第二章 冤罪


「キャサリン……」

 王城に唯一残された彼女の肖像画。

 それは婚礼のときのものだった。

 彼女は先帝、つまり父を殺した容疑をかけられていて、肖像画はすべて燃やされてしまったから。

 これは肖像画を燃やされそうになって、慌てて隠した最後の一枚だった。

 どうして彼女を救えなかったのか今でも悔いている。

 あの当時、自分はまだ皇太子で彼女は皇太子妃だった。

 子供を身籠ったことを父も母も喜んでくれて幸せな毎日を送っていたのだ。

 なのに突然の父の暗殺。

 その嫌疑はそのまま皇太子妃だった彼女にかかった。

 ただ彼女が殺された父の寝室にいた。

 それだけの理由だった。

 発見したのは皮肉なことに夫である自分。

 彼女は薬を盛られていた。

 これは確かなことだ。

 お陰で流産しかけたのだから。

 だから、あれは濡れ衣だと第一発見者だからこそ、自分が一番よく知っている。

 彼女は弑逆の罪に問われるように仕向けられ、陥れられた被害者だった。

 もし彼女が本当に父を暗殺したなら、流産を覚悟で薬を飲むはずがない。

 そもそも薬を飲んで意識がないのに、右手には父を刺した短剣が握られているなんて出来すぎている。

 おまけに自分が武術をやっているから、疑問に思うのかもしれないが、彼女は返り血を浴びていなかった。

 父を刺してその短剣を抜いたなら、当然かかっているはずの返り血。

 だが、彼女は短剣を握った手こそ血に塗れていたが、他にはどこにも返り血を浴びていなかったのだ。

 父が殺された後で運び込まれ、その手に短剣を握らされた。

 そうとしか受け取れなかった。

 疑問はまだある。

 短剣を握っていた手だ。

 力が……込められていなかった。

 触っただけで短剣は落ちたのだから、あれは握っていたというより、握らされていたといった感じだった。

 本人が自分で掴んだわけではないから、力が入っていなかったのだ。

 殺そうとして人を刺したなら、絶対に力は籠っているはずだ。

 少し触ったくらいで外れない。

 ぎゅっと握りしめられているのが常識だから。

 だが、彼女は違った。

 これだけ濡れ衣の証拠が揃っているのに、第一発見者が夫である自分だったという理由だけで、これらの証拠は認めてもらえなかった。

 できたのは処刑を免れて幽閉に持っていくことだけ。

 自分の力の無さをどれほど悔やんだか。

 ならば真犯人を探そうと決めていたのに、間の悪いことに数ヵ月も経たない間に隣国のドルレインが攻めてきた。

 しかもこちらは皇帝暗殺に揺れている状態で、万全に受け止めることもできなかった。

 そのために城への攻撃を許し……彼女は略奪された。

 噂によればそれが目的の戦争だったという。

 その証拠に彼女の略奪に成功するとドルレインは軍を引いてしまった。

 これは噂で聞いただけだが、ドルレインの当時の皇太子、現在の国王は当時からキャサリンに片想いしていたらしい。

 その彼女が皇帝暗殺の疑いをかけられ、幽閉されたことで激怒したという話だった。

