第八章 運命の岐路





 第八章 運命の岐路





 海の上を一隻の船が往く。

 甲板で潮風に当たる女性は真っ白な髪だったが、その美貌は目を疑うほどで、顔立ちも40間近だと思うには若すぎた。

 髪が白いのは彼女が受けた心の傷が原因だと言われている。

 そもそも今生きていることが奇跡であり、更には五体満足な健康体だとなったら、生涯あるかないかの強運の持ち主だと噂されていた。

「もうすぐ帰れるのね。アドミラルに」

 帰ったら命が危なくなる。

 それでも帰るのかと確認を取られて、彼女は頷いた。

 例え帰国したことで命を落としても逢いたい人がいると。

 この19年。

 一時足りと忘れたことはない。

 あの人には逢えない。

 逢ってはいけない。

 裏切ったのはお互い様だからだ。

「ベアトリス」

「ユリス」

 名を呼ばれ振り向いて今の夫の名を呼んだ。

 命を助けてくれた彼の求愛を拒みきれずに結婚したのは、あの人の再婚を知ったから。

 帰る場所はもうない。

 その絶望をユリスの愛情が優しく包んでくれた。

 最初こそ義務感で妻を演じていたが、今ではあの人と同じくらい愛している。

 あの人には伴侶がいる。

 だから、想いは封印することができた。

 あの人には自分はもう過去の存在でしかないのだと。

 あの人の想い出の中にしか存在できない。

 それが現実。

 だけど、失って掌から消えたけれど、生きているかもしれないあの子のことは、一瞬も忘れたことがなかった。

 生きているかもしれないという微かな望みを、どうしても捨てられないまま、この19年を生きてきた。

 それは奇跡的に命を繋いだ代償なのか。

 二度と子を産めない身体になったことも関係していた。

 生涯にただ一度得られた愛の証なら、どうしてもこの腕で抱いてあげたい。

 抱き締めて生きている喜びをこの身で感じたい。

 ユリスはそんな気持ちを理解してくれて、結婚してからもこうして各国を探して旅をしてくれている。

 そして19年も経ってから、ようやく手懸かりを掴んだ。

 アドミラルに自分に瓜二つの青年がいると、執事が旅の噂で聞いたのだ。

 そして今自分は居ても立ってもいられず、こうして祖国へと向かっている。

 命を狙われる危険も省みず。

 助けてくれたユリスに名を聞かれたとき、本名は名乗れなかったので、とっさにベアトリスと名乗った。

 最も愛した母の名だ。

 両親は元気にしているだろうか?

 自分のために落ちぶれて苦労してはいないか。

 気掛かりで仕方ない。

 今向かっているのはアドミラルの中でも特殊な法で守られた色街。

 そこに探し人かもしれない人がいると聞いたから向かっている。

「ラス」

 焦がれた名を呟く。

 そんな自分に夫は気遣う声をかけてくれた。

「本当に行くのかい? ベアトリス? アドミラルでのきみは……」

「港についたら別れましょう。ユリス」

 笑顔で言えば夫はわかっていたのか、静かにかぶりを振った。

「わかっているはずよ。わたしと一緒にいたら、貴方まで罪に問われるわ。わたしを二度も夫を不幸にした悪女にしないで」

「けれどきみは無実だ。そんなきみが断頭台の露と消えるのなら、喜んで黄泉への旅路に出よう。わたしは死など恐れはしない。きみを失う方が、死ぬよりも恐ろしい」

 それにとユリスは言葉を続けた。

「そのラスという青年が間違いなくベアトリスの子で、彼にもまた帰る場所がないのなら、彼さえよければ是非跡継ぎのいない我が家を継いでほしい。アドミラルほどの大国の皇太子という生まれを思うなら、わたしの家系は小国の一貴族に過ぎないが」

「ご謙遜ね。国こそ小さいけれど歴史は古いし、貴方の家系は宰相にまでなった先祖がいるほど由緒正しいじゃない」

 当然彼は将来を期待されていた。

 しかし自分と出逢い身分を知ってから、出世の道を諦め家督も弟に譲ってしまった。

 貴族社会で目立ってしまうと自分が危なくなると知ったからだ。

 だから、彼の言う一貴族に過ぎない家柄というのは、自分のために彼が選んだ道の結果で。

 結局自分はふたりの夫を不幸にした悪女なのかもしれない。

 真っ白なこの髪のお陰で、身分がバレずに済んでいる。

 アドミラルへの帰還はなにを招くだろう?

