傷と薬

──勝者・四天王のチリ!

審判の声によってバトルの勝敗が高らかに宣言される。勝利を掴み取ったドオーを労り、モンスターボールへ戻す。バトルフィールドの先では倒れた相棒の傍から未だ離れない挑戦者の姿。四天王の象徴である革手袋に包まれた掌を差し出すと、こちらに気づいて見上げてくるその瞳には涙が溜まっていた。零れ落ちる前にぐいと袖で拭うとこちらの手を力いっぱい握り返しながら、勢いよく立ち上がってくる。

「ええ勝負やった。またバトルしような」
「はい!次こそは勝ちますからっ!」

再び瞳に闘志を灯して走り去っていくパルデアの明るい未来。あの子はきっともう一回り大きくなってこの地を再び訪れるだろう。その時にまた露払いとして迎え入れてやろうではないか。バトル後の充足感と高揚感で身体が火照っている。革手袋を外して身体を伸ばすと、ピリッとした痛みが頬を走った。

「……いった……!あちゃー、やってもうたか」

手鏡で確認すれば小さなすり傷が頬と首元にいくつかついている。よく見ればカッターシャツから露出している手首にも同じ傷が見てとれた。ダグトリオの《すなあらし》はフィールド全体の天候を変える特殊技。その効果は相手ポケモンのみならず、トレーナーにも少なからず影響を与える。砂埃だけでなく地面から巻き上げられた小石、ガラス片が塵となってバトルフィールドを漂っているのだから傷を負うのは至極当たり前のことなのだが。腕の傷を擦ると脳裏を過るのは恋人であるグルーシャの姿。

「こら参ったなぁ」

頭をがしがしと掻き乱すと捲っていたカッターシャツの袖を下ろし、緩めていたタイを締め直す。ご機嫌取りに彼お気に入りのバラトのプリンを買って帰るとしよう。足取りは軽いとは言いがたいが、今日は早めに家路へと着いて彼との時間を多く取ることに決めた。


◇◇◇


赤緑白のトリコロールで彩られた紙袋を引っ提げ、泥棒が侵入するかのようにそろりと我が家へと入る。

「ただいま~……」
「あれ、チリさん?ごめん、連絡なかったからまだ夕飯途中なんだ」

ギャルソンエプロンを腰につけてお玉片手にキッチンから顔を覗かせたのは、この家のもう一人の住人・グルーシャ。今日は彼の方が先に家に着いたため夕食の準備を買って出てくれている。

「あぁ~、ええってええって。チリちゃんが連絡せえへんかったのが悪いんやし。ほんならご飯の前に、先にお風呂もらうな」

グルーシャの背を通ってプリンを冷蔵庫に片し、そそくさと浴室へ向かおうとすると手首を掴まれ袖を捲られる。動きを止めた背中に冷たい汗が一筋つぅ、っと伝っていった。

「この傷、どうし……!いや、今日の挑戦者、ダグトリオまでいったんだ……」

傷を確認するや否や血相を変えたかと思うと、すぐに冷静になった様子でするりと手首と頬を擦られる。こんな簡単な隠し方では彼の目を誤魔化せるはずもないのは分かっていたが、気付かれてしまってはこちらも包み隠さず怪我を負った時の状況を伝えなければ。

「そうや、なかなか手強かったで。まぁ最後はドオーで終いやったけど」
「……そう」
「そないな顔せんでも大丈夫やって。ただのかすり傷なんやから」

掴まれていた手がゆっくりと離され腕の自由が利くようになると、グルーシャの頭をぽんぽんと撫でてから脱衣所へ向かう。既に用意されていた湯船に浸かると身体を包む温かさに安堵の息が漏れる。どうやらグルーシャが入浴剤を入れてくれていたようで、ラベンダーの香りが鼻腔を擽り心身ともにほぐれていく。そんな癒しの環境を用意してくれた彼に身体を伸ばしながら感謝していると、ピリピリと身体のあちこちから滲みる痛みが走った。

「~っっ!」
(早よ治さんと……)

ぱしゃぱしゃと湯を肩へ掛け、伸ばした腕を眺める。温まった身体に浮かび上がるいくつもの赤い痕。自分とポケモン達との戦闘の勲章を誇らしいと思う反面、この傷によって心配をかけてしまう彼のことを思うと心苦しくもある。

手早くドライヤーとスキンケアを終えゆったりめのパジャマを身に付けて、食欲そそる香りの漂うリビングへと戻る。グルーシャは食事の準備を終えたようで、日課である明日のナッペ山の天気をチェックしているところだった。

「お帰り。いつもより出てくるの早かったけど、お湯熱かった?」
「ううん、ちょうど良かったで。お腹空いてもうて、はよグルーシャとご飯食べたかっただけやから。せやけどご飯の前にコレ、お願いしてもええ?」
「……うん。任せて」

