第三章 枯れ草の寝台
「たしかにぼくが由希との縁談が出たときに断ったのは、ぼくの心が瑠璃のところにあったからだよ。だけど、そのことで瑠璃が責任を感じる必要はないからね?」
「でも、わたしさえいなければ……」
「それは違うよ、瑠璃。たとえきみと出逢っていなくても、そのときのぼくに想いを寄せる相手がいなかったとしても、由希との縁談なんて受けないから」
「真弥」
泣いていいのか、喜んでいいのかわからないと、その複雑そうな顔が言っていた。
「言っただろう? ぼくが由希のことをどう思っているのか。こんなことは言いたくないけど、ぼくは由希を受け入れられない。彼女は恋愛対象にはなれないんだよ」
彼女の気性故に。
「由希ってそういう少女なの?」
「え?」
怪訝そうな声に驚いた。
瑠璃は納得できないと顔に書いて悩んでいる。
どういう意味だろう?
「わたしは由希が好きよ?」
「瑠璃」
「それはたしかに気は強いかもしれない。多少はワガママな面もあるわ。でも、由希は優しいもの」
「由希が優しい?」
意外な言葉だった。
どこをどうすればそうなるのか、もうひとつわからない。
「わたしをお忍びに出してくれているのは由希なのよ」
「え?」
驚いた顔になる真弥に瑠璃も怪訝そうに彼を見ていた。
「この衣装も目立つ黒髪を隠すためのかつらも、すべて由希が用意してくれたのよ。閉じ込められているのは窮屈だろうからって。わたしがいないあいだ周囲をごまかしてくれているのも由希よ。あの由希がそんな一面を持っていたなんて……」
信じられない言葉だった。
あのワガママで傲慢で、人は自分に合わせるものと信じ込んでいる由希が、自分からだれかを気遣うことがあるなんて想像もしなかったから。
でも、だったら尚更危ない。
真弥のことがバレたら、由希は裏切られたと思うだろう。
自分は利用されたのだと。
そうしたらどんな真似をするかわからない。
たしかに現状を見れば、そう思えるかもしれない。
だが、瑠璃は由希を裏切っていないし、真弥と知り合ったときも、まして想いが通じ合ったときも、お互いに由希の存在については知らなかった。
どちらにも由希が深く関わっていることを。
瑠璃の様子から見て彼女の由希への友情は本物だろう。
だが、おそらく事実を知った由希には通じない。
瑠璃はまだ知らないのだ。
ワガママに自己主張をするときの由希の身勝手さを。
「こんなことを言ってきみに軽蔑されたくないし、たぶん今の話を聞いたかぎりだと、瑠璃には理解できないかもしれないけど」
「なに?」
「由希に心を許してはダメだよ?」
「そんな……」
「絶対にぼくのことを知られたらいけない。そんなことをしたら、きみがどんな目に遭うかわからないから。心配なんだよ、瑠璃」
「由希はそんなこと……」
信じられないとかぶりを振る彼女の名を呼んだ。
怯えたような黒い瞳が見上げてくる。
「きみは知らないんだよ。たぶんきみが由希より立場が上だから、由希は普段みたいな態度は慎んでいるんだと思う。きみはまだ由希の一側面しか知らない。
いいかい? もしきみがうかつにぼくの名前を出したり、ましてやぼくとの関係を打ち明けたり悟られたりしたら、下手をしたら殺されるよ?」
「……」
「由希がきみの傍にいる本当の動機くらい、聡明なきみのことだから知っているんだろう?」
傷つけるとわかっていても問いかければ、瑠璃は落ち込んだ顔でうつむいてしまった。
それでもどれほど危険なのかわかってもらうために、これだけは譲れない。
瑠璃を護りたいから。
「その由希がきみにとって不利な証言をしたら、それが偽りでも真実にすり替えられてしまう。いいね? 絶対に由希を信じたらダメだよ?」
「でも」
「由希のことは自分の責任で片付けるから。きみはなにも気にしなくていいよ。元はといえば自分のせいだし。本当に由希のためを思うなら、傷つけても真実を突きつけるべきだったんだ」
真弥はどんなときでも人を貶めるような発言はしない。
付き合いは短いが、色々な話題で会話してきた瑠璃ですら、真弥が面と向かってこういう言い方をするのを初めて聞いた。
今まで一度だってだれかの悪口を口にしたことがない。
その真弥が真摯に言ってくる。
どうか自重してくれ、と。
警戒してくれ、と。
真弥は瑠璃がそういうことを嫌っていることを知っている。
それでも敢えてくちにするほどだから、よほど心配しているのだろう。
ありえないことだと笑い飛ばせないほど。
あの由希がそんな真似をする少女だとは思いたくない。
でも、真弥がこれほどまでに心配してくれていて、それを無視することも瑠璃にもできなかった。
「……わかったわ」
ホッとしたように笑う真弥に、それでも瑠璃は問わずにはいられなかった。
