父の日
3/19 今日はパルデアにおける父の日。故郷のジョウトを出てからは特段意識をしていなかったイベントだったが、今年からは違う。子供が産まれ初めての父の日に、グルーシャに感謝を伝え喜ばせたい。
そのグルーシャは出勤前の慌ただしい時間にもかかわらず、ベビーベッドを覗き込み眠っている子の頭を愛おしそうに撫でている。ロトムがタイムリミットを知らせると名残惜しそうに小さな額へキスを一つ贈り、モンスターボールとショルダーバッグを手に寝室を後にした。その背中を追い玄関先で昼食用の弁当箱を差し出す。
「今日もありがとう。でもチリは育児で疲れてるんだから、もっと寝ててよかったのに」
「だいじょーぶ。こん時くらいしか二人きりになれんし、お見送りくらいさせてや」
「……なんで今そういう可愛いこと言うかな。家から出たくないんだけど」
不機嫌そうに本音を零したグルーシャはこちらの身体を引き寄せ、きつく抱き締める。こちらの肩口に顔を沈められると、柔らかなスカイブルーの髪が肌に当たりこそばゆい。まるでもう一人大きな子供がいるようだ。抱き締めてくれる広い背中へ腕を回し、我が子へするように撫でてみる。
「なにアホなこと言うてんの。パルデア最強ジムリーダーの名が泣くで」
「別に自分で名乗ってるわけじゃない。そんな名前より、家族と過ごすことの方がずっと大事」
「そう思ってくれんのはありがたいけど、一家の大黒柱がそんなんじゃこの先心配やなぁ」
「…………仕事行ってくる」
たっぷり間をとり不満に満ちた返事を返すと、渋々こちらから身体を離しスノーブーツに手をかける。
「今夜は何時くらいに仕事終わるん?」
「特に残業予定もないし、アクシデントが起きなければ19時にはジムを出れると思う」
「そか。くれぐれも気ぃつけてな」
「チリも。一人で無理しないで」
スノーブーツを履き終え立ち上がったグルーシャと、見送りのチークキスを両頬に交わす。そして唇が重なり合うその瞬間、タイミングを見計らったかのように寝室から己を求めて泣く声が聞こえ出した。
「……お預けか」
「すまんなグルーシャ! 仕事気張ってな! はいはい、今ママが行くでー」
可愛い我が子の妨害に苦笑した夫の姿を最後まで見送ることも出来ず、慌ただしく寝室へと駆け込んだのだった。
◇◇◇
「今日はお日さんがあったかくて、お散歩日和やねー」
「んっま ばぁ! あう~」
朝グルーシャと分かれてから泣きっぱなしのこの子の気分転換になればと外へ買い物に繰り出すと、抜けるような青空と心地好い風にようやくご機嫌を取り戻してくれた。こちらの呼び掛けに返事らしきものを返すようになり、まだ赤ちゃんだと思っていたが少しずつ成長していることに喜びを覚える。そして育児は日々大変ではあるが、いつか終わりが訪れると思うと少しだけ寂しさも胸を過った。
子供を抱っこ紐で抱えながら街へ入ると、何人もの子供達とすれ違う。その手には、父親宛と思われる寒色系の包装紙に包まれたプレゼントや花束が握られていた。腕の中にいるこの子も成長したら、彼らと同じように父親へのプレゼントを選び、感謝の気持ちと共に手渡すのだろうか。きっとグルーシャは感動で固まってしまうのかもしれない。そんな微笑ましい未来を想像しながら、ぷくぷくとした肌触りの頬をつついてやると、自分の気持ちを訴えるように喃語を喋りだした。
「あぅ……やぁー んまぁ!」
「うんうん、お昼やしお腹すいたなぁ。うちらもそろそろ帰ろか。準備もせなあかんし」
抱っこ紐からベビーカーへ下ろすと、足をばたつかせながらぐずりだしてしまう。家からずっと抱っこをし続けたため肩が重くなり、ベビーカーで家まで戻りたかったがそうはさせてくれないみたいだ。小さく息を吐いて気合を入れ直す。
「ほんま抱っこが好きやな。誰に似てもうたんやろねー」
