第一章 異世界トリップ





 第一章 異世界トリップ




「杏樹っ!! 早くしないとおいて行かれるじゃないかっ!!」

 先頭を歩くグループから外れて戻ってきて怒鳴ったのは、草薙杏樹の双生児の兄、亜樹だった。

 短い黒髪は艶やかになびき、黒真珠の瞳は鮮やかな光を宿している。

 男にしては小柄なせいか、アイドル扱いを受けていた。

 まあそれには並のアイドルより、可愛らしい顔立ちも関係しているのだが。

 それに妹の杏樹からみても、亜樹は愛らしい性格をしていた。

 つい構いたくなる性格の持ち主なのである。

 そのせいか同性からは、異性のように思われていて絶大な人気を誇っていた。

 亜樹はそんな自分の境遇をことのほかきらっているのだが。

 小柄な上に容姿端麗、性格も問題なしとなれば人気の出ないはずもなく、妹である杏樹からみても、亜樹の人気には呆れるものがあった。

 本人には男としての自覚とプライドが強く、そういったことを寛容に受け入れられないタイプだ。

 しかしながらそんなふうに怒ってみせるところまで可愛らしいとは、亜樹の友達の意見だった。

 当然のことながら取り巻き以外にも、普通の友達はいるのだが、そんな彼らからも同様の意見をもらっているのが、亜樹の嘘偽りのない境遇だった。

「ごめんなさい、亜樹ちゃん!! あたしのことはいいから先に行っててっ!! 先生に怒られるよっ!!」

 息を切らせながらそう言った杏樹の手を引っ張って、亜樹は無言で歩き出した。

「亜樹ちゃん……」

「杏樹はただでさえ危なっかしいんだから、放って行けるわけがないだろ?」

 妹を気遣いながら亜樹は愚痴る。

「だいたいこの高校は入学したばかりの1年生に、なんだってオリエンテーションで山合宿なんてさせるんだよ?
 みてみろよ。この高山登り並の高さを。脱落してる奴らが、どのくらいいると思ってるんだよ?」

 亜樹はぶつぶつと愚痴っているが、杏樹にしてみれば、その強行スケジュールを苦もなくこなし、遅れ気味の杏樹の世話までできる亜樹は、やっぱり普通じゃないと思っていた。

 だいたい杏樹は息を切らしているのに、亜樹はまったく平静だった。

 呼吸には乱れもなく、また疲れた様子もみせていない。

 背格好は変わらないのにこの体力の差は、やはり女の子みたいでも亜樹も立派な男の子だということだろう。

 横髪を掻きあげる亜樹の手は女の子のように繊細だ。

 その手が掻きあげた髪の隙間から覗く蒼いピアス。

 杏樹が物心ついたときには、もう亜樹の左耳にあった。

 そのピアスは父から母の形見だと聞いている。

 亜樹は冗談交じりに言っていたが。

『このピアス外そうと思っても外れないんだよ。父さんはこれは母さんの形見だなんて言ってたけど、そんなのってアリかな? 学校側に外れないってことを理解してもらうまでに揉めるんだろうなあ』

 と。

 事実、亜樹は入学してすぐに校長室に呼ばれた。

 進学校には相応しくないとして。

 まあそれには亜樹の容姿が目立ちすぎたことと、入試で首席をとり新入生代表として挨拶を述べたせいもあるのだろうが。

 壇上に立ったとたんにあがったため息の数は、ものすごいものがあった。

 その亜樹の左耳には決して小さくはない蒼い宝石のついたピアス。

 アクアマリンと言われているが、実際のところ、どんな宝石なのかは謎である。

 一度街で遊んでいたときに、宝石鑑定の専門家が亜樹のピアスに興味を持ち、調べようとしたが、遂にわからなかった。

 だから、冗談ぽく言っていたが、たぶん外れないというのは本当なのだろう。

 事実、入学式が終わった後、校長室に呼ばれたのは亜樹だけではなかった。

 杏樹も呼ばれたのである。

 たぶん双生児だったからだろう。

 亜樹の言い逃れを否定するために。

 だから、校長室でどんなやり取りがされたのか、知っているのは当事者の亜樹を除けば杏樹だけだった。

『草薙くん。きみはたしかに優れた成績で入学したが、そのピアスは校則違反ではないかね? わが校はそのような真似は認めていないのだが』

『お言葉を返すようですが、校長先生。これは母の形見で物心ついた頃には、もう身に付けてました。
 外そうとしたことはあるんですが、どうしても外れないんです。別に校則違反をしようと思ったわけではありません』

