戯作

旅人と少女と橋




石橋の上を馬車が通過するときの、よく響く乾いた音を、旅人は好んだ。
石橋の上をどこかの紳士が歩くときの、革靴の底の、冷静でつやのない音も好きだ。
その音を聴くために、旅人は毎日、街のはずれにかかる石橋に足を運んでは馬車や紳士が通るのを待った。
抵抗なく耳に滑り込んでくるそれは、歌や楽器など趣味ではない旅人にも、よくなじむ。

他人が奏でているからいい。自分が奏者になってもあの音は聴くことができない。
遠くからゆっくりと近づき、目の前でほんの一瞬だけ一番いい音を奏で、また遠ざかっていく。
それがいつでも聴けるわけではないから、一つ一つの音が旅人の宝だった。

ぼろ雑巾のような放浪者と熱帯の鳥のような貴族が混在する街で、石橋の奏でる音以外に、もう一つ旅人の気がかりがあった。
たった今石橋の向かい側の柵によりかかった、少女である。

上流階級の令嬢であろうかと想像する華美な洋服は、女の子供ならだれでも好きなのではないかという贅沢に布を使った大胆なフリルと、繊細なレースが惜しみなくあしらわれていた。ゆるやかに広がる裾のシルエットが、いかにも上品な雰囲気を演出している。

だがそんな育ちのよさそうな少女は、どうしてかいつも一人で街に出て来る。
そうしてたびたび、約束した訳でもなくこの石橋で旅人と向かい合うのだった。

「君、また来たのかい」

旅人が問いかけると、少女は多少面倒そうに口元を曲げた後、「お邪魔?」と開き直った顔で聞き返した。

「君みたいな綺麗な服着た女の子がひとりでこんなとこまで来たら、危ないからさ」

心配してるんだよ、と言ってみる。

「ぼろを着てこんな所でうろうろしてる人の方が危ないと思うけど」

「もう何度も顔を合わせてるし、害がないのはわかってもらえてるだろ」

「ええ、害がない代わりにとんでもなくつまらない人ってこともね」

およそ普通の少女らしからぬ口調。声色と口調があまりにも不適当で、初めて会ったときは一体何者かと思ったものだったが、小難しいことを小難しい単語を並べて言うわりに、子供らしいところもある。
王子様に憧れてみたり、かわいらしいポシェットを大事にしていたり……十歳前後くらいの子供といえばこんな感じ、というイメージにそっている所を、旅人は何度か目にしていた。

「つまらないは、ないだろ。酷いな」

「主観的な感想よ。気にすることはないわ」

「補ったつもりかい? ぜんぜん励まされた気分にならないよ」

雷に似た遠い音が、旅人の語尾に重なった。
重い荷を曳いた馬車が、旅人の視界に入る。
来た来た、と旅人はわざとしらんふりをし、空を見上げる。わずかに暖色に染まっていた。

まず馬の蹄がかぷかぷと石橋に進入し、続いて荷を乗せた車がごろごろと音を立てる。
荷馬車が二人の間をゆっくりと割って進む。少女の姿が旅人の視界から消え、また現れると、木の虚のようなものがふたつ、旅人を見ていた。
やがて蹄から先に土に着地し、車輪がじゃりじゃりという歯切れのわるい音を立てながら遠ざかった。
悪くなかった。

「べつに励ましてないわよ」

一呼吸おいてから、馬車などはなから通らなかったかのように、少女がまた口をひらく。前向きな人ね、と皮肉が飛ぶ。ああいえばこういう子だ。
旅人は軽く首をひねって、自嘲気味にふんと笑ってみせる。

「まあいいさ、つまらない奴はつまらないなりに、楽しみを見つけるからね」

「馬車や人の靴音を聴いてニヤニヤするのが楽しみなのかしら、気味が悪いわ」

心外だと旅人は目を丸くした。

「君だってよくここへ来るじゃないか。馬車や人が通る時は黙っているし、趣味が合うものだとばかり思っていたけど」

「なにそれ、図々しい。私はあなたとの間に障害物があるのに、みっともなく大声をだしてまで声をかけることはないと思ったから黙ってるのよ。あなたはあなたで耳をそばだてているから、気を遣ってあげたんじゃないの。私がいつニヤニヤしたっていうの」

つっけんどんな少女でも他人を気遣うことはあるのか、いやまあそれはそうだろうが、その気遣いが自分にも向くものだとは。そう思いながら、やや遅れて旅人は切り返した。

「じゃあ、なんで君はここに来るんだい、まさか、おしゃべりを楽しみにして来てるのかい?」

ちょっとした期待を込めて言ったが、少女は盛大なため息をつき、いらだたしそうに眉根を寄せた。

「あのね、あなた……」

そこまで言って空気を飲み込むように口を閉じると、どこかを切り替えたようだった。
何度言っても無駄だと判断したらしい。
勝った、と旅人はひそかにほくそ笑んだ。

「はしがすきなのよ」

「えっ、橋が?」

意外な趣味である。豪奢なものや夢のあるものが好きだろうと、容姿や言動から漠然と思っていた旅人には、地味な橋が好きと言う少女の言葉は冗談か何かのようだった。
だが少女は冗談など決して言わない。

「その、あれかい、大きな鉄橋や綺麗なつり橋とか、そういうのかい? それともこの橋限定?」

「はしなら何でもよ。このはしは近いから来てるだけ」

家が近いのか。頭の隅で少女に関する新情報を書きとめながら、まだ何か言いだしそうな雰囲気の少女を見守った。いや、身構えたと言った方が正確かもしれない。

「橋は空間と空間を繋ぐ境界。物事のはじめとおわり。対極するふたつをひとつに繋ぎ、めぐり合わせるための橋梁」

旅人は黙って聞いていたが、いつも以上に何の事だかさっぱりわからなかった。微動だにせず見つめてくる虚に対して肩をすくめてみるだけだ。

「……。へえ」

少女には旅人が話について行けないことはよくわかっているはずだが、他人が理解できているか否かは問題ではないらしい。もっとも、旅人は自分以外の人間と少女がこういう話をしているのを、見たことは無いのだが。

旅人がまた声をかけようとしたとき、本日二度目の馬車がやってきた。
割と速度がある。楽しめそうにない。旅人は小さく舌を打った。
少女は先のように黙って馬車の方を一瞥し、旅人の落胆を見ると何を悟ったのか「ふうん」というような顔で、両手を後ろに組んだ。

大きな音をたて、馬車が少女と旅人の間に割り込む。少女の姿が馬車に隠れ、少女からも旅人が見えなくなった。

一瞬の後、視界が広がる。
話を再開しようと旅人の口が開くが、旅人は呆けた顔のまま、あたりを見回した。

旅人は一人きりで、西日を背に橋の真ん中に立っていた。




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