第六章 宮殿にて
「イテテテテ」
あちこち打ち身だらけで痛む身体を抱えて、ラスはテーブルに突っ伏していた。
正面にはマリアンヌがいて、満身創痍な孫を見て苦笑している。
「ヴァンのヤロー。いつか絶対にコテンパンに伸してやる。こっちは素人だっていうのに全然手加減しねーんだから。イテテ」
午前中の立ち稽古の後でラスは必ずマリアンヌのお茶に付き合う。
その度にこの愚痴を聞かされているマリアンヌは笑うしかなかった。
ヴァンが手加減しないのはラスを鍛えるためで、そこまでして彼を強くする必要があるからだ。
だが、生来負けん気が強いらしいラスは、いいようにあしらわれ傷が増えていくので、恨み言が口から飛び出すという状態。
マリアンヌは威勢のいい孫が可愛くてならなかった。
気の弱い青年なら現状に耐えかねて、とっくに根をあげている。
それをしない孫が彼女は可愛くて仕方がないのだ。
立ち稽古の様子も彼女は見守っているが、ラスは勝てないとわかっているのに、いつも果敢に立ち向かっている。
その姿勢も気に入っていた。
「本当に痛そうですね」
「だってマジで痛いんだ!! 見てくれよ、この青タン!!」
両袖をまくりあげて腕を差し出すラスにマリアンヌは心配して顔を曇らせる。
腕は酷い有り様で青斑だった。
打ち身だらけなせいか、ところどころ紫色だ。
これでは痛いだろう。
「最近は寝返りが打てないんだ。痛すぎて。剣を持つのに支障が出るっていいのか? ほんとに?」
トホホなラスである。
腕がこの状態なのだ。
当然だが剣を持ち上げて構えるのも一苦労である。
おまけに足はヨタヨタ、腰はヨボヨボ。
ラスは満身創痍すぎて今歩いているところを人が見たら、絶対に年齢を疑うだろうと確信していた。
そのくらい酷いのだ。
「ヴァンに手加減してくれるように頼みましょうか? ルイ?」
「嫌だ」
「でも」
「手加減しないあいつをコテンパンにやってやるまでは俺は絶対に諦めない」
強気に言い切るラスだが、さっきからカップを持ち上げようとしない。
その理由はおそらく持てないからだとマリアンヌも気付いた。
腕に力が入らないのと痛みでカップも持てないのだ。
そういえば最近は食事にも苦労しているようだった。
このままでは心配だが、ラスが自分から根をあげないなら、その自尊心を粉々にする気もなかった。
彼女もリカルドの母。
そういう面で男を立てる女性なので。
「仕方がありませんね。今からわたくしの部屋にいらっしゃい」
「なに?」
「打ち身に良く効く軟膏を用意してあげます」
「ばあさん自ら?」
打ち解けたラスはマリアンヌのことは「ばあさん」と呼んでいた。
ヴァンには不評だし、初めて呼んだときは物凄い勢いで責められたが、当のマリアンヌがそれでいいと言い切ったのでなし崩しにそう呼んでいる。
「リカルドは小さい頃からやんちゃで、打ち身などの打撲が耐えませんでした。そのせいで研究して医師にも負けない腕前です。安心なさい」
「ん。わかった」
ヨタヨタと立ち上がるラスをさりげなくマリアンヌが支える。
その様子は仲の良い孫と祖母そのもので、見付からないところから護衛していたヴァンは微笑ましかった。
例え自分が悪し様に言われていても。
それにラスのあれは負けん気から来るもので、本気でヴァンを疎んでいるわけではない。
ラスは下町育ちらしく気性は荒いが、後腐れのない性格の持ち主だった。
ヴァンの言動は基本的に自分のためだとわかっているので恨まないのである。
皇子らしくないかもしれない。
ラスとジェラルド。
どちらが皇太子らしく次期皇帝らしいかと問われれば、今はまだ誰もがジェラルドだと答えるだろう。
だが、ヴァンはラスと付き合っていく内に彼は皇帝として必須のことさえ身に付ければ名君になるだろうと踏んでいた。
伊達に下町で育っていない。
彼ほど民のことを理解できる皇帝は、おそらくこれから先も存在しないだろうから。
そこまで市井に詳しい彼が、皇帝としての教養などを身に付けたらどうなるか?
