第五章 時を超える想い

 それまでの生活とはまるで無縁な冷たい石牢の中で、瑠璃はじっと姿勢を正し祈りを捧げていた。

 巫女を殺すことは禁忌。

 それは力ある巫女を指していて、別段巫女の力を失くした者は含まれていない。

 力ある巫女を殺すことが禁忌とされているのだ。

 力ある巫女を殺せば、その力の強さの分だけ殺した者に、その部落に災いが起こる。

 だからこそ、どの部落も力ある巫女や神官は生け捕りにして、自分たちの部落の守護をさせようとする。

 殺せないなら、それしか方法がないからだ。

 背かれれば災いが起きると知っているから。

 瑠璃はあの後すぐに村長配下の者に連行され、牢獄に閉じ込められた。

 それまでの豊かな生活からは考えられない場所へ。

 それもみな承知のこと。

 静かに受け入れ抵抗すらしない瑠璃に兵士たちは戸惑ったようだった。

 巫女としての凛とした気高さを失わない瑠璃に感服した者もいる。

 瑠璃は自らの運命を受け入れていて、別に抵抗する気も逃げ出す気もなかった。

  ただ静かにその時を待っている。

 村長が兵士を連れて現れたときも、捕らえる旨を告げられたときも、瑠璃は全く驚いた様子がなく、ただ静かに頷いただけだった。

 これには兵士だけでなく、村長も驚いていたが。

 力が失われているなら、自分の運命などわからないはずで、こうして捕らえられる段階になったら、多少なりとも取り乱すのが普通である。

 だが、瑠璃は当たり前のこととして受け入れていたのだ。

 村長には腑に落ちない態度だった。

 まるでこうなることがわかっていたような潔い態度だったのである。

 それだけではなく瑠璃の身の回りの物が、すべて整理整頓されていた。

 まるでこれから死地へと旅立つ者が身支度を整えるときのように。

 すべての物を粗方処分していて、まるで捕らえにくるのを待っていたような印象も受けた。

 あのときから村長は、どこか腑に落ちない気分で、瑠璃の処刑について悩んでいた。

 本人が否定しないどころか、肯定しているのでは処刑はやむを得ない。

 だが、瑠璃の態度やことが起こった前後のことを考えると、どうしても瑠璃が巫女の力を喪失したようには見えなくて判断を下せずにいた。

 まして捕らえられてからも全く取り乱さず、動揺すら見せずにただひたすらに祈りを捧げているのである。

 瑠璃の態度は村長の理解を超えていた。

 巫女の力を失った者として見るならば。

 だが、巫女として見るなら特に不思議のない態度でもあるのだ。

 巫女なら慌てるはずがない。

 自らを襲う運命など、だれよりも早くわかるだろうから。

 瑠璃はなにも言わない。

 ただ祈りを捧げているだけだ。

 そんな彼女に村長はやりきれない思いで問いかける。

「あなたほど聡明な方が、何故禁忌を犯されたのです、巫女殿?」

 迷いの晴れない目で、いつものように現れた村長にそう訊かれ、瑠璃が多少うんざりしたように振り向いた。

「またその問いなの? 何度も答えたはずよ。わたしも普通の女の子なのよ。不思議なことではないでしょう? それにわたしはもう巫女ではないわ。ここに閉じ込められたときから。そうでしょう、村長?」

 静かな、静かな声。

 まるで悟りの境地にいるような神のごとき声音。

 憎しみも悲しみもすべて洗い流されたような、神々しいほど清々しい表情が村長は怖かった。

 もし彼女の力が失われていなかったら?

