第三章 メイディアの王子


 翌日の昼近くになってから、ようやくラーダは起き出すことができた。

 これ以上早かったら人間ではないと疑われてしまうから。

 でも、これ以上こんな状態に置かれるのがいやで、さっさと逃げ出す心積もりだった。

「だれもいないみたいだな。今がチャンスかな?」

 屋敷の中は静まり返っている。

 みな出掛けているのは間違いなかった。

 今なら逃げ出せる気がする。

「そう度々薬なんて使われたらたまらないからね」

 ほとんどの薬はラーダには無効だが、さすがに多用されると影響も受ける。

 その危険性を減らすためにも、ここから逃げ出すことが必要だった。

 寝台から出て扉へと近付く。

 それから取手に手をかけて、ガチャガチャと回してみたが、まるで動かない。

「変だな。俺の力で開かないはずがないし、これって魔法?」

 静まり返っていることに気を取られ気付かなかったが、この部屋を覆うように魔法が掛けられている。

 結界だ。

 ラーダをここから出さないための。

 念のため窓にも近付いてみたが、ガラス窓はビクともしない。

 もちろんこの程度の結界なら、ラーダが本気になれば呆気なく破ることは可能だ。

 今は人間として振る舞っているから全く逆らえないだけで。

「参ったな。人間として振る舞っている限り逃げられないじゃない、これじゃあ」

 呆れたように呟いて寝台に腰掛ける。

 どうしよう。

 多少危険でも結界を突破して逃げるか?

 でも、この結界の強さだと多少の心得くらいでは普通は破れない。

 魔法使いでもかなり強大な力が必要なはずだ。

 ラーダが破って逃げ出すというのは、どう考えても不審がられるだろう。

 そこから人間ではないという仮定を導き出されるのは、さすがに都合が悪い。

 ラーダ・サイラージュの頃と血縁関係にあると、おおよそではあるが知られているのだ。

 それでそういう仮定が出るのはマズイ。

 下手をしたらラーダとラーダ・サイラージュが同一人物だとバレてしまうかもしれない。

 そうしたらラーダこそが妖魔の騎士だと悟る者も出てくるだろう。

 そうなったら愛しい子供たちを追い詰めてしまう。

 それはさすがにできない。

 こうも度々非常手段に出られたら、次なる一手に迷うのも本当だが。

「こうなったらネジュラ・グレンが改心して俺を解放してくれるときを待つしかないのかなあ。ショウが心配するから、なるべく早く帰りたいんだけど」

 それにここに閉じ込められていたら、妖魔の騎士として動きたいときに動けない。

 もちろん夜の姿になりたいときだけ身代わりを使うという手もあるが、あまり常用したい手ではない。

 身代わりを置いて逃げ出すというのはどうだろう?