「でも、本当にわたしはなにもしなくていいのかしら?由希がずっと想ってきた人を知らなかったとはいえ、わたしが奪ってしまったのよ。それなのに知らないフリをしていてもいいのかしら?」
不安そうな声に真弥がかぶりを振る。
彼女の純粋さわ責任から逃げ出さない一面なでは、真弥も好きだし長所だと思っているが、これだけは認められなかった。
「もし由希がすこしでも物の道理がわかっていて、ぼくらの話をきちんと聞いてくれる少女だったら、ぼくもこういうことは言わないよ。
でもね、瑠璃。きみが事実を打ち明けたら、由希の怒りを煽るだけだよ。きみの誠意も友情も由希には通じないから。きみと由希では違いすぎる。これ以上は近づかないでほしいよ、ぼくは」
「真弥」
「それにこれは本当にぼくの問題なんだ。ぼくたちふたりに由希が深く関わっているから、そしてきみが由希のことが好きだから、そういうふうに責任を感じてしまうのかもしれないけど、わかっていて選んだ結末ではないだろう?」
たしかにそうだ。
真弥が由希の想い人だなんて瑠璃は知らなかった。
そして真弥の告白を信じるなら、瑠璃と由希の繋がりを知る真弥自身も、瑠璃を選んだ時点では素性に気づいていなかった。
つまりどちらもが由希という存在に気づかないまま、お互いを選んでいたのである。
惹かれ合ったことに由希の存在意義は絡んでいなかった。
だが、この現状は由希から見れば、そうは見えないだろう。
きっと裏切ったと思われる。
責められる。
友情を利用したと。
好意が裏目に出た由希には、そうとしか思えないだろうから。
本当に自分を抑えない由希が、真弥の言ったような少女なら、おそらくこちらの言い訳には耳も貸してくれないだろう。
ワガママに育てられた気性そのままに裏切ったと信じ込み、すべて瑠璃が悪いのだと、自分は裏切られ利用された被害者で悪いのは瑠璃だと思い込むだろう。
どれほど言葉を尽くしても、おそらく信じてはもらえない。
知らなかったという言葉も、由希には言い訳に聞こえるだろう。
知っていて裏切ったと信じて疑わないはずだ。
だから、真弥はこれほど心配してくれている。
あの由希がそんな理不尽な少女だとは思いたくないけれど。
それとも恋愛を間に挟んだ場合、奪い合う関係になった親友は、もう元には戻れないのだろうか。
「真弥は」
「なんだい?」
「真弥はわたしと出逢ったとき、だれとも付き合っていなかったの? だれも好きではなかったの?」
真弥の心がどこにあったのか。
そのひとつですべての意味が変わってくるような気がした。
もし特別なだれかがいたり、本心ではなくても由希と付き合っていたなら、悪いのは瑠璃だということになるから。
知らなくても。
だが、この問いに対する真弥の返事はすこし意外なものだった。
「なにも隠さないって決めたから打ち明けるけど、ぼくの立場から言わせてもらうと、だれとも付き合ったことなんてないし、瑠璃と出逢ったときのぼくは、まあ言ってみれば自由な身だね。だれとも約束なんてしていないし、想いを寄せてもいなかったから」
「それって違う見方もあるってこと?」
「っていうか。なんて言うんだろう? ぼくはあまり感情を表に出さなかったし、色々と複雑な境遇で育っていたから、はっきりした意思表示はしなかったんだ。
特にそういう問題では。うかつにだれかに近づいて傷つけるのは怖かったし。そのせいでなんでも適当に受け流す癖がついていて、信念に関すること以外だと、わりと淡白だったんじゃないかな?」
首を傾げながらの科白は、理解できるような気もしたし、理解できないような気もした。
真弥の境遇なら無理もないのだろうが、瑠璃と逢っているときの真弥は自由な感じがしたから。
それをそのまま口に出すと真弥が笑った。
おかしそうに。
「それは相手が瑠璃だからだよ。瑠璃といると自然体でいられたから」
微笑んで言われてちょっと照れた。
「ただ。あまりにも意思表示しなさすぎたのかな? ぼくとしては波風を立てないための言動で、特に深い意味はなかったんだけど、回りはぼくと由希は付き合っていると思い込んでいたみたいだね」
「それって……由希も知っていたの? 由希もそう思っていたの? あなたと付き合っていると」
「由希の常識で言えばそうなるんじゃないかな? 言わなかった? 自分が好きならぼくも好きだって、由希はそう信じてるって」
あっさり言われ言葉に詰まった。
なにを言い返せばいいのかわからない。
「言っておくけど由希が勝手に、ぼくは自分のものだと思い込んでいただけで、ぼくは一度もそれを肯定したことはないし、由希がそういう意味で独占しようとしたら、きちんとクギを刺して断ったからね? あくまでも由希の一方的な感想だから」
その辺は誤解しないでほしいんだと真弥が言う。
しかしそれでは由希は付き合っていたつもりだったのか、それとも片思いだと知っていたのか、一体どちらだろう?
