第四章 皇家の鍵
第四章 皇家の鍵
「お母様」
母の部屋を訪れたジュエルは開口一番そう声を投げた。
迎え入れた皇妃エリザベートは微笑む。
「どうしたのですか? ジュエル? そんな難しい顔をして」
「わたくしの婚約話が進んでいるって本当?」
「さあわたくしは知らないけれど。どうしたのです? いつかは婚約しなければならないことは、貴女だって承知していたでしょう?」
「婚約なんてしたくない」
化粧を直している母の背後の長椅子に腰掛けて、ジュエルが泣き出しそうにそう言った。
鏡の中の皇妃の瞳が優しくなる。
「もしかして……誰かに恋でもしているのですか? ジュエル?」
「恋? そうかもしれない。だって暫く逢えないだけで胸が苦しいほど切なくなるの。こんな気持ちになったのは初めてよ」
化粧を直して終えて彼女が振り向く。
「だったら陛下に直接この殿方とお付き合いしたいと申し出てみなさい。それもしないで嫌だ嫌だと言っていたって、陛下もジェラルドも認めては下さいませんよ」
「お父様はどうかわからないけれど、お兄様に言ってみたって無駄だわ」
「どうして? 貴女に甘い兄なのに」
「身分が違いすぎるから諦めるように言われたわ」
「……お相手はどういった方なの? ジュエル?」
「自警団の一員」
そう言われエリザベートは束の間息を飲む。
「家柄は?」
この問いにもジュエルはかぶりを振った。
それで彼女も難しい顔になる。
ジュエルに甘いジェラルドが反対した動機がわかったからだ。
「親無し子だって言っていたもの。家柄なんてわからないわ」
「そう。それでは認めて貰うのは難しそうね」
「お母様も反対する? 相手が親無し子で身分の低い自警団員だから? わたくしとは身分が違うから?」
挑むように睨まれてエリザベートは立ち上がり娘に近付いた。
膝の上で握り締められた手を黙って握る。
戸惑って見上げてくる銀の瞳を同じ色の瞳で覗き込み笑った。
「反対するかどうかは実際に相手の方に逢ってみないとわからないわ」
「お母様」
「それに肝心なことをわたくしは聞いていないわ」
「なに?」
「相手の方のお気持ちはどうなの? あなたたちはお付き合いをしているの?」
「……告白なんて自分からはできないわ。そんなはしたない真似」
「では告白されたのですか?」
力なくかぶりを振る娘に母親として彼女は呆れる。
だったら婚約がどうこうと怒れる立場に娘はいない。
「だったらまずお相手の心を手に入れなければ、お父様だって理解しては下さらないと思いますよ、わたくしも」
「でも……どうやったら告白されるの?」
そんなこと問われてもしてくれる方法があったら彼女の方が知りたい。
未だに夫に愛されていない彼女だ。
夫の心は未だにキャサリン妃のところにある。
自分は形だけの妃。
それでもいいと嫁いだのだ。
初恋だったから。
でも、娘にも息子にもそんな悲しい恋はしてほしくない。
幸せな恋をしてほしい。
確かにキャサリン妃は可哀想な女性だけれど、一方でとても幸せな女性だ。
居なくなって19年が過ぎていても未だに愛されている。
そこまで愛される女性がどれほどいるか。
「そうね。わたくしにもわからないけれど……それとなく確かめてあげましょうか?」
「お母様が?」
驚く娘に笑う。
「貴女の初恋の人ですもの。一目逢っておきたいし、そのときに貴女をどう思っているか確かめることくらい不自然ではないでしょう?」
「そう……ね。そうかも。皇妃だって言わなければもしかしたら……」
彼の気持ちがわかるかもしれない。
そう思うとジュエルは逸る気持ちを抑えきれなかった。
二重の意味でラスの身元が調査されている間に、そんな会話が交わされてなんと翌日にはラスの下へとジュエルが、母親である皇妃エリザベートを連れてやってきた。
丁度そのときラスは書類整理をやっていて見回りには出ていなかった。
そのせいで捕まってしまって、事態は思わぬ方向へ動くことになる。
「ラスッ!!」
久し振りに恋しい人に逢えて、ジュエルはそれこそ元気な笑顔で彼の胸へと飛び込んだ。
危ないところで抱き留めて、ラスが驚いた声を出す。
「ジュエルか。びっくりした。危ない真似やめろよなあ。支えきれなかったらどうする気なんだ?」
彼女を立たせてからラスの視線が、彼女の背後に立っている女性に向かう。
エリザベートも驚いたように彼を見ている。
まさか娘の初恋の男性が、こんな美少女のような外見だとは思わなかったのだ。
エリザベートはその立場的にキャサリンの顔を知らなかったので、ラスの身元を疑うことはなかった。
彼女が当時、皇太子だった今の夫と引き合わされ、面識を持てたのは婚約した後なので、これは仕方のない話である。
その頃にはキャサリンの肖像はすべて燃やされてしまっていたし、夫の元に唯一残った動画については、彼女はその存在そのものを知らされていなかったので。
「もしかしてジュエルの母さん?」
「わかる?」
「そりゃ同じ髪と瞳の色をしてるし、なによりも顔立ちがそっくりだ。これでわからなかったら、俺はどれだけ鈍感なんだよ?」
呆れるラスに彼に避けられなかったことで、このところ逢えなくて避けられているのかと錯覚していたジュエルはホッとする。
それから母を振り向いた。
「お母様。ラスよ」
「初めまして」
「あ。はい」
初めましてと返せばいいのだろうか?
