第一章 雨に濡れて


 軒先から外に出ると雨が降っていた。

 小雨程度だが、この時期に雨とは珍しい。

「取り敢えず……家に帰るか」

 色街でのラスの家は内密の場所なので、人々にバレないように帰る必要がある。

 雨が降ると揉め事は増えそうに思えるだろうが、実際には逆で雨が降ると揉め事は減る。

 何故かというと皆雨の中、外に放り出されたくないものだから、途端に大人しくなるからだ。

 だから、色街で護衛をしているとき、雨が降ってくるとラスは必ず家に帰る。

 今夜は早々に解放されると心持ち足取りも軽かった。

 軒下を伝って移動しているラスを向かいの路地から見ている視線があった。

 信じられないと碧の瞳を見開いている。

「どうなされました? 待ち合わせの時間は過ぎております。早く行かないと」

「済まないが先に行っていてくれ」

「しかしこのような場所でおひとりにするわけにも……」

「心配はいらぬ。この付近なら若い頃から知っているからな。とにかく先に行けっ」

 頭ごなしに命じられ、相手は渋々といった顔で、すぐ近くの店に入っていった。

 慌てて踵を返す。

 そのときには相手はいなくなっていた。

 雨の中を偶然見掛けた姿を探して走る。

 どのくらい走っただろうか。

 全身が雨に濡れてびしょ濡れになった頃、同じように雨に濡れて移動している背中を見つめた。

 髪の色がやはり微妙に違う。

 記憶の中の彼女はもう少し茶色かったような?

 だが、あの顔はっ。

 息を切らして駆け寄るとギョッとしたように振り向いた相手の手首を掴んだ。

「どうしてそなたがこのような場所にいる? キャサリンっ!!」

「は?」

 いきなり手首を掴まれて見知らぬ名で呼ばれたラスは、唖然として全身を雨で濡らして相手を凝視した。

 年の頃は40過ぎ。

 いや。

 30代後半か?

