諦められなかった夢と君



グルーシャ君が目の前から去っていって、どれだけの時間その場から動けずにいたのか。東の空に満月が上り始めた頃、自分を探しに来たトップと四天王のメンバーに介抱されるまで時間なんて忘れて、何度も空に向かって彼の名前を叫び続けた。届くはずなんてないことは分かっているのに、それでも呼ばずにはいられなかった。

その後、どうやって自宅まで帰り、今いるベッドに潜り込んだのか覚えていない。ひとつだけ分かるのは、グルーシャ君がうちの時間を止めてしまったということだけだった。

(なんでこんなに落ちこんどるんやろ)

自分の管轄エリアの部下でもなく、ましてや色恋なんてものとはほど遠いやり取りばかりしてきた。強いて言えば馬が合う年の近いポケモントレーナーぐらいの関係だったのに。

──ダメだ、起きているとろくなことを考えない。とっとと眠って忘れてしまおう。目が覚めたらどうか全てが夢で有りますように。そう願いながら彼の温もりが消えてしまったマフラーを抱いて瞼を閉じた。

翌朝、恐る恐るグルーシャ君のロトムに電話を掛けてみるが、無機質な声の定型文が残酷な現実を突き付ける。

(ナッペ山どころか、もうパルデアのどこにも居らんのかもしれん)

酷い顔をしている自覚はあるが、何とか心と身体に鞭を打ってリーグへと向かう。向かうは彼が最後に会っていた人物の部屋。廊下を足早に進むとまるで自分が来ることを分かっていたかのように、扉の前の窓から外を眺めているトップが。

「オモダカさん……」
「来ると思っていました。どうぞ中へ」

ゆっくりと振り向いたその微笑みは、どこか哀しみを帯びたものだった。相変わらずここへ入る瞬間は背筋が伸びる。広い執務室の応接用ソファに座るよう促されトップと相対し、質問を投げ掛ける。

「あの、グルーシャ君のことですけど今どこにるんですか。連絡もつかんし、あない大荷物持って……」
「……そうですか。グルーシャは最後にチリと会えたんですね」
「最後? 最後ってどういう意味やねん!オモダカさんはグルーシャ君が居なくなること、知っとったんですか!」

焦るように机に身を乗り出し問い詰めてしまう。青紫のグローブが目の前に差し出され、制止をかけられる。

「遅かれ早かれこの時が来ることは分かっていました。チリはなぜグルーシャがジムリーダーになったかご存じで?」
「いえ、そういう話は……。グルーシャ君もせんかったし、うちもデリケートな話なんで聞いとりません。てっきりうちらの時みたいにオモダカさんが力ずくで招聘したもんやとばかり思っとりました」
「力ずく……半分正解、でしょうか。出会った頃の彼は大怪我によって選手生命を断たれ自分の生きる意味、存在価値を失くし絶望に打ちひしがれていました」

唇と掌に力が入り、ズボンに皺が寄る。自分が出会う前のグルーシャ君の話を聞く時はいつもこうだ。胸が押し潰されるように苦しくなって、過去の彼に思いを馳せてしまう。もしも自分が傍にいたら何か出来たのか。励ますなんて烏滸がましいことはできなくても、苦しんでいる時に隣でただ彼の手を握っていたかった。グルーシャ君は一人なんかじゃない。傍にいるから、と。そんなもしもの話を想像しては振り払う。今となってはなんの意味もないことなのだから。

「グルーシャはナッペ山、いえパルデアを離れようとしました。それはそうでしょう。まだ年若い少年にとって自分の未来を奪った場所なんて見たくもなかったはずです。しかし無慈悲にもそれが許されなかった」
「なんでです?そこまで決意が固かったんのやら、すぐにでも離れたらよかったのに」
「ポケモンです。あの子にとってポケモンは自分の心の拠り所となった、言わば家族とも相棒とも呼べる大事な存在でしょう。グルーシャ一人だけならどこへでも旅立てた。しかしあの子の手持ちは……」
「氷タイプ、それもただの氷タイプやない。特別な環境と栄養が無いと生きていけない子たちばっか……そういうことですか……っ!」

ずっと引っ掛かっていた。どうしてグルーシャ君はナッペ山に居続けるんだろう、と。自らの夢と希望を奪った場所でなぜジムリーダーをしているのか。それは手持ちのポケモンのために他ならなかったんだ。どんなに離れたくても離れられなかった。彼はあの山でどれだけの悲しみと辛さを背負い、一人闘い続けていたんだろう。

「ーーっっ!待ってください。グルーシャ君が山を離れたいうことは手持ちの誰かが……!」
「ええ。気丈にも昨日は普段と変わらない様子でしたが、内心は穏やかなものではなかったことでしょう」
(普段と変わらなかったやって?)