 だったらと戦争が締結され、条約を交わすときに彼女の身柄の返還を求めたが、これには応じて貰えなかった。

 彼女はドルレインには来ていないと言われて。

 それは嘘ではないらしく同席していた皇太子は憔悴した顔をしていた。

 情報屋から仕入れた情報によれば、当時は彼もキャサリンの行方を追っていたらしい。

 だから、あの条約のときにキャサリンがいないと言われたのは言い逃れではなく事実だった。

 それからは必死になって彼女の消息を求め情報を集めた。

 わかったのは彼女が男の子を産んだらしいということだけ。

 それも曖昧な噂で事実だったら彼女はどうなったのか、産まれた子は今どうしているのか。

 なにひとつ……わからなかった。

「……ルイ」

 子供が産まれたと知ってから一年後。

 生きていれば1歳になるはずな我が子にそう名付けた。

 思い出すのは少し屈折した態度を見せる青年。

 来年成人だと言った「ラス」という名のキャサリンに瓜二つの。

「わたしの世継ぎはルイだ。ジェラルドではない。あの子に落ち度があるわけではない。ただわたしの世継ぎは……ルイなのだ」

 ジェラルドには申し訳ないと思う。

 だが、これが本音だった。

 自分が帝位を譲りたいのはキャサリンとの間に産まれた第一子。

 ルイなのだと。

「父上」

 名を呼ばれ苦い顔で背後を振り向いた。

「ジェラルド。そなたは何度言えばわかるのだ? ここへは来るなと言っておいただろう?」

「どこにもお見えにならないので、こちらかと思いまして」

 自分以外にこの肖像画を見ても顔色を変えない唯一の相手。

 それが第一王子ジェラルドだ。

 ジェラルドは自分が長男ではないことも知っているし、キャサリンの事件についても知っている。

 それでも彼女に偏見は持っていないようだった。

 だから、ここへ来ていることを知っていても特に咎めないのだが。

「本当に傾国の美女ですね。キャサリン妃は」

 肖像画を見上げて言ったこの言葉には答えなかった。

 キャサリンは当時から当代一の美女と言われていて傾国の呼び名もほしいままにしていたから。

 そのキャサリンに愛された自分ほど幸せな男はいない。

 なのに自分は彼女を護ってやれなかった。

 それだけが胸を傷付ける。

 19年経った今も。

「……唐突にこんなことを申し上げるのは非礼かと思うのですが」

「なんだ?」

「ジュエルの嫁ぎ先を早々に決めて頂けませんか?」

「いきなりどうした? ジュエルはまだ15だぞ?」

「厄介なことになる前にジュエルを結婚させたいのです」

「厄介なこととはなんだ?」

 息子の視線はキャサリンに固定されている。

 怪訝に思って横顔を見ていた。

「キャサリン妃にそっくりな青年と逢いました」

 ギクリとした。

 それはラスが都に来ているということか?

 職探しに来ているだけではなく、もう都に住んでいる?

「ジュエルはその青年に恋しています」

「……嘘だろう?」

 さすがに信じられなかった。

 今はまだ疑いに過ぎないが、ふたりは兄妹かも知れないのだ。

 それで恋仲?

