第一章 雨に濡れて



 道々何度も振り返りながら、男はラスの顔を脳裏に何度も思い描く。

 人違い?

 本当に?

 だが、彼の主張が事実だとしても、それが通る状況か?

「キャサリンは確かにわたしの妻だが……彼女に掛けられた嫌疑は今も晴らせていない。この状況で彼がわたしの子かもしれないとなったら……」

 最悪の場合、捕縛されて投獄。

 そのまま暗殺の恐れだってある。

 彼は想像もしていないのだろうが。

 そうならない場合、ジェラルドを擁立する派閥に捕らえられて監禁されるか。

 もしくは対立する派閥に担ぎ上げられて、自分でも知らない間に窮地に立たされるか。

 どちらにしても平穏には生きられない。

 外れていたとしても、だ。

 キャサリンと同じ顔をしている。

 ただそれだけのことで彼は危険と背中合わせに生きていかなければならない。

「キャサリンは……死んだ」

 彼が冷たい眼をして呟いた言葉が、今頃胸を切り裂く。

 嘘だと思いたいのに、あのときの彼の眼は真剣だった。

 嘘を言っている眼ではなかった。

 彼が本当に息子ならキャサリンは死んだのだ。

「当たっていてほしいのか、わたしは? キャサリンは死んだと思い知りたいのか? それとも生きていると望みを繋ぐために……外れていてほしいのか?」

 わからない。

 自分で自分の心が読めない。

 ネックレスを確かめることができなくて、よかったのかもしれない。

「わたしは……弱い男だな。あの頃のまま」

 そう言えば……と今頃思い付いた。

「右目が碧? 左目が緑? どうして気付かなかった? 碧はわたしの瞳の色。もう片方の瞳の色である緑は……キャサリンの瞳の色だ」

 彼の瞳の色を思い出したとき、遠くなった宿を振り向いていた。

 そこにいる人を思い描いて目を閉じる。

「お別れだ。ラス。わたしたちは逢わない方がよかったのかもしれない。当たっていても外れていても」

 我が子かも知れない青年。

 彼を危険な目に遭わせたくないなら、未練はきっぱりと断ち切るべきだった。

 彼が言ったように最早確かめる術はない。

 あのネックレスがそうだとしても、彼がそれをキャサリンから奪って手に入れたと主張されたら、彼だって否定できないからだ。

 波乱を招かないように動くべきだ。

 今更ながらそう思った。






 軒下から店に入ると約束した相手が待ち構えていた。

「おやまあ。のんびりされていらっしゃるから、てっきりどこかの女に骨抜きにでもされていらっしゃるのかと思ってましたよ」

「相変わらずだな。そなたは。全く。それでよく裏の顔がバレないものだ」

「それだけ役者だってことですよ。で? 本当はどこにいらしたんです?」

「……想い出に浸っていただけだ」

「嘘ばっかり」

 一言の元に却下されてムッとした。

「どうして嘘になるんだ?」

「だって……あんまりいい想い出ありはしないでしょう? 思い出しても辛くなるだけで」

「それでも浸ることはある。わたしの生きてきた証だからな」

 言葉に嘘はない。

 ラスと相対するということは、自分にとって過去と相対するということなので。

「まあようござんしょ。どこにしけこんでいたかは問わないでおきますよ」

「だから、そう変な言い方をするな。まるでわたしが女遊びでもしているみたいだろう」

「女遊びをする甲斐性があれば……よかったんですけどねえ?」

「失礼だな。そなたは」

「まあお子さまがふたりも産まれただけ奇跡と言うものですよ。全くねえ」

 この女傑に勝てた例がない。

 言い返しても虚しいので話をするため、彼女の部屋へと移動した。

 部屋では何故か連れてきた将軍がのびていた。

「なにをしたんだ?」

 振り向いて問う。

 彼女は素早く扉を閉めると椅子へと手招いた。

 首を傾げながら用意された席につく。

 ワインを注ぐ手を見ていると彼女が肩を竦めてみせた。

「あんまり大騒ぎするものでね。ちょっと眠って頂きました」

「もしかしてわたしが遅いとか、探しに行くとか、騒いでいたのか?」

「まあそんなところですよ」

「ふう」

 疲れてワインを口にした。

 甘酸っぱい味がする。

 それだけでラスとの会話が、どれだけの刺激になっていたのか自覚した。

 スッと疲れが抜けるようだ。

「それで? ドルレインの様子は?」

「変化ありませんねえ。別にこちらに仕掛けてくる様子もありませんよ」

「そうか」

「変ですね?」

「なにがだ?」

「いつもなら真っ先にマリア様のお行方を訊ねられるのに。如何なさったんで?」

「……」

 言葉が……出なかった。

