第五章 時を超える想い

 警護の者たちは瑠璃が奪われそうになれば、いよいよ危ないとして独断で処刑を実行するかもしれない。

 少なくとも過去の事例ではそうだった。

 このような事態が引き起こされ、巫女の夫となった者が、真弥のような行動に出た場合、巫女を奪われそうになると大抵殺しているのだ。

 そのとき独断で殺すことが許される。

 瑠璃の力が失われず、真弥との関係によって、よりいっそう磨かれたのだとすれば、それは真弥の資質によるものかもしれない。

 彼の心は汚れを知らない。

 純粋で無垢な心を持つ唯一の人間だ。

 そんな人間なら巫女の障害とならずに契りも結べるのかもしれない。

 一言報告されていたら、瑠璃の力が失われず、真弥との関係が相乗効果を生むなら、ふたりの関係は認められたはずだ。

 それはもちろんふたりが望んだように、普通の生活は送れなかっただろうが、巫女が直接母親になれるなら、生まれてくる子供にも、その力が受け継がれている可能性が高い。

 その子はそのまま巫女の後継者になれるのだ。

 だから、例外中の例外として、真弥は瑠璃の夫として認められ、神殿への居住も許されたはず。

 しかしながら村長にはわかっていた。

 例え認められたとしても、そんな生活はふたりの望むものではない、と。

 瑠璃も真弥も驚くほど無欲だ。

 どれほどの権力を与え富を与えても無意味。

 ふたりにとっての幸せは、ごく普通の生活なのだろうから。

 だから、隠していた。

 いずれはふたりで逃げ出すつもりだったに違いない。

 それができなかったのも、また巫女の力故、か。

 あまりに強すぎる巫女の聖なる力。

 恐ろしい。

 それまでの力でも十分すぎるほど驚異だったのに、今の力の増している瑠璃が、万が一手違いで処刑されたら、絶対に部落は滅ぶ。

 なんとか間に合ってくれと、祈るような気持ちで走りつづけた。




「真弥。どうしておまえが? おまえが人を殺すなんてあり得ない!!」

 太刀を中段に構えながらも勇人が信じられないと叫ぶ。

 友の叫びに苦い気持ちになりながら、真弥はできるだけ冷たい声で答えた。

「言ったはずだよ、勇人。そのときになれば、ぼくが部落を出ていかなければならないのは何故なのか、きみにもわかるはずだって」

「まさかおまえ……」

 青ざめた顔色で勇人が何度もかぶりを振る。

 今この神殿で1番価値があり、なお命懸けでそれまでの価値観をかなぐり捨てても、助けたいほど危険な位置にいる人がいるとしたら、それはひとりだけだ。

 処刑の決定された元、巫女。

 巫女の罪状は最も重いもので夫を迎えることである。

 それ以外では処刑されないのだ。

 尊ぶべき方なので。

 その巫女が処刑される。

 それは巫女が夫を迎えた証。

 妻の危地を悟ったなら、男ならなんとしてでも助け出したいだろう。

 意に添わぬことを実行してでも。

 ましてや戦うことを生業とする者なら、だれの手も借りず自分ひとりの手で助け出そうとしただろう。

 今の真弥のように。

 厄介な相手に惚れたらしいとは思っていたが、まさか巫女だとは思わなかった。

 これではどんな言い逃れもできない。

 剣戟の音が絶え間なく響き、だれも立ち入れないほど凄まじい斬り合いの最中に、勇人は触れるほど目の前にある真弥の顔にやりきれない目を向けていた。

 交差した剣がギリギリと音を立てる。

「どうして言ってくれなかったんだ、真弥? 言ってくれたらおれだってなにかの役に立てたかもしれないのに。そうしたらおまえと殺し合うこともなかったのにっ」

 例え天に背こうとも真弥の味方をしたのだと、勇人の真摯な瞳は言っていた。

 だからこそ、真弥は言わねばならなかった。

 偽りのない本心を。

「巫女が相手なんだよ? きみの好意はわかってた。だからこそ甘えられなかったんだよ、勇人」

「水くさいことを言うなっ!!」

 憤る声に真弥は苦い顔になる。

 何度かの交差のときに勇人に告げた。

「きみなら自分の個人的な問題で、大切な幼馴染みを殺せるのかい、勇人?」

 真弥の瞳は言っていた。

 部落が捨てる覚悟をしている自分たちはいい。

 だが、そのために勇人を巻き込んで、彼まで部落を追われることになったり、もしくは殺されることになったりしたら、真弥は自分を許せない。

 だから、言えなかったのだ。