 身形もかなり良くて良家の出だと一目で知れる。

「この19年、どれだけそなたを捜したかっ!! いや。それはどうでもいい。生きていたなら何故連絡を入れなかったっ!? 何故そなたがこのような場所にいるっ!!」

「19年……?」

 それは確かにラスの歳と一致するが、どう考えても人違いだ。

 この男の口調だと、その「キャサリン」という人は、この男と同年代だ。

 19年前に消息を絶ったのだろう。

 それで間違われるなんて、一体どれほど似ているというのか。

 呆れて言い返そうとしたときに掴まれている手首に信じられないほどの力が入った。

 あまりの痛みに顔をしかめる。

 振り切ろうとしたが若さで勝るラスが、中年男を振り切れない。

「キャサリン」

 一言名を呟いた男が腰を抱いて顔を近付けてくる。

 さすがに焦って空いていた手で男の胸を押した。

「ちょっと待てってっ!! 冷静になれっ。アンタ人違いしてるってっ!!」

「人違い? あり得ぬな。そなたはどこも変わっていない」

「そうじゃなくてっ!! アンタの捜してるの女の人だろっ!! 俺は正真正銘の男っ!! 人違いだったらっ!!」

 身の危険が迫っているのでラスも必死だ。

 言われた男がキョトンと目を丸くした。

「……男? どこが?」

「どこがって。アンタ。失礼な人だなあ。初対面で人違いした上に人の性別を聞いて疑うか?」

「だが、この口調……確かにキャサリンとは違うような?」

「まだ疑ってるのかよ……? なんだったら脱いでやろうか?」

 そんな気は更々なかったが、ラスが開き直ってそう言うと相手の男はかぶりを振った。

 ここで脱げと言われたら、さすがに困ったが。

「オッドアイのラス」が街中で脱ぎ出したら、絶対に大騒ぎになるから。

 しかし安心するのは早かった。

 男がかぶりを振ったのには動機があったからだ。

 素知らぬ顔で男がラスの胸元に手を伸ばした。

 拒む間もなく胸元に男の手が触れる。

 唖然と固まっていると相手が「ふむ」と納得の声を出した。

「疑って済まなかった。確かに同性らしいな。人違いか」

 人違いだと確認して大きく肩を落とす男を見ていると、さすがに文句が言えない。

 あーあとため息をついて、お互いの姿をよく見てみる。

 お互いびしょ濡れだ。

 乾かさないと風邪を引く。

 若いラスはまだ体力で問題はないだろうが、この男くらいの年代でこの状態のまま帰らせたら……。

 責任問題が脳裏を過った。

 男は卑しからぬ身分のようだし、わかっていて放置したら、ラスの方が咎められそうな気がする。

「アンタどこに行くつもりだったんだ?」

「あ。いや。わたしは……」

「ああ。色街でこういう質問は禁句だよな。悪かった。行く宛はあるのか?」

「あるにはあるが。このままで行くと責められそうだ」

「しょーがねーな。服が乾くまで面倒見てやるからついてこいよ」

「どこへ?」

 キョトンとする男に呆れて文句を言った。

「家に決まってるだろ。俺は男娼じゃない。店に連れ込んだりしないって」

 ラスに案内されるまま歩きつつ、男が怪訝そうに問い掛けた。

「男娼じゃないって。男が花街にいるには決まりがあるはずだが? そなた幾つだ?」

「19。来年には出ないといけないんだ」

「19……」

 男が暗い声で呟くので、ラスが案内を続けながら視線だけ向けてみる。

「どうした?」

「いや。生きていればわたしにもそのくらいの年の頃の子供がいたはずだから」

「いたはずって?」

「子が産まれる前にき……妻とは生き別れた。だから、無事に産まれていたら来年で20歳になるはずだった。そういう意味だ」

「ふうん」

 人間色々あるものだ。

 ラスみたいに生まれつき両親がいない者もいれば、生まれてくるはずの子供を失った親もいる。

 不思議な巡り合わせだなと思った。

 ラスは決まった家を持たない。

 ラスが家を持つと色々と問題があるので、居所を捕まれないために定宿を転々としているのだ。

 それは色街でも有名な噂だった。

 ラスに案内された場所が宿だったので、男がキョトンとしている。

「そなた……ここが家なのか?」

「いや。部屋を借りてるだけ。入れよ」

 ラスがそう言って宿に入れば元気な声がした。

「お帰りなさい!! ラス!!」

「よお。リズ。悪い。客を連れてきた」

「オッドアイのラスにお客? だから、雨が降ったんじゃない?」

 コロコロ笑われてラスが疲れたように笑ってみせる。

「オッドアイのラス? そなたが?」

 繁々と顔を覗き込む男にムッとして睨み付ける。

「確かに左右の瞳の色が違う。右目が碧で左目が緑か」

「じろじろ見るんじゃねえよ。見せもんじゃねえ」

 文句を言えば男は素直に謝った。

 ふたりして身体を軽く拭いて、ラスの部屋へと移る。

 男はキョロキョロと珍しそうに周囲を見ていた。

「とにかくアンタはすぐに服を脱げっ」

「おい。そう手荒にしなくても……」

 ラスに乱暴に服を剥ぎ取られ、男が呆れたような顔をしている。

 その頃にはラスは濡れた服を乾かす準備に入っていて、背中を向いたまま男に服を放り投げた。

「それでも着てな」

「そなたは顔に似合わず口が悪い。心根は優しそうだが」

「世辞はいらねえよ」

「お世辞ではない。本音だ」

 チラリとラスは振り向いたが、それだけだった。

 男は諦めて渡された服を身に付けた。

「全く。アンタのせいでびしょ濡れだぜ」

 ぼやく声に視線を投げれば、彼は今から着替えるところのようだった。

 本当にお人好しだなと思う。

 彼は自分のことを後回しにしていたのだ。

 名前も知らない相手を優先して。

 手際よく服を脱いで身体を拭いていく。

 眼の錯覚かと疑った。

 胸元で一瞬だけ見えたネックレス。

「そなた……そのネックレスをどこで手に入れた?」

「見たのか?」

「いや。はっきりとは。ただかなりの値打ち物に見えたから驚いて」

 もう一度確かめたいと思ったが、彼の顔を見て諦めた。

 警戒心丸出しの顔をしている。

 どう説得しても見せてくれないだろう。

「どこで手に入れたかなんて俺は知らねえな。詮索すんじゃねえよ。気分の悪い」

「済まない。ただキャサリンに渡したものによく似ていたような気がして、つい」

「あー。そりゃ都合のいい偶然だね?」

 本気で相手にしていないらしい様子に本当の意味で諦めた。

 見間違いだったのだろうか?
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