今頃ナッペ山で、お弁当を食べながらくしゃみをしているかもしれない夫を思い浮かべ、気落ちそうになる心を宥める。ぐずる我が子を再び胸元へ抱き寄せ左右に揺れながらあやすと、満足そうに指しゃぶりをしてうとうとしだした。このまましばらく眠ってくれると今夜のイベントの準備が進められるので助かるのだが。起こさぬよう慎重に家路へとついたのだった。
◇◇◇
育児というものはこちらの予定通りにいかないことの連続だ。先程願ったささやかな望みも、家に着くや否や始まった大泣きで後回しになった。買い物の荷解きも出来ぬまま慌てて授乳をしたものの、こんな時に限って思ったより母乳を飲まずに泣き続ける始末。普段の倍以上時間をかけて満腹になったかと思えば、今度はオムツの交換でぐずりだす。ようやくリビングの一角にあるベビー布団の上で眠ってくれた時には、こちらの疲労もピークに達してしまった。
「ちぃっとだけ休ませて……」
誰に向けた訳でもない言い訳を零し、子供の横でこちらも意識を手放した。
目が覚めた時には窓の外の太陽は傾き、コロトック達の演奏会が遠くの草むらから聴こえ始めていた。
「あかん! なんも準備終わっとらん!」
うっかり寝過ごしてしまい、血の気が引いていく。飛び起きるとベランダに干しっぱなしの洗濯物を取り込み、ポケモン達の夕食の支度と風呂の準備を慌ただしくこなしていく。そして子供が寝ている今のうちに壁の装飾も終わらせなければ。父の日を祝うガーランドを壁に垂らし、その周りには色とりどりの風船を浮かばせる。撮り貯めていたグルーシャと子供の写真を額に入れていくつか飾れば、即席ではあるがお祝いの雰囲気は出ているはず。夕食は手の込んだものを作りたかったが、キッチンに長時間籠ることは難しいため少し高級な夕食セットを取り寄せしておいた。彼が帰宅したら、温めるだけですぐに食べられるように食器の準備も終え、後は本日の主役であるグルーシャの帰りを待つのみ。
しかし、今朝話していた19時を過ぎてもグルーシャの姿はおろか連絡すらもない。新着がないか数分おきに確認していると、ロトムは宙に浮いたまま心配げに自分の回りを漂っている。帰宅が遅くなる時は必ず連絡をくれるグルーシャにしては明らかにおかしい。彼の過酷な職場を思い出し、万一のことが頭を過り身体が冷たくなる。ソファに置いてあるブランケットを羽織り、一人遊びをしている子供へと視線を下ろす。ベビージムにはうちら夫婦のポケモン達を模したぬいぐるみが垂れ下がり、興味深そうに見つめては口に含んで遊んでいる。今日のお気に入りはハルクジラのぬいぐるみらしく、小さな手で強く握り締めていた。言い知れぬ不安を拭い去ろうと、グルーシャが与えてくれた何よりも大切な我が子を抱き上げ、その温かさに安心する。
(きっと大丈夫。グルーシャの強さはうちが一番分かっとる)
──ロトロトロト♪ ロトロトロト♪
着信音が鳴ると同時に、ロトムはすぐさま身体を広げながらこちらへと飛んできた。画面にはナッペジムのグルーシャの私室が映し出され、焦った様子でフレームインする夫の姿。
「もしもし、チリ?」
「グルーシャ、大丈夫やった!? 怪我してへん!?」
「ごめん、ずっと連絡出来なくて。怪我は大丈夫。夕方から立て込んでて、今やっと一段落ついたところ」
マフラーと手袋を外しているコートの肩口には、いまだ雪がうっすらと積もっている。こんな時間まで極寒の外にいたことを表していた。
「それはお疲れやね。おっきなトラブルでもあったん?」
「夕方から猛吹雪で雪崩が起きて登山道が潰れたんだ。雪の除去と下山出来ない挑戦者をジムに待機させる手配をしていたら、いつの間にかこんな時間。チリと○○はどんな一日だった?」
「こっちは平和なもんやったで。でもご機嫌斜めの時間が多くて、ずっとぐずっとったけど」
