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チリちゃんに想われてみませんか



「失礼しました!」
「はい、ご苦労さん。気ぃつけて帰りぃ」

本日最後のテスト生を外面の良いいつもの笑顔で見送り、扉が閉まると同時につい漏れた盛大な溜め息。一瞬入り込んだ外気がやけに冷たく感じる。

椅子のキャスターを思いきり後ろへ引き、外の見えないイミテーション用の窓へと頭を傾ける。そこに映るのはパルデア地方五本の指に数えられるトレーナーの顔ではない。試験官用に拵えた眼鏡も今日はもう用済み。少々手荒に外し、くうを見上げてもそこにあるのは無機質な天井だけ。

瞼を閉じ思い出されるのは先週の逢瀬での帰り道。

久しぶりに恋人と都合がつき二人きりの食事とショッピングを楽しんでから、ドンナモンジャTVで取り上げられたイルミネーションの名所にやってきた。幹線沿いの街路樹が数万ものLED電球で彩られ、恋人の聖地と呼ばれるに相応しい雰囲気を醸し出している。周りは誰も彼も浮かれているようで、恋人との密着度も高そうに見える。自分もチェスターコートに突っ込んでいた手を出し、どちらともなく自然と指を絡め合う。

最近は繁忙期真っ只中でなかなかメディア視聴に時間が割けない。その一方、ポピーの影響で子ども向け番組はそんじょそこらの子持ちさんより詳しいと言うなんとも奇天烈なことになっている。そんな世間一般の流行に疎い自分に、やれあそこ行こう、これ食べようなどと世話を焼いては何かと連れ出してくれる。自分の為にあれこれ考えてくれてると思うとつい顔が綻ぶ。

前方から7、8人くらいの団体がわいわいと歩いてくる。変装用の眼鏡とキャスケットを目深に被り直し、やり過ごそうとすると。
その喧騒に紛れるように聞き逃すはずのない愛しい声が。

「いつまでこうしていられるやろか」

耳を疑う囁きが飛び込んで来て、繋いでいた指先から力を抜かれる。イルミネーションに照らされた横顔は見惚れてしまうほど綺麗なのに、苦しそうにどこか遠くを見ている。

まずい。このままだと解かれる。
指だけでなく心までもそのまま遠退いてしまう。
そんな背筋の冷える感覚が走る。
こちらは負けじと力を込め絡め返す。

(離さんといて…!)

祈りにも似た懇願は微かに震えとなって現れてしまったようだ。強く握り返され、バツの悪そうな困った笑顔で「もう遅いし帰ろか」なんて誤魔化されたら小さく頷くことしか出来なかった。



自宅へ戻り、デートの感想とセッティングの感謝を伝えようと文面を打っては消しての繰り返し。

さっきのはどういう意味なん
いつか終わってまうの

本当に尋ねたいことばかりがよぎり、打ったメールは結局下書きボックスへと追いやられた。比率で言えば自分からの連絡が多いやりとり。その自分が止めてしまっては、連絡無しの数日があっという間に経っていても不思議ではなかった。

いつもの《チリちゃん》で気軽に連絡すればいいのだろうが、どうしても本命に対してだけは二の足を踏んでしまう。容姿端麗・才色兼備なんて言われているが、どこにでもいる恋に臆病な一人の人間なのだ。


◇◇◇


一連の流れを思い出し再び小さく溜め息をつく。

「我ながら随分と女々しいこっちゃ」

スマホロトムのプライベートフォルダを呼び出す。画面の中で屈託もなく二人が笑い合っている。付き合い始めて間もない、まだジムリーダーをしてた時の一枚だ。今ほど髪も伸びておらず、肩に届くかどうかの中途半端な長さだった頃。髪なんてモンスターボールを投げる時に邪魔だし、ましてロングは自分のキャラではないと拒んでいた。

その日出番の無かった、若干運動不足気味のドオーをモンスターボールから放つ。今のドオーより二回りほど小柄だ。豪快な鳴き声と共にバトルリンク横にある泥遊び場へ、のそのそと向かう姿は何度見ても心癒される。

