会いたい人は誰?
「綺麗」
「なにが~?」
テレビの旅行番組を見ているグルーシャがぽつりとこぼした。彼が言うんだからきっとどこかの風景かポケモンのことだろうと予想しつつ、手元のコンロの火を止め対面キッチンのカウンターから身を乗り出してみる。テレビの液晶画面にはアローラ1美人と称される歌手がサンセットのビーチを背景に、アシレーヌと戯れながらその美声をカメラに向けて届けていた。
「うえっっ!?おん……めっちゃ美人さんやな」
「美人さん?ああ、そうとも言うか」
グルーシャは不思議そうにこちらを振り向いたが、うちの顔を見るなり何かに納得したのか再び画面へと視線を戻す。ローテーブルに置いてあるメモ帳を手にすると、テロップの情報を走り書きしだした。何をメモしているのか気になり、彼の手元を覗こうとカウンターから頭をぴょこぴょこ出し入れするが、聞こえてきたのはクスリと笑った声だった。
「なにやってんの。ほんと見てて飽きない人だね」
褒められているのか貶されているのかなんとも微妙な言い回しだ。画面の向こうの女にはストレートな褒め言葉を使うのに、こちらにはからかうような物言いをするグルーシャに腹の虫の居所が悪くなる。口からはつい可愛くない言葉が勝手に零れてしまう。
「ふん。どうせチリちゃんは綺麗でも美人さんでもないただのおもろい女ですわ。それがコガネ人にとっては最上級の褒め言葉やし、別にえーけどなっ!」
散々赤の他人に容姿を褒められたとしても、その言葉を最も掛けて欲しい人から貰えなかったらなんの意味もない。いつもは自信に溢れる心が、この人の前でだと簡単に揺れ動いてしまうのがすごく悔しい。
「なんか勘違いしてない?確かにチリといると面白いけど、あんたは綺麗っていうより《可愛い》だから。ぼくの前では特に、ね」
「なっ、なに言うてんの!うちがかいらしいやなんて……そんなわけ」
「可愛いよ。チリは誰よりも……可愛い」
こちらの反論にキザったらしい言葉が重なったと思ったら、いつの間にかグルーシャの顔がカウンター越しに近づいていた。頬に大きな掌の温もりを感じると唇に触れるだけのキスをされる。その流れるような所作とわざとらしいリップ音を立てて離れていく表情は、小憎たらしさ全開だった。
「ほら、こんなんで赤くなってさ。今まで何回キスしてると思ってるの。ほんと、いつまで経っても可愛い人だよね」
「~~っっ!サッムいこと言うてんなや!!」
手近にあったディッシュ皿で鼻まで顔を覆ってみるが。そんなこちらの様子を、目尻を下げて見つめてくる彼が愛しく思えて仕方ないのだから、我ながら惚れた男には弱い単純な思考回路なのかもしれない。
「そういえばさっき何メモってたん?あの子の名前?それとも
「それが気になって覗いてたの?ちゃんと後でチリにも言おうと思ってたよ。えっと、名前はメレ。年は書いてなかったけど、パッと見もういい大人でしょ。そんなに気になるなら今度アローラ行くんだし現地で聞いてみればいいんじゃない。あの子、チリが行きたいって言ってたハノハノビーチによく出没してるって」
メモの内容を話すグルーシャは、普段より声色が明るく旅行への期待を膨らませているようだ。その彼が発した女の名。《メレ》だなんて、名前まで歌姫らしい綺麗な響きときている。こちとら激辛の唐辛子を冠する、可愛らしさの欠片もない名前だというのに。彼女の名前も出没スポットもメモってわざわざうちに報告するだなんて、グルーシャは思っていたよりタチの悪い男のようだ。持っている皿から、ぎりりと力のこもった歪な音が鳴る。
「……グルーシャ一人で会えばええやん。チリちゃんはあの子と相性悪そうやし、あんたとはお似合いやで」
「相性?ああ、チリはじめんタイプだからか。でもあの子は初対面の人にも慣れてる温厚な性格らしいし、いきなりチリに向かって攻撃しかけてはこないでしょ」
なんだなんだ、その妙な信頼は。会ったこともない女の肩をもつなんて随分とご執着じゃないか。本当はああいう大人しくて品のある子がタイプだったのか?誰もが羨む美貌に美しい声をもつ女と、それに負けず劣らず整った顔のグルーシャが海辺で佇んでいたら、誰が見てもお似合いの二人だろう。想像するのもしんどい光景を思い浮かべてしまい、その画を振り払うように持っていたディッシュ皿へ少し形の崩れてしまったハンバーグとサラダを乱雑に盛り付けていく。