 そしてラスという青年は、本当に我が子なのだろうか?

 ベアトリスは……かつてキャサリンと呼ばれ、皇太子妃だった女性は、19年振りの帰郷に運命の鼓動を感じていた。





 そんなこととは露知らず。

 ラスは久し振りに色街に戻っていた。

 そこかしこから掛かる声に手を振って応えつつ、真っ直ぐにある店を目指す。

 色街一の娼婦たちの集う店。

 立ち入って上がる黄色い声に苦笑しつつ、ラスは声を投げた。

「マリアの姐さんいる?」

「戻ってきてもラスの目当てはマリアの姐さんなのね」

 つまらないと身をくねらせる女たちにラスの苦笑は深くなる。

「戻ってきたらまず姐さんに挨拶しないと。なにを拗ねてんだ?」

「女心がわからないのは相変わらずだね、ラス」

 奥から姿を見せた大輪の花にヴァンは渋い顔付きになり、まだ年若いマックスは顔が赤くなる。

 妖艶な美を誇るこの女性こそ、花街の花と呼ばれるマリアだった。

「姐さん!! 久し振りっ!! 自警団の皆は来てるかな?」

「自警団の男共かい? それは勿論丁重に手厚くもてなしてるさね。なにしろラスの客人なんだからね」

「あちゃー。じゃあ今日は逢えそうにないな。そんな野暮な真似をここでしたら追い出されるし」

「ラスは今夜はどこに泊まるんだい?」

「日帰りのつもりだったから特に決めてない。色街を舐めてたかも」

 色街に若い男が立ち入って、なにもしないなんて、ラスの思考の方が異常だと言われるだろう。

 ラスは色街で育ったせいか、普通とはちょっと感性が違うのだ。

 こと色恋に関してラスは大根と言われるほどに鈍い。

 極太に鈍いという意味だ。

 だから、色街に来さえすれば、すぐに皆に再会できると浮かれていた。

 そのため宿の手配もしていない。

 どうしようかなあと視線を彷徨わせたとき、ヴァンがマリアに目配せしたことに気付いた。

 このふたり。

 知り合いなんだろうか?

 そういえばマリアが現れたときのヴァンの反応は異常だ。

 寧ろマックスの方が普通に見えた。

 やっぱりこのふたりは知り合いだなとラスは結論付けた。

 だってマリアは曲がりなりにも花街の花と呼ばれる娼婦だ。

 彼女を前にしてなにも感じないなら、それはラスみたいに免疫があるからとしか思えない。

 マリアへの免疫なんて馴染みの客でもつかないのだから、ふたりの関係の深さと親しさがわかる。

 どういう関係なんだろ?

 そんなことを考えながら、ラスはおそらくマリアが話し出すだろうと踏んで待ってみた。

「よかったらあたしのところに泊まるかい? ラスが帰ってくると聞いたからね。今夜は客を取る予定はないし」

 想像通りの言葉がマリアの口から放たれて、ラスは苦笑い。

「姐さん」

「なんだい?」

「有り難くお世話になるけど……演技……下手になってないか? 俺なんかに気取られるほど」

 意外な言葉を言われてマリアとヴァンは絶句したが、やがて彼女が少し寂しそうに笑った。

「今のでわかったのなら、あたしの腕の問題じゃなく、あんたが変わったのさ。ラス」

「そうかな?」

「そうさね。全く。どんな教育をしてくれたんだか」

「わ、私はっ!!」

 あわてふためくヴァンなど見たこともないラスと、彼の実の息子のマックスは呆気に取られた。

「キリキリと白状して貰いますからね?」

 ヴァンはできるなら逃げ出したかったが、護るべき皇太子を置いて逃げ出すわけにもいかず、マリアに引き摺られるままに消えていった。

「あんな姿……初めて見ました」

「俺もだ。どうやら姐さんが天敵みたいだな」

 クスクス笑いつつ、ラスはふたりの後を追い掛ける。

 その頃港に船が着いたと銅鑼が鳴り響いていたが、それがなにを招くかは、まだ誰も気付いていなかった。

 親子の再会はすぐそこまで来ている?

 それは神のみぞ知る。
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