 それはさすがに……。

「確証なんてどこにもありません。素性はわたしも存じませんし、人違いの可能性だって無ではありません。ですが」

「兄である可能性も無ではない。そなたはそう言いたいのだろう?」

 ジェラルドはコクンと頷いた。

「しかしジュエルにその理由は出せません。そんな真似をしてもし人違いだったら、無意味に彼を危険な目に遭わせてしまう。火傷する前に諦めさせるしかないんです」

「だから、婚約者を決めろ……か」

 確かに事実を言えないなら、ジュエルを諦めさせるには婚約させるしか道はない。

 ラスを見知っているから言えることだが、彼を相手に自分から諦めるように持っていくのは、ほぼ不可能だ。

 それは彼女からも仕入れている情報だった。

 ラスはあまりに望まれ過ぎて「色街の華」とまで呼ばれていると。

 金で一夜の恋を売る女たちが、ラスが相手なら金はいらないとまで言っているらしい。

 その彼相手にジュエルに諦めろと諭したところでおそらく無理だ。

「それともうひとつ危惧が」

「なんだ?」

「これは独自に仕入れた情報ですが、ドルレインの国王陛下はキャサリン妃に、その……片想いされていらしたんですよね? だから、晩婚になったとか」

「らしいな。だから、わたしが目の敵にされている。目の敵にしたいのは、こちらだというのに」

「彼の身辺には注意した方がいいかもしれません」

「何故だ?」

「彼はあまりにキャサリン妃にそっくりすぎます。ドルレインの国王陛下が彼のことを知れば、誘拐も視野に入れるかも知れませんから」

 確かにふたりの違いと言えるのは性別くらいで外見はそっくりなのだ。

 キャサリンに懸想していた彼が知れば、手に入れたいと思うのかもしれない。

 なにしろ戦争まで起こしてキャサリンを略奪したのだ。

 そっくりなら彼を欲しがっても不思議はない。

「こちらは平民を護るために動けませんしね」

「まあ確かに。貴族でも皇族でもなければ、誘拐されたところで大騒ぎはできないが」

 これが人数が異常なほど多いとか、そういう政治的な次元になれば、民が誘拐されても動ける。

 だが、人がひとり誘拐されたくらいで国が動いていたら、それがそのまま隙になりかねない。

 アドミラルの国を揺るがしたければ民を誘拐すればいい。

 そう判断される可能性が高いから、殊更に騒げないのだ。

 となると誘拐される可能性が高い場合、こっそり守護するのが効果的ということになる。

 ジェラルドはそれを言っているのだろう。

 しかし迂闊な者を護衛につけられないが。

 外見がキャサリンそっくりと気付かれれば危険が増すし。

「それで彼……その人は今どこにいる?」

「もしかしてお知り合いですか? 父上?」

「何故そう思う?」

「今普通に彼って仰いましたよね? 普通なら彼と呼ぶ前にその人と呼びませんか? 面識がなければ」

「青年だと聞いていたからな。それで彼と口から出ただけだ。そんなに変か?」

「いえ。彼も変なことを訊いていましたから、もしかして父上と彼は知り合いだったのかなと思っていたもので」

「変なこと? なんだ?」

「失礼なことと承知で申し上げますが、わたしの父親は早とちりな大ボケヤローかと、本人にそう訊かれました。それでお知り合いかなと」

「早とちりの大ボケヤロー? さすがに酷い……」

 まあそう言われても仕方のない出逢いではあったが。

 なにしろキャサリンと間違えて迫ったのだから。

「さすがに顔がひきつりましたね。そう言われたときは」

「まあそうだろうな、普通は」

 ラスはまだ身分を知らないのだから当然かもしれないが、彼なら身分を知っていても同じことを言いそうな気もする。

 身分の差を意識しない青年。

 そう見受けられたから。

「やっぱりお知り合いなんですね、父上」

「何故そうなる?」

「だって失礼なことを言われても怒っていないじゃないですか」

 グッと詰まって顔を背けた。

「しかもそう言われることに心当たりでもありそうですし。もしかしてキャサリン妃と間違えて迫ったとか?」

「ジェラルド」

 露骨に図星をつかれて睨むとジェラルドは小さく笑った。

「冗談ですよ」

「そなたの冗談はタチが悪い」

「とにかくお逢いになりたいのなら自警団へ行くことです」

「自警団?」

「彼は今自警団の一員として寄宿舎で生活しているようです。どうもジュエルの紹介で入ったらしいんですが」

「なるほど」

 だから、すんなり都に居着いたわけか。

 頭が痛い。

 これは本当にジュエルの婚約者を選出しろということだろうか。

「最後にひとつだけ訊いてもいいですか、父上」

「なんだ?」

「わたしにいるはずだったのは兄上ですか? それとも姉上ですか? そのくらいなら父上は掴んでいますよね?」

「何故性別を知りたい? 生きているかどうかも不明なのに」

「わたしにとって兄か姉かは重要なことですよ。王位継承権が関わっていますから」

「……」

「それにもし姉ならジュエルの婚約を急ぐ必要もありませんし。どちらですか?」

 どちらが彼の本音なのかわからなかった。

 継承権を気にして訊ねているのか、それとも純粋に妹の恋を気にしているのかが。

「……ルイだ」

「え?」

「そなたの兄の名はルイだ。本人も知らない名だろうがな」

「ルイ……兄上、ですか」

「つまり本来ならそなたは第二皇子だったということだ。継承権は第二位だ。ルイが生きていれば、な」

「問題ですね。もし生き延びていたとしても、どれくらいの臣下が兄上の継承権を認めるか」

「もし生き延びているのなら……」

 認めさせてみせると、キャサリンの無実だって晴らしてみせると言いかけて、息子の胸のうちを思いやめた。

 それは彼の存在意義を否定することだったので。

「父上は素直ではありませんね」

 笑うジェラルドになにも言えなかった。

「もし彼が兄上だとしたら、もしかしたら皇家の鍵を持っている?」

 低く呟く声には答えなかった。

 脳裏をちらつく鍵。

 それは彼の胸元にある。

 そのことは言えなかったから。
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