ヤマトって誰だよ



世間で言うところの華の金曜日。平日はなかなか会えないがこの日だけは山を降りて、仕事終わりのチリさんと待ち合わせをする。個室タイプの居酒屋で夕食を終えるといつもならこの後どちらかの家で過ごすのだが。どうやら今日は勝手が少し違うようだ。彼女が細い手首に掛かる腕時計を確認すると聞き捨てならない言葉が投げ掛けられる。

「今からヤマト来るんでそろそろ帰るな。せや、明日11時の映画やから待ち合わせ忘れんといてなぁ」

 席を立ちながら明日のデートの予定と共に、さらりと告げられる爆弾発言。自分との逢瀬より《ヤマト》が来訪する方が大事だとでも言うのか。

「誰、そいつ」

 もしかしたら女性の可能性もある。《ヤマト》の響きはユニセックスで使えるものだしきっと女友達が遊びに来るのだと、自分へと言い聞かせてはみるが。

「誰っていつも来てくれるあんちゃんやで」

 はい男。しかもいつもと来たものだ。こめかみがぴしりとひきつるのを感じる。

「……こんな遅くに?」
「せやってチリちゃん仕事終わるのいつもこんくらいやからしゃーないやん。そらヤマトには悪いと思ってんで。こないな時間まで待たせとるみたいなもんやからなぁ」

 こんな時間まで待たせてる? そんなの当たり前だろ。帰宅がこんな時間になるまでどれだけの仕事を彼女が任されてると思ってるんだ。それを理解できない奴なんかチリさんに相応しくない。

「ああ、そう。夜分に会うなんて随分と親密そうだね。でもそれをぼくに言ってどういうつもり? 二人で僕のこと笑い者にしてるんだ」
「笑い者って……。そりゃよく顔合わせるし仲は悪ないとは思うで? 遅い時間でもこっちが指定すれば聞いてもらえるから甘えさせてもろてるし。せやけどグルーシャは有名人やから話に上ることがあっても笑ったりなんかしてへん」

 今の発言で完全に間男はこちらだと言われたようなものだ。遅い時間に呼びつけても彼女の望み通りに来れる距離とフットワークの軽さ。そのどちらも自分は持ち合わせていない。仕事をやりくりしてなんとか会えたとしても週に一日二日が限度だ。ぼくが知り尽くしたと思い込んでいた彼女の表情を見ても、悪びれる様子は一切なくきっと本心なのだろう。

 勝手に一人本気になって貴女を想っていたわけか……。貴女にとって笑い者にすらならないほど価値の無い人間だったとは。

「今までこんな遅くまで引っ張り回してごめん。これからはぼくなんかに縛られずその人と楽しい時間を過ごせば? これも一緒に見てくればいいよ」

 明日見る予定だった映画の前売り券をテーブルへと少々乱暴に置き、伝票を握り締めて席を立つと腕を取られ引き留められる。

「んんん? ちょ、ちょっとタンマ。グルーシャ、誤解してへん? ちゅーか、してるな絶対」
「誤解? ああ、ぼくたちが付き合ってたって思い込んでたこと? 漸く間違いに気付いてすみませんでした。ヤマトさんとどうぞお幸せに」

 口から出るのは嫌味ばかりだ。本当はもっと聞きたいことが山ほどあると言うのに。こんな天の邪鬼な性格だから彼女に見限られたのは自分でも分かっている。でもそんな自分を誰よりも理解し、支えてくれているのはチリさんだけだと思っていたのに。今更問い詰めたところで彼女の心はもう戻ってこないのなら何も知らない方が良いのかもしれない。こちらの陰鬱とした空気とは正反対にあっけらかんとした声色でなおも続ける彼女。

「ほらそれ!お幸せにって……」

 初めは口元を押さえて笑っていたのが、徐々に腹を抱えて大笑いし出した。

「なに妄想しとんのか知らんけど、ヤマトって宅配便のことやで」

……宅配便?……ヤマト……黒猫が目印のあの?

