ワードパレットまとめ
「うわっ!」
夫の短い悲鳴と共に、寝室に備えついている文机のがたつく音が聞こえた。何事かと身重の身体で小走りに彼の元へと向かうと、殺虫剤片手にベッドの下を覗き込んでいるグルーシャの姿があった。その光景でおおよその検討がつく。
「大丈夫かいな?あんたゴキ苦手やろ。チリちゃん代わったろか?」
「いいって。チリはお腹も大きいし、これくらい大丈夫だから……そこかっ!」
噴射音が勢いよく聞こえる。殺虫成分の入ったガスタイプのものでなく、氷で固めて憎き天敵を仕留める殺虫剤を選ぶのがなんとも彼らしい。そんなところまで氷タイプなのかと、一緒に訪れたドラッグストアで思わず笑ってしまった。自分は決して行儀が良いとは言えないが専ら新聞紙を丸めて叩き潰すやり方しかしてこなかったので、冷たい雪山生活が長い彼にとっては目下奮闘中の天敵も珍しい生物だったのだろう。一緒に暮らし始めてからあんなに毛嫌いしている姿を見て驚いたものだ。
何度かベッドの下で攻防を重ねた後、ついに仕留めたのか長い割り箸を取り出しては、凍った白い塊を挟み取る。なるべく見ないように黒の袋へと素早く入れ口を固く縛ってからゴミ箱へと投げ捨てた。
奮闘していた彼を労うようにぱちぱちと拍手をするが、何故か不服そうな顔で振り向かれる。
「子供扱いしてるだろ」
「してへんって。素直に褒めたっただけやのに考えすぎやで。あんたの方がマタニティーブルーちゃう?」
確かにたかがゴキ一匹に対して随分と重装備で挑んでいるなぁと可愛らしく思っていたのは事実ではあるが。決して子供扱いしていたわけではない。彼が大人の男であることは自分が誰よりもよく知っているのだから。こちらの心中など知る由もないグルーシャは未だ不貞腐れたまま、扉に寄りかかったままの自分の前へと迫ってくる。
「子供扱いの次は男としても見てないって?」
(あちゃー。言葉選び間違えてしもたか)
いつの間にか扉は閉められ背には冷たい壁が押し付けられる。マタニティーブルーと彼を評したのがえらくお気に召さなかったご様子で、アイスブルーの瞳に射抜かれる。
「誰のせいでチリが今こうなったか分かってる?」
先ほどまでリビングで愛おしそうに撫でていたものとはまるで異なる手つきで膨らんだお腹をなぞられる。その厭らしい指遣いに身体の奥まで彼に躾られた、女としての自分がどろりと反応してしまう。
「うちとグルーシャの二人やろ。あんただけのせいでこうなったんやないわ」
「……っ!ならもっと共犯になってみようか」
唇を骨張った太い指で一撫でされる。お誘いの返事の代わりに、かぷりとその指を甘く噛んでは吸い付いてみる。
「共犯やなんて悪い言い方やめ。あんたとの大事な宝もんなんやから」
「ああ、そうだね……」
やっと身籠った小さな命と、それを与えてくれた大切な貴方。
──あいしてる
その想いを指に、瞳に、そして唇に乗せてグルーシャに何度だって伝えよう。一際優しく抱き締められるとそのままベッドへと二人で沈み込んでいった。
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