようだった。
微かに笑みのような声が漏れる。
『世界を見ているのよ、来夢』
『世界?』
『こちらへいらっしゃい』
言われて近づけば雲の隙間から、いつかみた景色が広がっていた。
豆粒のように広がる小さな世界。
知っている。
『クルス』
こうして見ると、とても小さい世界なんだなとわかる。
世界の中心にあるのはエルクト王国だろうか。
世界の大部分が砂漠だ。
あの国がどれだけ特殊なのかが来夢にもわかる。
『どうしてクルスは世界の大部分が砂漠なんだ?』
『そうね。あなたになら言えばわかるかしら。太陽神アポロンが今世界の支配権を得ているの』
『え? ギリシャ神話のアポロン? どうして?』
どうして異世界でその名が出てくるのかわからない。
『同じ太陽神だったアマテラスがいなくなって、アポロンは暴挙に出たの。彼女が戻ってくるまで、世界を太陽で照らしつづけるという』
今度はアマテラス。
日本神話だ。
天照大御神。
どうして太陽神がふたりいるのかわからない。
そもそも異世界の神々がどうして地球の神々なのかも。
『アポロンがいるなら当然、ゼウスだっているよな? もしかしたら日本の最高神だっているかもしれない。そいつらはどうしてるんだ?』
『大神ゼウスは眠っているわ。アマテラスがこちらでの最高神。あなたの知っている日本神話とはすこし違うわね。
すべての神々を召喚する力を、この世界の人々は持っていなかった。だから、大神ゼウスとアマテラスを召喚するので精一杯だったのよ』
『召喚?』
ゲームなどで知った。
術を用いて現実にいない存在を現出させることだよな?
つまり?
この世界の人々は地球の神々を召喚し現出させた?
『でもね? 問題はまだあったの。アポロンが暴挙に出ても海神ポセイドンがいればまだよかった。でも、この世界の人々はポセイドンを召喚していなくて、こちらには水を司るべき神がいないの』
『だから、砂漠化が進んでいる?』
『エルクトにはね。水の精霊が住んでいるの。だから、こんな危機的状況でも水に溢れているし、水の恩恵を受けて緑も豊かなのよ』
周囲をみれば不自然なほどに栄えた豊かな国エルクト。
そこにも理由があったのか。
『アマテラスはどこに行ったんだ? 彼女がいればアポロンも暴挙には出なかったんだろう?』
『大神ゼウスが眠っているのと同じ理由かしら?』
『どういう意味?』
『始まりの女神がこちらの世界を去るときに、彼女もついていったのよ。始まりの女神を護るために』
『始まりの女神?』
問いかけたがこれには答えをもらえなかった。
彼女がさりげなく言葉を続けたからだ。
『クルスは小さいけれど豊かな世界。彼女はこの世界でまどろんでいたかった。けれど彼女には休息は許されない。だから、この世界を去るしかなかった。たとえすべての神々を置き去りにしても』
なんだか話がみえない。
だから、「始まりの女神」はどこへ行ったんだ?
どうして休息が許されなくて、そのためにどこへ行ったんだ?
どうしてそれにアマテラスが同行しないといけなかったんだ?
同行してアマテラスはどうなったんだ?
いくら長く世界を離れてアポロンが暴挙に出ても、短い時間なら世界はこんなことにはなっていない。
これだけの砂漠化が進むなんて、「始まりの女神」に同行してアマテラスがいなくなったのはいつの話なんだ?
問いかけたいことはたくさんある。
でも、問えなかった。
彼女が言葉を続けたから。
『アポロンはアマテラスの妹のツクヨミに弱いから、それにアルテミスにも勝てないから、夜の世界では身を引いている。だから、かろうじて均衡が保たれているの』
夜にクルスの砂漠が冷え込むのは、そういう理由か。
アポロンが表出しないから、クルスの夜は冷えるのだろう。
しかしツクヨミって男神じゃなかったか?
今アマテラスの妹って言ったよな?
?
本当に来夢の知っている日本神話とは違うのか?