「う~ん。由希本人は気づいていたんじゃないかな。ぼくがそういう意味での束縛を認めないことを、どんなに認めたくなくても知っていたからね。
現実にぼくは由希のワガママには付き合わなかったし。ただそれでもそういう誤解が罷り通っていたのは、おそらく由希がそう仕組んだんじゃないかな」
「どうして? そんな身に覚えのないことで、そういう解釈をされたら真弥が可哀相じゃない。遠隔的に自由を奪うようなものだわ」
「たぶん、由希が否定しなかったのは、そういう意味だと思うよ」
この一言には答えられなかった。
由希の話題だと思わなかったらあまりの理不尽さに怒っていただろう。
いくらなんでもワガママが過ぎる。
「だから、ぼくらのあいだでの真実と、周囲との解釈がすれ違っていたんだ。おまけにどうも当事者のぼくが、噂を知って否定できないように、ぼくには伝わらないように噂を流していた感があるんだよね……」
「嘘」
やれやれと言いたげな科白に、思わず彼を凝視してしまっていた。
あまりといえばあまりな境遇である。
これでは気軽に打ち明けにくいだろう。
真弥が自分のことを打ち明けなかったのも無理はないと納得してしまった。
「由希との縁談を断って家を探しはじめたことが原因で、初めて知ったんだよ。周囲がそう誤解してるってことを」
「それまでなにも知らなかったの?」
「みんなぼくと由希は付き合っていて、将来的にはぼくが由希の家を継ぐものと思っていたから、そのぼくがいきなり家を探しはじめたことで、疑問を持ったらしいんだよね。
そのせいでやっと知ることができて、さすがに呆れたよ。ここまでするか? って本気で怒ったし。でも、怒りが強すぎると却って呆れてしまって感情は凍るものだね」
あまりに淡々としているから、却って彼のそのときの怒りの強さが伝わってくる。
好意も善意も通じない現実を前にして、彼はどれほど理不尽な怒りに震えたのだろう。
気の重そうな告白にそっと彼に凭れかかった。
なんだか疲れきっているような気がして。
真弥は驚いたらしいけど、すぐに笑った気配がして、強く肩を抱いてくれた。
抱きしめることで甘えてくれている。
はっきりとそれがわかった。
口にも態度にも出さなくても、束縛する由希の問題で真弥は疲れていたのだと。
だから、気を抜くとため息が出る。
瑠璃の前では笑っていてくれたのは、さっき言ってくれたことが真実だからこそだろう。
真弥の心の安らぎになりたいと、今は強くそう思う。
「家は見つかったの、真弥?」
一言問うと答えが返ってこなかった。
不安に思って腕の中から見上げれば、なんだかいやに深刻な顔をしている。
まさか……と不安になった。
真弥の感想がすべて本当で、由希がそういう少女なら、真弥が離れていこうとすることを黙って受け入れないような気がしたから。
「なにか……あったの?」
「……ダメなんだ。妨害されて見つかったとたんに邪魔が入って、ね」
「そんな……」
真弥から聞く由希の話は瑠璃には予想外のことばかりだった。
同じ名の別人ではないかとすら思う。
「まあ今では覚悟を決めているけど」
「え?」
驚いた声を出すと真弥が振り向いて笑った。
「今は大人しくみせておいて、隙ができたら君を連れて逃げようかなって」
夢のような話だった。
信じられずに彼を見上げていても、その笑顔は消えない。
決意に偽りはないと、その瞳が言っている。
流れる涙を真弥の指先が拭ってくれる。
そんな仕種さえ愛しかった。
「君が手に入ったら、そうする気だったんだ。最初から。だから、家を探しながらも、気持ちが通じ合えば無意味だとも思っていたしね」
クスクス笑う真弥に、その胸に顔を埋めた。
聞こえてくる鼓動。伝わるぬくもりが心地いい。
「大好き」
「うん。もう知ってるよ。ぼくとしては早く妻に迎えたいけど」
笑って言われて肩が震えた。
その一瞬、抱き締める腕に力が入って、ただの言葉遊びだとは思えなかったから。
真弥の妻になる?
