第三章 枯れ草の寝台

 あれから真弥には逢っていない。

 真弥が忙しいと言っていたのもあるが、別れ際に彼が言っていたことが気になって、逢う勇気を持てなかったのである。

『大事な人には隠し事されたくないよね?』

 瑠璃の瞳を覗き込んできて、そう言った真弥。

『でも、大事なこと隠されてると相手も言いたくても言えないよね?』

 あの言葉の意味を何度も考えてみた。

 曖昧なあの言葉。

 でも、瞳はまっすぐに瑠璃を捉えていた。

 彼がなにを言いたかったのか、必死になって考えた。

 瑠璃は普通に人付き合いをしたことがない。

 そのことがこのときは本当に悔やまれた。

 瑠璃には判断する基準がないのだから。

 そうして同じ日にお傍付きの由希から、思いがけない話を聞いて、瑠璃は自分の真弥への気持ちがなんなのか、そのことを気にしはじめた。

 そうなるととても真弥には逢えなかったのである。

『恋』

 男が女を女が男を恋うる気持ち。

 知識に乏しい瑠璃には、そんなふうにしか解釈できない。

 人を愛しく思う心。

 それは部落を護りたいと愛する心とは意味が違うのだろうか?

 だいたい巫女にとって恋や愛は禁忌だ。

 異性との接触が禁じられていることでもわかるように、だれかと結ばれることなど認められていない。

 それはすべてを裏切る行為だ。

 巫女が夫を迎えれば死罪。

 それが揺るぎない掟。

「……」

 名を呟きそうになって唇を噛む。

 今度、真弥に逢うときは答えを出してから。

 ずっとそう思っていた。

 思って思いつづけて1週間が過ぎている。

 こんなに長く逢わずにいるのは出逢ってから初めてだった。

 振り向いたら隣で微笑んでくれているような気がするのに……振り向いても、そこに真弥はいない。

 そのことが泣きたいほど悲しい。

 切なくて……。

「わたしは掟に振り回されない。自分に素直に生きるわ。わたしだって……生きている。心を持っているのよっ」

 きつい口調で呟いて、瑠璃は久しぶりにお忍びに出るため、慌てて準備を始めていた。




「やれやれ」

 いつも瑠璃と逢う湖の畔。

 待っていても彼女はこないのに、じっと待ち続けている。

 あの日から。

 言わない方がよかったのだろうか。

 問えば逢えなくなるかもしれない。

 そんな予感はあった。

 あったのに口に出してしまった。

 そうして……逢えない。

 もう1週間もこうして待っているのに。

 ただ彼女がきてくれるのを。

 家を探すのも上手くいっていない。

 由希が気づいて邪魔して回っているからだ。

 空き家を見つけても、住むところまでこぎつけない。

 必ず由希に邪魔をされる。

 おかげで由希の家から出られない状態が続いていた。

 瑠璃に逢えれば、それだけで気分は晴れたかもしれない。

 でも、そんなときに限って疎遠になっていて、なにをやっても上手くいかない。

 半分くらいは八つ当たりだと気づいていても、解放してくれない由希とは、最近は口もきいていない。

 彼女から話しかけられても避けている。

 おじさんからは「すまない」と謝罪されたが。

 由希を説得しているが上手くいかないと。

 せめて妻を迎えるまで、ここにいてくれないかとまで言われたが、それは由希の思うツボのような気がしたし、それでは権力に屈するようでいやだった。

 結局は真弥よりも由希に力があるのだ。

 だから、なにをやっても上手くいかない。

 本当は……こんなときだから、いつもよりずっと瑠璃に逢いたい。

 逢って微笑んでもらえたら、それだけで心が癒されるから。

 彼女の微笑みだけで心の支えになるから。

 どうしてあんなことを言ってしまったんだろう。

 素性に触れられるのを彼女はあんなに警戒していたのに。

 逢いたいのに逢えない。

 両手で頭を抱え込んで目を閉じる。

 それだけで瞼の裏に瑠璃の笑顔が浮かぶような気がした。

 でも、思い描く瑠璃は何故か泣き顔なのだ。

 それがやるせなくて辛かった。

「真弥」

 ハッとして振り向いた。

 空耳?

 瑠璃の声が聞こえた気がしたのに。

 気配はない。

 どこにいるのかもわからないくらいの静寂。

 でも、瑠璃は初対面のときに気配を感じさせなかった。

 意図的になら気配は殺せるかもしれない。

 彼女が本当に巫女ならそのくらいはお手の物だろう。

「瑠璃? いたら出てきてほしいよ。さっきの声がぼくの空耳でなければ。きみに……逢いたいっ」

  立ち上がって振り向いても気配はない。

 声もしない。

 やっぱり空耳かと肩を落としかけて、もう一度声が聞こえた。

「今……行くから、すこしだけ待っていて」

 声が震えているような気がして、ちょっと戸惑った。

 逢えるだけで嬉しかったから、声が聞こえたら、空耳じゃなかったとホッとしたけど、この状況はなんだろう?

