第四章 破滅への予兆

 真弥の妻になったのは、まだ日暮れ前の早い時間だった。

 場所が郊外ということや季節的な問題もあり、彼なりに気を使ってくれたらしい。

 そういうの常識なんて瑠璃は知らなかったけれど、妻になった後の真弥の科白を信じるなら、こういうときにすぐに傍を離れ放り出すのは、夫として最低な行為なのだという。

 目覚めるまで傍にいて、腕の中で目覚めさせて、そうして朝までを過ごす。

 それが当たり前なのだと言っていた。

 瑠璃の立場上、それができなくても、せめて妻に迎えた後に心細い想いをさせたくないと、真弥の妻になったことを後悔させたくないと、彼はそれは気遣ってくれた。

 巫女が夫を迎えることが禁じられているのは、俗世の汚れを知ることで、その能力が失われるからだと言われている。

 事実、瑠璃もそう言われて育ったし、だからこそ禁忌を犯してはならないと言い聞かされてきた。

 そのときは死罪だと殺されると言われ続けてきたのだ。

 真弥は瑠璃のことを巫女としては見ていないのか。

 力については特になにも言わなかった。

 落ちたのかと気にすることもなかったし、力のあるなしには拘ってはいないようだった。

 むしろ巫女ではない、ひとりの女の子として見てくれているらしく、あまり特別扱いはしない。

 ただ無事に脱出するまでは、勘づかれないようにしてほしいと言っていた。

 力の有無ではなく、真弥との関係に気づかれないようにしてほしいと。

 だから、自分から言うつもりはなかったのかもしれない。

 彼の性格からして世間知らずな瑠璃を騙してたぶらかすつもりなどなく、純粋に脱出するまでに悟られたら、瑠璃の身が危ないと気遣ってくれたのだろう。

 そのせいだろうか。

 瑠璃も彼と別れ神殿に戻るまでに力が消えたとか、そういう話はしなかった。

 故意に。

 言えばたぶん彼をもっと不安にさせたから。

「巫女の力」

 神殿の近くまで戻ってきてから、ふと掌を見る。

 失われるべきものなのかもしれない。

 こういうとき、本来なら持っていてはいけない力なのかもしれない。

 人にあらざる力は人となったとき、失うべきものなのかもしれない。

 もしも人並みの幸せを欲するのなら。

「ねえ。わたしはどうすればいいの? このまま知らないフリをするべきなの? こんなとき、だれも答えをくれないわ。神ですら道を指し示してはくれない」

 泣きたかった。

 切なくて……。


 いつものように留守をごまかしてくれていた由希の元に戻ると、彼女はほっとしたように笑った。

 いつもより戻ってくるのが遅かったので、バレたのではないかと、もしくは瑠璃の身になにか起きたのではないかと、気遣ってくれていたらしい。

 苦い笑みを彼女に返した。

「どうかなさったのですか、瑠璃さま?」

 疑ってなどいない由希の信頼の瞳。

 気遣ってくれる瞳。

 たった今、彼女を裏切って彼女の一番大切な人を夫に迎えたというのに。

 どうするべきか、すぐには答えを出せそうにない。

 真弥は関わるなと、これは自分の責任だと言っていたし、彼の思いやりを無にする決意もできなかったから。

 でも、それを受け入れて知らないフリを続ける決意も、やはり瑠璃にはできなかった。

 どうするべきなのか、ゆっくりでもその答えを出さなければいけないだろう。

 どんな結果になっても後悔しないだけの決意ができたら。

 それは二重に由希を裏切る決意なのか、それとも真弥を裏切る決意なのか、瑠璃にはわからなかったけれど。

 知らないフリをして残酷に、自分の望みに従うためには、瑠璃の力が邪魔だった。

 だから、苦しい。

 だから、切ない。

 真弥にすら言えなかったことだけれど。

「由希」

「はい?」

「今日、あなたの住んでいる村に行ったわ」

「え?」

 なにを言いたいのかわからないと由希の顔には書いていた。

「噂を聞いたの。あなたの噂」

「どんな……」

「あなたが今していることの噂よ。心当たりがないの?」

 悔しそうに唇を噛む由希に、瑠璃はため息をつく。

 これだけは今、言わなければと思っていた。

 彼女を本当の友達だと思えるなら。「嘘だと思ったわ。わたしのよく知っている由希なら、そんな真似はしないとも思ったわ。でも、話を総合していくと、どうしてもあなたになるのよ」