 小学校、中学校と繰り返されてきた説明である。

 亜樹の口調には淀みがなかった。

 しかし亜樹がそう言った後、同席していた教頭が怒りで顔を真っ赤にして怒鳴り付けた。

『嘘をつくなっ!! 外れないピアスなどあるものかねっ!! 外す気がないのなら、わたしが外してやろうっ!!』

 このとき亜樹はどこにでもひとりはいる、嫌味なタイプの教師らしいと、教頭のことを見ていた。

 特に逆らいもせず。

 この後、教頭はものすごい形相で亜樹の耳からピアスを外そうとしたが、結局、外れることはなかった。

 嘘を言っているわけではなかったのだ。

 教頭はムキになり、亜樹の耳が赤く腫れるまで外そうとし、亜樹は悲鳴もあげず我慢した。

 見かねて動いたのは校長だった。

『教頭先生。もうそのくらいでいいでしょう。どうやら草薙くんの言っていることは嘘ではないようですから。それだけやって外れないということは、本当に外れないのでしょう。それ以上は暴力ですよ?』

 校長のとりなす声に、ようやく引くに引けなくなっていた教頭は亜樹から手を離し、忌々しそうに呟いた。

『外れないピアスなんて、そんなバカな……』

『嘘じゃありません!! 亜樹ちゃんのピアスは、本当に外れないんですっ!! 小さいときから、それで苛められてきたのに、そんなふうに疑うなんてひどいっ!! しかも耳がこんなに赤く腫れるまで、ひどいことをするなんてっ!!』