 さっき彼女が死んだかもしれない情報を得たなんて言えないから。

「これから訊こうと思っていたんだ。なにか掴めたか?」

「マリア様のお行方もルイ様のお行方もわかりません」

 マリアとはキャサリンの別名である。

 キャサリンという名は出せないので、彼女のことを問うときは、その名を使っていた。

「では皇家の鍵の行方も?」

「それなんですがねえ。おかしなことにどこにも出回っていないんですよ」

「出回っていない?」

「あれが皇家の鍵だと知らなくても、普通は相当な値打ちものだとわかったら、売りに出しそうなものですけど。マリア様のお行方もルイ様のお行方もわかりませんけど、同時に鍵の行方も不明です。どこから探っても鍵に辿り着けなくて」

「そうか」

 ラスの胸元で光っていたネックレスを思い出す。

 眼に止まった理由はネックレスにしては形が変だったからだ。

 あれは鍵だった。

 どんな鍵だったかははっきりとは言えないが、確かに鍵の形をしていたのだ。

 そんな珍しいネックレスなんて普通はない。

 しかし確かめられなかったし。

「オッドアイのラスについてなんだが」

「ああ。可愛い子でござんしょ? あたしのお気に入りですよ」

「まさか毒牙にかけていないだろうな?」

 ムッとして睨むと彼女には呆れて笑われた。

「どうして笑うんだ?」

「いえね。息子の操を守ろうとしている父親に見えて少し可笑しかったんですよ。あたしは女狐ですか?」

「似たようなものだろう? 若者を毒牙にかけるものじゃない」

「これが鉄壁の防御でしてね。あたしが口説いても落ちやしない」

「ほう。それは凄い」

 素直に感嘆した。

 彼女に口説かれて靡かないなんて相当な逸材だ。

「あたしはただあたしの稚児にすることで、ここに居やすくさせてやろうとしているだけなんですがねえ」

「稚児って……全くそなたは」

「だって……あの顔で外に出たら、無事には済みませんよ」

「……」

「あの子の名を出されたってことは……お逢いになられたんですよね?」

「だったら問う。何故確認しなかった? あの容姿だ。もしかしたら」

「本人には心当たりがなさそうでしたし、それに証拠が見付かるまではそうっとしておいてやりたくて」 

「その親切心が仇になったらどうする気だ? 彼は都に行く気だぞ」

「知っておりますよ。先程確認しましたから。これは手込めにしないとダメですかねえ?」

「冗談でもそのようなことは言うなっ!!」

 叱りつけると彼女にまた笑われた。
「本当に雛鳥を守ろうとする親鳥そっくり」

 鈴がなるように笑われても、自覚があったので、なにも言い返せなかった。

「どちらにしてもあの子は台風の目になりますよ。もう……避けられないんでしょうね。陛下のお目に止まるくらいだし」

 ここでは絶対に出さないはずの呼び名称を出されて黙ってワインを口許に運んだ。

 それは苦い味がした。

 これからの運命を暗示するように。





「へえ~」

 都の門を潜るとき、じろじろと見上げてしまって衛兵に睨まれた。

 肩身が狭いなと肩を竦めてみせたものだが。

 王城のある首都のことを普通は「都」と呼ぶ。

 普通に「都」と呼べば、それは首都を指すのだ。

 ラスが暮らしている色街は街道沿いの外れにある街で、首都に来るには暫く歩かなければならない。

 まあ旅をしなくて済む分、近いのかもしれないが。

「さあて。手っ取り早いのはギルドかねえ?」

 都にはそういうものがあると聞く。

 職業斡旋所とでもいうのだろうか。

 ギルドに行けばどんな職種の、どんな条件の仕事でも、必ず希望のものがあると聞いている。

 嘘かホントか知らないが。

「一日三食宿つき……無理か。さすがに」

 そんな条件のいい仕事なら、とっくに決まっているだろう。

 さて。

 どんな内容の仕事ならあるだろうか。

 そう思って大通りに出る。

 ふと眉をしかめた。

 物珍しそうに通りを見ている少女。

 彼女の背後をひとりの男がつけている。

 手の動き。

 油断なく周囲を見る目付き。

 スリだなとわかる。

 彼女の格好はかなり上品だし、上客だと踏んで狙っているのだろう。

「ま。俺には関係ないし」

 そう言って背を向けようとしたが、これが職業病なのだろうか。

 気になって一歩が踏み出せない。

 さりげなく振り返る。

 少女の傍に男が近づこうとしていた。

 軽くぶつかる。

 少女はペコペコ頭を下げているが、ぶつかったときに懐をすられているのを確認済みだった。

「……どこまで無防備なんだ? ちょっとは気付けよ!!」

 ああ、もうっ!!

