七夕



「もう7月か……」

ジムの私室の壁に飾られた、日付と少しの余白のみのシンプルなカレンダーを捲り剥がすと《7日》の日付で目を止める。7月7日といえば恋人の出身地であるジョウトの七夕伝説の日だ。以前チリに内緒で、あちらの文化を調べた際に心に留めておいたイベントの一つだった。

アカデミーは6月の下旬から夏休みに入り、挑戦者の人数がぐっと減ったと四天王兼面接官の彼女が言っていた。それもそうだろう。パルデアの夏といえば灼熱の陽射しを浴びながら、家族・友人・恋人と長期休暇を楽しむものだ。挑戦者の大部分を占める学生は夏休みを満喫しているため、よほど意欲の高い者か遅咲きのポケモントレーナーぐらいしかリーグの門を叩く人間がいないのは、この国の陽気な国民性からも理解できる。

ともすれば7月の1週にもなれば、だいぶリーグも仕事量が減ることだろう。久しぶりに山を下りて彼女の元へ逢いに行ってもいいだろうか。らしくはないがジョウトの伝説にかこつけて恋人と再会するのも、たまにはいいかもしれない。

その代わり七夕に身体を自由にするための代償として、この一週間は先回りして仕事をこなしておかなければ。ぼくらはあの織姫と彦星のように、恋愛にかこつけて仕事の手を抜く怠惰な二人とは違う。しかし彦星の気持ちも分からないでもない。全てをなげうってでも恋人の元へ駆け出したい気持ちは少なからずぼくも持っているからだ。想いを押し込め久しぶりに彼女に会えるその日を、そっとなぞった。




◇◇◇




7月7日
定時に仕事を終えチルタリスの背に乗ったはいいものの、彼女のいるリーグ本部へ向かうにつれ暑さが厳しくなる。着ていた薄手のカーディガンを脱ぎ腰へと巻き付ける。ナッペ山は夏と言えど肌寒い日も続くため羽織るものが欠かせないが、こちらは真夏の陽射しが夕暮れ時でも降り注いでいる。

キャップを被ってリーグ本部の裏口に降り立つと、職員通用口の前で恋人が出てくるのを今か今かと待ちわびる。しかし姿を見せるのは足早に家路へ着く者、同僚と食事に向かう者ばかりで一向に彼女が現れる気配はない。その代わり扉が開く度に奥の正面エントランスに飾られた大きな笹が見える。去年までのリーグにはなかった物だ。ポピーさんが四天王になって初めての七夕だから、恋人が主体となって意気揚々と準備していたんだろう。

チリの気遣いに思いを馳せていたら見覚えある一団が姿を現した。フカマルを正面に抱え込んだハッサク、営業スーツのままのアオキ、そしてその肩に跨がる幼女・ポピーというなんとも珍妙な光景だ。しかしチリのことを尋ねるならこの人たちをおいて他にはいない。

「お疲れ様です」
「おおおおっ!そこにいるのはグルーシャ青年ではないですかっっ!どうしてここに!何かこちらで仕事でも有りましたかな?」

再会を喜んでくれるのは有難いが、ハグしようとする腕をひらりとかわし本題に入る。

「あの……チリ、さんはまだ仕事中ですか?」
「チリちゃんなら《あ の一番》に帰っちゃいましたよ?ね、おじちゃん」
「……それを言うなら《い の一番》ですね」
「あらぁ~、お恥ずかしい!」

ポピーは小さな手袋で顔を隠し、アオキはフォローのためか腕を上げてポピーの背中をぽんぽんと叩いている。幼女とサラリーマンの微笑ましい光景も素晴らしいが、今ポピーはなんと言った。

「え。チリさん、もういないんですか?」

あまりに驚いた顔をしてしまったのか、ハッサクさんがフカマルを地面へ下ろすとこちらの肩に手を乗せ慰めるように告げられる。

「なんでも今日は行くところがあるから、と言って土煙をあげるかのように飛び出していきましたぞ。流石じめんタイプのエキスパートですなっ!」

はっはっは!と豪快に笑い飛ばしているハッサクさんを気にも止めず頭の中は混乱状態だ。なんてことだ。チリがもうここにはいないだなんて。それもそうか。元々約束もしていないのだから早く仕事が終わったときぐらい彼女にだって行きたい場所も、したいこともあるだろう。でもその選択肢に自分がいないことにちくりと胸を痛めた。こちらは何をするにも真っ先に思い浮かぶのはチリだが、彼女にはぼく以外の親しい間柄の人間が大勢いるのだから。

「そう、ですか。すみません、お帰りのところ引き留めてしまって。ハッサクさん、また定期報告するのでその時は宜しくお願いします」
「あっ!グルーシャ君、ちょっと待っててくださいな!アオキのおじちゃん、ちょっと戻るのです!」

