第二章 戻れない道
『もうすぐ18だね、真弥』
『ええ。10歳のときにおじさんが引き取ってくれて、もうすぐ8年ですね。前々から考えていたんですが』
『真弥の意見を聞く前にこちらの意見を聞いてくれないか?』
言いかけた言葉を遮られて眉を寄せる。
『由希の気持ちは知っているだろう?』
わかっていても面と向かって言われたことがなかったので返事に詰まった。
『もし真弥さえよければ、由希と一緒になってやってくれないか?』
ここから先におじさんがなにを言いたいのかは、ほぼ把握していた。
由希が真弥以外はいやだと拒否していること。
真弥の気性では剣士はやっていけないこと。
だから、自分の後を継いでほしいと思っていること。
それらを言われてため息が出た。
気持ちは嬉しい。
孤児の真弥がだれにも後ろ指を指されずに生きてこられたのは、すべてこの人のおかげだ。
それは感謝している。
できることなら、なんでもやって、その恩に報いたいとも思っている。
でも。
『すみません。それだけはできません』
『真弥』
『由希のことは好きです。妹として。幼なじみとして。でも、それだけです。すみません。ぼくの願いは独り立ちすることです。許してください。近いうちに準備が整い次第ここを出ていきます。お世話になりました』
一気に言って背を向けようとすると呼び止められた。
『これだけは答えてほしい。だれか想う人でもいるのかね? 由希以外に大切なだれかがいるのかね? そうでないなら』
『大切な人』
『わかった。そういうことなら、この話は終わりにしよう。由希の話を断ったからといって、別に出ていく必要はないよ? わたしは真弥も大事な息子だと思っているのだから』
『すみません』
それだけを言って部屋に戻った。
想う人がいるのかと問われたとき、大切な人がいるのかと問われたとき、脳裏に浮かんだのは瑠璃だった。
瑠璃の無邪気な笑顔が脳裏に浮かんで戸惑った。
そうしたら「もういい」と諦めてくれたのだ。
由希にはすまないと思う。
でも、これが本心だから。
愛してもいないのに、由希を妻には迎えられない。
(でも……)
まだふしぎそうな顔をしている瑠璃を盗み見る。
いつもと同じ少年の装い。
おそらく髪の色は染め粉で変えているのだろう。
でなければ睫毛が黒なのに髪が亜麻色なのは変だ。
日に焼けたことなどないような、透き通るような白い肌。
どこからみても女の子だ。
見抜かれていることは、おそらく瑠璃は気づいていないだろう。
瑠璃はあまりに世間知らずだ。
偽ることは簡単。
気づいていないフリをすれば瑠璃はそれを信じる。
疑うことすら知らないように。
でも、このままの関係が続いても、結局お互いなにも言っていないのと変わらない。
瑠璃が素性を言えない理由は一応聞いたが。
あれは二度目に逢ったときの出来事だった。
まだぎこちない態度で会話して、そうして別れるとき、前に決意したように瑠璃を送っていくと言ったのだ。
そうしたら瑠璃は慌てて断ってきた。
日暮れが近いというのに、ひとりで帰ると言い張った。
ムッとして言い争いに近い状態になった。
そうしたら瑠璃は泣いてしまったのだ。
泣いて泣いて手がつけられなかった。
あのときは本心から途方に暮れた。
泣いている瑠璃の方が途方に暮れているようで、なんだか彼女を苛めて責めた気がしたものだ。
そのときに瑠璃は初めて素性に関することを口に出した。
いささか信じられない内容だったが。
『ごめんなさい。できないの』
『え?』
『家から出たことがないというのは本当よ……だよ。ぼくは外へは出られない』
『どうして?』
『そこにいることだけを必要とされているから。きれいに着飾った小鳥に意志はいらないから。操りにくくなるから外へは出してもらえない』
泣きながらそう言われ、正直驚いた。
それではまるで囚われ人だ。
自分の意志を無視されて、自我さえ持てないように注意され、些細な自由もない。
どうして瑠璃がこれほど世間知らずなのか、疑うことさえ知らないほど無垢なのか、その理由を知った気がした。
知ることができないように細心の注意が払われた籠の鳥。
まさに瑠璃はそうだったのだ。
彼女の涙はとてもきれいで、嘘や言い逃れではないと、すぐにわかった。
泣き出してしまったのも、本当のことを言っているのも、瑠璃には嘘は言えないから。
ごまかすこともできないから。
そんなことすら彼女は知らない。
知ることがないように育てられたから。
無性に腹が立った。
その者たちは彼女の涙を知らないのだろうか?
