出会いと軌跡



ジムへ戻ると自分達が最後だったのだろう。建物の前には人だかりができ、こちらの姿を見つけると急いで周りを取り囲まれた。

(二人だけの時間はこれでおしまい)

彼女を医務室へと運ぶため、ぼくから引き離されると途端に軽く冷たくなる背。遠ざかっていく彼女のこちらにすがるような瞳に、頭を大きく振り払う。

(違う。あの人のことなんかなんとも思ってない。ナッペ山を守るために手助けしてくれた上司。ただそれだけ)

心に穴が空いたような錯覚は勘違いだと自分へと言い聞かせ、ジムには戻らずそのままポケモンセンターへと足を運ぶ。ツンベアーの治療を待つ間、脳裏によぎるのは振り払ったはずのあの人のこと。破天荒で無鉄砲で、でも情に厚く喜怒哀楽がはっきりしていて、何よりポケモンへの愛情が人一倍深い女性。

以前クレバスに落ちた時、自分とチルタリスを見て泣いていたが、どうやら自分も似たような者のようで先ほどのチリとバクーダ、ドオーの抱擁シーンは柄にもなく込み上げてくるものがあった。ポケモンとの美しい信頼関係とはああいうのを言うのではないか。

涙を零しながらポケモン達を愛でている笑顔は雪山では珍しい、花のようにひどく輝いて見えた。芽生え始めた感情を胸の奥底に押し込め、気付かなかったことにする。どうせ親しくなったところで皆、いつかは離れるのだ。なにも期待はしない。すればするほど後で傷付くのは自分なのだから。



「あ、グルーシャ君!こっちこっち」

ジムの自動扉を入ると、エントランスにある雑誌コーナーで熱心に読み耽っていた彼女がこちらに気付き駆け寄ってくる。どうやらポケモンセンターにいる間にすっかり腰は元に戻ったようだ。

「ツンベアーの具合、大丈夫やった?」
「大丈夫。外傷が有ったわけでもないし、牙は時間が経てばまた生えてくるから」
「そぉかぁ……」

ひと安心といった表情で胸を撫で下ろしている。

「そういうあんたこそもう大丈夫なわけ?腰は後引くよ」
「うん。医師せんせいに見てもろたら、緊張と脱力による心理的なものやから身体には問題ないんやて。ほんま初めてやわ、あんな風に腰抜けんの」
「あんたにしては珍しくしおらしかったね」
「ふん。いつもはやかましゅうて悪かったな。…………自分、そういう子が好きなん?」
「え?」
「せやから!グルーシャ君は大人しゅうて、しおらしい子がタイプなん!?」

風呂に入った訳でもないのに、突然血行のよくなった顔で怒られてしまった。しかし、怒られる理由も質問の意図も全く見えない。顎に手を当て質問の答えを探ってみるが、一瞬緑がちらついたかと思うと霞がかって何も思い浮かばなかった。

「タイプ……よく、分からない。そういうの考えてる余裕無いし」
「う、嘘やろ!勿体なっ!まだ若くてイケメンさんやなのに何を枯れたおっさんみたいなこと言うとんの!恋せよ若人やんか!」

今度は急に焦りだしたかと思うとがっしりと肩を掴まれ、前後に揺さぶられる。ほんと一秒後には表情が変わってる人だな。

「別にあんたには関係ないでしょ」
「関係ある!だってうちグルーシャ君のこと……!」
「ぼくのこと?」
「~~っ!何でもあらへん!この人ったらし!!」
「意味わかんないんだけど。ほんとあんた変な人」

トサキントのようにパクパク口を開け閉めしたと思ったら、終いには怒鳴られるとは些か理不尽ではないか。でも不思議と心は凪ている。確かに変ではあるが、悪い人ではないし騒がしいのに一緒にいるとどこか落ち着いてしまう。なんだかんだ軽妙なやり取りを交わすのが楽しい……のかもしれない。ふとチリさんの動きが止まり、会話が途切れると伏し目がちに呟かれる。

「……なぁ、もう仕事も終わったし会うことも無いんやろか」
「ぼくはジムリーダーだしあんたがここに来ない限り、会うことなんてそうはないんじゃない」
「そう……やな。あんな、あの時みたいにもう名前では呼んでくれんの?」

(あの時……名前……あっっ!)

