第七章 恋してはいけない人
第一皇子ルイがどこにいるか探れ。
そう言われた騎士は一応騎士団長のひとりで、ヴァンとも肩を並べる腕前の持ち主で知られていた。
但しかなりの小心者のため、あまり良い噂は聞かないが。
いつもビクビクおどおどしていて、その上に皇帝に対してすら、はっきりとした忠誠心を見せない不義理さが、騎士団では浮いていたのだ。
あまり知られていないが、一応将軍を名乗っている。
但しヴァンが近衛などを取りまとめる将軍を名乗っているのに対して、彼はもうワンランク下で、所謂一般の騎士団を取りまとめる役職をやっていたのだった。
そのため同じ将軍を名乗っていても、皇帝の右腕とも言われるヴァンには頭が上がらない。
名をユダと言った。
ユダという名には裏切り者という意味がある。
両親が何故そんな名前をつけたのか、本人も知らない。
ただ両親も間諜のような真似をしていたらしいので、我が子の行く末もわかっていたのかもしれない。
何故ならユダこそが、自分こそが先帝弑逆の真犯人で、先の皇太子妃キャサリンを陥れた人物なのだから。
裏切り者。
それ以上相応しい名が自分にあるだろうか。
すべては幼い日。
路頭に迷うところを今の主人に拾われたことに起因する。
今になって思えば、あのときに死んでいたらよかったのにと思わないでもない。
自分から死ぬ勇気はないが、あのときは放っておいたら、簡単に死ねただろうから。
そうしたら身を斬られるような、こんな痛みは知らずに済んだ。
自分で死ぬ勇気もないくせに自分の死を願うほどには、ユダはキャサリンに憧れて彼女を慕っていたのだから。
誰にも省みられず信用もしてくれない。
ただ利用されるだけの自分。
存在価値なんてないと思っていた。
そう。
あの日までは。
『貴方はユダと仰るの?』
皇太子妃キャサリンにお目通りが叶った日。
慣例通りに名前について訊ねられた。
あのとき皮肉な気持ちで考えていた。
裏切り者の名を持つ者など傍には置けない。
信用できないから。
そう言われると信じきっていた。
騎士団に入ってからも、名前のせいで信用されず、居場所すらなかったから、きっとこの麗しい姫君も同じだろうと。
しかし彼女は笑ってくれたのだ。
良い名だと。
名前のことを言われた後で笑顔を向けられたのは、このときが初めてだった。
『良い名だと申されるのですか? キャサリン様? 裏切り者という名前が?』
『裏切ることが何故いけないの? 貴方がなにを裏切るかは、まだ決まっていないのに』
『……』
『もしかしたら貴方が裏切るのは期待や信用ではなく、裏切り者などと蔑み貴方を信じない人々の偏見かもしれないのに』
裏切るのは期待や信用ではなく人々の偏見。
そんな風に言われたのは初めてで、自分はあのとき産まれて初めて悔しさではなく、喜びから涙を流した。
そして彼女は騎士のくせに涙した自分を笑わなかった。
ただ一言だけこう言っただけで。
『わたくしの傍にいて頂戴。そして貴方が人々の偏見を裏切る勇姿を見せて、ユダ』
そう言って華奢なその手を差し伸べてくれた。
その手を取ったから、居場所のなかったユダにも居場所ができた。
彼女が皇子のものでもよかった。
幸せそうに微笑む彼女を護れたら、ただそれだけでよかったのだ。
自分の望みは彼女の幸せを護り笑顔を護ること。
望みはそんなささやかなものだったのに、あの冷酷な主人はそれさえ赦さなかった。
彼女を陥れて殺せ、と命じられたのだ。
しかも自分にできないなら腹の子ごと毒殺すると脅されて、小心者なりに一生懸命考えた。
あの恐ろしい主人の魔の手から彼女を護る方法を。
汚名は被せることになってしまう。
しかし命を助けるためには他に手立てはなかった。
海の貴族と呼ばれる海賊の温情を頼るしか方法はなかったのだ。
主人の魔の手から護りつつ、ドルレインにも彼女を渡さない方法は。
あれしか……なかった。
あのとき少しでも躊躇していたら、今頃ルイ殿下はこの世にはいなかっただろう。
恐ろしい主人に母親ごと毒殺されて、誕生することすら許されなかったはずだ。
主人の下には年頃の美しい令嬢がいた。
その令嬢が叶わぬ恋と知りながら、皇太子殿下に想いを寄せている。
それがすべての悲劇の始まり。
令嬢の気持ちが皇太子に向かっていることが、主人の野望に火を注いだのだから。
多少は人の情が残っていたのか。
令嬢を傷付けることなく玉座を狙える手段に、あの人は気付いてしまった。
邪魔なキャサリン妃をお腹の子ごと葬りさり、傷心の皇太子殿下に令嬢を娶らせることができたら、やがてふたりの間にも子供が産まれるだろう。
その子が皇子なら将来的に後見人になることで、皇帝となった孫を操り国を牛耳れる。
この国を自由にできると。