「瑠璃さま」

「村長ですら適わない大富豪のひとり娘。そして由希という名。年齢。すべてあなたを意味していたわ。どれほど自分の耳疑ったかわかる?」

「あたしは……」

 顔をあげてなにか言いかけた由希を、じっと見つめる。

 それだけで彼女はなにも言えないようだった。

「わたしにはあなたの気持ちはわからないわ。結婚することなんてありえない巫女だもの。すっと想いつづけてきた人に断わられたあなたの辛さは、どんなにわかってあげたくても、わかってあげられない」

「なにをおっしゃりたいのですが、瑠璃さま?」

 挑戦的な眼だった。

 譲らない口調だった。

 今になって真弥の言葉の正しさを知る。

 瑠璃はまだ本当の由希を知らない。

 由希はただ瑠璃の方が立場が上だから、自分が仕えるべき立場だから、だから、本当の自分を見せていなかったのだと。

 あるいは由希の友情だと信じていたものは、ただの優越感からくる同情だったのかもしれない。

 そんなことはないと信じたくないと思うけれど。

「答えはあなた自身が気づくべきことよ、由希。けれど、一言だけ言っておくわ。そういう問題ではなくても、強制では人の心は動かないのよ」

「……なにもご存じないくせに初恋すら知らないくせによく言えますね。それも巫女としての託宣ですか」

 侮蔑と揶揄の混じった口調。

 眼を逸らしたかったけれど、これが本当の彼女だと、まっすぐに捉えた。

 ある意味で今、初めて本音で触れあっているのだとわかるから。

「わからないの? あなたは人の心を無視しているわ。人の生きるべき標を誤っているわ」

「……あなたにはわからないことです。放っておいてください」

「そうね。でも、あなたを友人だと思うから忠告しているのよ?」

「……」

「あなたのやり方は逆に相手を傷つけて遠ざけるわ。きらわれるわ。それがわからないの?」

 ここまで言っても由希の表情は変わらなかった。

 なぜそんなことを言われなくてはいけないのかわからないと、その顔に書いて瑠璃を睨んでいた。

 本当に彼女の心には自分が間違っているのかもしれないという考えそのものが、欠如しているのだと思い知らされた。

「今日はもう帰って、由希」

「瑠璃さま……」

「これ以上なにを言っても、あなたの心にわたしの心は届かないでしょう?」

「あたしは……」

 なにか言いかけて、でもなにも言えずに、由希はそのまま瑠璃の部屋から出て行こうとした。

 その背中に視線だけを向けて、瑠璃は一言だけ問うた。

「由希。あなたがわたしに優しくしてくれたのは、わたしが信じていたようにあなたの純粋な友情ではなく、束縛され自由のないわたしに対する、ただの同情だったの? あなたよりわたしのほうが不幸だと優越感を抱けたから、同情して優しくできたの?」