思い出されるのは彼女へ向かって雪崩が押し寄せた時とジムへの帰り道。心の中で呼んでいた彼女の名をつい口に出してしまっていたことに今更気付いた。

「あれは……!咄嗟に、というか緊急事態で仕方なく!」
「共同任務も終えてせっかく少しは仲良うなれたんやから、グルーシャ君さえ良ければ今後も名前で呼んでほしいなぁ」
「うっ……チリ、さん……?」

なんだこの辱しめは。本人を前にして名前を呼ぶだなんて微塵も思っていなかったので、若干しどろもどろになってしまった。名前を呼ばれると何が嬉しいのかにこにこして、途端にご機嫌になる彼女。

「はいな!よぉ言えました!じゃあそろそろ行くわ。グルーシャ、自分も元気でな!」
「色々ありがとうございました。チリさんもお元気で」

ぶんぶんと手を振り上げて走り去っていく彼女を見送ると、嵐が去ったかのように静けさに包まれるエントランス。

「……チリさん……」

もう一度彼女の名を口にすると、霞が晴れて今度ははっきりと緑が見えた。



◇◇◇



執務室から臨む景色も所々地表が見えるようになってきた。生きとし生けるもの待望の春がもうそこまで来ている。ジムを抜け出し、幾分歩きやすくなった雪道を進むとふきのとうが残雪の隙間から顔を出し、木々には新芽が芽吹いている。チリさんと二人で守った場所へ久しぶりに足を運んでみると、崖は抉られたままではあるが大地には青の小花と若葉が咲き誇って生命の息吹を感じる。膝を折り、小花にそっと触れる。なんて名の花だろうか。空のように蒼く可憐だけれど、厳しい冬を乗り越え必死に咲き誇る姿に逞しさを感じる。思い出されるのはこの花のように控えめ……とは真逆の満開な笑顔をもった表情の持ち主。

「チリさんにも見せてあげたいな……」

自分が発した言葉に自分で驚く。誰かと思いを共有したいだなんて今まで思ったことは無かったのに。いや、これは仕事の後処理の一環だ。自分達が直した土地がどうなったかを知る権利は彼女にもある。尤もらしいことを並べてみたが、きっと彼女なら喜んでくれるはずという確信だけはなぜかあった。ちょうど今週末には現状報告にリーグに赴く予定がある。その時に彼女と会えたらいい。少し先の未来を心待ちにするのはいつぶりだろうか。

ジムへと戻る足取りはいつもより軽いものだった。


◇◇


リーグを訪れオモダカさんへの報告を終えると、ここに勤めているはずの彼女を探し始める。ちょうど今は昼休憩。面接室・食堂を覗いてもあの目立つ存在は見つけられず、あと考えうる場所は……

中庭へと近付くと興奮の混じった歓声と拍手が聞こえる。人垣の隙間から見えたのは美しい緑髪を靡かせ、スケボーをしている探し人の姿だった。

勢いよくプッシュをして滑り出すとチックタックを挟みながら加速していく。テールを踏み、地面を弾くとタイミングに合わせて跳ね上がりボードと共にふわりと浮く身体。

(オーリー……)

ボードの花形であり、大技の基本であるオーリー。まだ高さは足りないものの基礎動作はしっかりと身に付いているようだ。このまま障害物を高くしていけばより高く跳べるのは時間の問題だろう。少し着地にぐらついたもののオーディエンスの拍手と歓声が沸き起こり、称賛を受けている彼女の表情は晴れやかだ。きっとここまで上達するのにかなりの時間と労力を要したに違いない。

多忙である身の彼女をそこまで突き動かしたものはなんなのか。ボードを純粋に楽しんでいる彼女を見ると素直に称えてあげるべきなのだろうが、己と同じように怪我をして心身ともに傷ついてほしくないと願う自分もいる。

──ゴーン……ゴーン……

昼休憩の終わりを知らせる鐘が鳴った。オーディエンスは散り散りに自分達の持ち場へと戻っていき、残ったのは片付けをしているチリさんと自分のみ。人垣が消え、こちらの姿を見るや否や驚いたようにボードを小脇に抱えながら駆け寄ってくる。