 いや。

 万が一身代わりになにかあって、ラーダ本人じゃなかったとバレるとマズイ。

 それはできない。

「自分の孫相手に苦しめられててどうするんだか、俺も」

 本心だった。

 サルシャを置いて姿を眩ますときは、将来その子供に苦しめられるなんて思いもしなかった。

 それともこれは愛しい子供たちを置き去りにしたラーダへの罰なのだろうか。

 妖魔の王である自分が、いつまでも人間として生きることはできない。

 年老いていくことができないのだから、キリのいいところで姿を消さなければならないのだ。

 だが、そのためにサルシャは若くして王位を継がなければならず、かなり苦労をかけてしまったのも本当だ。

 ネジュラ・グレンなんて、そのせいで祖父も祖母も知らない。

 その罰だと言われれば甘んじて受けるしかないのだろう。

 それはラーダの義務だ。

 でも、それでもやっぱりグレンには、こんなことはしてほしくない。

 ネジュラ・ラセンの孫として相応しい行いをしてほしい。

 治世は短かったとはいえ、彼は王として相応しい力量を持っていた。

 その名に恥じない王子でいてほしいのだ。

 身勝手な望みかもしれないが。

 そんなことを考えながらラーダが寝台に腰掛けていると、大勢の人の気配を感じた。

 どうやらネジュラ・グレンが戻ってきたらしい。

 扉を睨み付けていると飄々と顔を見せた。

「起きていたのか」

「結界まで掛けて俺を閉じ込めるなよな。いい加減に解放してくれっ」

「それはできない」

「王子さまは俺を閉じ込めてどうしたいんだ? 薬なんかで俺を自由にしようたって、俺は言いなりにはならないよ」

「そんなつもりはっ」

「ここに連れてくるとき、そして昨夜。二度も薬を使用しておいて、そんなつもりはないなんて言って、だれが信用するわけ? 信用してほしかったら態度で示してよね」

 いい加減腹が立っていたので言い方はきつかった。

 自分の孫相手に冷たい言い方かもしれないが、今はこれが本心だった。

 そのためにショウにまで心配をかけているのだから。

「おれがお祖母さまの孫だから悪いのか」

「え?」

「おれがお祖母さまの孫じゃなかったら、そんなに警戒しなかったのか? あいつみたいに振る舞ってくれたのかっ」

「変なところでラーダ・サイラージュ妃を引き合いに出さないでよ。関係ないよ、それは」

「おれがお祖母さまの孫だから、素性を知られるつもりがないから、だから、おれには付き合ってくれないんだろうっ」

 叫ばれてとっさに言い返せなかった。

 素性がバレないために距離を置く。

 それは実際にやっていることだったから。

「ショウとアンタに対する態度の違いにラーダ・サイラージュ妃は関係ないよ。アンタのやっていることが原因だ。ショウなら絶対にこんな真似はしない。相手の心を無視するような真似は絶対にしないっ」

 言い切るとグレンは悔しそうな顔になった。

 それからもう言い争うことはやめたのか、枕元の椅子に腰掛けた。

「腹が減っただろう。昨夜からなにも食べていないからな。今すぐ食事の用意をさせるから」

「いらないよ。そんな気を使う余裕があるんだったら、今すぐ帰してよ」

「食べないと元気も出ないぞ」

 帰せという言葉は聞こえなかったかのように無視されて、ラーダはムッとした。

 ラーダの主食というか、主な好物は人間の生き血である。

 屍肉喰らいではないので人間の血肉は食べない。

 ただ生き血だけを飲む。

 別に生きていくために必要不可欠というわけではないのだが、気がついたら血を好んでしまうのだ。

 それこそ妖魔の性である。

 普段は植物の生気から栄養を摂っている。

 生きていくだけなら、それだけで十分なのだ。

 だから、食事の必要性はない。

 王子に対する当て付けで食べないことに決めた。

 それで心配するなら心配させればいいと思って。

 そのぐらい腹を立てていた。

 それからすこしして言われた通り食事の準備が整ったが、ラーダは見向きもしなかった。

「食べなかったら身体がもたないぞ」

「いらないって言ったでしょ。下げてよ、それ」

 意地の張り合いである。

 グレンもムッとしたらしいが、ラーダとこれ以上やり合う気もなかったのか、この場は退いていた。

「用意させておくから腹が減ったら食べるんだ。いいな?」

「いらないって言ったらいらないっ」

 叩き付けるとグレンはそれ以上なにも言わなかった。

 その日は夜になるまでグレンがいたので逃げ出すことはできなかった。

 お互いに顔を見たらムッとするというのか、ラーダもグレンを見なかったし、グレンもラーダを見なかった。

 グレンのラーダに対する態度の大半は、どうやらショウへのヤキモチらしい。

 ヤキモチを焼くことだけは一人前で、やっていることは半人前。

 嘆かわしいかぎりだ。

 その日魔族が現れたのは真夜中を過ぎてからだった。

「魔族が出たのか。わかった」

 一言だけ答えてグレンは立ち上がると、昨夜手にしたビンをもう一度手にした。

 一気に煽る。

 青くなったが逃げ出せなかった。

 口移しで飲まされるとやっぱり昨日と同じ薬だった。

(この薬、多用されると普通なら生命にまで関わるような危険な薬だよ。わかってるの、この王子はっ!!)

 怒鳴り付けたかったが飲まされたのは速効性の睡眠薬である。

 ラーダはなにも言わないまま、その場に崩れ落ちた。

 それをグレンが受け止め、そっと寝台に横たえた。

「おれが出掛けているあいだ眠っていてくれ。すまない。手荒なことばかりして」

(そう思うならするなっ)

 心の中で毒づいたが、王子には伝わらなかっただろう。

 全く頭の痛い。

「出掛ける。支度を」

「はい」

 そうして屋敷にラーダひとり残して、みんなが出ていくまで時間はかからなかった。

 ひとりもいなくなってから、ひとり残されていたラーダがムクリと起き出した。

「全く。世話の焼ける王子だなあ。薬に頼って束縛するなんて最低だよ。その辺のことわかってるんだがわかってないんだか」

 急がなければならない。

 魔族が現れているのだという。

 妖魔の騎士の出番だろう。

 それともあの王子に対する当て付けで、今夜は見捨ててやろうか。

 心を掠めた誘惑にちょっとグラッときたが、やれやれとかぶりを振った。

「できないよね。それで迷惑を被るのはショウなんだから」

 髪を振り色を変化させる。

 緑と赤の斑の瞳が真紅に染まる。

 闇より深いその髪の色。

 ラーダの姿は闇に溶けた。




 次に現れたのはショウの屋敷だった。

 黒衣はこちらにしか置いていないのだ。

 夜の姿になってもこちらに戻ってこないことには出られない。

 ついでに心配だったのでショウの様子を覗き見た。

 ショウは自分の部屋にいたが眠ってはいなかった。

 両手を合わせて祈るような仕種をしている。

(ショウ……)