考えてみればどちらもが孤独な存在だった。
瑠璃は隔離されてひとりで生きてきた。
真弥は隔離こそされていないけれど、由希のために自由がなかった。
お互いに腕が伸びたのは、そのせいかもしれない。
だれよりもわかり合える。
そして信じ合える。
求め合える。
「真弥が」
「え?」
「真弥がそれを望むなら」
「瑠璃」
はっきりと理解していたわけではない。
でも、真弥がそれを望むなら、別に構わなかった。
抱き締める腕が震えている。
悩んでいるような短い間が空いて、真弥が耳許でささやいた。
「巫女として育てられたきみは、たぶん、現実的な意味で理解していないと思う。後悔してもやめないよ? 泣いても解放しないよ? そのときは必ずきみをぼくの妻にする。それでもいいのかい、瑠璃?」
言われたとおり言葉の意味はわからない。
でも、それが真弥の望みならいい。
真弥の望みは瑠璃の望みだから。
微かに頷くともう一度抱き締める腕が強くなった。
唇が重なって驚いた。
硬直した身体を真弥が抱いてくれる。
真弥が目を閉じているから、彼を真似して目を閉じた。
ぬくもりだけを追うような変な感じがする。
いきなり地面に押し倒されたときは、条件反射で逆らってしまったけれど、宣言どおり真弥は解放してくれなかった。
時々ささやかれる。
愛しているよ、と。
その言葉にすべてを委ねて目を閉じた。
秋も深まる枯れ草の寝台で。
「でも、わたしさえいなければ……」
「それは違うよ、瑠璃。たとえきみと出逢っていなくても、そのときのぼくに想いを寄せる相手がいなかったとしても、由希との縁談なんて受けないから」
「真弥」
泣いていいのか、喜んでいいのかわからないと、その複雑そうな顔が言っていた。
「言っただろう? ぼくが由希のことをどう思っているのか。こんなことは言いたくないけど、ぼくは由希を受け入れられない。彼女は恋愛対象にはなれないんだよ」
彼女の気性故に。
「由希ってそういう少女なの?」
「え?」
怪訝そうな声に驚いた。
瑠璃は納得できないと顔に書いて悩んでいる。
どういう意味だろう?
「わたしは由希が好きよ?」
「瑠璃」
「それはたしかに気は強いかもしれない。多少はワガママな面もあるわ。でも、由希は優しいもの」
「由希が優しい?」
意外な言葉だった。
どこをどうすればそうなるのか、もうひとつわからない。
「わたしをお忍びに出してくれているのは由希なのよ」
「え?」
驚いた顔になる真弥に瑠璃も怪訝そうに彼を見ていた。
「この衣装も目立つ黒髪を隠すためのかつらも、すべて由希が用意してくれたのよ。閉じ込められているのは窮屈だろうからって。わたしがいないあいだ周囲をごまかしてくれているのも由希よ。あの由希がそんな一面を持っていたなんて……」
信じられない言葉だった。
あのワガママで傲慢で、人は自分に合わせるものと信じ込んでいる由希が、自分からだれかを気遣うことがあるなんて想像もしなかったから。
でも、だったら尚更危ない。
真弥のことがバレたら、由希は裏切られたと思うだろう。
自分は利用されたのだと。
そうしたらどんな真似をするかわからない。
たしかに現状を見れば、そう思えるかもしれない。
だが、瑠璃は由希を裏切っていないし、真弥と知り合ったときも、まして想いが通じ合ったときも、お互いに由希の存在については知らなかった。
どちらにも由希が深く関わっていることを。
瑠璃の様子から見て彼女の由希への友情は本物だろう。
だが、おそらく事実を知った由希には通じない。
瑠璃はまだ知らないのだ。
ワガママに自己主張をするときの由希の身勝手さを。