帰ろうとする僕を制するように高い位置から叫ばれると、アオキさんの逆立った髪をハンドル代わりにしてUターンし、正面エントランスの方へ肩車のまま走っていく親子のような二人。この場を後にする直前、アオキさんのカバンがこちらへ投げられた。《帰らずに待ってろ》ということか。ハッサクさんに近況報告をしながら待つと、時間を置かず肩車のまま戻ってきた二人。ポピーさんの手には何やら水色の長細い紙が握りしめられている。

「はい、グルーシャ君!これどうぞ!」
「ど、どうも」

頭上から渡されるのは折り紙だろうか。いや、手紙のようだ。見覚えのある綺麗な字で何か書いてある。

──大切な人と七夕の星空を一緒に見る

「これ……」

見間違えるはずもない。これを書いたのはチリだ。その恋人がいう《大切な人》といったら──。

肩車したままのアオキさんが短冊を指差しながら口を開く。

「……笹のてっぺんに飾ってありました。誰にも見られないようにと、ドンファンの背中に乗って危なっかしく飾っていましたよ」
「ほほう。それはそれは。チリ曰く、今夜は七夕と言ってかささぎが橋渡しとなり一年ぶりに彦星と織姫が再会するそうです。笹に短冊という願い事を書いた紙を……」

ハッサクさんの長い講義が始まる前にチリに追いかけなければ。気づけば彼女の想いを掲げながら駆け出していた。

「すみません、ぼく行かないと!これ、ありがとうございました!」
「グルーシャ君、いってらっしゃいなのです~!」
「……お気をつけて」
「若人達に幸あれぇぇぇ!うぼぉぉぉぉい!!」

各々の激励を受け取り、リーグを後にする。階段を駆け下りながらロトムで呼び出すのはもちろんチリだ。電話……はやめておこう。今は向こうも移動中か、万が一ぼく以外の誰かといたらとんだ勘違いで立ち直れそうにない。メールの方が無難だろう。本当は一目顔を見たかったが、わがままを言って彼女を困らせたくはない。仕事の労いと今度のデートの確認の旨を読み上げるとロトムが音声認識をし自動で送信される。すると、間髪入れずロトムが震え出し慌てて通話ボタンを押す。チリの姿が画面に映し出されると、恋い焦がれるアルトボイスが鼓膜を震わす。

「グルーシャ君、今メールくれたん!おおきに!」
「周りには誰もいないからいつもの呼び方で大丈夫だよ。それよりチリ、今どこにいるの」
「さよか。あ~、えっとな、どこ言われるともうちょっとなんやけど……」

うん?出掛けているというのに背景は出先にはそぐわない木々。しかも見覚えのある色鮮やかなマーキング。あれはタギングルの……

「もしかして、そこ《しるしの木立ち》?」
「おわっ!」

背景を隠すように手で隠しているが、あの特徴的な森を見間違えるはずもなく。まだ夏の日は高いと言っても鬱蒼とした森は陰っていて決して女性が一人で踏み入るものでもないだろうに。

「どうしてそんなところにいるのさ。出掛けるんじゃなかったの?」
「なんでチリちゃんが出掛けるってグルーシャが知っとんの」
「今さっきハッサクさんに聞いた。土煙あげて出ていったって。そんなに急いで行きたかったのがそこ?」

こちらの予想と反した森の中に少々面食らってしまう。まぁ自然が好きな彼女のことだから別に変なことではないのだろうが、仕事終わりに向かうであろう場所とは一概には言い難い。

「ハッサクさんってことはグルーシャ今、リーグにおんの!?あちゃ~、すれ違ってもうたか」
「すれ違ったって……もしかしてナッペ山に向かってる?それならそうと一言言ってくれればよかったのに」
「それ、そっくりそのままあんたにお返しするわ。なんで今日に限って山、下りとるかなぁ」
「だって今日は七夕だから。チリに逢いに行こうと思って」
「知っとったん、七夕のこと!?グルーシャには教えたことないはずやで」
「前にぼくの国のこと知っててくれたでしょ。ぼくだってチリのことをもっと知りたいから、それくらい調べるよ」

こちらの言葉を聞くや否や、かあっと頬を染め掌で口元を隠しているチリ。今の会話の中でそんなに照れるようなことあったか?