 心で名を呼ぶとショウがそれに答えるように呟いた。

「ラーダ。無事だよな? 一体どこにいるんだよ、おまえは。無事でいてくれ、ラーダ!!」

 祈るショウにラーダはなにも言えず踵を返した。

 3階まで戻ってからため息をつく。

「俺の身を気遣ってくれているのか、ショウは。妖魔の俺の身を」

 呟きは苦かった。

 心配してくれるショウの気持ちが嬉しい。

 それと同時に自分が心配される資格のない妖魔であることが悲しかった。




「妖魔の騎士はまだかっ!?」

 ひとり、またひとりと魔族を斬り捨てながら、全身に汗を掻いてグレンが叫ぶ。

 今日は妖魔の騎士の出現が遅かった。

 いつもならとっきにきているのに、今日はまだ姿を見せていない。

 おかげで人間たちの被害が多い。

 このままでは全滅も考えられた。

 魔族の力に押され剣で弾き返したときに、待ち望んでいた声が聞こえた。

「俺にも都合というものがあるんだ。

そうそう都合よく現れるものか」

「そういう科白は素顔を明らかにしてから言うんだなっ。今のおまえの都合などおれたちにはわからないっ」

「勝手な奴だ」

 言いながらも華麗な手際で魔族を倒しているのか、断末魔の悲鳴が続けざまに上がっている。

 なんだかその様子がいつもと違うような気がした。

 いつもなら一撃必殺というか、こちらには軌跡すら見せないような戦い方なのに、今日は違ったのだ。

 まるで鬱憤晴らしでもしているかのように、残酷な手段で魔族を殺している。

 一撃で殺さないのがその証に思えた。

 グレンが怪訝に思っていると、大方の魔族の処理を終えたのか、妖魔の騎士がつまらなさそうに呟いた。

「なんだ。もう終わりか。呆気ないな。つまらん」

「つまらんって言われても」

「もっと手応えのある奴はいないのか?」

「機嫌でも悪いのか、妖魔の騎士」

 グレンにそう訊かれて、ラーダはよっぽど言い返してやろうかと思った。
 だれのせいだと。

 だが、素性を明かすようなことを言えるはずもなく、結局、適当にごまかした。

「今日の俺は虫の居所が悪いんだ。なんなら相手になるが?」

「おまえとやり合ってどうするんだ、おれたちが」

 呆れたような声に「つまらん」ともう一度吐き捨てた。

 だれでもいいから八つ当たりの相手になってほしい心境だ。

「夜が明けるな。俺は消える。後はそっちで適当にやってくれ」

 言い残してラーダの姿は消えた。

 ショウの屋敷に転移したのである。

 そこで着替えてグレンたちが戻るまでに、グレンの屋敷に戻る必要があった。

 これでラーダもなかなか忙しいのである。

 この環境はなんとかしないと命取りになりかねなかった。

 このままではいつか素性がバレるかもしれないから。

 どうにかしなければと気ばかりが焦っていた。





 ラーダがいなくなってから1週間が過ぎた。

 普通なら諦める頃である。

 元々ラーダは旅人だ。

 旅の途中に寄ったのだから、また旅に出ても不思議はない。

 1週間も音沙汰がないとなったら、気紛れに旅に出たのではないかと思っても不思議はなかった。

 だが、ショウはそうは思えなかった。

 ラーダはたしかに旅人だったし、気紛れなところもあった。

 でも、ショウにもなにも言わず、あんな形で姿を消すなんてあり得ない。

 そう思っていた。

 ラーダのことで知っているのは、ラーダがラーダ・サイラージュ妃の親戚だということだけ。

 ここまで考えたときハッとなった。
「ラーダ・サイラージュ妃? そうだよ。ラーダが巻き込まれる事件があるとしたら、メイディア絡みしかあり得ない。どうして気付かなかったんだ?」

 メイディア側でも聖妃の素性は、どうしても知りたいことのはずである。

 その唯一の手掛かりがラーダ本人だ。

 メイディア側がラーダに手を出しても不思議はなかった。

 今メイディアの関係者は王宮に招待されている。

 正確には長期滞在なので、たぶん屋敷かなにかを与えられているのだろうと思うが。

 それはグレンも言っていた。

 ラーダと初めて逢ったときに屋敷に連れていけないと。

 もし彼がラーダを連れていったのなら、ラーダはメイディアの関係者の住む屋敷にいるのかもしれない。

 だが、近付くのは危険だった。

 王宮の付近にあるのだろうし、メイディアの関係者を招いた屋敷なら、王宮の方でも気にしているだろう。

 定期的に様子を見に行っているかもしれないし、そこへショウがノコノコやっていくのは、どう考えても自殺行為だ。

 自分から殺してくれと訴えるようなものである。
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