 勇人の友情に偽りがないことも、真弥のためなら危険を犯すことも知っていたから。

「巫女が力を失ったら同じことだろう?」

 冷たい声に真弥はすれ違い様に呟いた。

「瑠璃は力を失ってなんていないよ」

「なっ」

 振り向いた勇人が絶句している。

「彼女の力は失われてはいない。それどころか、ぼくはあれほどの力を持った巫女なんて知らない。だれも比較にならない力だ」

「……」

「わかるだろう? だから、ぼくは瑠璃を助けるんだ。それが部落を救うことにもなるから。もし瑠璃が処刑されたら……」

 この部落は滅びると真弥の黒い瞳が告げる。

 お互いに迷いがあったのか、何度も斬り結びながらも、どちらも傷を負っていなかった勇人は、この言葉を聞いて覚悟を決めた。

 真弥の隣に並び剣の切っ先の向きを変える。

「勇人?」

「この場は引き受けた。おまえはおまえを待っている女性の下へ急げ」

「っ!!」

 彼を信じていた兵士たちが息を飲むのが見える。

「でも」

「迷っている場合かっ。巫女殿が、いや、おまえの奥方が殺されたら、一体どうなるか、おまえが1番よくわかってるんだろうっ!?」

 どのみち危険を犯さずに危地を乗り越えることはできない。

 勇人には真弥に手を貸すことが最善の方法だと思えたのである。

 巫女が殺されれば滅ぶのなら、真弥と共に逃がした方がまだ危険は少ない。

 真弥はあんな嘘は言わない。

 だから、協力する気になったのだ。

 これがその場凌ぎの言い訳ではないと、真弥との付き合いの長い勇人にはわかるから。

 ここで下手に真弥の行動の邪魔をして、結果的に巫女が殺されたら、部落そのものが滅ぶのだ。

 真弥ひとりではできないことも、勇人が協力すれば叶うかもしれないから。

 部落が滅びて自分も死ぬくらいなら、真弥に協力して逃亡した方がマシだ。

 勇人にはそう思えたのである。

「どっちみち巫女殿が殺されれば、すべて終わるんだ。それくらいならおまえたちに協力し、部落を追われるくらい大したことじゃない。すべての死よりマシだ」

 裏切り者と斬りかかってくる兵士たちと戦いながら、そう囁いてきた勇人に真弥は小さな声で答えた。

「ありがとう。それから……ごめん、勇人」

 それだけを言って兵士のあいだをすり抜けた。

 その背に勇人は無言で激励を送る。

 どうかすべてがいい方に向かうようにと。

 すべての死か、巫女の逃亡か。

 でも、今になって思う。

 巫女に辛い思いばかりを強いてきた結果が、これではないのかと。

 だから……。

「裏切り者と呼ばれてもいい。すべての人々を救うために、おれは真弥に味方する」

 雄叫びをあげて斬りかかってきた勇人に、もはや兵たちはどうすることもできずに右往左往していた。

 いつものように祈りを捧げていた瑠璃は、ふとその顔をあげた。

「騒がしいのね。どうかしたの?」

 彼女の傍にただひとり残された年若い兵士が、上から聞こえる阿鼻叫喚に耳を傾けながら答えた。

「襲撃者のようです」

「襲撃者?」

 怪訝そうに言えば怯えたような声が聞こえてきた。

「落ちこぼれ剣士なんてとんでもないっ。まるで鬼神のごとき強さだ。恐ろしい」

(落ちこぼれ剣士?)

 眉が寄る。

 そう呼ばれながらも、兵士たちを恐れさせるほどの腕の持ち主なんて、瑠璃はひとりしか知らない。

 愛しい夫、真弥以外には。

 真弥はたしかに落ちこぼれ剣士と揶揄されていたが、その実力は最高峰で天才の呼び名も欲しいままにしていた。

 ただ絶対に本気にならないだけで。

(真弥がきている? わたしを助けに?)

 そう思うだけで胸が熱くなった。

 きてくれただけでいいから、人を傷つけることをあれほどきらっていた真弥が、人を殺すことも自分が傷付くことも厭わずにいる。

 それだけでなにもかも報われたから、どうか逃げてほしいと祈る。

 目を閉じてたたひたすらに。

 祈る。

 願う。

 真弥の無事を。

 彼が諦めてここから逃げて部落からも離れてくれることを。

 愛する人が生きている。

 それ以上に幸せなことなど、この世には存在しないのだから。

 真弥が聞けば勝手だと怒るだろうか。

 死ぬならふたり一緒だと。

 そうしてひとり祈りを捧げる瑠璃を少年剣士が見詰めている。

 自分とそう変わらない年頃ではないか。

 恋をしたからといって何故殺されなければならないのか?

