ハッサクさんの勘違い
「はぁ……」
見目麗しいと評判の同僚は、常のふざけた様子を封印し、代わりに気だるげなため息を吐き出す。既に本日何度目か分からない艶かしい吐息は、小生と二人きりの彼女の執務室に重く沈んでいった。
(どうにもおかしいですな)
執務室中央に設えてある応接ソファに腰を下ろし、彼女が纏めた面接結果一覧の書類を整えながら顔を覗き見る。この部屋の主であるチリは自分のワークデスクに深く座り、時折だて眼鏡を外しては無機質な天井をぼんやりと見つめている。肌寒いのか四天王の象徴である革手袋を何度も擦っていた。普段の溌剌とした表情とキレのある会話は影を潜め、彼女が何かを思い悩んでいるのは火を見るより明らかだ。心なしか燃えるような深紅の瞳もいつもより赤く充血し、体調も芳しくないのかしきりに腰を揉んでいる。
(これは間違いなく何かありましたな!)
チリをここまで憔悴させられるのはあの男しかおるまい。ワークデスクの右端に置かれている、チリとその恋人であるグルーシャが二人仲睦まじく写っている写真立ては、今その額面を伏せられている。男女の関係に口を挟むことがいただけないのは分かってはいるが、幼い頃から顔見知りのグルーシャと大切な仲間であるチリともなれば話は別だ。黙っていられるはずもなく、恐る恐る声を掛けてみる。
「チリ? 少し宜しいですかな」
「あ……はい、なんでっしゃろか。どっかミスっとりました?」
「いやいや、書類は完璧です!分かりやすく簡潔に纏められた面接結果!これを参考にあの子達はまた一回り大きく育つことでしょう!いやはや流石、うちの誇れる面接官殿ですなっっっ!!」
座っていたソファから勢いよく立ち上がり、書類を指し示しながら彼女の観察眼と事務能力の高さを目一杯褒め称える。
「んな大袈裟な。そんなんいつもの報告書やんか。ほんまハッサクさんはオーバーなんやから」
だて眼鏡を外しふっ、と微笑んだその表情は、今まで見たことのない女性めいた色気を帯びていて。自分の娘のように思っていたチリが、どこか遠くへ行ってしまったかのような寂しさが胸に広がっていく。
「チリ……小生とて教育者の端くれ。それに貴女の仲間だと自負しております。もしもなにか悩みがあるなら一人で抱えるものではありません。小生でよければいつでも聞きますぞ」
包み隠さず率直に心配の意を伝える。チリはこちらの言葉を聞くと伏せられた写真立てを一瞥し、少し迷った様子でこちらへ視線を寄越した。
「……そう、やな。ハッサクさんには早めに言うとくべきか。準備も色々お願いするやろし、直前になって困らせとうないもんな」
(早めに言う!? 色々準備!?)
よもやチリは退職するとでも言い出すのではあるまいな。順調に愛を育んできた二人を遠目から(──むしろ最前列で──)見ていた自分は気づきもしなかったが、グルーシャと別れた可能性もある。もしもそうなら、リーグには居づらくなり故郷であるジョウトへ帰ります、と言い出してもなんら不思議ではないだろう。仮にそんなことになろうものならパルデアリーグ存続も危うい。それだけ彼女の存在は今のパルデアにとって必要不可欠なのだ。それ以上にチリの悲しむ姿など自分には黙って見ていられるはずもない。とりあえず、暴走しそうになる心を落ち着かせるため深呼吸を数回大きくしてから彼女と向き合う。
「な、な、なんですかな。しょ、小生がばっちり聞きますぞっ!」
「いや、なんでそんなどもっとんねん。頼れるんはハッサクさんしかおらんのやから、しっかり頼んまっせ。…………その、うちとグルーシャのことなんやけど……」
チリは胸の前で革手袋を組むと言いづらそうに言葉を濁し、揺れ動く紅眼が彼女の緊張を表していた。こんなチリはいよいよ見たことがない。まさに一大事だ。果たして小生一人で解決できる案件なのか。内容によっては速やかにトップに報告、アオキと業務を引き継ぎ、そしてチリを姉のように慕うポピーは大泣きしてしまうだろう。そんな健気なあの子の姿を見たら、こちらも大声を上げて泣いてしまうかもしれない。
「ちょっ、ちょっとお待ちなさい! チリ、あなたの人生はあなたのものです。これから先も輝かしい未来が待っているでしょう。例えその隣に誰がいようといまいが、あなたは欠けがえのない存在なのです。それだけは忘れないでください」
