第一章 邂逅

 それでもなにもしないどころか、知っていることを隠さなかったことで、却ってショウはラーダを信頼していた。

 もちろん完全には信頼していない。

 だが、今すぐ裏切るとも思っていなかった。

 それに何故だろう。

 ラーダを放っておいてはいけない気がする。

 この出逢いは必然だった。

 そんな気がするのだ。

 これからなにが変わるだろう?

 不安定なこの日々の。




 メイディアの王子、ネジュラ・グレンは王宮に辿りついてから、抜け出したいと思いながらも、それができない日常の中にいた。

 やってきてすぐに歓迎の宴。 

 その後で昨夜襲われたばかりの現場に行ったのである。

 そこは街の一角で住宅街だろうと思われたが、不思議なことに血が海のように溜まっていた。

 悲惨な現場を見てグレンは首を傾げる。

「変だな」

「なにが変なのでしょうか、ネジュラ・グレン王子?」

 付き従ってきたレジェンヌの将軍に、グレンは馬に乗ったまま血の海を指さした。

「現場に血痕が残りすぎてる」

「これは魔族に襲われたときには常識と思っていましたが」

「おれが呼ばれた理由は、この虐殺が妖魔の騎士によるものかどうか、調べてほしいとの内容だっただろう?
 おれもここへくることが決まってから、過去の資料をひっくり返して調べてみたんだ。奴が宴を行っているなら、現場に大量の血痕が残るはずがない」

「と申されますと?」

「奴にとって人間の血は最高の美酒だ。我が国で宴を行っているときも、奴は進んで人間の血を飲み干したとあった。奴が行う宴で殺戮現場に大量の血痕が残るということは、まずありえないんだ」

「ではこれは妖魔の騎士の仕業ではないと?」

「これだけでは断言できないが、腑に落ちないのは確かだ。我が国で奴が起こした宴と、あまりにも現状が違いすぎる」

 カポンと馬の脚が血の海に沈む。

 そのとき、声がした。

「さすがに詳しいな、メイディアの王子」

 妙に生気の感じられない声だった。

 人のぬくもりがまるで感じられない。

 いつのまにか周囲は薄闇に覆われていて、空には月が出ていた。

 不気味なほどに辺り一帯が静まり返る。

 その中で声だけが聞こえていた。

 人間らしさを感じさせない声が。

「たしかに俺にとって人間の血は最高のご馳走だ。こんなに大量に残すような真似はしない」

「おまえはまさか」

「妖魔の騎士!?」

 その場にいた全員が叫んだ。

 突然の登場に馬たちまでが騒ぎ出す。

 怯えて暴れる馬たちを制御するので、人間たちは手一杯だった。

「今頃出てくるということは、この国で暴れているのは、本当におまえだったのか?」

「俺は関係ない、と言いたいんだがな。完全には無関係ではないようだ。闇神はなにがなんでも俺を引き戻したいらしい」

「闇神? 闇世の? おまえを誘き出すための罠だって言うのか?」

「俺の姿が最後に確認されたのは、どこの国だ?」

 この言葉にはグレンも返す言葉がなかった。

 そういう意味ならレジェンヌに災厄を運んだのは、メイディアとも取れるので。

 尤もグレンに言わせれば、妖魔の騎士がはじめから宴など起こさなければ、なにも問題はなかったのだとなるが。

「それがすべて事実だったとして、今頃になって出てきたのはどういうわけだ? 闇神の下に戻るつもりになったのか?」

「闇神のことなど興味はない。だが、もう一度妖魔の王として戦う気もない」

「なに?」

「そう奴に誓ったんだ。おまえの祖父ネジュラ・ラセンにな」

「じい様?」

「俺のために早世した奴のためにも、俺はもう妖魔には戻らない。メイディアで宴をやって中断するとき、奴に誓ったんだ。二度と宴は起こさない、と。二度と人間を手にかけないと」

「どうして」

 祖父と妖魔の騎士のあいだで、一体なにがあったのか、グレンはとても気になった。

 近隣諸国のあいだで祖父は彼を退けたことになっていて英雄扱いされているが、それ以上のことがあったような気がして。

 祖父と妖魔の騎士のあいだには、一体なにがあったのだろう?

「だが、その誓いを守るためには、このレジェンヌで起きている事件を、見てみぬフリはできないらしい。これは俺の責任だ。俺の責任において処理する」

「処理?」

「こういうことだっ!!」

 ギャッと短い断末魔の声があがった。

 紫色の血が飛び散る。

 闇の中にあってなにが起きているのかは視覚できない。

 だが、どうやら妖魔の騎士が短時間に魔族を殺しているらしい。

 紫色の血に染めた細い指先が、闇の中に浮かび上がる。

 それは不気味ですらあるはずの光景だが、何故だか視線が逸らせなかった。

「この辺に集まっていた魔族は処理した。これからも何度か繰り返す必要があるだろうが、これが俺の責任の取り方だ」

「妖魔の騎士」

「レジェンヌで起きている事件は俺が処理する。目障りな動きはするなよ、メイディアの王子」

「メイディアの王子、メイディアの王子と連呼するな。おれにだってネジュラ・グレンという名があるっ!!」

「ネジュラ・グレン?」

 すこし不思議そうに呟いて、妖魔の騎士はその場から姿を消した。

 闇の中で黒衣が翻る。

 翻る黒衣は夜の闇に溶けるように消えていった。

「エスタッ。どうだ? 本当に魔族は死んでいるか?」

 先程まで妖魔の騎士がいた辺りに、白魔法使いのエスタが様子を見に行って、グレンがそう声を投げた。

「どうやらそのようです。紫色の血が大量に残っています。魔族は死ぬと消滅しますから、死体を確認はできませんが」

「これはどういうことだ? 奴の言い分を信じるなら、これはすべて奴を誘き出すための罠だということになる。そして奴はそれを承知でこの国を助けると。一体どういうことなんだ?」

「我々はどうするべきなのでしょうか、ネジュラ・グレン王子」

「しばらく様子を見るしかないだろう? 奴と魔族の両方を相手にするのは、どう考えても自殺行為だ」

「信じてもよいのでしょうか、妖魔の騎士を」

「その点に関しては信じてもいいだろう。あいつは誓いを重んじると資料に載っていた。奴は誓ったことは、なにがあっても守るんだ。だから、じい様の死後、事件を起こしていないんだろう。あいつは嘘は言わない。それも確かなことらしいからな」

 その言葉のどこまでを信じればいいのか、レジェンヌ側にはわからなかった。

 妖魔の騎士に関することでは、わからないことの方が多いのだ。

 断言できるグレンの気持ちも、また理解できないことだったのである。

 それともメイディアにはそういう資料が残されているのだろうか。

「問題はこれからのことだ。奴と魔族たちの動きと闇神の狙いと。頭が痛いな」

 考えなければならないことが増えて、頭が痛いのが現状だった。





『もう二度と人間を手にかけないでくれ。非情な妖魔の王には戻らないでくれ』

 あのとき、初めて光を手に入れた。

 短いあいだだった。

 でも、幸せだった。

 その幸せを永遠のものとするために、どれほど辛くても誓いは守る。

 血の誘惑が心を狂わせても、二度と妖魔の王には戻らない。

 ―――あのとき、そう誓ったから。
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