「掃除が終わったら毛繕いしたるさかい、ちぃっとひとりで遊んでてやー」

ドオーに毛はないから毛繕いと言うのが正しいかは不明だが、お返事とばかりに鳴き声が返ってきた。
さてと。モップ片手にジムの後片づけを始める。

「そろそろ髪、切りに行かんとなぁ」

何気なしに溢したら「もったいな」の一言がバトルフィールドに響いた。振り返ると、このジムでポケモントレーナーとして露払いを担っている恋人の姿が目の前にある。先ほどからジムの入口で掃き掃除してたはずなのに、いつの間に戻ってきたんだ。

(地獄耳かい)

独り言を聞かれ心で毒づく。

「チリのロング見たことないから気になるなぁ」

手入れのされた綺麗な指先が耳元を掠めると肩で跳ねていた毛先を一束手に取り、ぱらりと撫で落とす。触られたところが仄かに熱をもっているように感じるのは気のせいだろうか。なんだかむず痒く、照れ隠しでそっぽを向いて可愛くないことを口走ってしまう。

「適当なこと言うて。ロングやと手入れもセットもめんどそうやん。ウチは誰かさんみたいに器用とちゃうんやから」
「なーんや、そんなこと。それなら任しとき!毎朝、自分が美人さんに仕立てたんで!」
「あほ!元々チリちゃんは美人さんやろ!」
「あはは!突っ込むところそこなんや」

目尻に涙を堪えて笑う姿は、年相応より幾分幼く見える。別にあんたにならいつでも触れられてもええ、とは調子乗るだろうから言わないけども。

痴話喧嘩は犬も食わぬとはよく言ったもので。さっきまで聞こえていた泥はねの音が止み、視線をやると泥遊びをしていたドオーが一際大きなあくびをしながらこちらを見ていた。

「せや、じゃあ今のミディアムボブチリを撮っとかな。これから先、値打ちつくかもしれんやん」

コガネでよく見るお金を表すハンドサインをしながら、まるでマネージャーのように換算している。

(なんやの、そのミディアムなんちゃらって。どこぞの格闘家かいな)

「ほな、撮るで。はい、諭吉~」

スマホロトム片手に肩を抱き寄せられ、頬が触れそうなくらい近づく。

「ぶはっ!なにその掛け声!自分、守銭奴すぎん!?」

恋人の独特の掛け声センスが毎回妙にズレていてツボに入ってしまう。漫才のようにじゃれ合い、ひとしきり恋人との時間に夢中になっていて気づいていなかった。一向に構われず放っておかれぱなしで業を煮やしたドオーが地を這って突撃していることに。
そう、泥にまみれたまま──。

その後は大変だった。二人でもう一回モップをかけ直すわ、着替えし直すわで。しかし、ぷんすこ焼きもちを妬いてたドオーはとても可愛らしかった。そんな昔話も今となっては良い思い出だ。

その後、恋人は有言実行と言わんばかりにヘアアレンジをマスターし、伸びてきた髪を色々いじられた。試行錯誤しながらも恋人の指が自分へ向けられていることが幸せだった。

結局自分で出来るようになったのは今の髪型と2、3個簡単なものだけだったが。恋人から貰ったヘアゴムに指をかけ、ゆっくりと解いていく。腰まで伸びた髪がはらりと広がる。

──せっかく美人さんに育って、髪もさらさらなんやから手入れサボったらあかんよ。

耳タコが出来るほど言われた、恋人の台詞を反芻してみる。あの日のように自分でも毛束を摘まんでみては落とす。

(サボってへんわ)

枝毛もないさっらさらな触り心地だ。頼んでもいないのに無駄に高級なトリートメントを買ってきては、楽しそうに塗りたくり指通りを確かめては満足そうに微笑んでいた恋人。いつからだろう。心の距離ができてしまったのは。

自分が可愛げのない見た目になったから?
ジムリーダーを辞めたから?
四天王になったから?
……嫌いに、なったから?

