諦められなかった夢と君



──コンコン

「失礼します。グルーシャです」

「どうぞ」という声が中の部屋から掛かるとギィィッと軋む音と共に開かれる重厚な扉。格調高い彫刻があしらわれた書斎机の中央で両肘をつき、顔の前で組んでいた指をほどくとこちらを見据える女傑。その机の前までつかつかと歩み寄り、懐から一枚のカードを取り出す。

「今日はこれを返しに来ました」
「……そうですか。貴方がここに一人でいらっしゃると連絡が有ったのでもしや、と思いましたが。心痛お察し致します」

 ゆっくりとオモダカさんが席を立ち相対する。深い藍色の瞳を閉じて十字を切ると、祈るように腰を沈めた。その流れるような一連の動作に育ちの良さと品格が滲み出ている。

「そんな深刻に捉えないでください。元から覚悟はしていましたし、個体別でならパルデア長寿記録といい勝負だったと思います。まぁ、そのお陰で思っていたよりも長くジムリーダーをやる羽目になってしまいましたけど」
「貴方との絆の強さであの子をここまで頑張らせたんだと思いますよ。素晴らしい信頼関係とバトル能力でした」

 在りし日の僕らを思い浮かべていているのか天を仰いで、あいつを労ってくれている。

「それはどうでしょう。性格は元々のんびりしていた割に、ナッペの雪ばっかり食べてたんで身体が強くなったんだと思います。僕にはあの雪の良さはちっとも分からなかったけど、よほど美味しかったんでしょうね」
「……やはりナッペ山を去るのですか」
「元々あそこに居るつもりなんて無かったんです。ただあいつを含め、僕の手持ちはナッペじゃなきゃダメみたいだったから。今の今までずるずる居座りましたけどそろそろ頃合いだと思って」
「本当に貴方はそれでいいのですね。後悔……しませんか?」

 この人の言い淀む姿は初めて見た気がする。いつでも簡潔明瞭に物申し、全ポケモントレーナーの目指すべき指標で、尊敬の念を一心にその身に集めるトップらしからぬ姿だ。

「はい。もう決めたんです。僕はパルデアを離れます。後任は今までジムの補佐をしてくれていたトレーナーにお願いしてあります」
「ええ。それは伺っています。グルーシャ、貴方の人生です。私がとやかく言える義理はありません。
ただあの子のことは……チリのことはどうするおつもりですか?貴方達は……」

 こちらの痛いところをピンポイントで突いてくる。ぼくの気持ちに気付いた上で聞いてくるのだから、やはりただの清廉潔白な人物ではなく、清濁併せ呑む度量をもってぼくたちを統べているのだろう。

「トップ。それは勘違いです。チリさんとぼくは四天王とジムリーダー。ただの上司と部下。それ以上でも以下でもありませんよ」

 そう。少なくとも彼女の立場からしたらこれが模範解答なはずだ。一方的なこちらの想いで彼女の尊厳を傷つけたくはない。

「そろそろ飛行機の時間なんです。慌ただしくてすみませんが、この辺で失礼します。腐っていたぼくをジムリーダーとして拾っていただいたご恩、決して忘れません。ぼくが言うのもおかしな話ですが他人のことより、貴女もご自分のために生きてみてください」

 こちらの思いがけない言葉に一瞬目を見開くがすぐにいつもの凛としたオーラを纏い、掌を胸に添え真っ直ぐに告げられる。

「私の人生はパルデアと共に。栄える時も滅ぶ時も一蓮托生です」
「そうですか。トップらしい……どうぞお元気で」

 ジムリーダーライセンスを青紫のグローブを外した手に返却する。これを初めて渡された時の目の前の人はひどく大きく見え、威厳と畏怖に満ちていた。でも本当のオモダカさんはこんなにも華奢で小さかったのか。

「それじゃ失礼します。チリさんのこと……宜しく頼みます」

 扉がゆっくりと閉まっていく。トップがぽつりと呟いていたが、聞こえない振りをして背を向けた。

──チリは貴方と一緒でないと幸せにはなれないのですよ。


◇◇◇


 スーツケースを勢いよく転がし、足早にリーグ本部を突っ切る。もたもたしていたら彼女に出会ってしまうかもしれない。そうしたらこの決意が揺らぐのは目に見えている。一刻も早くここから外へ出ないと。しかし気持ちばかり急いて、足は自分の思っているようにスピードが出ず舌打ちをする。そこに耳馴染みのあるアルトボイスがエントランスに響いた。