 瑠璃ほどの力を持った巫女を殺したら、この部落くらいは簡単に滅びるだろう。

「では相手の名を教えていただきたい。お話がすべて事実ならば、あなたの夫となった者がいるはずです」

「教える気はないわ」

 あっさりとした拒絶に村長は「巫女殿っ」と声を荒らげた。

「彼はもうこの部落にはいないわ。旅の途中に立ち寄っただけだと言っていたから」

「ならば名前くらいは言えるはずでしょう」

「知らないわ。行きずりだもの」

 瑠璃は頑として譲らない。

 相手の名も素性も知らないと。

 村長には庇っているようにしか思えなかった。

 仮に瑠璃の主張通り巫女もひとりの少女だとしよう。

 だが、瑠璃はまだ年若い少女とは思えないほど聡明な巫女だ。

 幼い美貌には不似合いなほどに大人びた叡知を秘めた少女。

 その瑠璃がそんないい加減な恋をするとは、どうしても思えなかった。

 部落と引き換えにするほどの激しい恋。

 命懸けの恋をするなら、それに相応しい相手であるはずだ。

 もしくはそんな相手など最初から存在していないか。

 どちらかだ。

 村長は瑠璃を正当に評価していたから、彼女がそんな浮わついた恋で部落を引き換えにするような行動に出るとは、どうしても思えなかったのである。

 だが、これ以上問い詰めても、瑠璃はなにも言わないだろうと思えた。

 彼女はもう覚悟を決めてしまっている。

 死を受け入れて覚悟した者になにを言っても無駄だ。

「ではこれだけは答えてください。真実で。あなたは本当に巫女としての力のほとんどを失われてしまったのですか?」

 この問いにも瑠璃は表情を変えなかった。

 ただ静かな眼差しでこう訊いただけで。

「……由希がそう言ったの?」

「あなたからそう聞いたと。本当なのですか?」

 そのとき、瑠璃がため息をついたように見えたのは、村長の錯覚なのだろうか。

「彼女がそう言ったのなら、そうなのでしょう。これ以上なにも答えることはないわ。そうっとしておいてちょうだい。村長。祈りの邪魔をしないで」

 なんのために祈るのか、瑠璃はなにも言わず、また壁を向いて手を合わせ、目を閉じてしまった。

 これ以上居ても無駄かと、村長は諦めて立ち上がった。

 どうしても気になる。

 瑠璃は本当に力を失っているのだろうか。

 本当に夫を迎えたのだろうか。

 今はその真偽を確かめる術もない。

 そうだと言われれば信じるしかないのだ。

 では、由希が嘘を言ったとしたら?

 由希と瑠璃のあいだで諍いがあって、由希が瑠璃を陥れようとしているとしたら?

 彼女の性格では不思議はない気がした。

  立ち去りかけて、さりげなく村長は訊いてみた。

「あなたは本当に夫を迎えられたのですか、巫女殿? 単なるあなたと由希の諍いではないのですか?」

 すべてが由希の出任せではないのかと問いかける声に、瑠璃がふっと振り向いた。

「いいえ。わたしには夫がいます。それは単なる事実だわ、村長。もし由希とケンカをしていて、彼女がそういった嘘を言ったのなら、幾らわたしだって素直に従うわけがないでしょう。友人とのケンカに生命まで賭けはしないわ」