年齢を重ねて、互いの立場も環境も変化していく。
それでも相手への気持ちだけは変わらないと思っていたのに。

たくさんの言葉を紡いでも
どれだけ態度で示しても
熱っぽく視線を送っても
何度触れ合っても
恋人の心には届かない

そのことが自分をどれだけ絶望させるか分かっていないのだろう。ほどいたヘアゴムをつつく。

──自分はチリに相応しくない
──もっとええ人がおる
──チリの隣に立てる自信がもてない

折に触れてそう言われ、恋人に寂しさと憤りを覚える。

「チリちゃんはあんたがいれば……!あんたの心さえくれればそれだけで幸せやのに」
「おおきに。ほんまチリはええ女やね。自分には勿体ないなぁ」

いつもの溌剌とした声はか細く弱々しい。自分のせいで最愛の恋人を悩ませてしまっているのだろうか?
真新しい四天王の手袋がぎりりと鳴った。

《自信》なんてどれだけ相手を好きか。
自分が相手を信じるか。これだけやないの。
他人の目なんか関係ない。

こちらだって恋人の隣には、もっと相応しい人がいるんじゃないかと何度も考えた。でも他でもない恋人が「ありのままのチリが好きや」と言ってくれたから、その言葉を信じているのに。

(あちらさんはウチの言葉は信用してくれないんやね)

残酷だ。こっちばっかり惚れさせといて。

「ずっるいなぁ」

あぁ、もう。今日はいつもの強気で無敵で格好いいチリちゃんは帰ってこないみたいだ。こんな時こそ久しぶりに一服するのもいいかもしれない。デスクの上段、間違ってもポピーが手に取らないよう鍵付引出しの奥にしまいこんだ煙草の封を切る。

(ちと古いもんやけどまだイケるやろ)

箱底を軽く叩くと頭を出した一本を唇で挟み、一緒に仕舞い込んでいた少々年季の入ったアンティークライターで火を点ける。ジジジ…と焼け付き始めた先端から紫煙が一筋の糸のように立ち上る。何をしても恋人との思い出が頭を掠める。

「今日何本目なん?やめろ、とまでは言わんがほどほどにしとき。チリには長生きしてもらわんと」

そう言ってうちの唇から煙草を奪い、そのまま自らが燻らして煙を吐く。「約束な」と小指を絡め子どもがするようにぶんぶんと上下に揺らされた。

(長生きしとうても、隣にあんたがおらんかったら意味ないやん)

ふいに咳き込み、視界が潤む。

「にっが…」
(こんなに不味かったっやろか……)

お気に入りの味だったはずなのに。恋人のせいで嗜好まで変わってしまったのか。倦怠期と呼ぶには相応しくない、長過ぎる年月が経っていた。

(このまま自然消滅か……)

かつて恋人が褒めてくれた髪を抱え込む。まるで今はそこに居ない愛しい人を抱きしめるように。

──○○カラ デンワ! ○○カラ デンワ!

静寂を切り裂いたロトムのけたたましい呼び声に、心臓が飛び上がる思いをする。しかも相手はまさに今、思案を巡らせていたその恋人からとは。

乱れた髪を手櫛で整え、パンパンと頬を軽くひっぱたき自らに活を入れる。もしこのまま別れ話になったら……最悪なことが頭をよぎりつつも、恐る恐る通話ボタンをタップする。

「はいな、お待たせ。どないしたん?」
「急にすまんな。ちょお話したいことがあったんやけど……。って、なんや髪も結ばんと寝とったん?仕事終わったんやったら帰ろか。下で待っとるから」
「下ってロビーのことかいな。この時間はとっくに閉まっとるはずじゃ……」
「始めは外門んとこにおったけど、フカマル抱っこした金髪のおっちゃんに中に入れてもろた。チリに会いに来た言うたら、急にわんわん泣き出して青春ですねぇぇぇぇ!とか言い出すからびっくりしたで」
「……さいでっか」

力が抜けガックリと頭を垂れる。

(……あんの金パチもん教師が!セキュリティガバガバやんけ)

