婚約時計
来週から始まる同棲生活。ぼくは今、荷造りの手伝いという体で家にお邪魔している。割れ物の梱包をしているこちらの横で、雑誌を両手に取り断捨離をしているチリさん。普段はあんなに即断即決している優秀な面接官である彼女が、うんうん唸りながら処分するか否か迷っている姿がなんとも可愛らしい。ここら辺で助け船を出してやろうか。
「一旦休憩しない?だいぶ段ボールも出来てきたし」
「さんせーい!ほんまグルーシャが来てくれて助かったわ。来週までに荷造り間に合うか不安やってん。ちぃっと待っといてな」
大きく背伸びをしながらキッチンへと向かうチリさん。平日は夜遅くまで仕事をこなし帰宅が遅いどころかそのままリーグに泊まり込みなんてことも珍しくないようで。自分の荷造りを早々に終わらせると多忙な彼女の手伝いを買って出て、ここ最近の休日はもっぱらこの家で段ボールとガムテープ片手に過ごす日々だ。せっかく念願の同棲生活なのに、肝心のチリさんが引っ越しに間に合わないのでは意味がない。いよいよ残り期日まで一週間となったところで、部屋には段ボールがうず高く詰まれこの分なら問題なく間に合うだろう。
「こないなもんしか出せんで堪忍なぁ」
湯呑み茶碗は先ほど僕が梱包したため、紙コップからほうじ茶のティーバッグの紐がはみ出ている。
「ううん。これで充分だよ。ありがとう」
二人でソファへと腰かけコップに口をつけると、隣からもお茶をしみじみと味わっている吐息が聞こえる。
(聞くなら今か……)
「あの、さ。チリさんは指輪贈られたら困る?」
「指輪ぁ?なんでまた急に」
「急にじゃないけど。ずっと考えてはいたんだ。これからチリさんと一緒に暮らすことになるしけじめで渡したいと思って」
「けじめねぇ……」
一口お茶をすすると、ぼくの方へと向かい直して正面から相対する。
「そう思ってくれるのは嬉しいけど、じゃあチリちゃんはどないしたらええねん。うちもグルーシャに指輪渡そか?」
「どうって別に何もしなくていいよ。一緒に居られるだけで充分……」
「それ!うちかておんなしや。んなもんに頼らんでもうちらなら大丈夫やろ。高いお金出してわざわざ買うもんでもないしなぁ」
ビシッと指をつきつけ、説き伏せるように話しているかと思ったら一転して可愛らしいことを言い始める。
「それにうちにそないなお金出してもらうより、グルーシャと一緒にどっか行って美味しいもん食べた方が楽しそうやん」
にぱっとぼくの大好きな笑顔を向けられる。ある程度の遠慮は予想していたが、それ以上にこちらを喜ばせる言葉も付け加えてくるのだから本当に侮れない。
「そうだね。旅行もたくさん行って美味しいものもいっぱい一緒に食べよう。でも……それとは別に指輪を贈りたいんだけど迷惑?」
「迷惑とかそういうつもりで言ったんやないで。その気持ちは純粋にありがたいと思うし。ただなぁ……。むしろなんでそこまで指輪にこだわるん?今までそないなこと言うたことなかったやんか」
確かにチリさんの言うことは一理ある。ぼくは雪山生活で凍傷の危険もあるためそもそもアクセサリーに疎いし、チリさんは好みがしっかりとあるのでこちらが下手に買っても困らせるだけだと思い一度も身に付ける物は贈ったことがなかった。それなのによりにもよって一番難易度の高い指輪だなんて、彼女からしたらそれは驚くだろう。
しかし今回は事情が違う。ただの恋人ではなくこれから一つ屋根の下で同棲生活をスタートさせるのだから、こちらも一人の大人の男としてけじめをつけたい。
「ぼくはこの先もチリさんとずっと一緒にいたいって思ってる。変わらない気持ちの証と、もしもぼくに何かあった時にチリさんが困らないように指輪を贈らせてほしい」
「…………」
「チリさん?」
彼女の掌にある空っぽになった紙コップは突如ぐしゃりと音を立てて握り潰される。
「……なに、それ。ぼくに何かあった時?
