第四章 破滅への予兆

 破滅の足音が聞こえる。

 途切れることなく、でも、しっかりと聞こえてくる。

 悲劇の幕を開けるのは常に人の愚かな嫉妬や羨望なのかもしれない。

 だれが悪いわけでもない。

 ただわたしにはこうする以外に術がなかった。

 心は決まった。

 真弥も裏切れない。

 でも、友達としての由希も裏切れない。

 わたしは何故ここにいるのだろう。

 失われるべき力。

 忌まわしき楔。

 それでもわたしは最期まで誇りを持って生きるでしょう。

 誇りを持ってそのときを迎えるでしょう。

 祈りよ、どうか天に届いて。

 わたしの最期の望みを聞き届けて。

 どうか……あの人を護ってほしい。

 それだけがわたしの生命を懸けた願いなのだから。




 真弥と愛し合って夫婦となってから、彼とは何度となく逢っていた。

 彼との逢瀬の時間はとても満ち足りていて幸福だった。

 結ばれる度にささやかれる愛の告白が嬉しかった。

 そうして結ばれる回数が増えるほど瑠璃は力が増してくるのを感じていた。

 もしかしたら瑠璃は歴代の巫女と、なにからなにまで違うのかもしれない。

 瑠璃にとって真弥との関係は、彼愛されることで力は増幅される宿命を持っているようだった。

 力が鋭くなればなるほど、瑠璃には由希の気持ちがよく視えた。

 どれほど純粋に真弥を愛していたか。

 どうして孤独になるのかわからずに困惑していたのか。

 今の瑠璃には手に取るようにわかる。

 だから、決めたのだ。

 真弥も由希も裏切れない。

 そのために自らを滅ぼすことになっても、どちらかは選べないのだから、自分に正直に生きようと。

  例えそれで……生命を堕とすことになろうとも。

「ねえ、真弥」

 森が雪景色に染まる頃、瑠璃はいつものように真弥に甘えながら、不意に夢見るように口にした。

「可愛い赤ちゃんが欲しいわね?」

「瑠璃」

 狼狽した真弥が赤くなったり青くなったりして取り乱している。

「貧しくてもいいの。大切なあなたと愛する子供たちに囲まれて平穏に暮らすの。特別なものなんてなにもなくていい。愛するあなたと子供たちに囲まれて暮らせたら……どんなに幸せでしょうね?」

「これから叶えられる夢だよ、瑠璃。叶えられるように命懸けで努力するから」

「……そうね」

 瑠璃の複雑な声の意味にも気づかずに真弥は笑って付け足した。

「失えないものなら生命に換えても護るしかない。ぼくはきみとこれからぼくらが得る子供たちのために生命を懸けるよ、瑠璃」

 真摯にささやかれる真弥の決意に瑠璃は胸の内で答えた。

(わたしにはその一言で十分。あなたを愛して、そしてあなたに愛されて、わたしは幸福だったわ。だから、どうか……わたしの裏切りを許してね、真弥)




 最後にと決めた真弥との逢瀬から戻ってすぐに瑠璃はこのところ、お互いに避けていた由希と正面から向き直った。

 由希は相変わらず瑠璃の外出の片棒を担いでくれているし、避けてはいるものの、あのときの発言を後悔しているのか、時折居たたまれないような目をして顔を背ける。

 そんな彼女に気づいたから、尚更瑠璃は裏切れないと思った。

 彼女を裏切って自分だけ幸せな逃避行に走ることなどできそうになかった。

 それがやがて悲劇を招くとしても、瑠璃は由希に生命を預けようと決めていた。

 ほんのすこしでも瑠璃を友達だと思ってくれていたら、由希は思い止まってくれるかもしれない。

 もしくは友達だと親友だと思っていたからこそ、裏切りが許せずに激情のままに突っ走るかもしれない。

 でも、そのどちらだとしても瑠璃は静かに受け入れる覚悟だった。

 それが真弥への愛の証。

 そしつ由希への偽りのない友情の証なのだから。

「ねえ、由希?」

 不意に声をかけられて由希が戸惑った表情で振り向いた。

 後悔と焦燥と言葉にならない色んな気持ちが由希のの瞳に浮かんでいる。

「あのときにあなたの友情の意味は聞いたわ」

「……瑠璃さま」

 後悔しているのか、由希の声はとても苦かった。

「それでもわたしはこう思うの。あなたの友情の根底にあるものが、わたしに対する同情だとしても、あなたほど自尊心の高い少女が、それだけの動機であれほど親身になってくれるわけがないわ。だから、あれはそういったことが不得手なあなたなりの最上級の友情だったと、わたしはそう思うのよ」