 内心で愚痴りつつ駆け出していた。

「ちょっとアンタ!!」

 さりげなく人混みに紛れようとしていた背中を捕まえる。

 傍にいた少女がキョトンと見ていたが無視である。

 男は愛想笑いを浮かべていた。

「なんですか?」

「彼女からスッたもの返せよ」

「あなたあたしをスリ呼ばわりされるんで?」

「とぼけてんじゃねえよ。痛い目を見ないとわからないってのか?」

「え? オッドアイ?」

 ラスの瞳を見ていた男が顔色を変えた。

 オッドアイのラスの背後に国ですら入り込めない色街が控えていることは有名な噂である。

 それはこの首都でも轟き渡っている噂だった。

 男は青ざめて懐から可愛らしい財布を取り出した。

「まあ」

 見守っていた少女が呑気な声をあげ、慌てて懐を探っていた。

「遅いって……」

 さすがに呆れるラスである。

「アンタ。長生きしたかったらスリから足を洗いな」

「はいっ。誓いますっ」

「誓って破ったらどうなるかわかるよなあ?」

「破りません!!」

 ペコペコ頭を下げる男にラスは「行けっ」と合図した。

 さすがに役人につき出す気はないので。

 温情をかけられたスリは脱兎の如く逃げ出していた。

 見送ってラスは少女を振り返る。

 へえ。

 さっきは気にしてなかったけど綺麗な子だな。

 銀の髪に銀の瞳か。

 色素が薄くてなんだか人間じゃないみたい。

「ほら。これ。アンタのだろ?」

「ありがとうございます。全然気付かなくて」

 声に出さずに「だろうな」と囁くラスである。

 気付いていたら何度も謝って頭を下げるわけがない。

「とにかくこれからは気をつけろよ。アンタみたいなお嬢さんがひとりで出歩くのはやめた方がいい」

「お嬢さんじゃありません。ジュエルです」

「宝石?」

「いえ。だから、宝石という名なんです」

「ああ。だから、ジュエルか。変わった名付けだな」

「貴方は?」

「俺? ラスだけど?」

「お茶でもご一緒しませんか? お礼にご馳走しますから」

「う~ん。でも、急いでるしなあ」

「どこかへ行かれる途中でした?」

「ギルドに行こうかと」

「もしかして職探しですか?」

「まあね」

 早々に決めないとこのままだと色街に拘禁され兼ねない。

 実はさっきも引き留めるのを振り切って街から抜け出してきたのだ。

 なんで逃げないといけないのか。

 あのときばかりは求められる我が身が恨めしかったが。

「でしたらいい勤め先がありますよ」

「どこ?」

「自警団」

「自警団? え? なんで?」

 騎士団とか言われるなら、まだ勤め先としてわかるが、自警団って普通は街や村の人々が、善意でやるものではないだろうか?

「実はつい最近自警団が国の機関のひとつになりまして」

「へえ? 知らなかった」

「警備する範囲が広がって人手が足りないそうです。優秀な人材が欲しいって嘆いていましたから、貴方ならきっと喜んで迎えてくれると思います」

「でも、それだと宿がなあ」

「寄宿舎……でよければありますよ?」

「へ?」

 意外なことばかり言われて目を丸くした。

「国の機関のひとつになったときに自警団の独身の者ばかりが住める寄宿舎が準備されたんです。部屋はまだ余っているはずですけど」

「アンタ自警団の回し者?」

「そういうつもりはありませんけど」

 困った顔の少女に笑った。

 上手い話は転がってない。

 わかってるつもりだった。

 でも、彼女を見ていると悪意がないことも一目でわかる。

 嘘をついているかどうかなんて、もっとはっきりわかるものだ。

 取り敢えず信じてみよう。

 そう決めた。
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