これは明日号泣しながら色々突っ込まれること確定だ。まぁ、こちらも号泣、なんて羽目にならないといいが……。

「わかったわかった。今から急いで帰り支度するさかい、ちょお待っとき」
「チリ。ちゃんと髪結んで来るんやで。ほなまた」

通話が終わるとロトムの浮遊が止まり手に戻ってきた。

(髪結べ、ってどうせ帰るだけやしこのままでええかと思っとったのに)

わざわざ時間の掛かる、厄介なお願いをされたものだ。それでも恋人の言う通りに髪へと手を掛けているのだから惚れた弱みってもんは恐ろしいものだ。



◇◇◇



パルデアの冬は厳しい。今夜はまだ良い方だが、オーバーサイズのトレンチコートを身に纏い、マフラーとショートブーツも欠かせない。

ロビーに設えらている品の良いソファは、アオキさんの営業仕事での在庫処分品だ。目利きはあるのにいかんせん対人スキルが皆無なのが本当に勿体ない。

そこに深く腰掛ける見覚えのある姿が。その手には備え付けのマガジンラックから取ったであろう、うちが表紙を飾った雑誌。目を通しながら何やら考え込んでいる恋人へ、頭上から声を掛ける。

「お待ちどおさん」

少し声が震えたかもしれない。
よくよく考えればこの関係性がどうなるかの瀬戸際だったはずなのに、さっきはロトム越しに普通に会話をしていたではないか。

(あかん、急に心臓早なった)

パルデアリーグ特集!と銘打った雑誌を閉じ、見上げてくる視線がゆっくりと絡む。

「そない待ってへんで。急に来たこっちが悪いんやし。
うん、ほんまもんの方がずっと美人さんやね」

雑誌を顔の横に翳され見比べられる。

「あほ。そんなお世辞はええからさっさと出んで」

立たせた恋人の背をぐいぐい押しながら、顔馴染みの警備のおっちゃんに自分で残っている人間は最後の旨を伝え、ドアを開けてもらう。「おぅ、チリちゃんお疲れさん!」と愛想のいい労いを受け支部を背にしたところで、未だうちに背を押されたまま、首だけを回してこちらを向いた。

「この後、少し時間貰えへん?チリと行きたいとこあんねん」

いつもより真面目な声色でお誘いを受けた。




◇◇◇




「うっわ、綺麗やなぁ…」

間接照明に照らされレンガ造りの倉庫は赤く浮かび上がり、倉庫の間の広場には一際輝くクリスマスツリーが。反対に顔を振ればこの港のシンボルでもある斜張橋と夜景が一望できる桟橋。アサギやヒウンへ向かう大型船も停泊できるこの桟橋は、先ほどの対岸の夜景も相まって何度か特集されているデートスポットである。数組の恋人たちが先客として居るが、ベンチ同士の間隔が空いているため特に気にはならず、空いている奥のベンチに腰掛ける。

しばらくどちらも口を閉ざしたまま無言の時間だけが過ぎてゆく。

(……あぁ、これは覚悟しといた方がええなぁ。
こない綺麗な所でさよならとはえっぐいで。明日はハッサクさんと号泣決定やろし、トップも珍しくおるはずやからやけ酒に付き合うてもらお)

この沈黙を破ったのは恋人だった。何を言われるか身構え身体がびくりと強張る。

「綺麗やな。この前はちゃんと見ずに帰ってしもたやろ。こういうのチリ好きやし、一緒に見よ思て。どや、疲れもぶっ飛ぶやろ?」

(あかん。そういうとこやねん)
柄にもなく涙腺に来た。恋人は愛おしそうに目を細め、ひどく甘ったるい声が鼓膜を震わす。

(あんたまだうちのこと好きなんやろ?)