『クルスでは地球の神々を召喚することで、その力を使ってたんだよな?』
『そうよ』
『じゃあ今は? 今のクルスには神々を召喚できる者はいないのか? あの王子を見ていたら、今もクルスの人間は普通に召喚術って使ってる気がするけど?』
ペガサスを突然呼び出したクリストファー。
どう考えても、あれは召喚術だ。
だが、問いかけると彼女はやるせない声で否定した。
『今のクルスには神々を召喚できるほどの力の持ち主はいないわ』
『え? でも』
『クリストファーがペガサスを召喚したとき、彼は媒介を使っていたでしょう?』
媒介。
この場合、術を補佐する道具で合ってるだろうか。
『アマテラスがいなくなった時代から、あまりにも永い悠久の時が流れて、クルスの人々は力を失っていったの。今のクルスには媒介を用いずに召喚術を行使できる者なんていないのよ』
『つまり媒介を用いなければ召喚術を使えない程度の力では神々は召喚できない?』
問いかけると彼女は「そうよ」と笑った。
『じゃあ「始まりの女神」が戻ってくれば、アマテラスも戻ってくるんじゃないのか? そうしたらアポロンだって』
言いかけると彼女があっさり否定した。
『無理ね』
『どうして?』
『始まりの女神はもうこの世にはいないから』
それはアマテラスもいないということか?
問えないその言葉に彼女は振り向いたようだった。
顔らしき影が動いたから、たぶん振り向いたんだと思う。
『始まりの女神の消えた今、アマテラスを取り戻すために、人々は奇跡を望むでしょう』
『つまりアマテラスは消えてない?』
『アマテラスは元の場所にいるわ。だから、あなたがここにいるのかもしれないわね、来夢』
元の場所?
つまり日本にいる?
だから、日本人の来夢がここに召喚された?
でも、だれに?
どうやって?
そしてなによりもなんのために?
『だれに? どうやって? なんのために? それを考えるのは無駄なことよ、来夢』
『どうして? 俺は元の世界に戻りたいんだ。クルスなんて俺には関係ない世界だよ』
『関係ない世界だから滅ぼうとどうしようと構わない?』
『そんなふうには……言わないけど』
さすがに滅んでもいいとは言いにくい。
関係ないとは思うし、どうして来夢にそういうことを望むのかとか、そういう疑問も浮かぶ。
でも、だからといって来夢には関係ないから、クルスは滅んでもいいなんて言えない。
『来栖来夢』
フルネームで呼ばれて来夢は彼女を見た。
まっすぐに見られている気がしたから。
『来栖の家がどうやって受け継がれてきたか、あなたは知っている?』
『さあ? ただ来栖の直系は婿養子に行ったり、嫁に行ったりするのは禁止されていたみたいだな。長男がいないなら長女が家を継ぐべき。そういう風潮はあったみたいだ。でも、それが?』
そうして来栖の家は長い間受け継がれてきた。
だれがそれを言い出したのか、今ではだれも知らないのに、今もそれを守っている。
バカげたことだと来栖の直系の父は言うけれど。
それでも来夢が男でよかったと、一度そんなふうに言っていた。
これで来栖の名前は受け継がれる、と。
でも、来夢は……。
来栖の家は資産家で、だから、家名を守ろうとしたのかと、来夢はそんな風に考えていたけれど、今となっては不思議で仕方ない。
資産家ではあるけれども、元は華族だったとか。
そういう名家でもないのだ。
ごく普通の家。
なのに誰もが必死になって来栖の名を受け継いできた。
なにがそうさせるのか来夢にはわからない。
わかろうともしなかった。
しなくても何れ自分が来栖を継ぐんだろうと思ったから。
でも。
頬に柔らかな感触が触れて来夢は顔をあげた。
『そんな顔をするものではないわ。あなたはあなたの道を行けばいいの』
『……でも』
『あなたの望んだことではなくても、それがあなたの宿命なの。それがなにを招きあなたがどう生きるのか。選べるのはあなただけだわ。だれにも強制できない』
どちらの道を選ぶのか。
決めるのは来夢。
でも、もしかしたら選んだ道によっては子孫を残せないかもしれない。
今の来栖の直系は来夢ひとりなのに。
だから、来夢の意思を尊重してくれる両親だけれど、本当はなにを願っているか来夢は知っている。
来夢が普通に子孫を残すことをふたりは望んでいる。
でも。
でもっ!!