「こんなことを言ってきみに軽蔑されたくないし、たぶん今の話を聞いたかぎりだと、瑠璃には理解できないかもしれないけど」
「なに?」
「由希に心を許してはダメだよ?」
「そんな……」
「絶対にぼくのことを知られたらいけない。そんなことをしたら、きみがどんな目に遭うかわからないから。心配なんだよ、瑠璃」
「由希はそんなこと……」
信じられないとかぶりを振る彼女の名を呼んだ。
怯えたような黒い瞳が見上げてくる。
「きみは知らないんだよ。たぶんきみが由希より立場が上だから、由希は普段みたいな態度は慎んでいるんだと思う。きみはまだ由希の一側面しか知らない。
いいかい? もしきみがうかつにぼくの名前を出したり、ましてやぼくとの関係を打ち明けたり悟られたりしたら、下手をしたら殺されるよ?」
「……」
「由希がきみの傍にいる本当の動機くらい、聡明なきみのことだから知っているんだろう?」
傷つけるとわかっていても問いかければ、瑠璃は落ち込んだ顔でうつむいてしまった。
それでもどれほど危険なのかわかってもらうために、これだけは譲れない。
瑠璃を護りたいから。
「その由希がきみにとって不利な証言をしたら、それが偽りでも真実にすり替えられてしまう。いいね? 絶対に由希を信じたらダメだよ?」
「でも」
「由希のことは自分の責任で片付けるから。きみはなにも気にしなくていいよ。元はといえば自分のせいだし。本当に由希のためを思うなら、傷つけても真実を突きつけるべきだったんだ」
真弥はどんなときでも人を貶めるような発言はしない。
付き合いは短いが、色々な話題で会話してきた瑠璃ですら、真弥が面と向かってこういう言い方をするのを初めて聞いた。
今まで一度だってだれかの悪口を口にしたことがない。
その真弥が真摯に言ってくる。
どうか自重してくれ、と。
警戒してくれ、と。
真弥は瑠璃がそういうことを嫌っていることを知っている。
それでも敢えてくちにするほどだから、よほど心配しているのだろう。
ありえないことだと笑い飛ばせないほど。
あの由希がそんな真似をする少女だとは思いたくない。
でも、真弥がこれほどまでに心配してくれていて、それを無視することも瑠璃にもできなかった。
「……わかったわ」
ホッとしたように笑う真弥に、それでも瑠璃は問わずにはいられなかった。
「でも、本当にわたしはなにもしなくていいのかしら?由希がずっと想ってきた人を知らなかったとはいえ、わたしが奪ってしまったのよ。それなのに知らないフリをしていてもいいのかしら?」
不安そうな声に真弥がかぶりを振る。
彼女の純粋さわ責任から逃げ出さない一面なでは、真弥も好きだし長所だと思っているが、これだけは認められなかった。
「もし由希がすこしでも物の道理がわかっていて、ぼくらの話をきちんと聞いてくれる少女だったら、ぼくもこういうことは言わないよ。
でもね、瑠璃。きみが事実を打ち明けたら、由希の怒りを煽るだけだよ。きみの誠意も友情も由希には通じないから。きみと由希では違いすぎる。これ以上は近づかないでほしいよ、ぼくは」
「真弥」
「それにこれは本当にぼくの問題なんだ。ぼくたちふたりに由希が深く関わっているから、そしてきみが由希のことが好きだから、そういうふうに責任を感じてしまうのかもしれないけど、わかっていて選んだ結末ではないだろう?」
たしかにそうだ。
真弥が由希の想い人だなんて瑠璃は知らなかった。
そして真弥の告白を信じるなら、瑠璃と由希の繋がりを知る真弥自身も、瑠璃を選んだ時点では素性に気づいていなかった。
つまりどちらもが由希という存在に気づかないまま、お互いを選んでいたのである。