「なんか、うちら彦星と織姫も真っ青なバカップルやんけ。わざわざ空飛ぶタクシーやのうて下道経由でこっそり会いに行って、グルーシャ驚かせよ思てたのに。あー、こっぱずかしい!電話越しでよかったわ」
「残念。もう電話越しじゃないよ」
「なんやて?」

ロトムと同時に背後から聞こえるぼくの声に振り向くと、まんまるくした紅い瞳と視線がぶつかる。前に会った時より少し日に焼けただろうか。健康的な小麦色のチリも可愛いらしくてしょうがない。

「……彦星がかささぎに乗ってお出まししよった」
「は?」
「ちゅーかもう追い付いたん!?なんつースピードやねん」
「うちのチルタリスを舐めないでくれる?」
「そうやったな。おおきに、チルタリス。まるでかささぎみたいや」

チリはチルタリスを労るように喉元を撫でると「きゅるる」と甘え声で鳴いている。相変わらず仲のよろしいことで。でもそろそろぼくにも構ってもらいたい。

「チリが織姫で僕が彦星って? 冗談。ぼくらはサボらないでちゃんと仕事をしているし、人に迷惑をかけていない。伝説の二人とは真逆でしょ」
「なんやロマンチックの欠片もない言い方やな。ほんまリアリストなんやから」
「年に一度しか会えないんだっけ?あり得ないね。ぼくはチルタリスに乗って会いに行くよ」

こちらもチルタリスの羽に手をやり、頼もしい手持ちを労るとぼくとチリに撫でられご機嫌な様子で頬を擦り寄せてくる。

「おあいにく様。うちかて待っとるだけなんて性に合わんわ。雪山だろうが地の果てだろうが会いに行ったる」
「ほんと格好いいんだから。でもそれでこそぼくの織姫だ」
「またはっずいこと言いよって。まぁ、あれや。折角久しぶりに会えたんやし、どっかご飯いこか」

足早に木立ちの外へ向かって歩き出した細い手首を掴む。

「やだ。早く二人きりになってチリにマーキングしたい」
「はぁぁぁ?ま、マーキングってあんた、タギングルやないんやから……!」
「こんな人気ひとけのないところで恋人と久しぶりに再会したらこうなるよ」

タギングルにマーキングされていない木にチリの背中を押しつけ身体を密着させると、途端に頬を赤らめて視線を反らされる。こちらの下半身の違和感に気づいたのだろうが、それでも逃げる素振りは一切ない様子に調子に乗ってコトを進める。チリの香りが色濃い、少し汗ばんだ首筋に顔を寄せると制止をかけられた。

「あほっ!ハグだけならええけど、その先はこないなとこであかんって!それにチルも見とる!」
「ちるる?」

チルタリスはぼくらがじゃれ合っていると思い、仲間に入れて!と瞳を輝かせ翼をぱたぱたと振っている。

「チルタリス……戻っ」

腰につけたモンスターボールに触れると反抗の鳴き声が夕暮れの森に響く。その高くも美しい鳴き声に森のポケモン達がぞろぞろと集まってきてしまい、ムードもなにも無くなってしまった。がっくりとチリの肩に項垂れると頭を撫でられ慰められる。

「チルの方が一枚上手うわてやったな。こないなとこで盛っとるばちが当たったんとちゃう?」
「……悪かったね。ぼくばっか逢いたがってたみたいで」

不満を漏らしながらしぶしぶチリから身体を離し、未だご機嫌斜めで歌い続けているチルタリスの元へ向かおうとすると背中に温もりを感じる。

「あほ。チリちゃんかてグルーシャに逢いたかったに決まっとるやろ。じゃなきゃここまで来るわけないやん」

腰に回る腕にはぎゅうっと力が込められ、その反対に言葉尻は萎んでいく。チリの言動の可愛らしさに一喜一憂して心が乱されるのはいつになっても慣れない。でもこんな嬉しい困り事なら大歓迎だ。こんな日々がずっと続けばいいと願ってしまう。

「ここまで来てくれたんなら今夜は一緒にいてくれる?」

お誘いをかけるように、絹のような手触りの緑髪を掬い上げ毛先に唇を寄せる。見上げてくるチリの瞳はうっすらと潤み、女の色香が増しているのは気のせいではないはずだ。

「……帰すつもりなんかないんやろ」
「当然」

肯定の意を素直に言えない小さな唇に触れるだけのキスを落とす。

「ん……っ。グルーシャ……」
「そんな顔で見ないでよ。我慢出来なくなる」
「……それはまた後で、な」

扇情的な表情で見上げてくるチリがふるりと夜風に身体を震わせた。腰に巻いたままのカーディガンを素早くチリへと羽織らせ、野生ポケモン達に囲まれすっかりリサイタル会場のようになってしまったチルタリスの元へ手を繋いで向かう。

「なら早く帰ろう。チリの願い事を叶えながら」

二人で空を見上げると、天の川を囲むように三つの一等星が美しく瞬いていた。
 


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