『あなたのその迷いはクルスでの生活が晴らしてくれるわ』
『え?』
『現実にお帰りなさい。来夢。あなたがここへ来るのはまだ早いようだわ』
トンっと肩を押され、来夢は雲の隙間から足を滑らせた。
どこまでも落下していく。
初めてクルスへやって来たときのように。
見上げれば彼女が手を振っているような気がした。
「うわあっ」
叫んで飛び起きて来夢は額に浮いた冷や汗を拭った。
「夢か……」
なんであんな夢見たんだろうと思う。
ここは異世界クルス。
その中心にあるらしいエルクト王国の宮殿。
それまでは想像もしたことない現実を思い出してため息が出る。
「今日はいったいなにをさせられるんだろう?」
クリスはあきらかに疑っている。
来夢が大神殿に穴を空けた人物ではないかと。
その疑いが晴れないかぎり、色々と引っかけられるのだろう。
どうやってかわそうか悩んでいると、不意にノックの音がした。
「はい?」
声を投げる。
この場合、返事をするべきだと思ったから。
「ライム。起きているか? アーノルドだ」
「アルト王子? どうぞ。起きてるよ」
そう告げるとアーノルド王子が気まずそうに入ってきた。
? と、首を傾げる。
「なんで気まずそうなんだ?」
「ライムはもうすこし自分の顔立ちについて自覚した方がいい。普通の男なら意識するぞ? ライムの部屋に早朝にやってくるとなったら」
「だったらくるなっ!!」
来夢が寝台の上で地団駄を踏むと、彼は「ふうむ」となにやら呟いて、ひとりで勝手に納得した。
「確かに顔立ちは美少女だが、言動がどこからみても男だな。それもがさつな男」
頭を抱えたくなることを納得されて、来夢は呆れたが彼は真面目なようだった。
「これでなぜ兄上の発作が出なかったのか、不思議で仕方ない」
今度の言葉にはなにも言い返せなくて、来夢はうつむいた。
それは指摘されたくない部分だったので。
「あー。そういう顔をするな。男の自尊心を粉々にしたかったわけではないんだ。ただクギを刺しておきたいことがあって」
「クギを刺しておきたいこと? なに?」
顔を覗き込むとアーノルド王子は大真面目に言ってきた。
「兄上が男性アレルギーだということは秘密にしておいてほしいんだ」
「食事のときにあれだけ派手に暴露しておいて隠してるのか?」
「あのときは流れ的に必要だったから言っただけで、兄上の立場的には男性アレルギーだということは普通は明かせないんだ」
「それはまあそうだろうな。言ってみれば次代の王の弱点を公開するようなものだし」
王とか王子とか、そういう日本ならお目にかかれない存在には、多少の抵抗や違和感はあるが、こちらでは現実なのだ。
彼らには彼らにしかない苦労もあるだろうし、いくら非日常的な意味で苦労しているからといっても、来夢がそれを台無しにする気はなかった。
「大丈夫。言ったりしないよ。クギを刺さなくても、俺から打ち明けることはなかったのに」
「まあそうかもしれないが、まだお互いによく知っている仲ではないだろう? それで全幅の信頼を寄せろと言われても」
「それもそうか。だったら誓うよ。俺からは絶対に明かさない」
誓った来夢にアーノルドはすこしだけ微笑んだ。
寝台から抜け出すと来夢は着替えようかと思ったが、アルトが出ていかないので、ジロリと彼を睨んだ。
「この国では着替えの場に堂々と居座るのが普通なのか?」
「そうは言わないが男同士だろう? 別に気にしなくても」
悪意はなさそうな彼に来夢は頭を抱えてしまう。
「俺は着替えをみせる趣味はない。出ていってくれ」
「……そういうことをいうから性別を疑われるんだぞ?」
出ていき間際に嫌味を言っていった彼に、来夢は彼が消えたあとで思いっきり舌を出してやった。
朝食の席でも来夢は特に質問されたりとか、そういうことはなかった。
クリスはなにやら忙しそうにしていて、あまり来夢に話しかけてこない。
だから、アルトがきたのかなと勝手に納得した。