「瑠璃さま」

 由希の声は泣き出しそうだった。

 もう許してもらえないと思っていたのかもしれない。

 でも、これから瑠璃が告げる内容を聞けば、おそらく由希の感想はまた変わるだろう。

 今度こそ手酷く裏切ったと判断して、ひどい罵声を浴びせられるかもしれない。

 それでも彼女を友達だと思うなら、避けて通ってはいけない道だった。

「わたしはあのとき、あなたを説得するときに、こう言ったわね? 結婚することなんてありえない巫女だから、あなたの気持ちはわからない、と。わかってあげたくても、わかってあげられないと」

「……なにをおっしゃりたいのですか?」

 わからないと小首を傾げる由希に、瑠璃は苦い気持ちで言を継いだ。

「あれは……嘘よ」

「え?」

 言葉の意味がわからないと、由希の顔には書いていた。

「わたし……愛している人がいるの」

「瑠璃さまっ。それはっ」

 仰天する由希に瑠璃は静かに答えた。

「ええ。絶対的な禁忌よ。巫女としては赦されない大罪だわ。でも、わたしだって普通の女の子よ。だれかを好きになって何故いけないの? 彼を夫に迎えたことを、わたしは悔やんではいないわ」

「お生命と引き換えなのですよ? それなのに」

「そうね。それでもいいと思っているわ」

 微笑む瑠璃の無謀さが、そしてそこまでだれかを愛せるということが、由希には信じられなかった。

 愛する人を夫に迎えたと言った。

 すなわちバレれば極刑を意味するのだ。

 聡明な瑠璃がそれを知らないはずがない。

 それでもいいのだと言い切った彼女に驚いた。

 だが、本当に驚くべきことは、由希を傷つける現実は、このあとに用意されていた。

「真弥を…………愛しているのよ、由希…………」

 この一言を聞いたとき、由希は幻聴だと自分に言い聞かせようとした。

 それこそ必死になって。

 よりによって真弥の妻が瑠璃だったなんて、由希は絶対に信じたくなかったのだ。

「あなたが……真弥の……巫女が夫を迎えれば力が失われ、部落を危機が襲うというのに、すべてと引き換えにしようというのですか?」

 感情が激しすぎて却って凍ってしまったかのような声だった。「いいえ。真弥を夫に迎えてからも、わたしの力は失われてはいないわ。むしろ急激に増しているほどよ。歴代の巫女がどうだったのかは知らないけれど、わたしにとって真弥が夫として愛してくれることは、巫女の役割に支障を来してはいない。むしろ力を増幅してくれているわ」

 瑠璃がここまで言ったときだった。


 それまでただ震えているだけだった由希が、たまりかねたといったように激情を爆発させたのわ。

「あたしは……確かに同情が勝っていたかもしれない。でも、瑠璃さまの力になりたいと、笑ってほしいと、その思いに嘘はなかったっ。だから、危険も犯したし、瑠璃さまが明るくなっていくのが嬉しかったっ。なのに利用したのねっ!? あたしの友情を利用したのねっ!! この売女っ!!」

 涙を溢れさせる由希に瑠璃は慌てて言い返した。

「違うのよ、由希っ。わたしも真弥も愛し合ったときに、夫婦となるまでにあなたの存在に気づかなかったのよっ!! わかっていて選んだ結果ではないのっ!! お願いっ。わかってっ!!」

