雨降りウテナ
光合成(3/3)
両手に華、なんて言葉がある。
美しい女性たちにちやほやされて表面上はクールを決め込んでいても、内心まんざらでもない男性は多いだろう。
もちろんウテナという少年自身も立派に男のはしくれであるから、女性に囲まれて胸が高鳴らないはずがなかった。
しかし今は、ウテナの心をつかんでいるのは骨付き肉や赤いゼリーであって、女性の華奢な肉付きやルージュを塗った唇ではない。
「夫人、いつ帰ってくるんだろう」
かつてこれほど、あのお騒がせ夫人の帰るのを待ちわびたことがあっただろうか。
何が悲しくて、骨付き肉も赤いゼリーも持たず、パーティー会場の隅のカーテンの、そのまた裏の隅に縮こまっていなければならないのか。悪いことなど何もしていないのに。
こうなることがわかってウテナを連れて来たのだとしたら、トワイライト夫人はどこまでもウテナをおもちゃとしてしか見ていないということだ。
「おや、ウテナ君。ここにいたのかね」
「ひっ!」
急にカーテンを捲られ、また魔の手が…! と思ったところ、その声が低く落ち着いた男性のものであることに気が付いた。
しゃがんだまま壊れた人形のように振り返ると、憐れんだような笑顔のアンピエル伯爵がウテナを見下ろしていた。
慌てて立ち上がり、身なりを整える。
「はっ…伯爵」
「アンピエルで構わないよ」
「あ…アンピエル…様?」
またアンピエル伯爵はにっこりと笑う。
「どうかね?」
そう言いながら差し出した伯爵の手には、銀の盆と、その上には照り輝いた骨付き肉、モンブランのように小さく巻いて纏められたパスタ、柔らかそうな白いパン、オレンジのジュース、それに真っ赤なゼリーも鎮座していた。
「うわあ…!」
この人は天使だ!
もし料理に毒でも仕込まれていたら一発で死んでいただろう軽率さで、ウテナはそれを受け取った。
「お腹が空いていたんだね。さっき見ていたんだけれども、色男は大変だな。そこのテラスに空席があるから座ってゆっくり食べるといい。屋根はあるが生憎の雨模様だから女性は殆ど出てこないだろう」
「ありがとうございます」
「彼女たちを許してやってくれたまえ、何と言ってもトワイライト夫人のことだからね。夫人は女たちの憧れであり、姉であり、母であり、畏敬の対象なんだよ」
それはもうなんとなくわかっていた。
トワイライト夫人の凄さは、本人が語らなくても充分伝わるくらい皆がよく知っている。どうして夫人がそんなに凄いのかまでは、ウテナは知らないが。
「夫人はずっと君のことを周りに紹介したがらなかった。夫人自ら友人と称する人の子供だから、よっぽど思うことがあったんだろう。それを今日連れてくるというのだから、皆色めき立つのは仕方がないさ。私もとても気にしていたんだよ」
「僕のこと、夫人は誰にも話さなかったんですか?」
夫人はよくウテナを自慢のように言っていた。
きっと周囲にもウテナの話をばらまいているのだろうと思っていたが、どうやら思い違いらしいことに少し驚く。
二人の会話を妨げぬようにか、雨音が弱まって雫が落ちる響きだけが合の手を打つ。
「友人の子がかわいい御使いだということだけは言っていたけれど、それ以外は何もね。君、街では大した有名人だよ?」
「え……えええ……」
せっかく骨付き肉をもらったのに、少しかじっただけで先に進めない。
口の周りを油まみれにして頬張りたいくらい、腹が減っていたはずなのに。
「今日、夫人は素敵な薔薇の刺繍のドレスをお召しになっていたけど、“夫人らしい”と私が言った意味を、君はわかるかい?」
「……トワイライト夫人が薔薇がお好きだからじゃ……ないんですか?」
「そうだね、夫人はよく薔薇をあしらったものを身に付けていた。でもいつも、こう言っていたんだ。“まだ足りないものがある”」
「足りないもの……」
「薔薇が美しく花開くのは、その花びらを支える萼の存在があるからだ」
「……がく」
“ウテナは花のガクでしょ”
出かける時、夫人は振り返りもせずウテナに言った。
それだけで、アンピエル伯爵の言いたいことが、なんとなくわかってしまった。