「あの……クリストファー王子」
「なにかな?」
食事が終わる頃、声をかけてきた来夢に、席を立とうとしていたクリスは、不思議そうに彼をみた。
「この国の歴史とか神話関連の本……書物が読みたいんだけど?」
「構わないけれど、きみ字が読めるのかい? どこから見ても異国人の外見だけれど」
「うっ」
言葉に詰まってしまった来夢の傍に寄ると、アルトがサラサラと文字を書いてみせた。
「なに、これ?」
「読めるか?」
正直に言えば全く読めない。
なにが書いてあるのかもわからない。
口を噤んでしまった来夢に、同席していた3人は大体のところを掴んだ。
彼はやはり異国人らしい、と。
「その様子だと読めないらしいな。それで本を読むなんて無理だ」
「でも、知りたいことがあるんだ」
「だが、これは子供でも読める1番簡単な字。ぼくの名前だ。難しい字ではない。それも読めないんだろう?」
「これが……アーノルド?」
どこをどう見たらそう読めるのか、さっぱりわからない。
来夢の目にはただの落書きに見える。
「こんな簡単な字も読めないようでは、とてもじゃないが歴史や神話関係の書物なんて読めないぞ。もっと難しい字が出てくるんだから」
「でも」
妙に現実味のある接合性のあったあの夢。
来夢には無視することができない。
どうしても調べたいのだ。
そこに元の世界への、地球への帰還の方法があるかもしれないと思うと。
唇を噛み締める来夢を見ていたルヴィが不意に口を挟んだ。
「だったらわたくしが代わりに読んであげるわ。あなたは隣で聞いていればいいでしょう?」
「「ルヴィ?」」
驚いた顔で問いかける兄ふたりにルヴィは微笑んでみせる。
「だってクリス兄さまもアルト兄さまもご公務で忙しいでしょう? わたくしにも勉学はあるけれど、兄さまたちよりは時間が自由になるわ。わたくしが彼の気になることを調べて読んであげればいい。違う?」
その言葉は裏返せばこういうことだった。
彼の隠している素性を知るチャンスだから、ここは活用するべきだ、と。
彼がなにに対して興味を持っているか、それを知れば彼の素性についても、すこしは予測が立てられるから、と。
これは来夢には通じなかったが、兄ふたりには通じている。
ふたりは顔を見合わせて、やがて妹の言い分を認めた。
諦めたようにクリスが話しだす。
「決して勉学に支障の出ないようにしてほしい。いいね、ルヴィ?」
「もしルヴィに読めない字が出てきたり、意味のわからない言葉が出てきたら、すぐに訊ねにくること。いいね?」
「相変わらず過保護ね、兄さまたち」
呆れ顔になるルヴィに来夢も同じことを感じたが、ここは彼女に感謝して特に口を挟まなかった。
連れ立って出ていくふたりを見送って、アルトが兄に近づく。
「ライムに言わなくてよかったんですか、兄上? ライムの引き渡しを大神殿に要求されていること」
弟の言葉に兄はすこし肩を竦めてみせる。
「わたしの主観だけれどね? どうも彼からは犯罪の臭いを感じない」
「確かにぼくも感じませんが。それどころか彼には身を護ることもちょっと難しいでしょう。手や肌が荒れていないと兄上から聞きましたが、彼はあまりにも華奢だ。筋肉なんてついてないようにみえるし、あれで戦って身を護れと要求するのは酷でしょうから」
たとえば彼がどこかの国の間者だとする。
だとしたらもうすこし油断ならない感じを受けるだろう。
戦って身を護ることもできない間者なんて間者としては失格だ。
これが女の間者で色仕掛けできたとしても、自分の身を護ることくらいは普通にできるだろう。
間者はそのくらい危険な仕事だ。
だが、彼にはこちらを騙そうという素振りもないし、それどころか力を込めて腕を握ったらおそらく簡単に骨を折ることができる。
そんな間者なんて聞いたことがなかった。
ましてや泥棒だとも考えにくい。
これも間者と同じ意味だ。
まるで彼は貴族の子弟のようだと、ふたりは感じていた。