 否定してほしかった。

 一言違うと言ってほしかった。

 でも、由希は一度だけ振り返り嘲笑った。

「そうですね。そうかもしれません」

「……」

「所詮あなたはただの籠の鳥でしょう?」

 それが由希の本心なのか、それともさっきまで責められたせいで、疑われたことから、そう言ったのか、瑠璃にもわからなかった。

 いや。

 わかったと言うべきだろうか。

 これは彼女の本心。

 けれど、すべてでもない。

 瑠璃を気遣って優しくしてくれた友情もまた本物だった。

 ただその根本にあるものが同情だったというだけのことだ。

 だから友情なのだ。

 由希はあまりに甘やかされて育って、好意を示すことに不慣れだった。

 人に好かれることを知らず、背かれることも知らず、自分が立っている場所もわからない。

 そんな由希が憐れだった。「……可哀相な人……」

 思わず零れた呟きを由希はどう受け取ったのか、なにも言わず出て行った。

 どうして疑われたのか、そのことにすら気づかない。

 なんて可哀相な少女だったのか。

 あれでは本当に孤独なのは彼女の方だ。

 少なくとも瑠璃はひとりぼっちではないのだから。

 今までなら由希がいたし、彼女の友情が半分くらい同情でも、一緒に過ごした時間は嘘じゃない。

 そして今は愛してくれる夫がいる。

 でも、彼女にはなにもない。

 本心から気遣ってくれる人もいなくて、愛してくれる人もいない。

 本当に孤独なのは由希の方だった。

 今になってそのことに気づいてため息が出る。

 もっと早く彼女が子供の頃に、それを知ることができたら、瑠璃にもどうにかしてやれたかもしれない。

 でも、人格が形成された今、もうどうすることもできない。

 どんなに誠意から言葉を尽くしても、由希には理解できないのだから。

 彼女の想い人が真弥だと知っている今、あんな助言をすることが嬉しいわけがない。

 もし真弥を解放したくて、彼女の友情を利用しようとしたなら、もっと上手く説得している。

 それをしなかったということは、彼を愛する瑠璃には、ひどく辛いことなのだ。

 こうすれば上手くいくと教えるようなものだから。

 それでも言ったのは由希への友情から。

 けれど、それは通じなかった。

 真弥の言葉どおり。

『瑠璃と由希とでは違いすぎる』

 そう言った彼の言葉が胸に痛かった。




 瑠璃に言われ定時より早く家に帰った由希を待っていたのは、この頃は無視していた真弥だった。

 入ってきた由希をじっと見て、一度深いため息をついた。

「明日、この家を出ていくよ」

「え……」

 唖然としてから彼を睨んだ。

 出ていけないように、住める家が見つからないように、裏から手を回していたはずだった。

 だれが由希を裏切ったのかと、そう思ったから。

「住む家が見つかったの?」

「それは由希が一番知っているだろう?」

 真弥からの皮肉は初めてで唇を噛んだ。

 瑠璃に責められ論されて、どういうわけか友情まで疑われて、今度は真弥に責められる。

 どうしてなのかわからない。

 だれも由希のしていることに抗議なんてしないし、それで問題が起きるわけでもないのに。

 大事なふたりには間違っていると言われる。

 何故なのかわからなかった。

「住む家がなかったら、適当に雨露を凌げればそれでいいよ。とにかくこの家を出たいから、ぼくは」

「どうして?」

「どうして? もう君から自由になりたいからだよ、由希」

 はっきり言われて息が詰まった。

 優しい真弥はだれかを責めたり否定したりしなかったから、はっきり迷惑だなんて言われるとは、これまで想像すらしなかった。

 信じられないと彼を凝視しても、真弥は顔色ひとつ変えなかった。

 それが変わらぬ決意だと教えるように。

「君は何度言ってもわかってくれないね。どうしてぼくがこの家をこんなに早く出ようとしたのか、一度だって考えようともしなかった」

「……どういう意味?」

「自分のためじゃないよ。君のために出ていこうとしたんだよ、ぼくは」

「あなたがいなくなることのどこがあたしのためだっていうのよっ!?」

「君がどんなにぼくを想ってくれても、ぼくが由希を選ぶことは絶対にないよ。由希に想いを寄せることはありえない。そんなぼくが近くにいて、由希のためになると思ってるのかい、君は?」

「っ!!」

 屈辱だった。

 こんなふうに言われるとは思わなかったから。

 これではまるで由希のことなど意識する対象にもなれないと宣言しているようだ。

「またきみらしく解釈してるみたいだけど、ぼくはきみを侮辱してるわけじゃないよ?」

「どこが違うの?」

「言ったはずだよ? きみを愛せないぼくが傍にいることは、きみのためにならないって。きみのためじゃなかったら、ぼくはおじさんの好意にもっと甘えてるよ。ぼくがどんなに家を見つけたって、ここよりは劣るんだよ? それでこの季節に出ていくことがなにを意味するか、本当に由希は気づかなかったの?」

「好きになれなくても、傍にいてくれるだけで、あたしはっ」

 叫びかけた由希を遮って、真弥がまたため息をついて言った。

「傍にいるだけで満足? ありえないよ、そんなことは。ぼくがきみの傍にいて、違うだれかを愛して、そうして離れていっても、満足だって言える? 傷つかないって言える?」