 杏樹が事実を知る妹として食ってかかると、教頭はごまかすように咳払いした。

 それ以来、亜樹のピアスに関しては暗黙の了解となっている。

 外そうと挑戦した者は、10人以上いたが、だれも成功しなかった。

 亜樹は人懐っこく、だれにでも懐く人柄だ。

 それに彼は人気者だったから、だれも敢えて言わなかったが、薄気味悪いと思っている者も多少はいるらしかった。

 まあ当の亜樹も時々だが思い出したように「気味悪いよな」なんて言っているから、だれでも思うことかもしれないが。

 ピアスに関しては謎だらけの亜樹だが、基本的に妹想いの優しい兄だ。

 どんなときも杏樹を優先してくれる。

 だが、杏樹の不幸は普通の女の子よりも、可愛らしい兄がいることだった。

 双生児として生まれたせいか、とにかくよく比較されるのである。

 杏樹が男で亜樹が女ならよかったのに、とは、親戚のおじさんやおばさん連中に言われてきた言葉だった。

 その何気ない感想が、どれほど女の子としての杏樹を傷つけているかなんて、だれひとり気づいてくれなかった。

 亜樹はその愛らしい性格が証明するように非常に騙されやすい。

 ホイホイ誘拐犯にでもついて行きそうで、杏樹は自然としっかりしたタイプの女の子になってしまった。

 それがよけいに保護欲をそそる兄との比較対象の材料にされてしまい、杏樹は女の子らしくないと言われてしまうのだった。

 だが、その人が良すぎてすぐに騙される、頼りない性格の亜樹も、やはり杏樹にとっては兄なのである。

 亜樹は杏樹の前では、決して頼りない男の子ではなかった。

 不安だったら手を引いてくれるような、頼れる兄だったのである。

 これを言うと大抵の人は嘘だと言うけれど。

 今だって自分は先頭を歩いていて、このままで行けばすぐにでも頂上に着いたはずなのに、後方にいる杏樹を気遣って戻ってきてくれた。

 いくら兄妹とはいえ、そこまでしてくれる兄は、そうそういないだろう。

「この長いつり橋を渡れば休憩所に出るから。そうしたら頂上は目前だからな、杏樹。頂上に着いたら反対側から下山して隣町で一泊。知ってるよな?」

「うん」

 言いながらも杏樹は恐ろしそうにつり橋を見ていた。

 亜樹はおそらくさっき一度渡り、もう一度戻ってきたから、たぶん三度目なのだろうが杏樹は初めてである。

 つり橋を渡ることはおろか見ることすら。

 亜樹もそうだが、やはり男の子。

 そういうスリルは大好きなのか、怖いとは思っていないらしい。

 眼下に広がるのは、どこまで下っているかわからない大きな川。

 たしか先の方では滝壺に繋がっていて、そこから更に海に繋がっているはず。

 三泊四日のオリエンテーションのために、わざわざ新幹線に乗って移動してきたのだ。

 山間のこの街では、かなり有名な高山らしいのだが。

 使用するつり橋が、こんなに年代物だとは思わなかった。

「亜樹ちゃん……このつり橋、腐ってるよぉ。怖いよぉ」

 ひきつった顔で杏樹がそう言えば、振り向いた亜樹が苦笑した。

 女の杏樹でさえ見とれてしまいそうなほど眩しい笑顔で。

「でも、渡らないと隣町に移動できないんだから仕方ないだろ? 先生たちがここを好んで使用するのは、登山をしないと隣町に移動できないせいだっていうんだから。オリエンテーションにはもってこいだって話してるのを聞いたよ」

