序章
序章
天と地がまだ近かった時代。
この世は天界と地上に別れて存在していた。
といってもこの世界の天界はひとつではなく、それ故に成り立ちも複雑ではあったが。
至上神が治める世界の管轄外にこの世界はある。
その名を地球界という。
地上の人々や異世界を感知できない人々は地球と呼び習わすが。
下界と天界。
合わせて地球。
その多次元世界の天界のひとつで、今運命を決する出来事が起きた。
ひとりの赤ん坊が産まれたのである。
その赤ん坊の上に天空から一筋の光が注がれている。
「天空の星」をその身に宿し宿星とした赤子。
母親はまだ幼い少女だったが、自らの腕に抱いた赤子の上に、天空の星の光が降り注ぐのを複雑そうにみている。
「騒乱を……招かねばよいが……」
穏やかな声に振り返れば夫が立っていた。
天の二柱の片割れと言われる王が彼女の夫である。
そのもう一方の片割れと言われる王こそが、この事態においてとても危険な存在となる。
それは彼を親友と認める夫には辛い感想だろうが。
「これがこの子の宿命なのね。天空の星をその身に宿すことが」
悲しそうな声は子供の運命を見届けられないが故のものだった。
彼女は長命な竜族の王族だったが、元から身体が弱く出産は無理だと言われていた。
それをおして無理をしたために、すっかり弱ってしまっている。
今はこうして立っていられるが、彼女の生命が尽きる日は、それほど遠くないだろう。
それを知っているから夫は悲しい顔をみせまいとうつむく。
出産を認めれば彼女を失う。
それはわかっていた。
それでも彼女は産みたいと言ってくれた。
自分の生命よりも愛する人の子供の生命を取ったのだ。
そのことは悲しみと同時にありがたいとも思っていた。
そこまで愛されているのだ。
失うことが辛いからと寂しそうな顔はみせられない。
それでは愛しい子供をおいて逝くしかない彼女の気持ちはどうなる?
自分より彼女の方がずっと辛いのだから、耐えなければとそう思っていた。
その翌日、生まれたばかりの赤子の面倒を彼女がみているところへ、不意に彼女の兄である竜王(他族の者は敬意を込めて竜帝と呼ぶ)がやってきた。
「阿修羅王あしゅらおうはいらっしゃるか」
「これは竜帝りゅうてい殿」
兄上と呼ぶこともなく、変わらずに敬意を込める阿修羅族の王に、義理の兄となった竜帝は心配そうに顔を翳らせる。
「起きていて大丈夫なのか、沙羅さら?」
第二声は妹姫に向けたものだった。
病身ながら無理をして揺りかごを覗き込み、赤子をあやす妹の姿を見つけたからである。
「大丈夫よ、兄さま。わたしがこの子の傍にいたいの。すこしでも長く傍にいてあげたいの」
死を予感させる言葉に阿修羅王と竜帝は黙り込んでしまう。
今の彼女にうかつな慰めは言えなくて。
死別は決まっているのだ。
陳腐な慰めなんて言うだけ無駄である。
空々しいだろうから。
「天空城からなにか連絡は?」
席に落ち着くとそう切り出した竜帝に阿修羅王は静かに笑んだ。
「いや。特になにも」
「阿修羅王の方からも連絡を取っていないのか? 天空の星が動いた以上、もう命運は決しているというのに」
「わたしの方から言うべきことはなにもない。今はただ静かな気持ちで時を過ごしている」
それは親友が現状を受け入れてくれればということなのかと、竜帝はため息を吐き出した。
「それより竜帝殿。前々からの約束だ。良い名を考えてくれただろうか」
生まれてくる子の名付け親になってくれと言われていた竜帝は破顔した。
「そうだったな。天空の星をその身に宿し生まれた阿修羅の王子。
神子は父王を超える阿修羅王となられよう。それが竜帝としてのわたしの予感。阿修羅を継ぐに相応しき王子だと。
その神子にわたしは……アーディティアと名付けよう」
言われた名を噛み締めて阿修羅王は何度か頷いた。