 自分の勘違いに気付き今までの言動が蘇ると身体を一気に熱さと冷たさが入り交じり、その場に座り込む。

「なぁなぁ、チリちゃんが《ヤマト》言う男と二股掛けてると思ったん?」

 面白いおもちゃを見つけたかのように、小悪魔の笑みでぼくの顔を覗き込んでくる。

「……うるさい。今こっち見ないで」

 図星で何も反論が出ず、顔を背けることしかできない。サムすぎる。

「何しょげとんの。でもどおりで話が全然噛み合わんはずやわ。やけに突っ込んで聞いてくるからおかしい思たけど。…………そないに心配やった?」

 大切なものに触れるかのように優しく頭を撫でられると、堰を切ったかのように溢れ出る言葉。

「……心配、するだろ。普通に。自分の彼女からそんな話を聞かされて動揺しない男なんかいないよ。チリさんの仕事の大変さも分からない男になんでチリさんを獲られなきゃならないんだって腸が煮えくり返りそうだった」
「うんうん、ほんで?」

 いつの間にかチリさんの腕の中に収まり、安らぐ温度と香りに先を促される。

「そんな男のどこが良いの?どうしてぼくじゃ駄目なの?今まで過ごしてきた時間は何だったんだって頭の中がぐちゃぐちゃになった」
「そぉかぁ。そないに思い詰めとったんか。チリちゃん言葉足らずなとこあるからグルーシャを不安にさせてたんやね。ほんま堪忍な」
「ちがっ!チリさんが悪いわけじゃ!」

 顔を上げるとばちりと目が合う。その表情は困ったようでも嬉しいようでもある慈愛に満ちたものだった。

「んーん、悪いのはうちや。グルーシャの優しさに甘えて、あんたの不安にちゃんと向き合ってなかったんやから」
「甘いのはチリさんの方でしょ。勝手に勘違いして態度悪かったぼくをこうやって許そうとしてる」

 許してほしいと思ってはいないのに、腕はチリさんを抱き寄せ離すまいとしている。心と身体の矛盾は自分では制御出来ないようだ。すると今度はチリさんが胸へとすり寄って来る。

「こないなこと言うたらグルーシャは怒るかもしれんけど嬉しかったんやで。あんたの包み隠さない本音とうちを想ってくれてるのが知れて」
「……あんなかっこ悪いのが?」
「どこがかっこ悪いのか分からんなぁ。自分の好きな人が、自分のことで一喜一憂してくれたら嬉しない?うちはめちゃくちゃ嬉しかったで。グルーシャの焼きもち」

 焼きもち。彼女はそう表現したが実際はそんなもので済むような可愛らしい代物ではなかった。どろどろと淀んだ鈍い黒が足下から這い上がってくると身体を覆い飲み込まれそうになった。

──そんな奴に獲られる位なら無理やりにでも閉じ込めてしまえ
──そいつさえいなければこの幸せがずっと続くはずだったのに

 己の中にこんな浅ましい感情があったなんて知らなかった。いや、気付かないふりをしていただけだ。鈍い黒がチリさんへと近付き、自分の手で傷つけてしまう可能性を認めたくなくて。

 さっきまでそう思っていたのに。彼女の言葉は魔法のように心に染み渡り、軽くしてくれる。腕の中にいる最愛の存在を今一度強く抱き締める。

「さっきはごめん。それと……ありがとう」
「ふふっ、なんのことやろ。謝られるようなことも感謝されるようなこともあったやろか?」

 幼子をあやすようにぽんぽんと背中を叩かれる。彼女の方が一枚上手なのはこれからも変わらないのかもしれない。早く何事にも動じない強さを手に入れたいと思いつつ、今はまだこの温かさに甘えさせてもらおう。

「……これからチリさんの家行ってもいい?」
「奇遇やな。おんなしこと言お思てた」

 腕の中から見上げるように誘われると、吸い寄せられるように唇を重ねる。触れるだけのキスはひどく安心し、もっとその先を望んでしまう。

「行こ。早くしないと《ヤマト》も来る」

 危うく恋敵になるはずだった名前を出してまでチリさんを急かすとこちらの真意を悟ったのか、顔を仄かに赤らめながら後ろに着いてくる。

「…………ちゃんと荷物受け取らせてな?」

 か細く呟いた願いが聞き入れられたかは二人のみぞ知る。

1/1ページ
    スキ