第七章 恋してはいけない人
第七章 恋してはいけない人
第一皇子、ルイ帰還。
そんな噂が流れ出したのは、ラスがジェラルドに初めてのキスを奪われた10日後のことだった。
リカルド皇帝は頭を抱えたものだ。
しかも情報の発生源がドルレインだというのだから、この問題の厄介さが浮き彫りにされた感じがして、全く嬉しくなかった。
しかもドルレインがラスを狙っているという噂つき。
リカルドはここ暫くこの問題にかかりきりで、ラスに逢いに行く暇もなかった。
臣下たちの反応はまあ予想通りだ。
ラスが帰還しているという噂は事実なのか。
キャサリンの子は生きていたのか。
生きていたなら今までどこに居たのか。
男なのか女なのか。
男だとして五体満足なのか。
等々。
臣下たちの興味はラスが男か女か、男なら皇帝位を継げる健康体か。
ジェラルドのライバルになれる存在なのかの一点に絞られていた。
意図は明白だ。
女なら厄介者の皇女として嫁がせれば済むが、男でなんの障害も持っていない健康優良児なら、リカルド次第で帝位を継げることを意味するからだ。
元々リカルドが溺愛していたのは、現在の妃エリザベートではなく、先の妃キャサリンの方なのだ。
最初の妃であり溺愛していた彼女が最期に産んだ子も、ジェラルドと同じ男なら、リカルドがどちらに帝位を譲りたいかは、誰にでも答えは明白であった。
ジェラルドは帝位を奪われるかもしれない悲運の皇子として、最近は噂話の直中にいるが、本人は全く気にしていない。
何故ならラスの面影が脳裏に焼き付いて、それどころではなかったからだ。
大体ジェラルドは祖父の期待を裏切らないように、なるべく理想的な皇子を演じてはいるが、正直に言うなら皇帝の座には然程興味は持っていない。
寧ろ城から解放されて広い世界に旅立ち、見知らぬ世界を旅してみたいという、誰にも言えない夢を持っている。
型に嵌められた理想的な皇子を演じなければならないという重責が、常にジェラルドにはあって、それから解放されたいというのが密かな願いだったのだ。
つまりラスが出てきても喜び歓迎しても疎むことはないという意味になる。
しかしそんなジェラルドの野望を知っているのは、お側付きの護衛騎士マックスだけなので、周囲が悲運の皇子と騒ぐ度にマックスは周囲の勘違い振りに呆れるのだが。
ジェラルドがマックスにルイの行方を探すことを命じていたのも、実はキャサリンの子が生きていて、もし男なら自分の代わりに帝位を継いでほしいからで、周囲の感想は的外れすぎる事実無根の見当外れなものなのだが、悲しいかな。
ジェラルドはそれを否定できない立場にあった。
今も祖父に呼び出されてジェラルドは母親の実家であるアドラー公爵の居城を訪れていた。
「ジェラルド。事実はどうなんじゃ?」
安楽椅子に腰掛けた祖父に問われて、マックスを引き連れてやってきたジェラルドは、少しだけ首を傾げる。
「事実はどうかと訊かれても、こちらも探っている段階なのでなんとも」
孫の返答に公爵は難しい顔だ。
「ジュエルに浮いた噂があると聞いた。あの娘には有力貴族との婚姻を命じておいたはずじゃ。エリザベートはなにをしておる?」
自分たちは確かに貴方の孫だが、貴方の野望を叶える玩具じゃないと、ジェラルドは叩き付けたかった。
ジェラルドは確かに彼の孫で、野望を叶えるための道具だが、そう思われているとわかっているから、実は彼が苦手だった。
憎んでさえいたかもしれない。
母は父に愛されないことは寂しく思いながらも納得している。
あんな経緯で愛する女性と産まれるはずだった子供を失ったら、彼女を忘れられなくても仕方がないと。
だから、父に愛されないことを殊更嘆いたりしない。
妃として認められているだけで満足だと、自分に言い聞かせているからだ。
だから、寧ろ母を泣かせているのは、親であるこの男の方だとジェラルドは感じている。
母の気持ちを利用して政略的に父と結婚させ、その結果産まれてきた自分たちも孫としてではなく、この国を手に入れるための手駒として扱っている。
この男に好かれたくて、少しでも期待に背かないようにと、今の自分を築き上げた。
愚かだと思う。
この男が幾ら祖父だと言っても、人並みの愛情を期待していた自分が。
この非情な男が祖父としての愛情を自分たちに注いでくれることなどあり得ない。
寧ろ父方の祖母であるマリアンヌに愛される道を模索した方が、まだ自分たちのためになった。
理想の皇子であろうとしたことで、ジェラルドはマリアンヌから見て、手のかからない孫になってしまったのだろう。
なんでも自分で出来て、しかもそつなくこなせる。
それは今のラスとは正反対の姿だ。
ラスはなにをするにも一度は失敗するし、危なっかしくて目が離せない。
マリアンヌに構ってほしかったなら、なんでもできる理想の皇子になるのではなく、世話の焼ける孫の方がよかったのだと、最近になって気付いた。