 瑠璃の口調には嘘がなかった。

 村長は苦々しい顔で立ち去るしかなく、彼がいなくなってから、瑠璃はため息をつくと心の中で付け足した。

 そう。

 友達とのケンカなんかに生命を賭けたりしない。

 でも、友情を証明するためなら、恋と友情を秤にかけないためなら、わたしは生命を賭けるわ。

 真弥への愛情。

 由希への友情。

 そのどちらもが瑠璃にとって重い。

 だからこそ、由希を見捨てて本当に裏切ることはできなかった。

 それでは彼女の感想通り自分たちは由希の友情を利用したことになるから。

 命懸けにもなる。

 その結果がどうなろうとも。

 けれどどうか真弥だけは護ってほしい。

 この生命が失われることで、どんな災厄が起こっても、真弥だけは助けてほしい。

 彼は瑠璃の魂だから。

 それだけを天に祈りつづけた。




 夕刻が近づいている。

 冬が近づいている今、夜の訪れは早い。

 暮れていく時間もずっと早くなっている。

 木立の影から神殿を見上げつつ、真弥は苦々しい顔をしていた。

 想像していた以上に警備がきつい。

 どこからどう探っても侵入できそうなところがなかった。

 巫女を戴くことが長かったせいで、こういった事態にも慣れているのか、蟻の入る隙もない警備だ。

 いつも通り帰っていく村長の顔色は冴えない。

 それは部落を守護する巫女を失うからなのか、それとも違う理由からなのかは、真弥にはわからない。

 一度は瑠璃との恋は諦めて、彼女の力が失われていないことを村長に告げようかとも思った真弥だったが、瑠璃の決意を思うとそれもできなかった。

 彼女は真弥も由希も選べなかった。

 そのために生命を賭けた。

 ここで彼女の生命を救うために真弥が事実を打ち明け、自分こそが瑠璃の夫だと打ち明けて、もし殺されたり、軽くて部落を追放された場合、瑠璃が後を追いそうで怖かった。

 死ならば諸共。

 その覚悟は瑠璃も同じだと思えたから。

 何故だろう。

 共に過ごした時は短い。

 儚い一瞬の錯覚のような日々だったのに、瑠璃の面影は鮮やかに心に刻まれて、彼女がなにを考えているか、どうしてそうするのか、真弥には手に取るようにわかった。

 だから、真弥が殺されなくても、この部落から追放されたら、おそらく逃げ出せない瑠璃は生命を絶つだろう。

 そう……わかる。

 だったら万にひとつの可能性に賭けて、共に生きられる未来を夢見たい。

 それがダメなら死ぬときは、ふたり一緒だと決めた。

 由希にそう告げたときの決意のままに。

 ただ悔やまれるのは彼女の決意を見抜いて止められなかったことだ。

 巫女の力に触れなかったことが、真弥の最大の誤算だった。

 瑠璃のこの行動には巫女の力が絡んでいると、今ならわかるから。

 由希の辛さを無視して自分だけ幸せになるには、なにもかもわかってしまう瑠璃の力が邪魔だったのだ。

 そのことに気付いていれば、彼女が行動を起こす前に奪うこともできたのに。

 それを思うと凄く悔しかった。

 普通の少女として扱うことが、瑠璃を救うと思って、真弥はそのことばかり意識しすぎたのだ。

 瑠璃自身にとってはそれが救いでも、巫女の力は現実。

 それが招く未来も踏まえて動くべきだった。

 今更考えたところで結果は変えられないが。

 完全に陽が落ちて夜が訪れると、神殿の篝火に照らされた森は一気に静寂を増した。

 襲撃するなら夜がいいかと思ったこともあるが、こうして見ると却って不都合が多いことがわかる。

 真弥には光源がないが、神殿を守る兵士たちには篝火という確かな灯火があるのだ。

 向こうは真弥を見付けやすいが、真弥は姿を隠せば身動きが取れず、姿を現せば格好の的になる。

 そう悟らざるを得なかった。

 篝火は襲撃に備えた位置にあって、守護する者には有利でも、襲撃する方には圧倒的に不利になるように配置されている。

 位置を見るだけでわかるのだ。

 どこから攻撃を仕掛けても、おそらく真弥にはろくに周囲が見えなくて、迎え撃つ兵士にははっきりと真弥が見えるだろうということが。

「夜は逆効果、か」

 ひっそりと呟いて踵を返した。

 今夜のところはここまでだ。

 村長が帰った以上処刑は行われない。

 処刑は村長の立ち会いがないとできないからだ。

 つまり明日村長が神殿を訪れるまでの生命は保証されたことになる。

 その繰り返しで1週間だ。

 早く助け出したい。

 方法を探り、瑠璃の居所を探すだけで、無為に過ぎていった日々。

 残された時間が短くなるほど心が焦る。

 だが、どこから探っても隙はない。

 つまりどう攻めても結果は同じということだ。

 なら。

「正面突破しかないな。どこから攻めても同じなら、力ずくで正面を突破するまで」

 低く呟いた。

 できれば早朝がいい。

 人々が交代する時間帯を狙えば、その分、隙が生じる。