惹かれ合ったことに由希の存在意義は絡んでいなかった。
だが、この現状は由希から見れば、そうは見えないだろう。
きっと裏切ったと思われる。
責められる。
友情を利用したと。
好意が裏目に出た由希には、そうとしか思えないだろうから。
本当に自分を抑えない由希が、真弥の言ったような少女なら、おそらくこちらの言い訳には耳も貸してくれないだろう。
ワガママに育てられた気性そのままに裏切ったと信じ込み、すべて瑠璃が悪いのだと、自分は裏切られ利用された被害者で悪いのは瑠璃だと思い込むだろう。
どれほど言葉を尽くしても、おそらく信じてはもらえない。
知らなかったという言葉も、由希には言い訳に聞こえるだろう。
知っていて裏切ったと信じて疑わないはずだ。
だから、真弥はこれほど心配してくれている。
あの由希がそんな理不尽な少女だとは思いたくないけれど。
それとも恋愛を間に挟んだ場合、奪い合う関係になった親友は、もう元には戻れないのだろうか。
「真弥は」
「なんだい?」
「真弥はわたしと出逢ったとき、だれとも付き合っていなかったの? だれも好きではなかったの?」
真弥の心がどこにあったのか。
そのひとつですべての意味が変わってくるような気がした。
もし特別なだれかがいたり、本心ではなくても由希と付き合っていたなら、悪いのは瑠璃だということになるから。
知らなくても。
だが、この問いに対する真弥の返事はすこし意外なものだった。
「なにも隠さないって決めたから打ち明けるけど、ぼくの立場から言わせてもらうと、だれとも付き合ったことなんてないし、瑠璃と出逢ったときのぼくは、まあ言ってみれば自由な身だね。だれとも約束なんてしていないし、想いを寄せてもいなかったから」
「それって違う見方もあるってこと?」
「っていうか。なんて言うんだろう? ぼくはあまり感情を表に出さなかったし、色々と複雑な境遇で育っていたから、はっきりした意思表示はしなかったんだ。
特にそういう問題では。うかつにだれかに近づいて傷つけるのは怖かったし。そのせいでなんでも適当に受け流す癖がついていて、信念に関すること以外だと、わりと淡白だったんじゃないかな?」
首を傾げながらの科白は、理解できるような気もしたし、理解できないような気もした。
真弥の境遇なら無理もないのだろうが、瑠璃と逢っているときの真弥は自由な感じがしたから。
それをそのまま口に出すと真弥が笑った。
おかしそうに。
「それは相手が瑠璃だからだよ。瑠璃といると自然体でいられたから」
微笑んで言われてちょっと照れた。
「ただ。あまりにも意思表示しなさすぎたのかな? ぼくとしては波風を立てないための言動で、特に深い意味はなかったんだけど、回りはぼくと由希は付き合っていると思い込んでいたみたいだね」
「それって……由希も知っていたの? 由希もそう思っていたの? あなたと付き合っていると」
「由希の常識で言えばそうなるんじゃないかな? 言わなかった? 自分が好きならぼくも好きだって、由希はそう信じてるって」
あっさり言われ言葉に詰まった。
なにを言い返せばいいのかわからない。
「言っておくけど由希が勝手に、ぼくは自分のものだと思い込んでいただけで、ぼくは一度もそれを肯定したことはないし、由希がそういう意味で独占しようとしたら、きちんとクギを刺して断ったからね? あくまでも由希の一方的な感想だから」
その辺は誤解しないでほしいんだと真弥が言う。
しかしそれでは由希は付き合っていたつもりだったのか、それとも片思いだと知っていたのか、一体どちらだろう?