なにもかも最初から間違えてしまっていたのだと。
(兄上。わたしは皇帝にはなりたくない。自由になりたいんです。この男の野望を叶える手立てが自分なら、それは阻止したい。だから、正統な世継ぎである貴方を探し出したんです。身勝手だと感じるかもしれない。皇帝にはなりたくないのは、お互い様だと兄上は仰るかもしれない。でも)
薄幸の美姫、キャサリンと皇帝として優れた父の血を正当に受け継いだ貴方と違って、自分には汚れたこの男の血が流れている。
この男の野望が叶ったら、きっとこの国は滅茶苦茶にされてしまう。
近隣諸国を蹂躙するそんな国にされてしまうだろう。
そのときは兄だってきっと無事ではいられない。
貴方を護りたいから、だから。
(わたしはどんな手を使っても、貴方を皇帝の座に据えてみせる。そして災いの種にしかならないわたしはこの国を去る。それが一番この国のためになる選択肢なんです。すみません。兄上。わたしの身勝手で貴方に重責を背負わせることをお許しください)
ラスと出逢った当時は、まだ人違いである可能性が残っていた。
本人である確証が得られないなら、彼を危険な皇位継承争いに巻き込みたくないと、王都を離れるように助言もした。
しかしその杞憂も杞憂で済んで、彼こそが正統な世継ぎであることが証明された。
後は彼が皇帝になれるようにジェラルドなりに頑張るだけだ。
何故この男がこんなにも怖いのだろう。
理屈じゃなく恐ろしいのだ。
この国の災いが人の姿をしている。
ジェラルドにはこの冷酷な男が、そんな風に思えて仕方がなかった。
いつも通り何事もなかったように去っていく孫を見送り、公爵は呼び鈴を鳴らした。
「お呼びでしょうか? 旦那様?」
現れた男に公爵は淡々と命じた。
「城に戻ったらジェラルドを見張れ」
「殿下をですか?」
「あの愚か者はこのわしを欺こうとしおった。なにか隠しておることなど見え見えだ」
「……」
「おそらくジェラルドはルイの居所を知っておる。突き止めたらルイを殺せ」
「旦那様!! 今度ばかりはお許しを!! せめてドルレインに売り飛ばすわけには……」
「キャサリンのときにその手を使って失敗したのは誰だ?」
「……」
「ルイを殺したら遺体を持ってこい。この目で確認しなければ、安心して夜も眠れん!!」
ルイは生き証人だ。
この自分が先帝弑逆を命じた張本人で、その罪をキャサリンに被せた重罪を犯したことを証明できる唯一の生き証人。
生かしていたらこちらが危うくなる。
あの男が手に入っていれば、偽者騒動を起こせば、簡単に葬りされた。
それも本物が現れてしまったら意味がない。
なんのために娘を利用して皇帝の子供を産ませたのかわからなくなる。
ジェラルドは薄々権力欲に取りつかれた祖父の正体に勘づいているのだ。
だから、自分は帝位を継いではいけない身だと理解している。
わかっていないが知っている。
自分とジュエルは産まれてきてはいけない存在だということを。
ラスもそして皇帝という身分故に悲運に見舞われたリカルドも、まだその事実を知らなかった。
兄弟妹を引き裂く悲劇の源が、この年老いた公爵なのだと。
適当に祖父の問いをかわして、公爵家を後にしたジェラルドは、馬車の中で頬杖をついていた。
「マックス」
「はい」
「兄上に嫌われず押し付けたとも思われずに帝位を譲る方法ってなにかあると思うかい?」
ジェラルドに帝位を継ぐ気がないことは、マックスだけは知っていたので内容そのものは想定内だった。
想定外だったのはラスに嫌われたくないというジェラルドの健気さだ。
まあ兄弟だとはいっても、つい最近まで面識はなく、出逢いからして他人でしかなかったから、ジェラルドが心のどこかで兄弟感覚を持てずにいたとしても不思議はない。
不思議はないが、これではまるで……。
「それは正直にお答えすれば難しいかと」
「だよね」
ため息をつくジェラルドにマックスは思い切って訊ねてみた。
「失礼ですが殿下」
「ん?」
窓からマックスを振り向いてくれたジェラルドに言いにくかった言葉を口にした。
「もしかして殿下は兄上様がお好きなのですか?」
「当然だろう?」
問いの意味を理解せず平然と答えてきたジェラルドにマックスは頭を抱える。
「兄上は尊敬すべきお方だ。あれだけの苦境をものともせずに身を守り抜き生きてきた。あの方にかかれば、今の逆境も意味を持たない気すらする。できればあの人の傍で協力者として生きていきたかったけど」
それもあの祖父が居ては叶わない。
そう言いたげなジェラルドにマックスは気の毒そうな顔をする。
気付いていないのだろうか?
ジュエルだけでなくおそらくこの方も、あの大層魅力的な皇太子殿下に惹かれている。
弟としてではなくひとりの男として。
でなければ実の兄に子供扱いされたくらいで切れて襲ったりしない。
我が主はどうやら兄に負けず劣らず鈍いらしいとそっと笑った。