どこがや。顔は強張り、ポケモンの話をしたら不自然に話を反らされた。笑顔もいつものものとは程遠い、哀しみを帯びたものだったのに。

「彼がナッペ山から離れられないのを知った私は、ジムリーダーの就任を打診しました。それが彼にとってどれだけ辛く厳しいことか分かっていたにも関わらず。それでもあの子には価値がある、かけがえのない一人の人間だと気づいて欲しかった。グルーシャからのジムリーダー就任の条件。それはナッペ山にいる理由が無くなったら辞める。この一つだけでした」
「……そう、ですか。グルーシャ君にとってパルデアは辛い記憶しかないもんやったんですね」

自分と一緒に居る時は楽しそうに笑ったりふざけたりしていると思っていたけれど、とんだ思い上がりだったようだ。トップから目線を反らそうとすると、濃紺の髪がさらさらと横に揺れる。

「それはどうでしょう。少なくともチリと出逢ってからのグルーシャは年相応の青年のようでした。本当に楽しそうでしたよ」
「買いかぶり過ぎですわ。うちとグルーシャ君は別になんでも……」

そう、なにものでも無い。自分達の関係に名前なんて無かったのだから。

「でしたらその涙は?」
「え……」
(涙?別に泣いてなんか……)

頬を一筋の雫が流れ落ちていく。ひとつ零れると止まることなく溢れ落ちる。

「あ、あれ。おかしいなぁ、なんで勝手に出てく……っ」

涙を止めようと目を擦っても、堰を切ったようにどんどんと溢れてくる。正面にいたはずのオモダカさんがいつの間にか横へと座り肩を貸してくれた。

「グルーシャにも伝えた言葉ですが、貴方の人生を歩んでください。チリの気持ちも行動も誰にも止める権利はないのですから」

オモダカさんの体温と言葉がじんわりと心を落ち着かせる。冷静になると心を占めるのはあまりにも単純な想いだった。

(うち、グルーシャ君のこと好きやったんや)

素っ気ない態度も冷たい口調も全部優しさの裏返し。本当は誰よりもあったかくて愛情深いグルーシャ君のことを、こんなにも好きになっていたなんて。居なくなってから気づくなんてとんだ大バカもんや。

「……その言葉、オモダカさんにそっくりそのままお返ししますわ。パルデアや他人のことばっか心配しとらんで、オモダカさんもちっとは自分のために生きたらどうですか?」

いつもは厳しすぎるほど畏れられているこの人にも肩を貸してくれるような人はいるのだろうか。どこか作り物のような完璧さでトップに君臨し続けることは孤独、と人は呼ぶのではないか。そんな懸念は彼女の破顔した笑顔に吹き飛ばされる。

「あははっ!まさか昨日の今日で、全く同じ言葉を言われるとは思ってもみませんでした。本当にあなた達はよく似ている。お似合いですよ」
「あたなたちってまさか……」

もしもうちとグルーシャ君が同じことを考えて、思っているんやとしたら。

──会いたい。

彼にとってパルデアが辛い思い出しかないことは分かっていても、もう一度会って話がしたい。
涙を乱暴に拭って立ち上がる。オモダカさんに感謝の意と本日の休みを申請すると、苦笑いをしながらも「今日だけですよ」とお許しをもらい扉へと駆け出す。

「チリ、これを!」

扉が閉まる前に投げられたのはグルーシャ君のジムリーダーライセンス。

「これはいつかあなたの手でグルーシャに返しなさい」
「よっしゃ、任しとき!」

未来への命令を受け取ると、部屋を飛び出した。



◇◇◇



窓の外にどんどんと近づいて見えるのは雪に覆われた頂。グルーシャ君がもうここには居ないと分かっているのに、彼の足跡を辿りたくてここまで来てしまった。空飛ぶタクシーを降りるとリーグ本部と違い、凛とした空気が肌に触れる。ここでは春は当分先のようで、彼のマフラーと以前貰った手袋がまだまだ活躍する気温だ。

──またそんな薄着で来たの?手もこんなにかじかんでる。ほら、ナッペ山に来る時はこの手袋してくれば?