自惚れなんかじゃない。だって伝わってくる。
瞳から。声から。全身から。
勢いよく立ち上がり恋人の顔を手のひらで包み込む。吐息がかかるほどの至近距離で見つめ合う。

「好き。あんたのことが大好きや。何度でも言うて、何度でも抱きしめたる。だからいつまでいっしょにおられるかなんて、そない寂しいこと言わんといて。この先もうちらはずっとずーっと一緒や!」

感情が溢れて止まらない。思いの丈を一思いに吐露したところで突然首裏へと腕が回り力いっぱい引き寄せられる。急なことでバランスを崩し目の前の胸に飛び込んでしまった。

「やっぱこの前の聞こえてしもたかぁ」
「当ったり前や。チリちゃんの地獄耳舐めたらあかん。特にあんたの声にはよぉ反応するで」
「おーこわ、だったらちゃんと聞いてな」

肩を支えられると隣へ腰掛けるよう促される。瞳をまっすぐに射抜かれ逃れることができない。

「ずっと考えとった。チリはチリらしく自由に生きてほしいって。仕事も趣味も恋人もなんだって選ぶことができる。チリは可能性に満ち溢れてるのに、それをどこにでもおる平凡な自分が縛りつけたらチリの枷になってまうんやないか。輝いてるチリを見るたんび誇らしいのと申し訳ないのとで、ぐちゃぐちゃになっとった。」
「…………」
「でも思い出したんや。自分の前でだけは、四天王とか試験官とかモデルやない、出会った頃と変わらないチリやって。自分が離れたらチリは誰に頼るんや。本当のチリはどないなってまうんやろって怖くなった。他人なんかに任せられへん。チリの笑顔を守るんは自分のはずやったって」

今さらなに言うてんの。当たり前やん。うちは何も変わってへん。あんたと出会った頃のままの、弱虫で意地っ張りなチリや。あったかい掌が頬を包んでくれる。

「格好いいチリも、綺麗なチリもちゃう。そのまんまの可愛いチリが好きなんや。チリを好きな気持ちは誰にも負けへん」

堪えていた涙がはらはらと頬を伝っていく。一度溢れると堰を切ったように止まらない。

──伝わってた。ちゃんと届いてたんや、うちの想い。

「そない泣かんといて、別嬪さんが台無しやで」
「誰のせいやねん。こないにうちの心かき乱しといて、今更別れられると思とんの? うちを泣かせられるんは後にも先にもあんただけや」
「そうやな、ごめん。不安にさせてもうて。それとおおきになぁ。…………せや、ひとつお願い有るんやけど」
「なんやねん、改まって。変なことは勘弁やで」

涙の痕を優しく指の腹で拭われながら問われる。

「あんな、チリのこと抱き締めてもええ?」
「だめや」

間髪を入れず拒否され「調子乗ってすまんて!」と慌てる恋人に真正面から勢いよく抱きつく。

「あんたからは許さん。お仕置きやからうちが許すまでは、ずっとこのままや。少しは観念しぃ 」
「チリを泣かせた重罪人やさかい。謹んでお受け致しましょう」

ふわりと背中へ腕が回り、抱き締め返されると見つめ合う。どちらともなく瞳を閉じ、口づけを交わす──はずが。

(………………全っ然チューされん)

怪訝に思いに目を開くと、恋人はこちらの首元をくんくん嗅ぎ回っている。

(いやパピモッチかいな!絶好のムードやったんとちゃうんか)

「チーリー、煙草吸うたやろ」
「えっ!匂う!?でも一本ちゅーか、一口だけやで」

恋人の狭い腕の中で自らも髪とコートを嗅いでみる。

「チリの香りが消えそうや。もちっと補給せんと」

背にあった腕が腰を回り、ぐっと力が込められより密着する体勢になる。そんなに匂いが気になるなら……

「あー、こりゃシャワー浴びんとあかんなぁ。どっか貸してくれる所ないやろか」

意地悪く微笑みながら恋人の前髪をのけてお誘いをかける。こちらの意図が伝わったのだろう。

「ひとつ心当たりあんで。チリもよぉく知っとるとこやけど……来る?」

熱情を湛えた瞳に自分の顔だけが映り込んでいる。こくんと首を縦に振り、再び胸へと頬をすり寄せる。

「ほんならチリさん、仮釈放を要求します」
「いいでしょう。ただし護送先に着いたら再執行のつもりなので努々忘れぬように」

真面目ぶった恋人に合わせ、こちらも試験官モードで答えてみると、ほんの少しだけ身体が離れる。そのまま指を取られ、さっさと帰ろうと踵を返す背中を思いきり引き寄せこちらへと振り向かせる。