 成績優秀な亜樹は、当然のことながらクラス委員で委員長をやっている。

 これは入試で首席を取ったおまけみたいなもので、クラスに入ったときに教師に押し付けられたのである。

 首席を取るほどの頭脳の持ち主なら安心だ、と。

 そのおかげで先生たちしか知らないような裏話もよく知っていた。

 亜樹はまだ入学したての1年生だというのに、次期生徒会役員の候補に名が挙がっていた。

 生徒会役員は成績優秀者で構成されるのだ。

 各学年、首席と次席のふたりが役員として配属される。

 何故ならエリート校である当校においての生徒会役員とは、一種のステイタスであり進学に大いに有利になるからだ。

 そのせいでなりたがる者が後を絶たず、苦肉の策で出された条件が、学年首席と次席のふたりというものだった。

 余談であるが杏樹は次席である。

 まあ首席を取れるような亜樹の双生児の妹なのだから当然だが。

 だから、杏樹も自分のクラスでは副委員長をやっていた。

 委員長を勧められたのだが、男の子がやった方が纏まりやすいだろうと進言して辞退していた。

 心のどこかで亜樹と同じことをして、また比較されたくないとでも思っていたのかもしれない。

 亜樹のことは兄として大好きだが、比較され女の子としての誇りに傷をつける亜樹の特徴に関しては、杏樹は笑って許容できない面がある。

 だから、不思議なことではなかった。

 まあそのことで亜樹を否定する気はないし、劣等感を抱いて亜樹に対して不平不満を抱く自分が悪いとも思っている。

 おおらかなところのある亜樹は、杏樹が兄のことで劣等感を抱いていることは知らない。

 いや。

 もしかしたら知っているのかもしれない。

 優しい亜樹なら知っていても見てみぬフリをするだろうから。

 わかっていても当の亜樹から指摘されるほど惨めなことはない。

 その亜樹がしょうがないなと言いたげに、杏樹の握った手に力を込めてくれた。

「ほら。こうしてれば怖くないだろ? とにかく渡らないと向こうへ行けないんだから」

「うん……」

 ビクビクして足が震えがちな杏樹の手を引っ張って、亜樹が先頭を歩いてくれる。

 その様子にクラスメイトや、見知らぬ生徒にまで冷やかす声がかかったが、亜樹はそれには怒鳴り返すだけでやりすごした。

 亜樹は外見だけなら美少女だし、黙っていれば清楚な感じの大人しい少女といった印象だが、その実かなりハキハキ話す明るい性格だった。

 それが愛嬌となり、更に人々に親しまれるのだが。

 杏樹も同じように明るい性格だが、どちらかといえば可愛らしい可愛さではなく勝ち気な明るさだった。

 そのため男の子にも口うるさいと敬遠されがちである。

 思い出されるのは小学校の卒業式のときのこと。

 ずっと仲の良かった男の子が引っ越すことになったのだ。

 家はそれほど近くなかったが、よく行き来はしていた。

 亜樹とも仲の良かった彼は、ふたりよりもひとつ年上の男の子で、ふたりにとって本当のお兄さんのようなものだった。

 その彼が卒業する年、突然引っ越すことになったと知らされたのだ。

 このとき、杏樹は泣いて泣いて夜を過ごしたものだが、毎日つるんで遊んでいた亜樹は泣かなかった。

 引っ越すときも卒業式のときも、ムスッとした顔のままで、彼とは口を聞かなかった。

 意地っ張りなところのある亜樹だったから、たぶん泣くまいと意地を張っていたのだろう。

 卒業式の翌日が引っ越しの日で、その日になっても亜樹は頑な態度を崩そうとはしなかった。

 だから、見送りに行ったのは杏樹だけなのだが……そこでなにが起こったか亜樹は未だに知らない。

『杏樹ね。翔お兄ちゃんのこと大好き……』

 生まれて初めての告白。

 これが別れの日だと思うから言えた。

 もし彼が地元の中学に通うのなら、たぶん言わなかっただろう。

 もう逢えない。

 そう思う心が杏樹に大胆な行動を取らせた。

 答えはあまりにもむごすぎるものだったが。

『……ぼくも杏樹のことは好きだよ? 亜樹の次に好き』

『翔お兄ちゃん……』

 翔は杏樹より亜樹が好きだと言った。

 紛れもない告白で、この答えはないんじゃないかと、後になって思ったものだった。

 同性を、それも実の兄を引き合いに出すことはないんじゃないか、と。

 だが、今思えばそれが素直な答えだったのかもしれない。

 向こうも告白されたことなんてなかっただろうし。

 お互いにまだ子供だったから、答えは素直な本心を告げることだけ。

『ごめんね? ぼくが今1番好きなのは亜樹なんだ。だから、杏樹の気持ちは嬉しいけど謝ることしかできない』

『亜樹ちゃん。呼んでこようか? 翔お兄ちゃんが最後に逢いたがってるってっ!!』

 いい加減、自分でもお人好しすぎるなあと思うのだが、翔の心が亜樹の元にあると知って、杏樹は反射的にそう言っていた。

 やはりこれが最後という意識が、杏樹を縛っていたのだろう。

 本当ならひとりになって泣きたかったのに。

 もちろん彼が引っ越して行ってから、杏樹は初めての失恋に散々泣いたのだが。