「グルーシャ!?自分、なんでここに!?」
「トップにこの前の協力援助のお礼とその後の現状報告をしに。チリさんは時間大丈夫なの?」
「うちは午前の面接が押して、まだ休憩中やからもう少しゆっくり出来んねん。……ちゅーかグルーシャ、さっきの見てた?」
「途中からだけど。上手だね」
「ほんま!?そう思ってくれた!?」
「うん。チックタックもバランスとれてて綺麗に流れてたしオーリーの跳び上がるタイミングもばっちりだった。後ろ足がもう少し上げられるともっと高く跳べると思う。ただ着地にぶれがあるから高さが出ると危ない。膝を使って衝撃を吸収してみて。でもケガにはくれぐれも気をつけて」

つらつらと気になったところを挙げていくと、ぽかんと気の抜けた顔でこちらを凝視しているチリさんがいた。やってしまった……。

「……ごめん。口うるさくて、今のは忘れて……」
「すっごっっ!!あんな一瞬でそこまで見抜けんの!?やっぱグルーシャはボード詳しいなぁ!」

両掌をガシッと掴まれ輝いた目で見つめられる。

「別にそんなことないけど。ってかチリさん忙しそうなのによくあそこまで出来るようになったね」
「うえっ!?あ、ああ、それな……うん」
「もしかして好きな男の影響、とか?」

自分としてはいつものようにからかったつもりで言っただけだった。きっと「なにバカなこと言ってんの!」「チリちゃんがそない女々しいわけないやろ!」と反論が返ってくると予想していたのだが。顔をオクタンのように真っ赤に染め上げ、こちらを見つめる瞳は潤んでいる。

「な、なんで分かったん……」

まさかの肯定の意にこちらまで固まる。いや、固まるというより衝撃で動けなくなってしまった。チリさんに好きな男がいて、多忙を極めている中そいつのために少ない自由時間を割いてボードの練習に励んでいたとは。よほどそいつへの強い気持ちがないと出来ることではない。

「……そう、なんだ。でもチリさんがそこまで自分に影響受けてるの知ったら、その人も喜んでくれるんじゃない」
「そうやろか」

彼女のはにかんだ肯定に後ろ手に隠した拳を強く握る。ここはリーグ本部で太陽光も燦々と降り注いでいるのに、ナッペ山の冷たさが身体を這い上がってくる。まるで選手生命を断たれたことを告げられたあの時のように。

チリさんと出会って、少しずつ溶け出した心の氷が自分を変えていった。いつの間にか彼女がナッペ山に来ることを楽しみにしていたし、会えば喜んでいる自分がいた。それが名前のついた感情なのか分からなかった。いや、気付かないふりをしていた。まさかチリさんに好きな男がいると分かった瞬間に彼女への気持ちを自覚し、そして同時に失うことになるだなんて。そこに追い打ちをかけるかのようにぼくの知らない女の声で尋ねられる。

「もしも!もしもやで!グルーシャやったら気になる人に自分の好きなもんをやってもらえたらどう思う?」

なんてことを聞いてくるんだ。たった今貴女への想いを自覚したとは言え、かなりの日数を慕ってきた自分に対しての質問にしては残酷過ぎやしないか。

「ぼくだったら……嬉しい、かな。だって自分のことを思って練習してくれてたわけでしょ。そんなの嬉しいに決まってる」
「そっか、喜んでくれるかぁ……!うん、ほんならもうちっと頑張ってみよか!ただ、こっからがなかなか上達出来んで心折れそうになってまうんやけどな」
「ならコーチしようか?」

するりと口から出たのは寄りにも寄って好きな人の恋の手助けを自ら願い出る言葉だった。彼女のことを好きな自分が彼女の恋のサポートをするだなんて、なんとも滑稽なシチュエーションではないか。それでも彼女の恋が成就し、幸せになれるなら助けてあげたいと思ってしまったんだ。

「ほ、ホンマ!?グルーシャが練習見てくれんの!?」
「いいよ。チリさんがその人と付き合うまではね」
「えーっ!そこは付き合うてからも頼むで」
「それはそいつに頼みなよ。そこまで面倒みきれない」
「いけずやな!まぁ、ええわ。うちの願掛けが終わるまでは宜しゅうたのんます、コーチ!」
「ぼくはスパルタだよ。せいぜい音を上げないようにね」
「望むところや!」

すっ、と初めて会った時と同じように差し出される右手。あの時はなんの意識もしていなかったがこんなにも小さい掌だったのか。前と変わらず真っ直ぐにぼくと相対する彼女にこちらも真正面から向き合い、これで最後になるであろう握手に想いを込めて握り交わした。


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