「ふん、どうだか分からんで。男は知らんやろけどなぁ、女心なんてすぐに変わるもんなんやから。それにうちみたいなガサツで荒れとる人間が近づいてもうたら、あっちゅう間に喧嘩になってあの子の大事な喉が潰れてまうんやないの」
一丁上がりと言わんばかりにカウンターに盛り付け終えた皿を勢いよく置くと、怪訝な面持ちで受け取ったグルーシャがダイニングへと運んでいく。
「喧嘩?確かに女性同士の空気感はぼくには分からないけど、チリとあの子が相性悪いなんて思えない。それに喉の心配なら現地は今雨季だし、いざとなったら二人のポケモンで水技出して湿度上げれば問題ないんじゃない」
「なんやて?」
自分一人だけならまだしも、あろうことか大切な手持ちポケモンも彼女に会わせ挙句の果てには技を繰り出してまで喉を気遣うとは。こちらの心の機微に全くもって気付かない鈍すぎる発言に、ついに堪忍袋の緒が切れ不満が爆発してしまう。
「~~っっ、ああっ、もうっっ!!そんっなに会いたいならグルーシャ一人で行けばええやろ!折角の新婚旅行なのになにが悲しゅうてわざわざ他の女んとこに行かなあかんのっ!いくらうちかて、結婚したばかりの旦那をみすみす目の前で盗られるのは黙っとらんからな!!」
「他の……女?ちょっと待って。チリなんか勘違いしてない?」
「はぁっ!?なにを勘違いしとるって!?」
興奮冷めやらないこちらに対し、グルーシャはロトムを呼び出すと顎に手を当てながら先ほど撮った海辺の写真をまじまじと凝視している。他の女を見つめるグルーシャにも、そんな彼に怒りと哀しみを覚えている自分自身にも腹が立ってしょうがない。「これ見て」と、こちらの眼前へずいと差し出された歌姫の整った微笑みから勢いよく目を背けてしまう。
「あのさ、ぼくが言ってるのはアシレーヌと夕焼けのことなんだけど」
「………………え」
──アシレーヌ?夕焼け?
ぽかんと面食らったまま立ち尽くしてしまう。グルーシャの今までの言葉がぐるぐると脳内を駆け巡り、パズルのピースが一つずつ嵌まっていくように真実が導き出されると、怒りで熱くなっていた身体が急激に冷えていく。
「やっぱり、そういうこと。さっきからなんか話が噛み合わないと思ったら、ぼくがこの歌手を褒めてると思ってたわけ?」
「なっ、なっ、せやかてグルーシャさっきから……!」
グルーシャが指差している相手はよく見ると画面から見切れ、ピントが合っているのはアシレーヌとその後ろにある沈みゆく夕日だった。冷静になって思い返せばグルーシャは一言も『人間の』歌手のことについては言及していなかったではないか。冷めた身体はぎこちなく固まるだけでなく、声もうまく出せない。なんでグルーシャのことを疑ってしまったんだろう。ついこの間、ポケモン達とみんなの前で愛を誓い合ったばかりだというのに。
「あ、の……グルーシャ」
「ヤキモチ妬いてくれるのは嬉しいけど、信用されてないのはいい気しない」
視線を横へと反らし吐き出された、至極当然の言葉は鋭い氷柱のように胸を突き刺す。交換したばかりの真新しい指輪を無意識に撫でるとやけに冷たく感じるのは気のせいではないだろう。それなのに俯いたこちらの耳に届く声色は、甘く優しい響きで鼓膜を震わしてくる。
「ねぇ、チリ。ぼくはあの夕焼けを二人で見れたらどんなに素敵だろうって思った。これから先、たくさんの景色をチリと見て、笑って、思い出を一緒に重ねていきたいから」
「うん……」
なんて素敵な未来なんだろう。そんな欠けがえの無い思い出を二人で積み重ねていけたらどんなに幸せだろうか。突き刺さった氷柱は彼の言葉によってみるみるうちに溶け出しゆっくりと心を潤していく。
「ほんまごめん……。グルーシャのこと信じとるのに、一人で勝手に自信無くして嫌な態度取ってもうた。あのな、うち自分で思てた以上にグルーシャのこと好きやねん。誰にもあんたを渡したない。今更なに言うてんのって思とるやろけど、それだけは自信もって言えるさかい。せやから……!」
意を決して顔を上げると、そこには不気味なほど整った意地の悪い笑みを湛えた夫の姿があった。目線がばちんと合うと、思わず後ずさってしまう。
──この顔はろくでもないこと考えとる!