子供の顔をロトムに向けると、呼び掛けるグルーシャの声に反応してゆっくりと目を覚ます。目が合った父親の顔を見て嬉しそうに笑い、画面に向かって勢いよく手を伸ばした。しかしその勢いある平手にロトムが慌てて距離を取り、グルーシャは苦笑いしている。
「今の平手は赤ちゃんとは思えない良い筋してた」
「親ばかも大概にしぃ! こぉら、優しく触ってやらんとロトムが可哀想やろ。なでなでしてやり」
ロトムの身体を撫でる手本を見せると、紅葉のような小さな手を使い見よう見まねで撫でている。
「まだ吹雪止みそうにないん?」
「この感じだとしばらくは難しいだろうね。もしかしたら今夜は泊まりかも」
「そ、か……帰ってこれんの……」
父親の顔を見てご機嫌な我が子とは対称的に、ひきつった顔の自分。特別なこの日だからこそ、グルーシャには子供と過ごしてほしかった。
「チリ? どうかした? 様子が……」
「ううん、なんでもない! うちのことよりグルーシャの方こそ気ぃつけて。忙しいのに時間取らせてもうてごめんな。そろそろ切るとするわ」
「……そっか。チリもお疲れ。おやすみ」
画面が暗くなりグルーシャの姿が見えなくなると、ご機嫌だったはずの子供は途端に泣き出してしまった。本当にこの子は父親が大好きだ。普段あれだけグルーシャが愛情を注いでいれば、自然と慕うようになるのも頷けるけれど。
「ほーれ、パパはここにおるから大丈夫やでー」
壁に飾った写真を一つ一つ見せながら、背中をリズムよく叩いて落ち着かせ、ひとしきり泣き続けると疲れて眠ってしまった。穏やかな呼吸音のみが響くリビングは静けさを取り戻す。壁に飾った写真の一番端にある一枚の前で足を止める。それはグルーシャと想いが通じ合ってから初めてツーショットで撮った、思い出の一枚だった。頬を寄せ無邪気に笑っている二人を眺めていたら、押し込めていた感情が溢れてしまう。
「うちだってグルーシャに逢いたい……」
眠る子の頬に一粒の涙が零れ落ちていく。グルーシャのいない寂しさを子と共有し、再び眠りへと誘われた。
◇◇◇
「……リ……チリ。起きて」
心配そうに自分の名を呼ぶ声に焦点の定まらない目を開くと、澄んだ蒼の瞳と視線がぶつかった。
そうか、これは夢だ。今夜グルーシャは帰ってこれない。彼に会いたくて自分に都合の良い夢を見ているなら、夢の中でぐらい素直になってもいいだろうか。
「リビングで寝ると風邪ひくよ。ベッドに運ぶから掴まって」
「グルーシャ……会いたかったぁ」
「ちょっ、チリ……っ!?」
身体が浮き上がる感覚と同時にグルーシャの首にすがって強く抱き締めれば、大好きな香りとひんやりとした肌触りに段々と頭が冴えてくる。
(うん? ちょい待ち。冷たいって……そこまで夢ってリアルやったっけ)
勢いよく身体を引き離しラグの上に戻ると、そこには本物のグルーシャが嬉しそうに目尻を下げていた。
「残念。もう少しこのままで良かったのに」
「ぐ、グルーシャ!? あんたなんでここに……!」
「吹雪が収まってきたから帰ってきた。チリと○○の顔が見たくて」
「顔って、さっき電話で見たばっかやろ」
「画面越しで満足できるわけない」
包み隠さず真っ直ぐに伝えてくれる言葉に胸を打たれる。
「そやね……。おかえり、無事で良かった」
「ただいま」
帰宅の挨拶を交わし、こちらへ差し出した頬に彼の望み通り唇を寄せる。今朝はお預けになった唇を重ねると、腰を掴まれ熱い舌が入ってくる。
「んんッ! ふ、ぅ……っ。こ、らぁ……! ○○が起きてまうやろ」
「大丈夫だよ。今朝はキス出来なかったんだから、その分補給させて。これだけじゃ全然足りないけど」
「……あほ」
この戯れで目を覚ましてしまったかとベビー布団を見れば、気持ち良さそうに眠っている姿にほっとする。すると部屋の中をぐるりと見渡していたグルーシャが小さく驚いた声を上げた。