「偽善者っ」

 低く吐き捨てられた言葉に瑠璃は胸を抉られたような気がした。

 傷ついた瞳で由希を凝視する。

「これだけは信じてちょうだいっ。わたしはあなたを親友だと思えばこそ、誤解されるのを承知で打ち明けたのっ。これだけは信じてっ」

 必死の瑠璃の呼び掛けも、とうとう由希には届かなかった。

 まだ陽も高いというのに神殿を飛び出してしまったからである。

 これから彼女がどこへ行こうとしているのか、そしてそこでなにをするつもりなのか、瑠璃には視えていた。

 避けられない運命が死の影を伴って徐々に近寄ってきていた。

 どうしても溶けなかった凍てついた心。

 やりきれない想いが溢れ、涙が一滴零れた。




 泣きながら神殿を飛び出して、どこをどう走ったのか。

 涙も枯れてしまった頃に由希は村長の家の前に佇んでいた。

 麻痺してしまった感情と思考の中で、瑠璃の愚かさを嘲笑うような、酷薄な笑みが口許に浮かぶ。

(バカな人。行動を監視しているあたしに向かって、あんなことを打ち明けるなんて。そうよ。これはあたしの義務なのよ)

 巫女が禁忌を犯したなら、それを報告するのが由希の役目。

 わかっていて打ち明けた瑠璃がバカなのだ。

 それとも純粋培養された愚かな瑠璃は、それすら気づいていなかったのかもしれない。

 死ねばいい。

 心の底からそう思った。

 そうして由希を愛せないと突き放し、その裏で瑠璃を選んだ真弥も、由希と同じ痛みを感じればいい。

 別人のように冷酷無比な冷酷な笑みを浮かべ由希はそう思った。

 心が麻痺してしまえば、人はどこまでも残酷になれる。

 由希は今完全に自分を見失っていた。

 瑠璃が何度も訴えた想いすら歪んで解釈している。

 死ねばいい。

 その一言だけを胸に由希は村長を呼び出した。

「おや? どうしたんだね、由希? いつもならまだ神殿にいる時刻だろう?」

 瑠璃に戦を禁じられ、比較的暇だったらしい村長が、どこかのんびりと現れた。

「今日は大事なご報告があってやって参りました」

「大事な報告?」

「はい。巫女さまが禁忌を犯されました」

「なんだってっ!?」

 蒼白な顔色になる村長に由来は虚ろな瞳で報告を続けた。

 幾分、話を脚色しながら。

「巫女さまは男と通じられたそうです。夫を迎えたとはっきりそうおっしゃいましたから」

「男と通じればどうなるか知らぬ巫女殿でもあるまいにっ!!」


「はい。今ではかつての力の半分も残っていないとか。それも日増しに弱まっているそうです。このあいだの戦を止めたのも、託宣ができるだけの能力が残っていなかったからだとか」

「……愚かな」

 村長の苦々しげな声に由来は口許だけで笑った。

 それはゾッとするような冷やかな笑みだった。

「聡明な巫女殿だと期待していたというのに恋に狂ったかっ」

 吐き捨てると村長は由希を振り向いた。

「報告ご苦労だった。由来はもう今日から神殿へは行かなくてもいい」

「はい」

 慌ただしく動き出した村長を見送って由来は家への帰路を辿った。

 瑠璃はそう遠くない未来に処刑されるだろう。

 当然だ。

 由希の友情を利用し、泥棒ねこのように大切な真弥をまんまと奪っていったのだ。

 彼女はそんな目に遭っても当然の罪を犯したのだから。

 家へ向かう途中でふと気になった。

 真弥はどうしているだろう?

 今日も瑠璃と逢えるときを待っているのか。

 そのことに思い至ったとき、由来は再び残酷な思いに心が支配されていくのを止められなかった。

 しばらく真弥の姿を探せば、神殿と村のちょうど中間に位置する湖にその姿があった。

 ぼんやり散歩をしているようにも見えたが、チラチラと周囲に視線を走らせる姿を見ていると、だれかを待っているようにも見えた。

 おそらく瑠璃を待っているのだろう。

 彼女の身に起きた変事にも気付かずに。

 だったら教えてやろう。

 真弥はもう二度と彼女には逢えないのだと。

 それがふたりして由希を利用し裏切った代償だと。

「瑠璃さまを待っているの、真弥? だったら無駄なことよ。あなたは二度と瑠璃さまには逢えないわ」

 その一言に真弥が弾かれるように振り向いた。

「由希? それは一体どういう意味なんだい?」

「瑠璃さまは近い将来処刑されるわ」

「なっ」

 声が詰まって言葉にならない真弥を由希が冷やかに見詰めている。

「バカよね。あたしが傍にいる意味くらい知っているでしょうに、そのあたしに向かって、あなたのことを打ち明けるんだもの。こうなって当然よ。ふたりしてあたしの友情を利用して裏切っていたんだから」