ワークデスクに詰め寄り、なんとか思い止まってもらえるよう説得するが、当の本人はぽかんとした気の抜けた顔でこちらを見上げてくる。
「はぁ、そら確かにそうですけど。ちゅーか、今日はやけにチリちゃんのこと褒め殺しするやないですか。大将がそないに言うやなんて明日は槍でも降るんとちゃうやろな」
「いやいや、小生は常日頃から思っておりますぞ。パルデアリーグにチリは必要不可欠であると。あなたがいてくださるから私たちは兼業でき、幼いポピーも励んでいるのです。もっと自信をお持ちなさい」
アカデミーで生徒達へ諭すように語り掛けると、チリは強張っていた顔を崩し照れ臭そうに頬をかく。
「ははっ、なんやむず痒いなぁ。そんな風にうちのこと思ってくれる人なんて一人だけやと思っとったから、改めて言われると照れるもんやね」
「ひと、り? それはどなたで……」
「うん? ハッサクさんもよぉ、知っとるやろ。うちとグルーシャのことは」
「いや!だってあなた達は……!」
チリは革手袋をゆっくりと外すと左手をこちらへ向けて微笑む。その薬指にはシルバーリングが輝いていた。
「うちとグルーシャ、結婚することにしました。そんで結婚式にはハッサクさんにスピーチしてもらえたらありがたいなぁ思てて。もちろん、今度改めてグルーシャと二人で挨拶しよ思っとりますよ? でもハッサクさんにはうちもグルーシャも昔から世話になっとるし、早めに知らせといた方がええかな思て」
(けっこん?……ケッコン!?)
「っっっ!! 結婚んんんんんんーーーーー!?!?」
部屋に響く己の叫び。壁にかかる絵画がガタンとずれた音が気がするが今はそんなことを気にしている余裕はない。今、チリは「結婚」と言わなかったか?しかもあのグルーシャと。予想もしていなかった報告に頭が追い付かないものの、安堵と幸福が押し寄せてくるのを感じる。ただ一点、解せない問題を除けば。
そんなこちらの心境など知る由もないチリは、呑気に耳へ人差し指を突っ込みこちらの声を遮断している。
「わぁ、想定通りの雄叫びやなぁ」
「質問です。最近貴女が物思いに耽ることが多かったのは……」
「ああ、プロポーズされてこの先のこと考えたり、ちぃっと夢見心地だったんかもしれません。仕事中にはそうせんようにしとったつもりやったんですけど」
「でしたら、その写真立ては!? 結婚するのなら、なぜ伏せているのです!」
伏せられている写真立てを指差すと、途端に頬を染め指輪を触りだしたチリ。
「うっ……そんなんグルーシャの顔見てもうたら色々思い出して仕事に差し支えるからやん。せやから仕事中は伏せとんねん」
「……なら最近、やけに気だるげそうに腰を擦っていたのは……」
「うえっ!? そんなんしとりました!? ……ったく、グルーシャのアホ。毎晩しつこいねん」
「…………目が充血しているのもソウイウこと……ですか」
「誤解せんといて、ハッサクさん!うちが泣かされてばっかなわけないやろ!ちゃんとグルーシャにもやり返しとるで!ポケモンバトルやろうが、ベッドの上やろうがチリちゃんが負けるわけないんやから!」
面接の達人であるチリから、頓珍漢な答えが返ってきてここ最近の悩みは一体なんだったのか。恋は人を変えるとはよく言ったものだが、ここまでチリを骨抜きにするとはグルーシャも罪な男だ。そして、そこまで一人の女性に気持ちを向けられるようになった彼の成長を嬉しく思う。
二人が結ばれたのは喜ばしいことこの上ない。この上ないが! これだけは言わないと気が済みそうにない。
「~~っっ! こんのバカップルさん達が!! 結婚式のスピーチ!? ええ、ええ、喜んで小生が引き受けましょうぞ! 皆さんへいかにあなた達がラブラブでお似合いかをお知らせする絶好の機会です! いいですかチリ! グルーシャと末永くお幸せにっっ!!」
突如叫び出したこちらの様子に目を丸くし、呆気に取られたチリをそのままにドカドカと足音を立てながら部屋を後にする。言いたいことも吐き出せ、溜まっていたモヤモヤは綺麗さっぱり消えていった。そして残った幸福感は自然と足を弾ませ、頭では早速スピーチの文面を考え出す。
──小生渾身のスピーチをお見舞いしてやりましょう。どうか二人の未来に幸多からんことをっ!!
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