「これ、チリが一人で準備してくれたの? ごめん、気づかずに帰るの遅くなって」
「グルーシャのせいやないって。この子が産まれて初めての父の日やし、どうしてもお祝いしたくてうちが勝手にやっただけやから。でも全然予定通りにならんかったわ」
「そんなことない。ありがとう。飾りも可愛いし、写真もこんなにあるなんて知らなかった」
「それはチリちゃんとロトムの共同作業の賜物や。ええ写真ばっかやろ」
ロトムがうちらの間に入り込み、自慢げに胸を張り出す。ポケモンバトルには参加しないが、この子も大事な家族の一員に変わりはない。
「ロトムもありがとう。でもこうして見ると、まだ赤ちゃんだと思ってたけどいつの間にか大きくなってるね」
「おっぱいたーんと飲んで、いっぱい寝とるからなぁ。あっちゅう間におっきくなるで」
写真の思い出を蘇らせているグルーシャの一歩後ろを着いていくと、ふと彼の足が止まる。それは先程自分も眺めた、あの写真の前だった。
「懐かしい。この時はお互い緊張してたっけ」
「そうかぁ? チリちゃんはいつも通りだったけどな」
「ふーん、デート中ずっと髪の毛いじってたのに?」
「うっさい! そういうそっちこそモンスターボール触ってたやないか!」
気恥ずかしさを誤魔化す互いの癖に気づいたのも、今ではいい思い出だ。それから少しずつ彼のことを理解し、愛を深めてグルーシャの帰る場所になれたことに大きな喜びと幸せを感じる。
「チリと結婚できて良かった」
「な、なんやの急に! そや、お腹すいてるやろ。急いで用意するから待っとってな」
「ううん、今はいいよ。それよりチリはこっち」
キッチンへ向かおうとする腕をとられ、ソファへ腰掛けたグルーシャの膝の上に頭が乗せられ横にされた。膝枕なんてこっぱずかしい体勢、新婚の時以来してなかったのに急にどうしたと言うのか。
「これどういう状況なん?」
「チリが足りないから補給中。それに少し休んだ方がいいと思って」
「チリちゃんは家におるばっかやし、疲れてないで」
「そっか。ならぼくの癒しに付き合って」
髪を梳く指が優しくて気持ち良い。時折頭も撫でてくれる愛おしむ手つきに、涙が込み上がってくる。どうしてグルーシャには分かってしまうんだろう。本当は心も身体も疲れているって。
「グルーシャ。もう少し……このままでおってもええ?」
「少しじゃなくて、満足するまでここにいて。チリはぼくの恋人なんだから、いつでも甘えてよ」
「……うん」
『母親』としてではなく一人の女として自分のことを見てくれる彼に、愛しさと感謝の気持ちが心を満たしていく。きっと『父の日』なんてきっと口実だったにすぎない。恋人に感謝を伝える日なんて何度あってもいいのだから。体勢を入れ替え、真上を向けばこちらを見つめる甘い瞳がいた。
「父の日おめでとう、グルーシャ」
「ありがとう。チリのお陰だよ」
腕を伸ばしてグルーシャを求めると、掌を取られ甘く優しい口づけが振ってくる。額・瞼・鼻先・頬、そして唇に。啄む口づけの嵐に身を捩るが、彼から逃れられるわけもなくソファに沈み込まされ、のし掛かってくる愛しい重み。はらりとマラカイトグリーンの髪がちらばり、ソファの軋む音がやけに耳についた。
「疲れてるんやないの?」
「全然……って言いたいところけど、またお預けみたいだ」
密着していた熱が遠退き、グルーシャは泣き出した我が子を抱え左右に揺らしながらあやしている。子供に手を焼きながらも、大切に抱いているグルーシャの姿がいつも以上に輝いて見え、どうしようもなく愛おしく思えた。
グルーシャの子を産めて
大切な家族をあなたに増やせて
本当に良かった。
眩しいくらいの幸せの形を目に焼き付けながら、愛しい人達の元へ飛び込んでいった。
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