うちが困らないよう?…………ふっざけんなや!」
ぐいっと胸倉を掴まれ、眼前には眉を吊り上げ整った顔を歪めたチリさんが。勢いよくソファから立ち上がった弾みで彼女の口にしていた紙コップが床へと落ちて転がっていくのが視界の端に見えた。
「あんた、どんなつもりで指輪贈ろうとしてんの!?自分に何かあった時に売れって?そんなん心配されんでもうち一人生きてくくらいの金なら持っとるわ!」
強気な声色とは裏腹に胸倉を掴む手はカタカタと小刻みに震えている。
「これからグルーシャと楽しく暮らそ思っとったのに、肝心のあんたが……そない悲しいこと考えとんのやったら一緒に暮らすなんか止めや!」
ああ……なんて残酷なことを言ってしまったのか。本当は淋しがり屋で傷つきやすい心を隠して生きてきた、誰よりも強がりな彼女に向かって。震える手にそっと自分のものを重ねる。
「ごめん……。チリさんを悲しませるつもりで言ったわけじゃないんだ。勿論ぼくだってずっと一緒に居たいと思ってる。でもナッペ山に限らずいつ何が起きるか分からないから、その時に役に立てばいいと思ってた。でもチリさんの気持ちも考えずに独り善がりだったね」
こちらが言い終わると掴んでいた腕がゆっくりと下ろされ呼吸がしやすくなる。腕と共に俯いてしまったチリさんの顔を覗き込む。
「怒ってる……?」
「別に怒ってるのとちゃうわ。うじうじ悩んどるグルーシャになんて言ったらええか考えとんの」
「うじうじって……」
酷い言われようだ。でも不思議と胸にうっすらとした嬉しさが広がる。今チリさんの頭の中は自分でいっぱいなのだと思うと独占欲が満たされていく。
「ぼくの自己満足なんだからお金のことだったら気にしないで。むしろそれでチリさんに群がる余計な虫を追っ払えるなら安いくらいだし。ぼくの心の平穏のためだと思ってわがまま聞いてよ」
リーグへ立ち寄った際の光景を思い出すと苦々しさが鮮明に蘇る。女性にモテるならまだしも、一部の男の中には下品な妄想を彼女でしている奴らがいるのも知っている。そんな奴らにこの
「……ずっるいなぁ。そないな風に言われたらダメとは言えんやんか。まぁ、虫除け言うてもチリちゃんには必要なさそうやけど。グルーシャぐらいなもんや、女扱いなんかしてくれんの」
自らに向けられている卑しい目に対する危機感を全く感じていない呑気な声色で言いながら、掌を広げてなにも着いていない自分の指を見つめている。
「それに仕事中はいつも手袋着けとるから意味あらへんのとちゃうん? なんかもっと他に…………あっ!」
突然ぼくの手首を掴んだかと思うと目の前に掲げられる。
「時計は? 腕時計やったらいつ着けとってもおかしないし、仕事中でも違和感無くて実用的やろ。ほれ、縁起も良いみたいやんか」
すいすいとスマホロトムを操りペアウォッチのページを見せてくるとそこには
《時計を恋人と持つ意味は一緒に時を刻んでいくことを表します》
ぼくの想いとも合致する時計に込められた願いがあった。
「腕時計か。考えたこと無かった。……いいね、そうしよう」
「よっしゃ!そうと決まれば、とっとと残り終わらせて買い行くで。善は急げや」
腕まくりをして再び段ボールの山へと隠れようとするチリさんを引き留める。
「え、これから行くの? 何も今日じゃなくても……」
「グルーシャのけじめ言うもんなら来週の引っ越しの時には着けときたいんやろ? せやったら今日明日しかチャンス無いやん。あ、言うとくけどあんたの時計はうちが買うから変な遠慮は無しやで。ええな?」