「あーあ、新婚だって言うのに見ず知らずの女なんかと疑われてすっごく傷ついた。どう責任取ってもらおうかな」
「うん!?ちょっ、ちょい待ち!責任取る言うてもどうやって……」
「子供じゃないんだし方法は色々あるでしょ。そうだな、例えばベッドの上、とか」
「~~~っ!」
「他にチリのおすすめの場所でもぼくは構わないけど」
彼の言わんとすることが分からないほど純情ではない。そして、それが一番自分の想いを彼に伝える術で、悦んでくれる行為なのも十分理解してはいる。でも今はまだ、窓の向こうから夕陽が差し込んでいる健全な時間なのだ。ぐるぐると謝罪の方法を思案していると、苦笑混じりの言葉と共にぽんと頭に掌が乗せられる。
「まあ、冗談は置いといてせっかくのハンバーグが冷めるからそろそろ食べようか。アローラ観光の相談もしたいし」
「……ええよ。ご飯の前にうちのこと味見しても」
踵を返しリビングへ戻ろうとした広い背にぽつりと投げ掛ける。結婚祝いにポピーから貰ったエプロンの裾を握りながら零した本音。少し震えてしまった声は幸か不幸か彼の耳にしっかり届いたようで、勢いよく向きを変えると今度はグルーシャが対面カウンターから身を乗り出してきた。
「ねぇ、今のほんと?こんな時間からチリのこと食べてもいいの?」
「うっ……そうや!女に二言はあらへん!お詫びやさかい、煮るなり焼くなり好きにしぃや!」
胸を張り、掌でドンと叩くとカウンター越しだったグルーシャはいつの間にかキッチンへと入り込み、余裕のない手つきでこちらの手首をとった。足早に廊下を突き進み、寝室に連行されるとドアを背にして押し付けられる。見上げると目の前には舌舐めずりをした夜しか見れない夫の姿があった。
「他の女がそんなに気になるなら、今日はぼくの上で鳴いてみてよ。チリの鳴き声は誰よりもそそる声だって教えてあげる」
「……あほ。サムすぎや」
照れを含んだ言葉とは裏腹に、自由になった手はグルーシャの鍛えられた身体を服の上から撫で始めている。うちだってグルーシャのことを愛したいし、愛されたい。お詫びの気持ちだけではない、女の独占欲がどろりと身体を巡っていく。
──グルーシャはチリちゃんだけのもんや。
彼の弱い脇腹に、つぅ……と指が触れると、僅かに空いていた二人の距離が零になる。
「先に言っとく。味見だけで済むなんて思わないで」
蒼瞳の奥には熱く燃え上がった欲がゆらめいていた。その瞳に射抜かれたら拒絶の言葉なんて、もう浮かんではこない。
「食らいつくしてみ。でもうちの鳴き声は強いで」
「望むところ。……さぁ、バトル開始といこうか」
微かに寝室を照らしていた夕陽が沈みきり、宵闇に包まれると同時に唇を食み合う。熱く溶けるような真剣勝負の時間が始まった。
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