「ありえないもの。そんなこと」

 震える声で否定すると真弥はかぶりを振った。

「由希。ぼくはきみの所有物じゃないよ。自分の意思を持ってる。だれかを愛さないって、どうしてきみが断言できるんだ? その答えはぼく以外は持っていないはずだよ。そんなこと強制されたって好きになるときは好きになるし、愛せない相手は愛せないんだから」

 瑠璃の説得が脳裏を過った。

 どうして彼女と同じことを言うのだろうと、心の底から悔しかった。

 もしかしたら巫女としては異端と言われてきた彼女なら、真弥とも共感できるかもしれないと、分かり合えるかもしれないと、ふとそう思った。

 そう思うと腹立たしくて悔しくて涙も出ない。

 瑠璃と由希のなにが違うというのか。

 彼女もなぜ由希が間違っているというのか。

 大事な人にはなにも分かってもらえない。

 それともふたりが言っているように、本当に分かっていないのは、由希の方なのだろうか。

 でも、だとしたら何故他の人はなにも言わない。

 間違っているのなら、もっと大勢の人からきらわれるものではないのか?

 だが、周囲の人から好かれているのかと、もし問われても答えられないことに気づいて、余計に悔しくなった。

 なにも言い返せなくて。

「今までお世話になっているという遠慮と、幼なじみとしてのきみにどうしても強いことが言えなくて、本心は言わないようにしていたけど……はっきり言うよ、由希。間違いは間違いだと指摘することが、本当は1番きみのためになることだと、今ならわかるから」

「真弥」

「由希はだれにもきらわれたことがないと思ってる?」

「そんなこと」

 当たり前だと言おうとして、でも、真弥のまっすぐな瞳を見ていると、どうしても違うと言えなかった。

「きみは気づくこともしなかったね。みんな、その場、その場ではきみの意見に従うけど、いざというときにきみを優先してくれたことがあったかい?」

「……」

「みんなが本音を言わなかったり、きみに対して遠慮していたのは、きみに人として魅力があるからではなく、すべてこの家の権威だよ。みんなが恐れていたのは、きみの機嫌を損ねることで、この部落での立場が悪くなることだった。きみのことを本心から大事だと、友達だと思っていた人は、ぼくの知っているかぎりだと、ひとりもいないね」

「ひどいことを平気な顔で言うのね、真弥……」

 泣きだしそうだった。

 はっきり言われて。

 真弥もちょっと傷ついたような顔をしてそっと背けた。

「言っておくけど、こういう事実をきみに伝えるのが、ぼくには簡単なことだとか、平気なんだって誤解はやめてほしい。どうしても今まできみを傷つけられなくて言えなかった真実だから」

「言い訳じゃないっ」

「……そうだね。今まで知らなかった現実を突きつられたきみにしてみれば、そんなことを言うぼくの神経の方を疑うだろうね。でも、これが現実なんだよ、由希。その証拠にだれかきみの悩みに親身になって付き合ってくれる人がいるかい? 損得抜きできみを気遣ってくれる人がいるかい?」

「ひどい」

 泣きたいほど悔しいのに、真弥は居心地が悪そうに顔を背けてはいても、揺るぎない主張を譲らなかった。

「ひどいことを言っている自覚はあるよ。でも、言わないといけないことだから」

「傷つけることを言うことが? それはあなたの放漫よ、真弥っ」

「違う。君のために言ってるんだ。憎まれても、だれかが言わないと指摘しないと、君は気づけないだろう? そうしたら君はいつまでもひとりだ。だれも気遣ってくれない。だれも本当の友情を向けてはくれない。それじゃあ、どれだけの取り巻きに囲まれていたって、君はいつもひとりぼっちだよ。それがわからないの?」

 本当に孤独なのは由希だと言われたようで別れ際の瑠璃の顔が脳裏に浮かんだ。

 同じように傷ついた顔をしていた。

 もしかしたらあの問いは、否定してほしくて出した問いだったのかもしれない。

 同情じゃないと、本物の友情だと言ってほしくて言ったのかもしれない。

 そのくらい信じがたい現実を聞いたということだ。

 由希の本当の姿を知らなかった瑠璃にとって。

 だから、問うた。

 否定してほしくて。

 なのに由希はなんて言った? 気遣ってくれる彼女になんて答えた?