 狂ったように声を上げて笑い出した由希を真弥は信じられないと見詰めていた。

 だが、徐々に事情が飲み込めてくると、どうして瑠璃が由希に打ち明けたのか、真弥にはわかるような気がしていた。

 命懸けの彼女の友情。

 なのに由来は冷酷な笑みを浮かべている。

 我慢できなくて由希の肩を掴んで揺さぶった。

「きみが密告したのかっ!? きみが瑠璃の命懸けの友情を踏みにじったのかっ!?」

「命懸けの友情? なにが? あたしの友情を利用して、聖人面をしてあなたを奪っていくことが?」

 死ねばいいと、それが当然の罰だと嘲笑う由希を見て、真弥は生まれて初めてだれかに手を上げた。

 傷付けることは愚か、ケンカすらしたことのない真弥が、生まれて初めて人を叩いたのである。

 あまりの衝撃に座り込んだ由希が、憑き物が落ちたような顔で真弥を見上げている。

「きみを見損なったよ、由希」

「……」

「本当に裏切られたと思っていて、ぼくや瑠璃を責めているなら、その問題で正々堂々と言い争えばいいだろう? ぼくも瑠璃も逃げやしないよ。きみは自分の手を汚していないから、自覚していないのかもしれないけど、きみの密告で瑠璃が処刑されたら、きみが瑠璃を殺したことになるよ。遠回しに仕組むことでね」

 冷たい心を貫く氷柱のような声に、由希は今更のように、自分がしでかしたことの重さがわかってきて震えていた。

「そんなきみをぼくが選ぶと思った? ぼくがなにをきらっているか、由希が1番よく知っているはずだろうっ!!」

「あたし……あたしは……」

「今のきみは人間として最低だ。瑠璃は殺される可能性があるのを知りながら、きみへの友情を証明するために、生命すら懸けてきみに真実を打ち明けたのに」

「あっ……」

 真弥の言葉の意味が呑み込めて、由希は茫然自失の状態で、じっと両手を見詰めていた。

 今になって瑠璃の告白の意味が分かる。

 彼女は聡明な巫女だ。

 ましてや力は失われるどころか、真弥を夫としたことで増しているとも言っていた。

 その瑠璃が由希の行動を読めないわけがない。

 それでも一縷の望みに賭けて、そして自分の友情を証明するために、彼女は生命すら由希に預けたのだ。

(なのに……あたしはなにをしたんだろう?)

 人を殺すことの恐ろしさが、今頃になって身に沁みてくる。

 怖くて震えが止まらない。

 そのとき、もう由希には目もくれずに、真弥が踵を返した。

「真弥っ。どこへ行くの?」

「瑠璃を助けに行くんだ」

「無理よっ。瑠璃さまは処刑が決定された時点で、極秘部屋である牢獄に移されるわっ。人を殺すことはおろか、傷つけることもできないあなたに一体なにができるのっ!? あなたまで殺されるだけよっ!! お願いよ、やめて、真弥っ!!」

 必死に追いすがる由希を、真弥は一度だけ振り向いた。

 凛とした瞳の中に強い意思を煌めかせて。

「瑠璃のためなら、ぼくは人を殺せる。そうして必ずふたりで生き延びて幸せになるんだ」

 信じられない宣言に由希は呆然としていたが、ややあって遠ざかっていく背中に叫んだ。

 気も狂わんばかりに。

「それでも無理よ、真弥っ。巫女の処刑が決定された後の神殿の警備は、あなたが考えているほど甘くないわっ!!」

「瑠璃ひとりを死なせはしない。そのときはふたり一緒だ」

 風に乗って返ってきた答えに由希はボロボロと泣いた。

 どんなことをしても、真弥はもう由希を振り向かないのだと思い知って。

 もし村長に逢う前に真弥に逢っていたら、由希の行動は変わっていたかもしれない。

 それでも自分で動かしてしまった運命の歯車は止められない。

 そのことを噛みしめて由希は泣いた。

 大切なふたりを自分が窮地に追い込んだのだと噛みしめて。
3/3ページ
スキ