「アーディティア。申し子か。これは良い名を頂いた。ありがとう、竜帝殿。本当に良い名だ」
「アーディティア。古の言葉で申し子。本当にこの子にぴったりの名ね。ありがとう、兄さま。嬉しいわ」
「喜んでもらえると悩んだ甲斐があったというものだ」
嬉しそうな竜帝にふたりは顔を見合せ、そっと微笑みあった。
阿修羅王は一族の王族らしく、長い黒髪に琥珀の瞳。
一族が力を行使する際にしか現れないと言われる黄金色の瞳は一族の象徴。
それに近い琥珀の瞳は王の証である。
美神で知られる王で天界一との噂もある。
それは顔立ちや身体付きなどの要素が、身分や実力を反映するこの世界において特別なことである。
竜帝は栗色の髪に気分次第で色を変える瞳をしている。
さっきまでは空を思わせるような青い瞳だったが、今は穏やかな緑色をしている。
瞳の色は竜帝の気分次第で変わるのだ。
阿修羅族の特徴は黒髪に黒い瞳。
竜族はその特徴的な力故に外見が一定していない。
その証拠に妹姫である沙羅は黒髪に黒い瞳だった。
そこに隠された謎は阿修羅王が上手く隠し通してきた。
竜帝も自分のことも含め、そのことは感謝していた。
両親ともに黒髪だし、黒髪は阿修羅族の象徴。
生まれてきた王子が黒髪なのは、ある意味で必然。
だが、その瞳を開いたとき、運命は加速度を増すことになる。
何故ならありえない歴史上初の黄金色の瞳をしていたからだ。
黒い髪は闇よりまだ深く、黄金色の瞳は阿修羅を象徴する。
「阿修羅の御子」
後にアーディティアはそう呼ばれるようになっていく。
その特別性に引かれるように、やがて始まる阿鼻叫喚の地獄絵図。
天帝、帝釈天たいしゃくてんと鬼神軍とが正面から衝突したのだ。
神々の戦は短期にして終わらず。
そんな言葉が残るほどの長い戦乱の果てに天は頂きを失った。
帝釈天と阿修羅王は相討ちにて果てたのである。
その後、生き延びていたはずの「阿修羅の御子」は、ある日突然、何処かへと姿を消していた。
今では大方亡くなったのだろうという意見で一致している。
その証拠に王子に殉じるように、阿修羅族は忽然と歴史から姿を消していた。
それはまるで王子に殉じたようだと後の人々は語る。
そうして長命な神々にとっても永いと思えるほどの時代が流れた。
天界は戦乱の直中にあって、なんとか光明を見出だそうとしていた。
竜帝を中心として夜叉王やしゃおうを阿修羅王の代理とすることで、一応の平定をみていたのである。
闘神の帝位を代行するのだからということで、歴代の夜叉王は竜帝に育てられることになる。
そうして何人かの代替わりがあった。
竜帝の寿命は長命な神々の中にあってさらに異端なのだ。
聖戦と呼ばれたあの戦の詳細を知る者は、頑なに口を噤み、今では詳しいことを知っている者というのは、とても稀になっている。
それはすべて「阿修羅の御子」が不在だからである。
帝釈天を失った天族は今も王の帰還を待ち望んでいる。
神々に転生はありえないが、帝釈天が子を得ずに亡くなったため、その可能性に賭けていたのである。
神々は子が生まれることで初めて世代交代が確定するのだ。
そのため、多くの神々はたいてい男女の子供が生まれる。
父親の後を継ぐ者と母親の後を継ぐ者である。
そのため人数は常に一定なのだが。
戦のときなどの非常時を除いて。
そんな中で「阿修羅の御子」不在のまま、聖戦の真実を口にすることはできなかった。
それは不要な諍いを呼んでしまうだろうから。
夜叉王が闘神の帝王の座を代行するようになって、どれくらいの時が流れただろう。
今一度、運命は動き出そうとしていた。
「天空の星」の覚醒め(めざめ)によって。
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