ハロウィン
10月31日。テーブルシティの街中はどこもかしこもハロウィン一色。リーグ本部でも幼いポピーのために、お菓子を用意したり簡単な小物を身に付け仮装している職員も多い。しかしパルデア最北端のナッペ山ではどうだろうか。幼い子供が立ち入ることのない厳寒な世界ではその文化は浸透しておらず、相も変わらず色味の少ない殺風景なジムの内部をヒールを鳴らしながら目的の部屋へと一直線に駆け抜けていく。両手で勢いよく扉を開けると部屋の主が書斎机から呆れた顔をこちらへ向けた。
「何しに来たの。こんな夜遅くに」
「お疲れさん!さぁて、今日はなんの日やろなぁ?」
「いつもの月末。ただでさえ忙しいのになんであんたは気軽に来れるのさ」
書斎机に積まれた報告書。秘書よろしく、サイン済みの書類を整えるマニューラ。床と机に転がるエナジードリンクの缶。なかなかの修羅場に突撃してしまったようだ。
「それはチリちゃんの日頃の行いとタスク処理能力の賜物やろ」
「はいはい、そうですか。流石は優秀な四天王サマ。一介のジムリーダーとは出来が違いますね」
軽口を叩きながらも手元の書類に目を走らせ、サインを流れるように書いては後ろ手に放り投げていくと、マニューラが長い鉤爪でキャッチし書類を積み重ねていく。
「なぁ、グルーシャ。今日はハロウィンやんか!ちゅーわけでトリック・オア・トリート!」
催促するように掌を差し出しながら宣言すると、サインする手を止め眉間に皺を寄せて吐露する言葉は疲れと合点を含んだものだった。
「それでその格好ってわけ……。わざわざマフラー自分で買ったの?」
「おもろそうやから買うてみた。なんちゃってグルーシャ気分やで」
リーグ公認で最近販売されたジムリーダーと四天王のグッズ。今、自分の首に巻かれているものもその内の一つだ。朱と紺で編み込まれたマフラーの先端に付いている、モンスターボールを模した毛糸の束を掌の上で弾ませてみる。
「トリック・オア・トリートって言われても、ここにお菓子なんてあるわけないでしょ」
「そぉかぁ、ほんならイタズラさせてもらおかな」
つかつかと彼の前に歩を進め書斎机に腰掛けると見上げてくるスカイブルーの瞳に映るのは、企みを隠すつもりのない口角を上げた己のみ。グルーシャはマニューラをモンスターボールへ戻すと完全に二人きりになった執務室。
「イタズラねぇ……。チリさんがしてくれるなら、ぼくにとってはご褒美でしかないけど。ほら、好きにやってみなよ」
椅子の背もたれへ寄りかかり、腕を広げてこちらの行動を待っている小憎たらしい年下の恋人。慌てふためく姿を見てみたいとナッペ山まで乗り込んだものの、なんだこの余裕は。
「んなこっぱずかしいこと言われて、イタズラなんて出来んわ。自分、随分と余裕やんけ」
「チリさんの考えてることなんか想像つくよ。ハロウィンを口実に優位に立ちたいとか考えてたんでしょ」
見抜かれた真意に、意味のなかった気持ち程度の仮装をため息と共にするりと外す。
「はいはい、そうですー。チリちゃんが浅はかでした。ま、グルーシャの元気そうな顔見れたしもう帰るわ。忙しいところすまんかったなぁ。今度は甘いもんでも持ってきたるわ」
机から降りようと腰を浮かすが、そうはさせじと後頭部に腕が回りぐんと引き寄せられる。気づけば額をついた眼前に、恐ろしく整った笑みを湛えた顔があった。
「誰が元気だって? チリさん、トリック・オア・トリート」
「ぅえっ!? せやから今日はチリちゃんお菓子持ってへんって……」
「ならイタズラだね。砂糖より甘いものはここにあるんだからお菓子なんて要らないよ。ぼくにとってチリさんが一番疲れに効くんだから」
頭にあったはずの掌にはいつの間にか自分のものと同じ革手袋が嵌められ、ねっとりと首裏を擦られる。いつものグルーシャの指とは違う革特有の鞣した肌触りに身体がぞくりと震え、そんなこちらの様子を見るや否やロックオンと言わんばかりに舌舐めずりをされた。
「え、あの、グルーシャ……っ!」
「それじゃ、いただきます」
カッターシャツの開いた襟から覗く鎖骨に一つ唇を落とされる。ちくりとした痛みに声が漏れ出ぬよう唇を噛んで耐えるが。与えられた小さな快感はその一回のみ。代わりに規則正しい寝息と共に彼の重みがのし掛かってくる。
「寝よった……」
こちらが訪れる前からかなり根を詰めて仕事をしていたようだし、自分の傍で気が抜けたのであればそれは喜ばしいことだ。このまま起きるまで寝かせておいてやろう。起こさぬようゆっくりと顔を机の天板へと倒すと、机から降りて毛布を彼の背へとかけてやる。パイプ椅子を眠る彼の横へ持ってきて顔を覗き込むと、眉間の皺は消え起きてる時より幾分幼い顔つきの恋人。その寝顔はいつ見ても愛おしさが込み上げてくる。気づけば最後の書類にサインが終わったところだったようだ。よく見るとそれは自分宛の決裁書。彼の万年筆を借りてサインをすればこれで本当に今月の仕事は納まった。
「お疲れさん。起きたらイタズラしあいっこしよな」
ひとまずお返しで首筋に揃いの紅い華を咲かせておこう。目が覚めたら彼は照れるだろうか。それとも狼にでも変身してしまうだろうか。どちらに転んでも構わない。だってグルーシャと一緒なら楽しい一夜になるのは間違いないのだから──。
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