序章




 序章




 今夜もそこかしこで恋の駆け引きが展開されている。

 それもこの街では珍しくないことだ。

 ここは色街。

 女が恋を売る場所。

 男が一夜の恋を買う場所。

 ただ最近の風潮か、女が恋を買う場合もあるようで、男娼の数も年を追う毎に増えていく。

 男娼の地位は色街ではまだ低く相手を選ぶ権利がない。

 だから、男が相手の場合も少なくないようだった。

「だからっ。マリアは俺のもんだっ」

「なにをっ!?」

 どこかでまた男たちが諍いを始めているらしい。

 気が重いが放ってもおけない。

 いい加減この仕事ともおさらばしたいのだが。

 そう思いつつ声が聞こえてくる方向へと足を向ける。

「見て。オッドアイのラスよ」

「いつ見ても綺麗ねえ。姐さんたちが惚れ込むわけだわ」

「そうねえ。ラスが相手なら金なんていらないって姐さんたちホントに多いもの」

「あら。あたしはラスのためなら生命もいらないって男たちが大勢いるって聞いてるけど?」

「どっちもホントよ。とにかくこの色街でラスは高嶺の花よ。色街一の姐さんだってラスを落とせないんだもの」

 どこからともなく聞こえてくる噂話にうんざりする。

 できれば聞こえないように喋ってくれないだろうか。

 聞いてるだけでうんざりだ。

 気分が萎える。

『オッドアイのラス』

 それが色街での通称だ。

 その名の由来はこの瞳。

 右目が碧で左目が緑。

 とても珍しい組み合わせだという。

 それに加えて自分でも悲しくなるほどの女顔。

 母親の顔も父親の顔も知らないが、逢えたら文句を言って殴ってやりたい。

 どうしてこんな顔に産んだって。

 ラスが色街にきた頃は、まだ男娼はおらず、そのせいで娼婦にはならずに済んだ。

 だが、色街で男にできる仕事はそんなに多くない。

 力仕事とか護衛。

 そのくらいしかなかった。

 仕方がないので場数をこなして実力を上げ、今では花街一の護衛として名高い。

 それが自分だ。

 こういう諍いを無視できない立場なのである。

 辿り着いた場所ではふたりの男が取っ組み合いのケンカをやっていた。

 髪を掴み合ったり蹴り合ったりと忙しい。

 その度に店の物を壊すので主人はうんざりした顔をしている。

 こういう事態は珍しくないとはいえ、物を壊され営業停止状態にされるのだけは勘弁なのだろう。

「あんたらいい加減にしなよ」

 うんざりして声を投げるが、やっぱり気付かない。

 こういう場合、えてして割って入っても気付いてもらえないもので、それでも気付かせたい場合は実力行使しかなかったりした。

 仕方がないので取っ組み合う男たちの足を思いっきり引っ掛けてやった。

 無様に男たちがその場に転がる。

「「なにすんだ、テメーッ!!」」

 多重音声で振り向いたふたりが、ラスの顔を見た途端硬直する。

 だから、いやだったんだ。

 もう本気でこの仕事辞めたい。

「なにが原因で揉めてんのか、大体の予測は立つけどな? オッサンたち。店の邪魔だから今夜は出直しな」

「オッドアイのラス……か」

 ひとりが呟けば、もうひとりは尻上がりな口笛を吹いた。

「評判通り別嬪だなあ」

「うるせえよ。足を引っ掛けただけじゃ足りねえってか?」

 顔のわりに口が悪いと評判のラスだが、まあこの色街で育ったのだから、それは必然というべきものだ。

「あんたたち。ラスの言う通りだよ。邪魔だから出直しといで」

「姐さん。そりゃないぜー」

 男が途端に情けない顔で振り向いた。

 声を投げたのはこの花街一の娼婦マリアだ。

 彼女のことを指して花街の花とも言う。

「あたしは今夜はだれの相手もしない。前々からそう言っておいただろ。なのに店先で騒がれて。迷惑だったらありゃしない」

「あれ? マリアの姐さん。今夜は特別な客でも入ってんの? 俺は聞いてないけど?」

 ラスが声を投げればマリアが蕩けるような笑顔を見せた。

 扱いの差にふたりの男がぶつくさと文句を溢す。

「ああ。特別なお客でね。内密のことなんだ。ラスに話が通ってないのも、そのせいだと思うよ」

「ふうん。まあいいや。じゃあ俺はこれで。あんたらも頭が冷えたんなら、もう迷惑な真似すんじゃねーよ?」

 それだけを言い置いてラスは出ていこうとした。

「ラス」

 呼び止められてマリアを振り返る。

「なに?」

「あんた都に職探しに行くって本当かい?」

「耳の早いことで」

「花街のなにが不満なんだい?」

「姐さんだって色街の掟は知ってるはずだろ。色街で仕事をせずに男が暮らせるのは成人まで。俺は来年成人だよ? 花街から出されるんだ。職もなかったら困るだろ」

 仕事とはこの場合「男娼」を指す。

 色街で男が暮らせるのは成人するまで。

 成人してしまうと「男娼」になるしか道がない。

「男娼」以外の成人男性は花街にはいられないのだ。

 ラスは「男娼」ではないし、おまけに来年成人だ。

 仕事は探さなければならない。

 花街で「男娼」以外の仕事をしながら暮らしている連中もいるにはいるが、そういう奴らは大抵正式に送り込まれた軍人だったりする。

 花街を仕切っているのは軍人なのだ。

 つまりそのどれにも当て嵌まらないということは、ラスは出ていくしか道がないということなのだ。

「男娼」になるのが早いのかもしれないが、ラスはそれはいやだったし。

「あんたほどの腕前と人脈がありゃ、街の方が手放さないと踏んでたんだけどねえ?」

 実際頻りに引き留められているラスは苦い顔で答えない。

「男娼」になりたくないならならなくていい。

 とにかく花街に残ってくれと懇願されていて、ラスは最近辟易していたのだ。

 なにしろマリアが花街の花なら、ラスは「色街の華」と呼ばれている。

 ラス目当ての客も多いし腕前も確か。

 花街としても顧客を逃がさないため、ラスは留め置きたかったのである。

 頭の痛いことに揉め事を起こした客に動機を訊くと、半分くらいがラス目当てだったりした。

 ケンカのときにだけ現れる噂の「オッドアイのラス」に逢いたくて、わざと事件を起こすバカもいるのである。

 それがわかっていたら手放したくないものだし、ラスの立場からすれば、だからこそ出ていきたいのだ、となるが。

「とにかく明日には俺は都に行くから今夜が最後の夜なんだ」

「もう戻ってこないのかい?」

「まさか。職もないのに都では暮らせないって。また戻ってくるよ。仕事が決まるまでは」

「つれないねえ」

「とにかくそういうわけだから、もう揉め事を起こすなよ、オッサンたち」

 もう一度だけケンカをしていたふたりに声を投げて、ラスはその場を後にした。
1/1ページ
スキ