 衣擦れの音が聞こえる。

 もしかして。

 疑って視線を流していると大樹の影から、ひとりの少女が姿を見せた。

 純白の絹の綾織りを身に付けて。

 腰に届くほどに長い黒髪。

 純白の衣服がよく映える。

 想像していた通り瑠璃は黒髪だった。

 あんなに綺麗な黒髪は見たことがない。

 それにあの衣装からみて間違いなく彼女が巫女だ。

 由希でさえ、あれほど豪華な衣装は持っていないのだから。

 言葉は出なかった。

 これが1週間悩んで出した彼女の答えだと知って。

「瑠璃?」

 名を呼ぶと合わせた両手が小刻みに震えた。

「怒ってる? あなたを騙していたこと」

「どうして? 怒っていたらあんなことは言わないよ。それにきみは自分から本当の自分を見せてくれた。だから……もういいんだよ、瑠璃」

 本心だった。

 その立場を思えば決して簡単な決意ではなかっただろう。

 それはこの1週間という時間が示している。

 瑠璃は悩んで悩んで、そうして答えを出したのだ。

 裏切りじゃない。

 彼女の真心。


 言わなくても言われなくても、もうお互いの気持ちはわかっているような気がしていた。

 錯覚のような一瞬でも、それは紛れもない真実だった。

「憶えているかな? 1番大切なことを隠されていると、相手も言いたいことが言えなくなるって言ったぼくの言葉?」

 コクリと頷く彼女に微笑んだ。

 今なら告げられる。

 そう思ったから。

「きみが女の子だって出逢ったときから知っていたよ」

「え?」

 驚いた顔をする瑠璃に笑ってみせる。

「本気でぼくを騙せると思ってた?」

 苦笑した問いには否定の動作が返ってきた。

 薄々わかっていた。

 彼女の方もそんな態度だった。

「ただどうして偽るのか、事情まではわからなかったし、あのときの瑠璃はとても真剣に見えたから、あまり悪い解釈はしていなかったんだ。だから、付き合ったんだよ?」

「知らなかった……」

 本当に世間知らずな瑠璃。驚いた顔でそう言って。

 でも、そんなところが可愛いと思うし、好きになった理由でもあるけど。

 瑠璃の世間知らずは由希とは意味が違うから。

 彼女はいい意味で染まってない。

「疑問は……あったよ。瑠璃はあまりにも不自然だったから。でも、すこし付き合えばそれが演技かどうか、瑠璃の素顔なんてすぐにわかる。ぼくも伊達に剣士は名乗っていないからね。人の本質を見誤るほど愚かではないつもりだよ」

「そうね。あなたはとても聡明な人だわ。真弥。聡明すぎて真理がわかるから、あなたは罪を犯せないのよ。そのことでもう自分を責めないでほしいわ。あなたは間違っていないから」

 優しい言葉に頷いた。

 これが巫女の託宣というものなのだろうか。

「自惚れかもしれないけど、ぼくにはきみがよくわかったし、きみならぼくをわかってくれると信じてる」

 また頷かれ、ちょっと不安になる。

 こちらの言葉だけを伝えて、彼女の気持ちを聞いていない。

 すべて伝えれば言ってくれるだろうか。

 建前も演技もすべて捨てた彼女の本心を。

「だから、かな。きみから事情を聞いて、もう素性には触れないでいようと決めたのに、きみが理解できてくるほど、演技を重ねてごまかして付き合っていることが苦痛になってきたんだ」

「真弥」

「きみがなにも言ってくれないから、ぼくも言えない。これはぼくの本心だよ。ずっと悩んでいた。あの日それを告げる勇気が出たのは……きみがだれなのか、やっと気づいたからだよ」

 ギクリとしたのか、青ざめる瑠璃に一定の距離を保ったまま微笑みかける。

 今近づけば逃げられるような気がした。

「きみは……巫女だよね、瑠璃?」

 何度か視線を逸らしてためらうような素振りを見せた後で、瑠璃はゆっくりと頷いた。

 人が聞いたら羨むだろう。

 美貌で知られる巫女を一目見たい。

 これは村の男たちの潜在的な願望だからだ。

 噂をすることも許されなくて、おおっぴらにはできないが、だれもがそう願っている。

 バレたら八つ裂きかな? と、軽く肩を竦めた。

 たしかに……綺麗だ、瑠璃は。

 こんなに綺麗な少女をぼくは見たことがない。

 姿だけじゃない。

 内側から滲み出る「なにか」が彼女を内面から輝かせている。

 でも、ここにいるのは巫女じゃなくて、ひとりの女の子、瑠璃だ。

 素直にそう思える。

「素性に気づけばきみが偽るのが何故なのか、あのときぼくの申し出を断ったのは何故なのか、ぼくにもやっとわかったよ」

「……ごめんなさい」

「どうして謝るの?」

 問いかけると瑠璃は驚いた顔をした。

「たしかにびっくりしたし、その現実が秘める意味に気づいたときは、あのときのぼくの方がうかつだったんだなってわかるよ。
 中途半端な好意なんて、きみには迷惑なだけだよね。きみの立場を思えば、中途半端な決意では傍にはいられない」

 泣き出しそうな瑠璃。愛しい瑠璃。

 どうか気持ちを告げるまで逃げないでほしい。

 でなければ瑠璃はきっと逃げ出して二度と逢ってくれない。

 自分の運命に巻き込むことを、1番恐れているのは他ならぬ瑠璃だ。

 だから、聞いてほしい。

 偽りのない、この心を。
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