「まずは1個目の罰な」

振り向きざまにコートの襟元を引き寄せ、先ほどしそびれたキスを送る。

「……そない煽って覚悟しぃや」
「せいぜい気張ってなぁ。チリちゃんのことがっかりさせたらあかんで」



想いを確かめあった二人は眩い夜景の中へと吸い込まれていった。







◇◇◇◇◇◇◇◇








(お天道さんはまだか……)

カーテンの隙間から朝日が漏れてないことを確認し、覚醒途中のぼやけた頭で昨日のやりとりを思い出す。
夢やなかった……。気怠い身体を起こし、隣の恋人へ視線を送ると既に目覚めていたのだろう、熱っぽくこちらを見つめていた。

「おはようさん。疲れたやろ、まだ寝とってええで?」

落ち着く声に引き寄せられ恋人の胸元へとすり寄る。
眠りへ誘うように解いた髪を撫でられ、心地よい微睡みに溺れる。時折撫でる手が止まり髪に口づけられる。

(気持ちええんやけど、なんか忘れてるような……)

「あ」

思い出した。ずっと引っ掛かってたこと。
髪に触れていた手を掴み、きょとんと驚いた恋人に尋ねる。

「なんであん時、髪結ばなあかんかった?」
「なんやて?」
「昨日リーグで電話した時や。もう帰るだけやから下ろしたまんまでええかと思っとったのに!わざわざ結び直すの面倒やったんやから」

恋人は昨日の記憶を辿ると、思い出したのかボッと急に顔が赤くなった。ありゃ、うちそんな変なこと聞いた?

「言わんとだめ?」
「無理にとは言わんけど、気にはなるなぁ」

「どないしよ」と一頻り葛藤してから観念したのかポツリと溢した。

「……見せたなかったんや」
「何を?誰に?」
「せやから!チリの髪下ろしたとこ!他の人に見られとぉなかったんや。現にあの警備のおっちゃんが見てまうとこやったろ」

恋人の思ってもみなかった告白に気圧けおされ、掴んでいた手を離してしまう。

(焼きもち!?しかも警備のおっちゃんに!?)

あのおっちゃんは人懐こいけど妻子もいるし、なにより歳が離れすぎだ。

「いや、それこそうちにも選ぶ権利っちゅーもんが……」
「チリの無防備なとこは自分だけが知っとればええやろ」

叱られたオラチフのようにしゅーんと垂れた耳が見えるようで可愛くてしゃあない。同じ香りの、自分より少し柔らかい髪をわしゃわしゃと撫で回す。

「チリちゃんの人生な、ポケモンを通して色んな人と出会ったし別れてきた。そん中で、ずーっと一番に選び続けてんのはあんただけやで」
「うん、分かっとる。心狭くてごめんな」
「可愛いもん見れたからヨシとするわ」

愛おしさが込み上げ胸元へぎゅうと頭を抱き寄せると、昨夜から続いているやりとりが始まる

「まだ刑の執行中やったんか?」
「そうや。チリちゃんの見立てやと、もうちっとかかるかもなぁ」
「……もうちっとでええんか?」

抱えた胸元から訴えかけるように上目で見つめられる。
狭い毛布の中でくるりと回転し、恋人を組み敷くとベッドへ縫い付ける。マラカイトグリーンの髪が、流れるように恋人の顔へと降り注ぐ。

「今のは、うちの好きなようにしてええって捉えるで」
「そのつもりで言うとる」

おふざけの一切ない真剣な表情で言うものだから、恋人の本気が伝わってくる。目の前の人に自分を求められる歓びが身体中を駆け巡る。

「なら死ぬまでチリちゃんと一緒や」

言い終えると同時に恋人の唇を己ので塞ぐ。口づけに浸りながら横倒れ、二人でシーツの海に沈んでいった。





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