お題 テレビの音量を下げる
深夜零時十五分。テレビの液晶画面から漏れる明かりだけがリビングを薄暗く照らす。暖房はついているものの、さすがにこの時間ともなれば少し肌寒い。暖房の温度を一度上げてから音を立てぬよう二人がけソファの定位置である右隅へ静かに腰を下ろすと、業務用ロトムを片手に明日のスケジュールの確認を行う。この時間ではトップニュースも報道を終え、スポーツを中心に映像が流れている。サッカー、バスケ、テニスと言ったパルデアでメジャーな競技の結果を聞き流していると、ウインタースポーツのコーナーが始まり自然とそちらへと視線が向く。どうやら今日は──日付を越えたから正確には昨日か──スノーボードの大きな試合がフリッジであったらしい。目立つテロップとリプレイ動画が華々しく映し出される。
──△△選手、大会三連覇ーー!
──大技○○○!見事着地に成功!
──今の心境をお聞かせください!
興奮を隠しきれないリポーターと自信に満ちた受け答えをする選手のやり取りに、かつての自分を重ねて自嘲してしまう。この若きスノーボーダーも今の自分に出来ないトリックはないと思っている時期だろう。勝ち気な表情と溌剌とした声色から、彼の心理が容易に想像できてしまった。未来を信じて疑わない年若い少年が、どうか大きな怪我なく選手生活を全うできるようにと柄にもなく願ってしまう。こんなことを皮肉もなしに思えるようになったのだから、自分も随分と歳を取ってしまったようだ。……まぁ、まだ20代後半なのだから口には出さないけれど。
画面には今日現在の世界ランキング一覧が映し出され、上位から下位までざっと目を通してみたが、そこに見知った名前は殆ど無かった。それだけスノーボードの選手生命は短く、ピークを過ぎたら若い芽に追い越され世界では通用しなくなるのがこの業界の
幼い頃からスノボしか知らなかった自分がもしあのまま競技生活を送っていたら、引退後は社会の荒波に揉まれ少なからず路頭に迷っていたかもしれない。それだけ向こう見ずで世間知らずな子供だったのだ。そう思えば早い段階でジムリーダーという手堅い職を得られたことは、ある意味幸運だったと言えるのかもしれない。
なによりパルデアリーグと関わりが無ければ出会うこともなかったのだろう。今の自分にとって何よりもかけがえのない、最愛の人にも──。
「……ぐるーしゃぁ、まだ起きとんの?」
カチャリとドアノブが回る音がしたと同時に、舌足らずな声がリビングに響く。ソファの背凭れへ腕を乗せて振り返ると、今まさに思い浮かべていた妻が寝ぼけ眼のままこちらをぼんやりと見ていた。
「ごめん。起こした? もう少しで業務チェックも終わるから、チリは先に休んでなよ」
暗がりの中できらりと光るのは、彼女の薬指に嵌められた揃いの指輪。それを嵌めた手で目元を擦るチリは、四天王として仕事をこなす姿からは想像のつかないほど幼く可愛らしい。
「ん~……ほんならうちもここにおる……」
空いているソファの左へ彼女がぽすんと座ると、腕を絡められ温かな重みが寄り掛かってくる。
「こら。こんなところで寝たら風邪ひくよ」
「チリちゃん、そんなやわやない~。……あんなぁ、夜しかグルーシャと一緒に居れんのやからちっとは 充電させぇや。…………淋しいやんか」
彼女らしい、拒否権を与えぬ物言いの中に潜ませた甘えたを言うだけ言うと、程なくして規則正しい寝息が聞こえだした。テレビの音量をミュートにし、空いている手で艶めく髪へ指を通すと同じシャンプーの香りが鼻腔を擽った。
「充電か。嬉しいこと言ってくれるね」
眠りについたチリが肩からずり落ちないよう、こちらへ引き寄せる。ソファ横に置いてあるブランケットを広げると、二人一緒にくるまる。
あの事故は決して忘れない。忘れられるわけがない。でもあの日があったから、今こうしてチリの隣にいられることも紛れもない事実だ。彼女の頭にこつんと寄り掛かると急に瞼が重くなり、睡魔が襲ってきた。チリといるといつもこうなる。あったかくて癒されて、ざわついた心がいつの間にか凪ていく。うとうとし出すと、ふいに掴まれている左腕に力が込め直される。肌寒いのかチリが腕にすり寄ってきたようだ。あまりここに長居はしない方がいいだろう。リーグの中枢を担う二人が揃って風邪をひきでもしたら、トップからお小言を喰らうのは確実だ。それはなんとか避けたいところだが、少しぐらいこのまま互いを充電しても罰は当たらないだろう。
「おやすみ、チリ」
ぽつ、と呟いた声は自分でも驚くほど優しい声色で。
──ぼくと出逢ってくれてありがとう
寄り添う温かさに身を委ねながら、彼女への感謝を胸に意識を手放した。
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