どれほど傷つけているか、知ろうともしないのだろうか?
それともそんなことすら気遣ってもらえないのだろうか。
人形に意志はいらない?
あまりにも理不尽な気がした。
『そんなにいやなところなら、ぼくとくる?』
気がついたらそう言っていた。
瑠璃はびっくりして見上げてきて、涙も止まっていたけど。
とっさに出た言葉だったけど本心だった。
彼女がこんなふうに泣く姿はみたくない。
救い出したい。
なんの根拠も理由もなく、そう思い込んでいた。
『きみひとりくらいなら、なんとかなるよ。仕事をすこし増やせばいいんだし。そんなに泣くようなら、ぼくとくる?』
このとき、本当は断られるか、それとも受けてくれるのか、それすらも自信はなかった。
言ってはみたものの返事を恐れたほどである。
逢うのは2回目。
知り合いと言えるほど付き合ってもいない。
それで信じてもらえるとは思えなかったし。
でも、瑠璃の返答はまた予想外のものだった。
もう一度泣き出して謝ってきたのだ。
できない、と。
『どうして? いやなんだろう? いやじゃなければ、そんなに泣かないよね? ぼくに遠慮してるのなら』
『……違う』
『え?』
『どんなにいやでも逃げられない。逃げてはいけないの』
本当は逃げたいと、その泣き顔が言っていた。
それなのに逃げられないというのだ。
瑠璃の言うことは、ふしぎなことだらけだった。
『自分を殺してもやり遂げなくてはならない義務がある。……心が必要ないのは、わたしの方かもしれない』
痛々しい眼をしてそう言われ、思わずカッとなった。
まるで悲しみも苦しみも感じる心がなければ、自分の不遇さには気づかない。
その方がよかったのだと、そう言われたような気がして。
だから怒ろうとして、すぐにやめてしまった。
そう呟く瑠璃の瞳の方が傷ついていて虚ろだったから。
心があれば傷ついてしまう。
それはそうだろう。
自分の境遇を正しく理解できる知識と、それが招く現状の意味を知り考える心があれば、人は傷つく。
そんな扱いを受けて、傷つかない人間なんていない。
だから、本当に逃げられないのなら、心がいらないのは周囲の思惑のせいではなく、自分のためだという。
その気持ちはよくわかった。
知らなければ焦がれない。悲しまない。
そういうことだ。
それでも瑠璃はここにいる。
その意味を忘れないでほしかった。
どんなに辛い境遇でも、心を捨てたらもう人とは言えないから。
ただ一言だけ知りたかった。
たったひとつの偽りのない彼女の本心を。
『そんな境遇ですべてわかっていて、そこにいるのは辛くないの、きみは?』
『辛い。すごく辛い』
心をすべて吐き出すようにそう言って、瑠璃はポロポロと泣き出した。
それまでの涙よりもっと大きな涙で。
悲しみは止まることを知らなくて、それでも逃げられない枷があるという少女。
どうすることもできなくて抱き締めていた。
最初は驚いたらしくて、腕の中で硬直したのを感じたけど、背中に腕を回し片手で髪を撫でると、すぐに声を殺して泣きはじめた。
たぶん今まで堪えてきた涙なのだろう。
あのときに簡単には連れ出せないと、軽い気持ちでは救ってやれないと思い知らされた。
だから、あれ以来、素性に関することは問わないようにしている。
問えば彼女を追い詰めるから。
でも、今のままではお互いガラス越しに相手をみているようなものだ。
どちらも本当の自分をみせていない。
もし性別を偽っていることを知っていると打ち明けたらどうなるだろう。
瑠璃はすこしでも本当の自分をみせてくれるだろうか。
彼女がすべてを伏せたままでは、こちらもなにも言えない。
まして昨日のような問題を同性だと主張する瑠璃に話すのは変だ。
同性として友人として話すのならともかく、真弥が由希との縁談を断った原因は瑠璃なのだから。
その瑠璃に他人事のように話すのは、どう考えてもできない。
どうして断ったのかとか、断った理由は? とか訊かれても、瑠璃が偽っているかぎり、なにも言えないからだ。