ぶっきらぼうに差し出されたモスグリーンの革手袋。グルーシャ君の顔はマフラーで隠れていてよく見えなかったけれど、きっと照れていたんだと思う。指を通して見せびらかすと、そっぽを向いた彼がぽそりとこぼしたのをこの耳は聞き逃さなかった。

──悪くないんじゃない。

素っ気ない口調とは裏腹に、目尻を下げて言われた彼なりのお褒めの言葉は今も耳に残っている。裏地がウールーの毛で作られているからだけではない温かさを感じた。

そんな在りし日の思い出に浸っていると、いつの間にかジムの前に辿り着いた。入口には《臨時休業》のプレートが風に煽られ人気ひとけを感じない。ジムリーダーが不在になり、職員は次の準備や打ち合わせを麓のライムさんの元でしているのだろう。

その職員たちのものとおぼしきたくさんの足跡とは別に、一組の足跡だけ建物の裏へと続いている。吸い寄せられるようにその足跡を辿っていくと、十字に象られた真新しい墓石が積もる雪から頭を出している。

この足跡はきっとグルーシャ君のものだ。昨日、ここに立ち寄ってからリーグ本部を訪れたんだろう。とすればここに眠るのは彼のポケモンに違いない。五本の花がナッペ山特有の強風に負けることなく生けられている。自分も墓石の前で屈んで手を合わせ語り掛ける。

(何度もうちの子たちとバトルしてくれてありがとう。グルーシャ君が辛い時に支えてくれてありがとう。
お疲れさまでした。どうか安らかに眠ってください)

感謝と労いを伝えていると、カツンコツンと何かが風に合わせて当たっている音が聞こえた。墓石の裏に回ってみると十字の交差部分にチェーンが掛けられ、それが風にはためいて墓石に当たっている。

「これ、うちがあげたキーホルダーと……鍵?」

墓石から外し掌に乗せる。オクタン焼きをモチーフにしたキーホルダーはジョウト出張に行った際、お土産としてかつてプレゼントしたものだった。

──食べ物のキーホルダーなんて、どこに付ければいいんだよ。まぁ、食べたことないし珍しいから貰っとくけど。

ぼやきながら受け取ってくれたが、まさか鍵に付けてくれているとは。

(どこの鍵なんやろ。このままここにあっても無くなってまうやろし、あとでジムの職員に渡しとこ)

鍵をコートのポケットに押し込んでお墓を後にすると、リーグ本部に置いてある合鍵を使ってジムの中へと入る。いつもは挑戦者や職員、ポケモン達で賑やかなこの場所も今日は静まり返っている。脇目もふらず通い慣れたグルーシャ君の執務室へと向かう。最奥の大きな執務室ではなく隣にある控え室。彼はそこを専ら執務室代わりに使っていた。

なんで奥の部屋を使わないのか以前聞いたら「これくらいがちょうどいい。身の丈にあってるし、手が行き届くから便利なんだよ」と言っていたが、それはいつでも退去できるようこちらの部屋の方が都合が良かったのだろう。そうやって立ち去る準備をずっとしていたことに気づいたのはつい先ほどだったが。グルーシャ君のライセンスを翳すとまだ失効されておらず、電子ロックが解除され扉が開いた。

部屋に足を踏み入れるとグルーシャ君の香りが鼻を擽り、ここの主人とポケモン達がわいわいと過ごしていた姿が思い出される。気づけば自分の腰に付けているモンスターボールを一つずつ撫でていた。生き物なのだから必ず訪れる永遠の別れ。それを覆すことはできないけれど、最期の瞬間までこの子達を大切にしようと自分自身に改めて誓う。

モンスターボールから手を離すと元々荷物がそんなに多くはなかった部屋を一周してみる。本棚の本とファイルはそのまま残っているが、飾ってあったいくつかの写真立てが無くなっている。きっとあの大荷物の中に入っていたのだろう。

「うちとの写真も持っていってくれたんか」

手持ちポケモン達の写真に混じって、無理やり二人で撮った自撮り写真も無くなっている。連れていってくれたのか、グルーシャ君の旅路のお供に。それだけで救われたような気がした。彼の中に小さくとも自分の居場所があったことが嬉しかった。いつもグルーシャ君が定位置で座っていた執務机の椅子に腰掛け、天板へ寝そべるように腕を伸ばす。

「はぁぁ、しっかし気づいた瞬間失恋ってしんどいもんやな。……グルーシャ君のあーほ。写真やのうて、本物のチリちゃんに一言言っていかんかい」

零れた愚痴が静かな部屋に通る。なんの気なしに机の引き出しを端から開けるとどこも空っぽ。最後に胸元の引き出しを引くと小さな木箱が出てきた。

「なんやろ。これだけ残していくなんて、なんかあんのかな」

木目調の下地にワンポイントで緑と赤のラインが縁取られた、可愛らしい見た目の木箱。グルーシャ君のイメージとは遠いそれは、重さは感じず箱を振ってみてもカサカサという音が聞こえるのみ。