「呼んでこなくていいよ。亜樹は意地っ張りだから、きっと顔を合わせたら泣いてしまうと思ってこないんだと思うから。それにね、杏樹。約束するよ。必ず逢いにくるから」

「翔お兄ちゃん……」

「ぼくがもうこんな小さな子供じゃなくなって、自分で移動できる年になったら必ず逢いにくるよ。そのときを楽しみにしていてほしい」

 それだけを言い残して、高瀬翔は遠くへ引っ越していった。

 杏樹が亜樹のことで劣等感を抱くようになった原因が、この初恋にあった。

 初恋の相手はよりによって告白されたとき、杏樹ではなく兄の亜樹が好きだと言ったのだ。

 これで拘らない方がどうかしている。

 懐かしい思い出。甘酸っぱい初恋の味。

 その高瀬翔から4年ぶりに連絡が入ったのは、高校に入学してすぐのことだった。

『ぼく。翔だよ。高瀬翔。憶えてるかい?』

 翔からの電話を取ったのは、偶然、亜樹だった。

 亜樹は驚いた顔をした後で嬉しそうに笑ったものだ。

 懐かしい幼なじみの声を聞いて。

『久しぶりだなあ、翔。オレだよ、亜樹っ!!』

『えっ!? 亜樹!? 懐かしいなあ。おまえさあ、ぼくが引っ越すとき、見送りもしなかっただろう? ちょっと恨んでるんだぞ』

『男が一々小さいことを気にしてるんじゃないって。で。どうしたんだよ? いきなり?』

『うん。杏樹から聞いてるだろう? ぼくがひとりで移動できる年になったら逢いに行くって』

『そう言えばそんなことも言ってたっけ』

『冷たいなあ。とにかく一度、G/Wに訪ねていくから。紹介したい奴もいるし。その後で夏休みに本格的にそっちに行くよ。ホテルでもとって』

『昔の家は売ったのか?』

『いや。10年間契約で人に貸してあるんだよ。実は4年前の引っ越しにしてからが、原因が父さんの海外転勤にあったんだから』

『へ? じゃあ翔は今、どこにいるんだ?』

『祖父母のところだよ。外国に行くのはいやだと言い張った結果、そうなったんだ。そっちに行こうと思ったら2、3時間かかるくらいの距離があるかな』

『ふうん。なんで外国についていかなかったんだ? 中学になってたらまだしも、あのころなら区切りもよかったんじゃないのか?』

 小さい内から外国で暮らせば、自然と慣れる。亜樹はそう思ったらしかった。

『日本にいたかったんだ。捜してる人がいたから』

『捜してる人って?』

『うん。だから、そういった込み入った話をG/Wにしたいんだよ。それで紹介したい奴と一緒に夏休みを過ごせたらなと思って。迷惑かな?』

『いいよ。待ってる。G/Wっていったら、オリエンテーションが終わった後だから家にいると思うし。それより杏樹に代わるからさ、ちょっと待ってくれよ』

『あっ。代わらなくていいよ、亜樹っ!!』

『なんで? 杏樹だってきっと喜ぶと思うのに……』

『うん。ちょっと心の準備ができてないっていうか。とにかく杏樹とは訪ねていったとき、直接逢うことにするよ。伝えたいこともあるし』

『ふうん……意味深』

『バカ。変な勘繰りするなよっ!! とにかく杏樹には一言だけ「ごめん」って伝えておいてくれる?』

『どうして翔が謝るんだ?』

『そういえば杏樹にはわかると思うよ。とにかく後は連休のときに』

 亜樹がそうして頷くと、最後に翔は亜樹に「彼女はできたのか?」と冷やかしてきた。

 これには冷たい言葉で答えた亜樹なのだが。

 亜樹からそれを伝えられたとき、翔がなにを謝ったのか、杏樹にはすぐにわかった。

 あれから成長することで、あのときの自分の処置のまずさに気づいたのだろう。

 それにしても話したいこととはなんだろう? と、あれ以来、だれかを好きになることを否定してきた杏樹は、今だに燻りつづける初恋に戸惑いながら、そんなことを考えていた。

 きれいに思い出にできなかった杏樹は戸惑いながら、そんなことを考えていた。

 憧れの男の子が帰ってくる。

 そう思うと嬉しくてその日はなかなか眠れなかった。

 それでいて今もなお亜樹に拘っているらしい翔に、杏樹は気落ちしてもいたのだが。

 最後に逢った日のことを思うと、翔が亜樹に彼女のことを訊いたのは、単なる好奇心だけとも思えなかったから。

 そんなことを考えていたのがまずかったのだろう。

 杏樹はユラユラと揺れる吊り橋を、気をつけて渡っていたつもりだったが、後方が大きく揺れたとき、バランスを崩して真っ逆さまに落ちていった。

「杏樹っ!!」

 とっさに手を掴んでいた亜樹が杏樹の手を引っ張るが、所詮同じくらいの体格で救えるはずもなく、ふたりはもつれ合うようにして、谷間へと落ちていった。

 高く水しぶきがあがる。

 思っていた以上に勢いのある川の流れに押されながら、亜樹は必死になって杏樹を探した。

 どんなときも杏樹を護るのは亜樹の役目。

 そう思ってどんな場面でも守ってきたのにっ!!

 今ここで御破算にしてたまるかっ!!

 逆らえない水の流れに押されながら亜樹の蒼いピアスが鮮やかな光を放つ。

 吊り橋の上から悲鳴をあげる生徒たちや、亜樹や杏樹の名を呼ぶ教師の声も聞こえたが、亜樹が意識を保っていられたのはそこまでだった。
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