 それに夕刻の交代と違って、早朝は気が緩む傾向にある。

 何故かというと夜を越えたからだ。

 朝になれば人間の心理としてホッとするものだ。

 それが交代の時刻なら尚更。

 最大の油断、だ。

 だが、その頃には村長がやってきて機会を得られない。

 しかし最悪の場合、時間帯なんて気にしている余裕なんてないだろう。

 村長が離れたときが最大の機会だから、それが夜以外ならやるしかない。

「離れている時間が辛いよ、瑠璃」

 ささやきが閉じ込められている彼女の元まで届けばいいとそう思う。

 あれからだれとも連絡を取らず、ほとんど接触も持たない真弥は、由希の父が用意してくれた家も出て、適当に見付けた狩猟小屋で過ごしていた。

 ずいぶん前に捨てられたのか、この部落で生まれ育った真弥も知らなかった。

 それを利用するようになったのも1週間前からだ。

 今はだれとも逢いたくない。

 そう思って歩を進めようとしてギクッとした。

 どうやって知ったのか、狩猟小屋の前に由希が立っていた。

 思い詰めた顔色で。

 握り締めた両手が震えている。

 だが、声をかけるつもりにはなれなかった。

 彼女の傍を通り抜け、中に消えようとしたとき声が届いた。

「瑠璃さまはたぶん神殿で1番警備の厳しいところにいるわ」

 驚いて振り向いたが、やはり声は出なかった。

 これからもし生き延びたとしても、彼女のしたことを許せる日はこないだろうから。

「極秘部屋の牢獄がどこにあるのか、あたしも知らないわ。でも、予測はできる。瑠璃さまが監禁されている場所は、兵士たちが絶対に行かせまいとするところ。神殿で1番警備の厳しいところよ。神殿は……そういうところなの」

 俯いた由希がそう言った。

 それは歴代の巫女が君主とは名ばかりで、実は囚われ人だったことを告げる言の葉なのか、真弥にはわからなかった。

 ただそれだけを告げてなにも言わず、踵を返した由希に声を投げた。

 たった一言、本心からの言葉を。

「ありがとう」

 告げた後はそのまま休もうと中に入った。

 信じられないと振り返った由希は見ないまま。

(あたしは……もう赦されないって、二度と声もかけてもらえないって思っていたのに)

 なのに真弥は言うのだ。

 ありがとう、と。

 だから、瑠璃なのだろうと、今なら素直にそう思えた。

 涙が頬を伝っていく。

 今更どうにもならない過ちを繕う術もないのだと噛み締めながら。




「いい加減に同じ質問を繰り返すのはやめて、村長。同じ言葉を答えるのは、もう飽きてしまったわ」

 うんざりとそう漏らす瑠璃に村長は苦い顔を向けている。

 問いかけているのは力の有無についてである。

 村長にとっては大事なことなのだ。

 だが、瑠璃の返事はいつも同じ。

「由希がそう言ったのなら、そうなのでしょう」……と。

 それは肯定のようでいて否定のようでもあった。

 何故なら真偽のほどを由希の証言に任せているからだ。

 瑠璃自身がそれを認めたわけではない。

 が、そこを指摘しても返ってくる答えは同じ。

「由希は嘘は言わないわ。彼女はわたしが言った通りに、あなたに報告しただけよ」……と、にべもなく言い切る。

 どこまでいっても瑠璃自身の確言は貰えなかった。

「巫女殿。どうして力の有無に拘っているか、聡明なあなたにおわかりにならないか? もしあなたが力を失っていなければ、この部落がどうなるか」

「そんなこと、わたしが知っているわけがないでしょう」

「巫女殿っ」

 責任逃れに聞こえて村長が怒鳴ったが、瑠璃はまたあっさりと言ってのけた。

「わたしはもう巫女ではないわ。ひとりの妻よ。そんなことを知る術はないわ。それはあなたが1番よく知っているでしょう? わたしを捕らえ、ここに連れてきたのはあなただもの。そうではなくて?」

 巫女ではなくひとりの人妻として瑠璃を扱ったのは、自分自身だと指摘され村長は絶句した。

 そうして気付く。

 彼女はどこまでも名言を避けている。

 力の有無については由希の証言についてだけ口にして、自分ではなんとも言っていない。

 失ったとも失っていないとも。

 巫女の地位についても同じだ。

 そこから引き摺りおろし、捕らえたのは村長だと指摘しているだけで、力がないから巫女は名乗れないと宣言したわけではない。

 由希の証言を信じてそうしたのだろうと、遠回しに暗示されているだけだ。

 これはどういうことだろう?

 裏返せば由希が前言撤回をすれば、瑠璃は力を失ってなどおらず、今も巫女としての力を保持していることにならないか?

 だが、もしそうなら殺される覚悟をするほど、由希に義理立てするのは何故なのか?

 確かめなければならない。

 由希に。

 本当のことを。
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