「まさか女の子からもろたラブレターやないやろな」

十分あり得る。あれだけ整った顔をしているんだ。女の子からラブレターを貰うなんて現役時代もジムリーダー時代も日常茶飯事だったはずだ。興味なさそうにしていても捨てずにとっておくだなんて、彼も一端の男の子だったというわけか。

「気になるなぁ。でも鍵かかっとるし開けるなんて無理……あっ!」

ポケットから先ほどのオクタン焼のキーホルダーがついた鍵を取り出す。
もしかして……
ゆっくり鍵穴に差し込んで回すと、かちっと音が鳴り解錠された。木箱の蓋を開けると一通の封筒が入っている。

「これの鍵やったんか。でも意外やな、ラブレターいっこしか入っとらんやなんて」

さすがに封筒の中を改めるのは気が引けるので蓋を閉じようと手を掛けると、差出人の名前が目に飛び込んでくる。

──From Grusha

(これ……グルーシャ君が書いたんや)

誰に向けて書いたのか。こんな立派な箱にご丁寧に鍵までつけて保管してあるなんてよっぽどその人のことが好きなのだろう。これだけ断捨離してある中でこれは捨てられなかったとでもいうのか。どうせ失恋ついでだ。誰宛か見るだけ見てとっとと退散しよう。恐る恐る手に取り封筒をひっくり返すと《Dear Chili》の文字が。

「う……ち? んなアホな……」

何度見返しても自分の名前のスペルで間違えようがない。ミモザのシールを外すと中から二枚の便箋が出てきた。

チリさんへ
──この手紙を読んでくれているということは僕はもうナッペ山を後にしたはずです。それなのにここまで来てくれて、この手紙を見つけてくれてありがとう。それと、ごめん。チリさんに何も言えずパルデアを離れて。

「グルーシャ君……」

癖のない真っ直ぐな字で綴ってある文章を一つ一つ拾っていく。手紙にはシンオウ地方に怪我とリハビリの権威の先生がいて、コンタクトが取れたため手術を行うこと。リハビリ後、可能ならスノーボードにもう一度挑戦したいこと。シンオウなら手持ちのポケモンも過ごせること。そして、自分への想いが綴られていた。

──言い訳になるけど、何度もチリさんに手術のことを伝えようとはしたんだ。でもチリさんと過ごしている楽しい時間に水を差すような真似はできなかった。とうとう言い出せずにパルデアを離れる日を迎えてしまった。意気地のない奴でごめん。もしも夢を叶えてもう一度チリさんに会えたなら伝えたいことがあるんだ。僕を待っていてくれなんて言わない。ただ一つ願うとしたら、チリさんには後悔のない人生をあなたらしく歩んでほしい。

「……なに自分勝手なこと言うとんの。うちらしくって、そんなんグルーシャ君がおらんかったら寂しゅうていつものチリちゃんになれるわけないやん。……ほんま女心の分からんやっちゃな」

肝心なことは一言も書かれていないのになんて熱いラブレターなのか。彼は今、自分自身と向き合って成長しようとしている。それならばこちらも負けてなんていられない。

ポケモントレーナーとしても
一人の人間としても
帰ってきたグルーシャ君と対等に向き合える自分でありたい

想いの込められた手紙にキスを落とすと決意が胸に灯る。

ジムを飛び出してナッペ山を下りるとその足で向かったのは美容室。翌日、リーグで自分の姿を見たポピーにそれは驚かれた。

「チリちゃん!?どうしたんですの、その髪の毛!」
「おはようさん、ポピーちゃん。気分転換に切ってみたんや。短いチリちゃんも美人さんやろ?」
「はいですの!とっても似合ってます!あれ、でも誰かに似ているような……?」

ミディアムヘアに髪を切った自分を見て、小さい手を顎に当てうんうん考えている姿はどこにでもいる少女のようだ。誰かに似ている……それは一人異国の地で頑張っている彼のことだといい。

「んなことより、ポピーちゃん!チリちゃんとバトルしてくれへん?今、むっちゃ闘いたい気分やねん!」
「勿論ですの!おいでなさいな~、ポピーのお友達!」

彼が頑張ると言うのならこちらも腕を磨いて待っていよう。帰ってきた彼を力いっぱい抱き締めるために。




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