有無を言わさぬ圧を掛けられ、この後の予定が半ば強制的に決まっていく。こういうところが男のぼくから見ても格好いいと思う。こちらの気持ちを汲み取ってくれた上で彼女自身も納得できる折衷案を提案し、どちらも不満が出ないような心配りをする、とても繊細な心を持っている。自分と居るときくらいはもう少し肩肘張らず過ごしてほしいと願っているがまだまだ彼女の方が一枚も二枚も上手のようで、もっと精進しないといけないだろう。
「分かったよ。ぼくのはチリさんに任せる。その代わりチリさんのはぼくが選ぶから文句言わないでよ」
「どんなの選ぶつもりやねん。普通のでええねん、普通ので」
「普通? そんなわけないでしょ」
「なんで」
「さっきの時計のページ、もう一度見せて」
頭にはてなマークを浮かべたチリさんが言われた通り、ロトムの履歴を辿ると先ほどのサイトが液晶に表示される。
「ほらこれ。随分熱烈だと思って。まさかぼくより先にチリさんから言われるとは思ってもみなかったけど」
タイトルの下に添えられている一文を指差す。
《お二人の門出を祝う 婚約時計はこちら》
「ちょっ、誤解やって!そないなつもりやのうて、たまたま検索したら一番上に出てきただけやから!」
「なんだ。ぼくはそのつもりで指輪を探してたけど」
「!? 冗談キツいて!たかが同棲でそこまで重く考えんでも……」
「たかが? チリさんはたかが同棲なんて思ってたんだ?」
「いや、それはその、言葉の綾言うか……」
真っ赤になったり青ざめたり忙しいチリさん。そうさせているのは自分のせいなのは分かっているが、どうにも男という生き物は好きな子をいじめたくなるようだ。
「婚約……は一旦置いとくにしても二人の門出は祝いたいやん。うちかてあんたと暮らすのめっちゃ楽しみにしとるんやから」
ぼそっと呟くと左の袖を控えめに引っ張られる。
「それにグルーシャが心配してるように万が一何かあった時でも、メンテナンスすれば時計は動き続けるやろ?そしたらずっと一緒に
瞬いた瞳の奥に不安と淋しさを隠しながらも、気丈に振る舞う彼女を腕の中へと閉じ込める。
「大丈夫だよ。ちゃんと隣で一緒に時を刻むから」
「……約束やで。破ったら地獄の底まで取っ捕まえに行ってどついたるから肝に銘じとき。逆にうちになんかあったら、グルーシャがうちの時計手入れしてな?」
(チリさんが居ない世界……?)
そんなものを想像したら指先まで身体が冷えきり、色のない無機質な世界で一人立ち尽くしている自分が容易に目に浮かんだ。そんな悪夢を振り払うかのように、腕の中にある温かな身体を力を込めて抱き締め直す。
「………やめて。そんなのまともに出来る気がしない」
「そうやろ? せやったら二度とあほなこと考えんの」
チリさんが怒ったのが漸く理解できた。さっきまで分かっていたつもりだっただけで、本質から目を背けて分かろうとしていなかったんだ。逆の立場になったらとてもじゃないが正気でなんていられない。彼女との思い出が詰まった物だけを、ただ眺めているだけなんて自分には耐えられそうにない。
「ほんとごめん……。馬鹿なこと考えてた」
「うんうん、分かってくれたんならええよ。そないがっつり落ち込まんといてや」
幼子をあやすかのように背中をぽんぽんと叩かれる。さざ波立った心が徐々に凪ていくのを感じる。
「ありがとう。……うん、チリさんの充電も出来たしそろそろ荷造りの続き始めようか」
「そうこんとな!よっしゃ、ちゃっちゃと終わらせて出掛けんでー!」
その後、揃いの腕時計を着けた二人が職場で目撃され「あの二人付き合ってる!?」との噂で持ちきりになったとか。
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