そういう挨拶はしたことないので、イマイチ自信はないが。
「最近ジュエルがお世話になっているそうですね」
「そうでもないです。皆暑苦しい男所帯だから、ジュエルが来てくれると潤いになると喜んでるし」
敬語ってどう話せばいいんだろうと、ラスは内心で悩んでいる。
「男所帯? ああ。男性ばかりという意味ですね?」
変な納得の仕方をされ、今更ながらに住んでいる次元が違うんだなあと、ラスは痛感した。
こちらが普通に使っている言葉は彼女たちには耳慣れない言葉なのだ。
そして彼女たちが普段使う言葉は、自分たちには耳慣れない言葉なのだと知って。
「ジュエル。なにかこの辺りでしか手に入らないお菓子を買ってきてくれる?」
「あ。それならお茶菓子を……」
うっかり準備するのを忘れていたラスは、慌てて準備しようとしたが、これはエリザベートが制した。
「いいのです。この子がお世話になっているお礼に貴方に食べて頂きたいのです。準備して頂いては意味がないでしょう?」
「はあ」
そんなつもりないんだけどなあと思っているとジュエルは元気に答えた。
「わかったわ。お母様。きっと美味しいお菓子を買ってくるからっ!!」
そう言ってジュエルが駆け出していく。
その後ろ姿を見送っていたラスにエリザベートから声が届いた。
「貴方はお幾つですか?」
最近やたらと歳を訊かれるなと思いつつラスは答える。
「19です。来年の春には20歳ですけど」
「来年の春には20歳って……ではあの戦争があった頃に産まれたのですね?」
「さあ?」
不憫に思っているわけでもなさそうな、ラスのあっさりとした返答にエリザベートは彼に好感を抱く。
自分の不遇な境遇に浸るだけのタイプなら、おそらく認める気にならなかっただろうが。
「貴方は自分を不幸だと思いますか?」
「親無しだから?」
皮肉な笑みを見せられたが、エリザベートは頷く。
嘘偽りのない彼の心を知りたかったから。
「親無し子なんてこの世には捨てるほどいる。それどころか産まれてきてすぐに死ぬ赤ん坊だっている。今の歳まで無事に生きてきた俺は不幸じゃない。寧ろ幸運な方だ。それで不幸だと思ったら、ただの傲慢だろ?」
「貴方より恵まれた生まれの者が大勢いると知っていても、ですか?」
「人間。上を見てもキリがないけど、下を見てもキリがないんだ。そのラインのどこに存在していても、他人と自分を比較する動機にはならない」
「貴方は……聡明なのですね」
「そうめい?」
聞いたことのない言葉にラスは首を振る。
「ジュエルをどう思っていますか?」
「どうって……それは……」
どんなに鈍い者でも、これだけ露骨に懐かれれば、自分が特別な扱いを受けていることを自覚する。
しかもラスは色街育ちで、そういうことには敏感だった。
わからない方がどうかしている。
だが、今までそれを意識しなかったのは、生きている世界が違うとはっきりしていたからだ。
身分違いだから彼女を恋愛対象から外していた。
それが真相である。
「その顔を見るとあの子の気持ちには気付いて下さっていたようね?」
答える言葉のないラスにエリザベートは問い掛ける。
逃げを許さないように。
「身分を意識せずに貴方の本心を教えてください。ジュエルをひとりの女の子として、どう思っていますか?」
「どうって言われても……」
「わたくしは今の短い会話から、貴方の人柄は掴んだつもりです。生まれがどうであれ、貴方がジュエルを想って下さるなら、お付き合いを制止しようとは思いません」
「よく言えるな。そんなことを俺みたいな奴相手に」
「貴方は少し自分を卑下しすぎです。貴方は決して悪し様に言われていい青年ではありません」
「……」
この女性はラスが色街生まれだと知っても、そう言ってくれるだろうか。
いや。
あり得ないとラスは思う。
どこの親なら色街で生まれ育った男と娘を付き合わせてもいいなんて思う。
知らないから言えるのだ。
「アンタは俺のことを知らない。俺がどこで育ったか知っていたら、そんなこと言えるはずない」
「どういう意味ですか?」
首を傾げるエリザベートにラスははっきりと告げた。
「俺は生まれも不明だってわかってるだろうけど、孤児だった俺を育ててくれたのは、色街だ」
「え……?」
「だから、俺は色街育ち。そう言ってるんだ。ジュエルに言うには刺激が強すぎると想って言ってないけど、俺は花街で育ってる。ジュエルみたいに育ちのいいお嬢さんと付き合える男じゃないんだよ」
「まさか……」
青ざめた彼女にさすがにその勘違いは訂正したくてラスは口を開いた。
「それは勘違い。俺は男娼じゃない」
「ですが花街育ちの男性と言えば普通は……」
「俺の場合はどっちかと言えば護衛。花街で起きる揉め事を対処する。まあ言ってみれば今と変わらない仕事をしてたんだ」
「そうなのですか……」
呟いてから彼女は思い付いた。
「そういえば貴方の名はラスと言いましたね」
「まあね」
「オッドアイ。ラス。花街の護衛?」
彼女の中でそれらが結び付く。
オッドアイのラスの名は皇妃の耳に入るほどに有名になっていた。