「おーい!そこにいるんはグルーシャ君やないかー?そない急いでどこ行くん!今下りるさかい、ちぃっとそこで待っとってー!」
「……チリ、さん……」

 二階の踊り場から覗き込みながら、よく通る声が降ってくる。

 なんてことだ。今まさに脳裏に思い浮かべていた、一番見つかりたくない、でも……一番逢いたかった人。吹き抜けの螺旋階段を長い足で一段飛ばしで駆け下りてくると、最後の三段を一気に飛んでこちらへと駆けてくる。今のうちにこの場を立ち去ってしまえばよかったのに、チリさんの自分を呼び止める声にどうしても足を動かすことができなかった。

「はぁ……はぁ!珍しいなぁ。グルーシャ君が本部に居るなんて。なんや用事でもあったん?」

 そんなに息が上がるほど急ぐ必要なんかないだろうに。仮にぼくが逃げたところでチリさんの脚力なら容易に追い付けるのだから。

「……ちょっとトップに話があったんだ。でももう終わったから出るところ」
「ふーん。なんやでっかいトラブル?随分深刻そうやな」
「なんで……そう思ったの」
「せやかて、目ぇはギンギンに鋭いわ、眉間に皺寄ってるわでせっかくのイケメンさんが台無しやで。それじゃファンの女の子達逃げてまうよ。グルーシャ君の笑顔はピカイチなんやから、笑っといてほしいなぁ」

 ぼくの真似なのか指で目尻を吊り上げ、眉間に皺を寄せている。今の自分はそんな顔をしているのか。それに先ほど彼女が言っていた笑顔。そんなのは手持ちのあいつらとチリさんの前でしか見せた覚えがない。しかしその姿を見せる相手も一つ溶けて消えてしまったが。

「そや!久しぶりにポケモンバトルせぇへん?チリちゃん、今から休憩やからグルーシャ君の時間があれば二次会場でやろうや!」

 その言葉を聞いてビクッと身体が強張る。バトルなんてしようものなら、あいつがいないことはすぐに気付かれてしまうだろう。ぼくらのバトルは一匹足りとも欠けてはならない構成だったのだから。

「ごめん。バトルは出来ないんだ。そろそろ行かないと」
「そっかぁ残念。まぁ、ここからナッペ山遠いもんなぁ。今から帰ってもあっちに着く頃は日が沈んでるやろか。気ぃつけて帰ってな」

 スーツケースを握る掌に力が入る。ここで分かれたら二度と会えないかもしれない。この想いを伝えないままで自分は後悔しないのか。

「……チリさん、あの……!」
「グルーシャ君!また次会うたらバトルしような!自分と闘うのいっちゃん好きやねん!せやから、そん時までチリちゃん以外に負かされたらアカンよ」

 ビシッとモンスターボールを突き出し宣戦布告をされる。それは軽い束縛にも似た約束のよう。ポケモントレーナーとしての信頼を溢れんばかりに態度で示してくれる。そのお返しとしてこれくらいは伝えてもいいだろうか。

「僕も好きだよ。…………チリさんとバトルするの」
「うんっ!?そ、そうかぁ?なんやグルーシャ君にそう言われると照れてまうな」

 頬をうっすらと朱く染め、艶めく緑髪をくるくると指に絡めている珍しい姿が見せている。

「チリさん、時間あるなら外まで来てもらえる?」
「勿論!空飛ぶタクシー乗り場やろ。って、なんやえらい大荷物やな。持つの手伝うで」

 ひょいとキャリーオンバッグを抱きかかえると、横に並んでエントランスをくぐる。もうすぐ春だというのに今日は冷たい風が肌に吹き付けひんやりと感じる。

「はっ……はっくしゅん!」

 隣から聞こえた盛大なくしゃみ。雪山で慣れている自分でさえ肌寒いと感じたんだ。都会暮らしのチリさんにしてみれば身震いするほど寒いに違いない。

「あはは、恥ずかし。今日むっちゃ寒いからくしゃみ出てまう……くしゅん!」

 自分の巻いているマフラーを彼女の首に手早く巻き付け暖をとらせる。気休め程度だが無いよりは幾分マシなはずだ。

「風邪引いたら大変。まだ寒い日もあるから気をつけて」
「はーい、おおきになぁ。……って、あの、グルーシャ君?ちぃっと巻き過ぎやないか?」

 暖をとらせようと、普段自分が巻く時よりも気付けば多めに巻き付けてしまった。ぐるぐる巻きにされた彼女は鼻から上しか出ておらず、そのなんとも愛らしい姿に思わず噴き出してしまった。