 お偉方の考えることはよくわからない。

 ひとり残されるときに、もし侵入者の目的が巫女で、奪われそうになったら殺せと命じられた剣士は、やりきれないため息をついた。




 乱れそうになる呼吸を無理に整える。

 階段を数段飛ばしで駆け降りていくあいだも生きた心地がしなかった。

 諦めるときが死ぬときだ。

 彼女を諦めるくらいなら共に死ぬ。

 その決意を瑠璃に伝えたい。

 そうして明かりが漏れてくるのが見えて、最後の階段を飛び降りたとき、鉄格子の向こうに呆然としている瑠璃の顔が見えた。

「瑠璃」

「真弥!? 何故きたのっ!? あなたまで殺されてしまうわっ!!」

「違うよ、瑠璃。ぼくの望みはきみと共にあることだよ。例えそれが……死であったとしても」

 言いながら震えている少年に剣を突きつけたまま真弥が命じた。

「開けてもらおうか? ぼくの妻は返してもらうよ。変な真似はしないことだ。そのときはきみを殺してから瑠璃を救い出すからね」

 間近に見るのは初めてだったが、真弥の優しい人柄は聞いていた。

 噂が嘘のような冷酷な瞳。

 すこしでも変な動きをすれば殺されるだろう。

 だれかを愛すということは、これほどまでに人を変えるのだろうか。

 震える手で瑠璃を解放するあいだも不思議な気分だった。

 人と人との結び付き。

 それがすべてを変える。

 それが人間の営み。

 なのにそれが許されない人もいる。

 可哀想だ。

 そう思った。

 巫女の逃亡を黙って見ていたとなれば、どのみち殺されるのだから、真弥を隙をつくしかないのだとわかっていたから。

 でも、それで巫女を殺せても、この天才剣士の相手が自分にできるだろうか。

 どちらにしても殺されるのではないだろうか。

 震える手がもどかしい。

 それでも真弥は剣を取り上げようとはしない。

 危険性を忘れているのだろうか。

 そうして音を立てて鍵が外れ、瑠璃が飛び出した。

 愛しい夫の胸の中に。

「真弥っ」

「瑠璃!!」

 おそらく本能的な動きなのだろう。

 愛する女性にだけ真弥の視線が注がれ、一瞬の隙ができた。

 真弥はつい瑠璃を受け止めるために、両腕を広げてしまったのである。

 ハッと我に返る。

 そのときには……。

「お許しください、巫女さまっ!!」

 悲鳴のような声がして太刀が振り下ろされた。

「瑠璃!!」

「真……弥……」

 伸びた手が真弥に届く前に落ちる。

 斬られた背から血飛沫が飛んだ。

 瑠璃を斬るのとほぼ同時に真弥によって斬られた少年は、薄れゆく意識の中で真弥が瑠璃を抱き止め、狂ったように名を呼ぶ姿を見ていた。

 自分が招いた悲劇と己の末路。

 すべてが終わるのだと噛み締めながら、何故それでも殺したんだろう。

 終末の予感を感じていたくせに。

 殺せば終わるのだとわかっていたのに……。

 人の愚かさを神が笑うのか。

 愛しい巫女を殺されて。

 地が鳴動する。

 崩れていく神殿を最後に目を閉じた。

「瑠璃? ぼくの声が聞こえているかい?」

 何度名を呼んでも、もう瑠璃は目を開かない。

 最後に一度瞳を開いたときは、真弥を見て嬉しそうに幸せそうに微笑んでいた。

 真弥の腕の中で死ねるのが、最高の幸せだと訴えるように。

「きみはひどいよ。ぼくをおいて逝くなんて……ぼくをひとりにするなんて……」

 こんなにむごいことが他にあるのかと、真弥はただ泣いていた。

 愛しい女性の亡骸を腕に抱いて。

 パラパラと音を立てて神殿が崩れていく。

 異変が起きているのは神殿だけではないだろう。

 どのくらいの範囲が道連れとなるのかは知らないが、この変動は広範囲の土地を襲っているはずだった。

 ありとあらゆる天災が起きる。

 地に恵みを与え、天へと祈る愛し子を殺された大自然の、そして神の怒りに触れて。

 ふたりが出逢って、そうして引き裂かれた故郷。

 その最後を瑠璃に見せてやりたかった。

 ふたりでそのときを迎える。

 真弥はもう崩れさる神殿から逃げる意思もなかった。

 ただ歩く。

 部落のすべてが見下ろせる頂上を目指して。

 その遥か高見から滅びゆく部落を眺め、そうしてそのときを迎える。

 それが真弥の望んだ最期だった。

 不思議なことに瑠璃を抱いて歩く真弥の周囲では異変は起きない。

 まるで護られているように。

 ひび割れた廊下を歩いて外に出た。

 遠く見渡せる故郷は今唐突な終わりの時を迎えていた。

「瑠璃。見えるかい? きみが護ってきたすべてのものが滅びていくよ」

 地割れに飲み込まれていく人々。

 逃げ惑い神に救いを求めている。

 愚かだと思った。

「約束するよ、瑠璃。何度生まれ変わっても、ぼくはきみを捜す。そうして今生では果たせなかった夢を果たすから。何度死んでもぼくらは生まれ変わって出逢うから」

 呟いて誓って、そうして真弥は声を殺して泣いた。

 腕の中に愛しい女性を抱いて。




 すべてを望み望みすぎた人々は、小さな犠牲で大きな利益を得ようとする。

 けれど、それは望んではいけない幸せの形。

 だれかの犠牲の上に成り立った幸せは、いつかその犠牲の重さの分だけ報いを受ける。

 そうして幾つもの文明が滅び去っていった。

 これはその中のひとつの挿話。

 ひとつの小さな恋は歴史の中に生まれ、そうして儚い泡のように消えていった。

 幸せになることを許されないままに……。
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