「う~ん。由希本人は気づいていたんじゃないかな。ぼくがそういう意味での束縛を認めないことを、どんなに認めたくなくても知っていたからね。
現実にぼくは由希のワガママには付き合わなかったし。ただそれでもそういう誤解が罷り通っていたのは、おそらく由希がそう仕組んだんじゃないかな」
「どうして? そんな身に覚えのないことで、そういう解釈をされたら真弥が可哀相じゃない。遠隔的に自由を奪うようなものだわ」
「たぶん、由希が否定しなかったのは、そういう意味だと思うよ」
この一言には答えられなかった。
由希の話題だと思わなかったらあまりの理不尽さに怒っていただろう。
いくらなんでもワガママが過ぎる。
「だから、ぼくらのあいだでの真実と、周囲との解釈がすれ違っていたんだ。おまけにどうも当事者のぼくが、噂を知って否定できないように、ぼくには伝わらないように噂を流していた感があるんだよね……」
「嘘」
やれやれと言いたげな科白に、思わず彼を凝視してしまっていた。
あまりといえばあまりな境遇である。
これでは気軽に打ち明けにくいだろう。
真弥が自分のことを打ち明けなかったのも無理はないと納得してしまった。
「由希との縁談を断って家を探しはじめたことが原因で、初めて知ったんだよ。周囲がそう誤解してるってことを」
「それまでなにも知らなかったの?」
「みんなぼくと由希は付き合っていて、将来的にはぼくが由希の家を継ぐものと思っていたから、そのぼくがいきなり家を探しはじめたことで、疑問を持ったらしいんだよね。
そのせいでやっと知ることができて、さすがに呆れたよ。ここまでするか? って本気で怒ったし。でも、怒りが強すぎると却って呆れてしまって感情は凍るものだね」
あまりに淡々としているから、却って彼のそのときの怒りの強さが伝わってくる。
好意も善意も通じない現実を前にして、彼はどれほど理不尽な怒りに震えたのだろう。
気の重そうな告白にそっと彼に凭れかかった。
なんだか疲れきっているような気がして。
真弥は驚いたらしいけど、すぐに笑った気配がして、強く肩を抱いてくれた。
抱きしめることで甘えてくれている。
はっきりとそれがわかった。
口にも態度にも出さなくても、束縛する由希の問題で真弥は疲れていたのだと。
だから、気を抜くとため息が出る。
瑠璃の前では笑っていてくれたのは、さっき言ってくれたことが真実だからこそだろう。
真弥の心の安らぎになりたいと、今は強くそう思う。
「家は見つかったの、真弥?」
一言問うと答えが返ってこなかった。
不安に思って腕の中から見上げれば、なんだかいやに深刻な顔をしている。
まさか……と不安になった。
真弥の感想がすべて本当で、由希がそういう少女なら、真弥が離れていこうとすることを黙って受け入れないような気がしたから。
「なにか……あったの?」
「……ダメなんだ。妨害されて見つかったとたんに邪魔が入って、ね」
「そんな……」
真弥から聞く由希の話は瑠璃には予想外のことばかりだった。
同じ名の別人ではないかとすら思う。
「まあ今では覚悟を決めているけど」
「え?」
驚いた声を出すと真弥が振り向いて笑った。
「今は大人しくみせておいて、隙ができたら君を連れて逃げようかなって」
夢のような話だった。
信じられずに彼を見上げていても、その笑顔は消えない。
決意に偽りはないと、その瞳が言っている。
流れる涙を真弥の指先が拭ってくれる。
そんな仕種さえ愛しかった。
「君が手に入ったら、そうする気だったんだ。最初から。だから、家を探しながらも、気持ちが通じ合えば無意味だとも思っていたしね」
クスクス笑う真弥に、その胸に顔を埋めた。
聞こえてくる鼓動。伝わるぬくもりが心地いい。
「大好き」
「うん。もう知ってるよ。ぼくとしては早く妻に迎えたいけど」
笑って言われて肩が震えた。
その一瞬、抱き締める腕に力が入って、ただの言葉遊びだとは思えなかったから。
真弥の妻になる?
考えてみればどちらもが孤独な存在だった。
瑠璃は隔離されてひとりで生きてきた。
真弥は隔離こそされていないけれど、由希のために自由がなかった。
お互いに腕が伸びたのは、そのせいかもしれない。
だれよりもわかり合える。
そして信じ合える。
求め合える。
「真弥が」
「え?」
「真弥がそれを望むなら」
「瑠璃」
はっきりと理解していたわけではない。
でも、真弥がそれを望むなら、別に構わなかった。
抱き締める腕が震えている。
悩んでいるような短い間が空いて、真弥が耳許でささやいた。
「巫女として育てられたきみは、たぶん、現実的な意味で理解していないと思う。後悔してもやめないよ? 泣いても解放しないよ? そのときは必ずきみをぼくの妻にする。それでもいいのかい、瑠璃?」
言われたとおり言葉の意味はわからない。
でも、それが真弥の望みならいい。
真弥の望みは瑠璃の望みだから。
微かに頷くともう一度抱き締める腕が強くなった。
唇が重なって驚いた。
硬直した身体を真弥が抱いてくれる。
真弥が目を閉じているから、彼を真似して目を閉じた。
ぬくもりだけを追うような変な感じがする。
いきなり地面に押し倒されたときは、条件反射で逆らってしまったけれど、宣言どおり真弥は解放してくれなかった。
時々ささやかれる。
愛しているよ、と。
その言葉にすべてを委ねて目を閉じた。
秋も深まる枯れ草の寝台で。