「君に深緑の洋服を着せて夫人自身と対にしたのは、満を持して、ってわけだ」
「僕は……てっきり、夫人の引き立て役にされたのかと」
「ははは、ああたしかに、緑と赤は相性がいいからね」
緑の中に誇らしく咲く薔薇の大群は壮観だよと、アンピエル伯爵は何かを思い描いた表情でウテナに教える。
ウテナの脳裏には、その薔薇の大群の中心にトワイライト夫人の姿があった。
「皆、ウテナ君が来るからと書かれた招待状をもらった時はなんとなく、夫人に寄り添う萼の姿を予感していたよ」
「……。え?」
いやにさっぱりした笑顔の伯爵と左右を、順番に見わたす。
最後に見たときやっぱり笑顔だった伯爵に、わずかに体を近づける。
うっかりパスタに付きそうになったウテナのみどりの袖を、伯爵は素晴らしい反射神経と真摯な動きで持ち上げた。
その一見間の抜けた体勢のまま、二人は顔を突き合わせる。
「……このパーティーって……」
「もちろんトワイライト夫人の主催だよ」
「え……えええええっ!」
「ウテナ、ウテナ! どこにいるの?」
「ああ、夫人が戻られたようだ。ウテナ君、薔薇と萼の話は、内緒だからね。喋ったって夫人にばれたら宝石を弾にした銃で撃たれる」
「……」
立ち上がって夫人を呼ぶ伯爵を呆然としたまま眺めるウテナには、冗談に愛想笑いを返す余裕もなかった。
いや、夫人のことだから冗談とも言い切れない。
そんなことを思った瞬間一瞬ゆとりが戻る。
雨に少しばかり嫌な顔をした夫人が薔薇の裾を持ち上げながらテラスに出て来た。
「やだわ、どうしてこんなところで食べるの? で、ウテナ、ちゃんと食べられた? まあなにそれ、ちゃんと野菜もお摂りなさいよ、肉と油ばっかり! ほんとやあねえ男って……」
これはアンピエル伯爵が持ってきたもので……と、普段の調子なら反論しただろう。
だが今はなんとなく気恥ずかしいというか、気まずいというか、夫人の人間らしい側面(裏側か…)を知ってしまって、動揺を隠せない。
「ウテナ、ちょっといらっしゃい」
油汚れを免れたみどりの袖を、中の腕ごと夫人がつかむ。
そのまま屋内に連れ込まれ、ずんずんと奥に進んでいく。
「な、なんですか? 野菜ならあとで食べますよ」
一段高くなった壇上にウテナと自分だけを上げると、夫人はいつもの悪戯な笑顔ではなく、女性らしい柔らかな笑みをたたえてウテナを優しく見下ろした。
さっきの話を聞いていなければ警戒して身構えただろう。
いつのまにか、会場は静まり返って皆がウテナとトワイライト夫人に注視している。その中で、夫人は口を開いた。
「ウテナ、あなたいくつになったの?」
「僕ですか? 十四……いや、違う……十……」
そこまで言って、ハッとした。
たしか先ほども、女性たちのだれかにこんな質問をされたのだ。
その時に気が付かなかったことを、今になってようやく飲み込んだ。
会場の皆と夫人が、微笑んでいる。
その意味を知って、母が亡くなってから忘れていた、自分の存在そのものを祝福されることの喜びを恐々と受け止める。
「今日で……十……五になりました」
小さく告白した途端、雨音に似た何かが会場を満たす。
命の誕生した日を祝う、温かな拍手だ。
こんな沢山の拍手を自分が受けるのは、初めてのことだ。
「こ、このパーティーって……?」
トワイライト夫人は皆まで言わず、やがてまた静寂に包まれた会場をゆっくり見渡した後、感慨深げに思い出を語り出した。
「誕生日おめでとう、ウテナ。あなたに初めて会った日も、こんないや~な天気だったかしら? でも私は……月並みだけど、あなたの笑顔が太陽に見えたのよ」
あれは母を亡くして少しした頃、突然母の友人だという派手な女性が現れて、ウテナを見てすぐ「うちで働かない?」と誘われたのだ。
「私は友達を亡くしてすごく落ち込んでたのよ? それなのに実の子供のあなたは笑ってて……悲しいくらい一生懸命笑ってて」
たしかに、一人で生きていくには泣いているだけではどうしようもなかった。非情な子供だと言われても、自分が笑わなければ天国に旅立った母だって笑えない。