「ははっ!チリさん、ディグダみたい。可愛い」
「……貶されとんのか褒められとんのか、よぉ分からんポケモンのチョイスするやん」

 ディグダは彼女にとって特別なポケモンだ。手持ちに進化系のダグトリオがいるし、以前ディグダとの出会いのあれそれを聞かされ強い思い入れがあるのだろう。口元はマフラーで隠れていても、目尻が下がり微笑んでいるのが想像つく。

「ガァギャァ」「ギィギィィ」

 けたたましい複数の鳴き声がこちらへと近付いて、色とりどりのイキリンコと共にタクシーが下りてくる。チリさんが抱えてくれていた荷物を受け取ると、一緒に渡される言葉。

「次はいつ会えるやろか。そろそろ桜も咲く頃やしグルーシャ君がこっち来れたら一緒にお花見できたらええなぁ。もし難しいんやったら、チリちゃんがナッペ山に突撃してまおかな!」

 やめてくれ。ぼくとの未来をそんな眩しい笑顔で言わないでほしい。その時のナッペ山にもうぼくはいない。そのことを彼女が知ったらどう思うのか。残念がる?怒る?悲しむ?
いずれにせよ人懐こく優しいチリさんのことだ。例え数居る部下の一人だとしても曇った表情にはさせてしまうのだろう。

「そや、マフラー返さんと。今外すさかいちょっと待っといてな」
「動かないで。顔になにか付いてる。目、閉じて」
「ほんま?宜しゅう頼むわ」

 何の警戒心もなく閉じられる瞼。長い睫毛が影を落とし整った顔に魅惑的な色香が漂う。細い肩に手を乗せ、マフラー越しの彼女の唇にそっと自分のものを当てる。

 この想いを告げることすら出来ず、貴女の前から居なくなる弱いぼくをどうか忘れないでくれ。いつか貴女の隣で胸を張って立てる人間になったら必ず逢いに行くから。どうかそれまで今のまま、変わらないチリさんでいて。

「おーい?付いてんの取れたー?」

 幾重にも巻かれたマフラーのお陰で自分に何をされたか全く気付いていない、律儀に瞳を閉じたまま呑気な声色で訊ねられる。

「ただの糸屑だったみたい。もう取れたから目を開けていいよ」

 ぱちっと視線が合い、茜色の瞳がこちらを見つめる。その瞳に映る自分はなんて情けない顔をしているんだろう。

「グルーシャ……君?どうしたん、その顔。大丈夫かいな?」

 心配して伸ばされる手から距離をとるように後ずさる。

「マフラーはそのままチリさんが持ってて」
「いやいや!ナッペ山は極寒なんやからこれ無いとアカンやろ!」
「いいんだ。チリさんに持っていてほしい。次に会う時に返してくれればいいから。それまで持ってて……くれる?」
「う、ん。そら勿論持っとくけど。なぁ、グルーシャ君。今日の自分なんか変やで。言いたいことあるんなら言ってみ……」
「ごめん、もう時間だ。元気でね。
…………さようなら」

 タクシーに乗り込み、扉が閉まるタイミングで言った別れの言葉はきっと彼女の耳には届かなかっただろう。イキリンコの鳴き声と共に高度が上がり、どんどん小さくなっていくチリさんの姿を目に焼き付けながら、タクシーは空高く飛び立った。



◇◇◇



(最後、グルーシャ君何か言うてなかった?)

 明らかに様子のおかしかった彼の言動を思い返してみる。マフラーを巻かれて、糸屑を取ってもらって、彼のトレードマークとも言えるこれを預かって、それで……

──元気でね。…………さようなら

「ーーっ!!」

 バッと空を見上げると既に小さくなったタクシーがナッペ山とは真逆の方向へ向かって飛んでいく。

「嘘や……さよならなんて嘘やろ……。
なぁ!グルーシャ君……っ!」

 彼の温もりが残るマフラーを巻いたまま、崩れ落ちて叫ぶことしか出来なかった。





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