ヴァンは彼の将来が楽しみで仕方なかった。
「気持ちいい~」
マリアンヌに手当てされたラスは、そのまま自室へと引き揚げて寝転んでいた。
場所は寝台ではなく長椅子だが。
軟膏を全身余すところなく塗られ、ラスは今その心地好さに目がトロンとして来ている。
本当によく効く軟膏のようで、その効果は抜群で縫った直後から、ラスは痛みが引いてきて、ビックリしたほどだ。
あまりに気持ちよくてここ暫く痛みでよく眠れなかったラスは、いつのまにかうつらうつらしていた。
「ルイ?」
そこへ様子を見に来たのは父親であるリカルドだった。
息子が満身創痍なことは母から報告されていて、時間が空けば絶対に見舞いに来ようと決めていたのだ。
やって来てみれば息子は長椅子で眠っていて、全身包帯だらけだった。
「全く。ヴァンももう少しくらい手加減すればいいものを」
母から制止してはならないと言われたリカルドは不機嫌だ。
近付いていくと髪を撫でる。
ラスはそれにも気付かないほど熟睡していた。
ズルズルと頭がずり落ちそうになる。
リカルドは慌てて受け止めた。
どうしようか途方に暮れる。
寝台で寝かせてやるのがいいのかもしれないが、リカルドは寝顔を至近距離で見られることを優先した。
起こさないように苦労して自分も長椅子に腰掛ける。
そうして膝の上に頭を乗せてやった。
それでもラスはスヤスヤと寝ている。
「まあまあ大きな赤ちゃんですこと」
「母上」
笑いを含んだ声に顔を上げれば、母がお茶を手にして立っていた。
傍のテーブルにお茶をセットして、マリアンヌは至福を感じている息子に声を投げた。
「ルイは貴方にそっくりね」
「そう……か? わたしはキャサリンに似ていると思っているのだが?」
「確かに外見は彼女に生き写しよ? でも、気性は貴方そっくり」
言われても照れてしまうリカルドである。
「貴方も満足に応戦できない頃は、こんな風でしたよ?」
「そういえばそうだった」
小さい頃のことを思い出してリカルドも破顔した。
リカルドの場合、手加減しないことを望んだのは彼自身である。
最初に立ち稽古を始めるとき、指南役の近衛隊の将軍は、慣れていない間は手加減すると言ったのだ。
だが、幼いながらも世継ぎの自覚の強かったリカルドには、子供だからとあやされた気がして、将軍に食って掛かった。
怪我をしてもいいから手加減するなと命じたのだ。
それを父である皇帝が認め、結果リカルドも今のラスと変わらない容態に追い込まれた。
その頃があるから今のリカルドがいるのだが。
手加減されて教えられていたら、本当の実力なんて身に付かない。
それを後に成長してから自覚した。
世継ぎであれば誰もが遠慮する。
勝てる試合も敗ける。
それでは実力など伸ばしようがない。
それを思い知ったのである。
「そういえばあの頃も母上にこうして看病して貰った。お手製の軟膏を塗って貰って」
「貴方のお陰で母は腕を上げました」
茶化すように言われてリカルドも笑う。
「ジェラルドはなんて言うのでしょうね? 少し出来すぎたところのある子で」
「確かに。あれが失敗するところなど、ほとんど目にしたことがない」
「手を貸す隙がないというのかしら? なんだか寂しかったのですよ」
「……母上」
「ジュエルは母親っ子でわたくしより、エリザベートに懐いていましたし、ジェラルドは手のかからない子でした。貴方で慣れていたわたくしには物足りなくて」
リカルドはやんちゃでよくマリアンヌの世話になっていた。
息子の面倒を見ない日はないくらい、彼女は毎日が充実していたのだ。
だが、ふたりの孫たちは色んな意味で手のかからない子だった。
そのせいで寂しかったのである。
「今は?」
リカルドが笑って訊ねれば、マリアンヌも茶目っ気たっぷりに答えた。
「満足していますよ? これ以上はないくらい。ルイは可愛い初孫です」
「その言葉を……キャサリンにも聞かせてやりたかった」
「リカルド」
笑顔の消えた息子に母は心配そうな顔をする。
「そんな顔をしてはいけませんよ?」
「わかっている」
「ルイは父も母も知らずに育っています。これから貴方が愛して育てずにどうするのです? 頼りない父親だ思われたいのですか?」
「母上は昔から子育てには厳しいな」
苦笑するリカルドに笑顔が戻ってマリアンヌはホッとした。
「この子は負けん気の強い子です。貴方が強くなければ支えきれませんよ? 負けてしまいます」
「そうだな。これまでにも何度も言い負かされているし、これ以上醜態は見せられないな。親として」
負けん気の強い子供との付き合い方には二通りある。
弱気で接して保護欲を刺激すること。
もうひとつは正面からやり合って対等に振る舞うこと。
これは前者の場合は普通は母親がやり、後者は父親がやる。
どんなに負けん気の強い子供でも、母に泣かれれば折れるし、父には勝てないとなったら、生来の負けん気を発揮して頑張るだろう。
逆に頼れない父親だと思われると、ほとんど振り向いて貰えなくなる。
対等に接する価値もないと思われてしまうので。
マリアンヌはそうならないように、どうやらリカルドを叱咤激励しなければならないようだと内心で苦笑した。
溺愛しているが故にラスには全面降伏しがちなリカルドである。
ラスが呆れて見放さないようにコントロールしなければならないらしい。
そう見抜いて。