ダイニングテーブルの片隅に置かれている塗り薬を指差しながらねだると、辛さと少しの安堵が混じった表情で肯定される。普段は薬箱の中に入っている薬がここにあると言うことは、グルーシャも同じことを考えていたのだろう。並んでソファに腰掛けるとパジャマの袖を捲られ、湯上がりで未だ赤く浮き上がる傷に無言のまま薬を塗り込まれていく。しばらくされるがままに腕を預けていると、先に口を開いたのはグルーシャだった。

「久しぶりだね、ダグトリオ使うの」
「そうやなぁ。今日の子ぉは、みずとくさタイプのパーティで揃えてきとったからちぃっと危なかったで。自分のところにも来たやろ?」

挑戦者の容姿を身振り手振りで伝えると「ああ、あの子か」とナッペ山ジムでのバトルを思い出しているようだが、決して薬を塗り込む手は止めようとはしない。そんな彼の気が少しでも紛れればと、今日のポピーとのやりとりやアオキさんとオモダカさんの夫婦漫才めいた会話、そしてハッサクさんのいつもの雄叫びを語ってみると、ようやくグルーシャに笑顔が戻った。

「相変わらずリーグは賑やかそうだね。で、そこにチリさんもいるんでしょ。収拾ついてるの?」
「そこはチリちゃんが纏めとんのやから大丈夫やって!」

空いている手で胸をドンと叩くと「それが一番心配なんだけど」とぬかすので、ヘッドロックをかましてやる。

「なんやて~、どういう意味やねん。この、澄ました顔して毒舌吐きよってからに!」
「いたた、ごめんて。ギブギブ」

締め付けている腕をぺしぺしと叩かれたので離してやると、交代と言わんばかりにもう片方の腕へと薬を塗られていく。以前はこの傷をグルーシャに見つからないよう隠していた。しかし同じ家に帰るようになってからと言うもの、そんな小細工は彼には通用せず大抵、帰宅早々に見抜かれてしまう。(仮に誤魔化せたとしても最終的にはベッドの上でバレてしまうのだが)

グルーシャは傷を見つける度に血相を変えて傷を負った状況を問い詰めてきた。その取り乱した姿と、まるで自分が痛みを感じているかのような辛い表情をするものだから、隠す方が逆効果なのが分かったのだ。彼は以前もこうして薬を塗りながら話してくれた。

──《すなあらし》がバトルの戦略的に必要でそれがチリさんの闘い方なのも、ポケモンとの信頼関係の強さの表れなのも分かってるつもり。でもだからと言って傷をそのままにしておく答えにはなってない。傷ついたならきちんと処置をして治してほしいし、出来ればその役目は自分にやらせてほしい。

──傷を隠すってことはぼくは信用に値しないってこと?チリさんの甘える先にはなれないの?

そう呟いたグルーシャの深い想いに、浅はかだった己の考えを改めた。彼が《怪我》に対して人一倍過敏なのは、その過去故なのは誰が見ても明らかだろう。自分についた傷で自分以上に辛い想いをさせてしまうのは、なんと心苦しいものか。

両の腕を塗り終えると、首筋に指が添えられぴくんと反応してしまう身体。グルーシャは薬を塗っているだけ。なのにその指遣いで長い夜を思い出してしまうのは、それだけ愛を重ねた証拠でもあった。

「ふ……ぅ……っ、ん……」

息を飲んで微かな快楽を誤魔化すが。グルーシャの指は止まることなく首から鎖骨を滑っていく。

「グ、ルーシャ……」
「ごめん、滲みた?」

潤いを増した瞳を痛がっていると受け取ったようだ。ふるふると頭を横に振り、グルーシャの指を促す。塗り込むクリームの冷たさと男の指の温かさに傷口から彼の愛情が染み込んできて、じんわりと身体に熱が灯っていく。ぱちっとグルーシャと視線が交わると、蒼く澄んだ瞳の奥に燃える情欲が潜んでいるのがわかった。鎖骨で止まった指の上からこちらの指を絡めて懇願する。

「薬はもうええから……。この先はグルーシャが治してや」
「ご飯とあのプリンはいらないの?」
「むむっ、野暮なこと言いよって」

この期に及んで食事の心配をするグルーシャから顔を背けると、塗り薬が音を立ててテーブルに置かれた。乱暴に置かれた薬とは対照的に、こちらの頬へ触れる手つきはひどく優しいもので。背けた顔を正面に戻されると、傷口へ触れるだけの口づけを落とされる。ちゅ、ちゅっ……と傷の数だけ唇が触れ、去り際にぺろりと一舐めされる。パジャマの開いた襟ぐりから掌が侵入すると、ボタンをひとつ、またひとつと外されながらソファにゆっくりと倒される。

「他に怪我してないかチェックさせて」
「ほんま心配症やね。ほんなら隅々まで見てもろて安心してや」

瞳を閉じると重なる唇で彼からの治療が始まった。晒け出した身体についた傷痕ひとつひとつに、彼の愛情が落とされていく。沁み込んでくる想いに愛おしさが胸を締め付け、涙がひとつ頬を伝っていった。

──なぁ、グルーシャ。うちにはあんたが一番の薬なんや。せやからいっぱい愛してな。


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