 何故間違っていると言われるのか、今もまだわからない。

 真弥の説得はすべて心を突き刺すけれど、その意味はわからない。

 わからないけれど現実を言い当てていることが、すべて真実なのだと教えている。

 そのことは辛くても認めた。

 わからないけれど。

 でも、たったひとつわかったことがある。

 由希は間違えた。

 瑠璃がなにを不安に想い、問いかけてきたのか悟ってやろうともしないで、そのとおりだと言ったのだ。

 純粋な彼女をどれほど傷つけただろう?

 なにもかもすべてがこんなふうに単純明快なら、由希も間違っていると言われても納得できたかもしれない。

 だったら、何故と思ってしまうのは、由希の傲慢なのだろうか。

「あなたがなにを言いたいのか、あたしにはわからないわ。でも……真弥」

「由希?」

「あなたの言っていることがすべて本当で、みんなあたしのことなんてどうでもよくて、いやいや付き合っていたなら、どうしてそう言わないの? 間違っていたらどうして責めないの? それで気づけとか言われてもできないわよ」

「そうだね」

 真弥がため息をついたとき、不意に奥の部屋から由希の父が現れた。

「それはね、由希。君がわたしの跡取り娘だからだ」

「父さん」

「おじさん」

 正面から由希を糾弾していたことを悔いるような声を出す真弥に彼は笑ってみせた。

 そして言った。

 一言。

「ありがとう、真弥」

「「え……」」

「由希のために敢えて憎まれ役を買って出てくれたのだろう?」

 気まずそうに顔を背ける真弥を、由希が意外そうにみた。

 その彼の態度が事実だと告げていたけれど。

「どうして礼を言うの、父さん? なにがあたしのためなの?」

「わからないかい?」

 振り向いて問われて頷いた。

「真弥は由希のためになることしか言っていないよ?」

「どこがっ」

 感情的に言い募ろうとする由希を、父の優しい声が遮った。

「全部」

 一言で断言されてしまって、由希はもうなにも言えなかった。

「今のままでは由希に救いはない。だれの好意も得られない。だから、真弥は憎まれるのを承知で、由希に隠していた事実を伝えた。これが彼の誠意でなくてなんなんだい、由希? もしこれがただの陰口だったりしたら、正面から由希を糾弾してわたしの元を去った真弥はどうなると思う?」

「この部落にいられなくなるだろうね、ぼくは」

 淡々と真弥が答えて唖然と彼を見た。

 そういうことは由希は一度も考えなかったので。「まだわからない? みんなそれを恐れて、なにを言われてもきみに従っていただけだよ、由希。由希が大事にされていたのは、おじさんの威光。きみへの好意じゃない」

「真弥」

「ぼくはもっと幼い頃から、そのことには気づいていた。どうしてみんながきみに従ってみせるのに、根のところでは合わせないのか。気遣うことすらしないのか。
 そしてそんなみんなを増長させたのが、きみのどんな態度なのかすべて知っていた。だがら、昔は何度もこんな言い争いをしただろう?」

「あ……」

 遠い幼い日を思い出して由希が絶句する。

 たしかに同じようなやり取りをした時期があった。

 もう忘れかけていたけれど。

 真弥の説得はまだ続いた。

 真弥が幼すぎて由希を説得するには役不足だったこと。

 由希のためを思うなら父に相談して任せるべきだとわかっていたこと。

 でも、当時から真弥は諦めるのが早かったから、両親を亡くしてから諦めることで生きてきたから、そのときもすぐに諦めてしまったこと。

 その理由こそ説得しても由希が理解しないとわかっていたからだと言われ、由希はもう答える言葉がなかった。

「今なら間違っていたことがわかるよ。こんな事態になる前に間違いは間違いだと、どれほど対立しようと指摘するべきだった。そうしたら今頃由希はひとりぼっちにならなかった。そう……気づいたから」

 真弥の口調は真摯で彼が本心からそう思っていることが伝わってくる。

 なにを言っても見せていた真弥の微笑。

 あれは……諦めからきていた?

 同意でもなんでもなかった?

 すべてが由希の思い違い?

「由希」

 父の声に振り向けば、ここまでひどいことを言われているというのに、怒っている様子はなかった。

 それが尚更由希を追い詰めた。

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