当時皇太子だった今の皇帝が、必死になってキャサリン妃を探した1年間が、却って彼から縁談から逃げる気力を失わせた。
キャサリン妃でないなら誰を娶ろうと同じだったのだ。
だから、候補の中で一番身分が高いという理由だけで、今の妃であるエリザベート様を選んだ。
そう。
それを目論見キャサリン妃を亡き者とした主人の思惑通りに。
ふたりの間には主人の期待を一身に背負ったジェラルドという皇子が産まれたが、皇帝の血の影響か。
主人に似ず聡明だ。
ユダはあれからも必死になってキャサリン妃の行方を探した。
海賊の言葉を疑う危険性は知っていたが、それでも探すのを諦められなかった。
そして見付けた。
おそらくルイ殿下に間違いないと思われる青年を。
ラス……と彼は名乗っていた。
色街の華とまで呼ばれる美貌の持ち主で、とにかく常に周囲から求められる。
騒動の基になる困ったところまで、キャサリン妃によく似ていた。
口調は色街育ちらしくあまりよくなかったが、優しい人柄に彼女の面影を重ねる日々が暫く続いた。
色街を束ねるのも自分の仕事だったから。
ラスはやはりキャサリン様のお子だったのだろう。
あるとき皇帝が連れ去ってしまい、それきり行方が知れない。
自分とラスの繋がりを知る者はいない。
だから、主人の前でも知らないフリをした。
それでもまた下されたラスを殺せという絶対命令。
自分はまた殺すのだろうか?
キャサリン様だけではなく今度は自分のために母親を失い、高貴な身分すら失って育ったラスを殺すのだろうか。
「それしか道がないのだというのなら、貴方の手で終わらせて下さい。ルイ殿下」
偏見を裏切ると言って下さったキャサリン妃の期待を裏切ってしまった情けない男だ。
自分には生きる価値なんてない。
いつかラスに討たれる。
その日だけを待ちわびて今日まで生き恥を晒してきた。
そのときがとうとう来た。
それだけのことだとユダは迫り来る自分の死を切望していたのだった。
これでやっとキャサリンに許しを請えると。
しかし現実はそれほど甘くない。
死んで詫びれば許されるほど彼の罪は軽くないのだ。
彼がそれに気付くのは、ラスがルイとして彼の前に立ち塞がったときとなる。
アドラー公爵の野望を打ち砕くために。
「ばあさん」
離宮でいつも通りマリアンヌとお茶をしていたラスは、ふと気掛かりそうに祖母の名を呼んだ。
「どうかしました? ルイ?」
「ジュエルの縁談が進行中ってマジ?」
「マジ?」
「あ。本当か? って意味。下町言葉なんだ。ごめんな?」
「構いませんよ。これからも知らない言葉で話しても。その都度教えてくださいな。わたくしにも勉強になりますから」
皇太后には関係ない知識だろうに叱ることもなく、ラスが萎縮するような態度も取らないマリアンヌに感謝しつつ、ラスは黙って答えを待った。
「嘘か本当かで答えたら本当ですとなりますね。それがどうかしましたか?」
「止められないかな?」
瞳を陰らせて問い掛けるラスにマリアンヌはため息をひとつ。
「同情も時と場合によりますよ、ルイ」
「……」
「貴方の気持ちも苦しさもわかります。ですが貴方がそこで縁談を止めれば、ジュエルは期待するでしょう。貴方に想われているかもしれないという期待を。貴方はその気持ちに応えられるのですか?」
「……オッサンと同じことを言うんだな。ばあさんも。やっぱり親子だ」
「ルイ」
「自分が間違ってることくらい知ってる。でも、みんなこんなときどうやって仕方がないって、自分を納得させてるんだ?」
ラスはモラルというものは、人より縁遠いものだと思っている。
だから、妹だからどうこうとは、正直に言えば考えていない。
ジュエルの気持ちに応えられない動機は、もっと単純明快なものなのだ。
「貴方はジュエルが妹だから応えられないのではないのですね」
「いっそそうなら割り切れた。俺がモラルに縛られていて、ジュエルは妹だから対象外って言えるなら、きっぱり断れたんだ。妹なんだから仕方ないって。でも」
「断る理由に血縁関係は関わっていないのですね。単純に貴方がジュエルをひとりの異性として愛せない。だから、好意を寄せられても応えられない。兄だからではなく異性としてジュエルを見られないから」
血縁関係を無視した答えを導き出しているから、ラスは余計に苦しい。
妹だからという免罪符を使えないからだ。
ジュエルの方は妹だから振られたのだと思っているのに、実際には異性としては見られないからという。もっとハッキリとした理由で拒絶されている。
断る理由に血縁関係が関わってこないなら、妹だからと諦めて結婚しようとするジュエルに、余計な罪悪感が残るのは仕方がないのかもしれない。
でも、ラスはどうして自分の答えが、血縁関係を無視した答えだとわかったのだろう?
そういう方面ではとても疎いのに。
問えばラスは苦い顔で笑った。