「あなたの母親は、夫を戦争で失った私をとても根気強く慰めて、励ましてくれたのよ。知らないでしょ? 私がダンナ亡くして泣いてたなんて。そんな人の子供が泣いてるみたいに笑ってたら、もう私がどうにかしなきゃって、思うに決まってるじゃない。今じゃ完全に、どうにかしなきゃなのはウテナのセリフだけどね」
トワイライト夫人の姿に、なつかしい母の笑顔が重なって見える。
「ウテナ」
「はい」
優しい笑顔も包み込むような声も、もうおかしいとは思わない。
「これからも私を支えていてくれるかしら」
その言葉の真意を、ウテナは知っている。
深緑の洋服をウテナに纏わせる夫人は、何を思っていたのだろうか。
「……はい」
この人の御使いで、ほんとうによかった。
僕は男だ。人前で涙を流すまい。
震える声は隠せなかったけれど、子供みたいに泣くのは自分が許せない。
温かな雰囲気に包まれる会場から、アンピエル伯爵が黒い箱を抱えて壇上にやってきた。
「トワイライト夫人、これを」
「ああ、そうだったわね、せっかくお頼みしたのに、忘れるところだったわ」
トワイライト夫人がアンピエル伯爵と話していた時に話題に上がった、「頼みもの」だ。
多分、ウテナへのプレゼントだったのだろう。
察したウテナは何も言わず、箱を受け取る夫人の所作を見つめていた。
「はい、ウテナ。あなたの十五歳のお祝いよ、受け取って頂戴」
「ありがとうございます」
両手で抱える程の光沢のある箱を受け取ると、大きさから想像する重さは感じなかった。
なんだろう? と視線で聞くと、夫人は同じく視線で「開けてごらん」と促した。
緊張しながら蓋を開くと、柔らかそうな羽の塊が新鮮な空気の流れを受けて、さわりと動く。
「あれ……?」
いや、空気の流れではない。羽を纏った“ナニカ”が、自らもぞりと動いたのだ。
「なにこ……れ!!」
言い終わらないうちに箱の中から鋭いものが飛び出し、ウテナの顔面を突き刺さん勢いで襲い掛かってくる。語尾を跳ね上げたウテナが思わずのけぞると、“ナニカ”は大声でまくしたてた。
「てめえらいつまで俺様をこんな所に閉じ込めてやがる! 俺は泣く子が更に大泣きする猛禽類の」
「ハットよ」
「ハトじゃねええええ!!」
「……」
突然始まった夫人と“ナニカ”の漫才に、会場がどっと笑いに包まれる。
わかっていないのはウテナだけのようだ。
ハットと言われた“ナニカ”は、小さいながら猛禽類の特徴を持った鳥の形をしており、翼は装着した者の頭部を包むように広がっている。垂れている赤茶色のサテンリボンは顎に結んで使うものだろう。ハットというより、ヘッドドレス的なものか。
「あの、あの……これ、喋ってますけど……」
「これじゃねえ、リウと呼べ、チビ!」
「ひーん!」
「え…!?」
チビと言われて怒る間もなく、ウテナではない何者かの泣き声が聞こえた。
声のもとを見るとアンピエル伯爵がいたが、まさか伯爵が「ひーん」なんて言うはずがないだろう。だがその周りにそれらしい者もいない。
すると、アンピエル伯爵の黒いハットに付いた毛皮が、もぞもぞと動き出した。
「まさか……」
そのまさかだ。
ただの毛皮だと思っていたものが、赤くて丸い、愛らしい瞳を覗かせて震えながらリウとウテナを見つめている。アンピエル伯爵のハットの飾りは、喋る兎の毛皮だったのだ。
なんなんだこの人!
「アンピエル伯爵は帽子職人でもあるのよ? どう、気に入った?」
「職人でも普通喋るハットは作らないと思いますけど!」
「だからハトじゃねえって言ってるだろ!!」
「ハトなんて誰も言ってないよ!!」
いっそう大きく笑い声があがる。
大きく口を開いたままのウテナは、何も言えず夫人を見上げた。
いつもの、悪戯で不穏で、いかにもなにか企んでいそうな笑顔だ。
トワイライト夫人は素知らぬふりでウテナの深緑のハットを取り、かわりに新しいハット……いや“リウ”を、ウテナの頭に乗せた。
大勢の笑い声や話し声でかき消されそうだったが、最後の夫人の言葉だけは、ウテナは聞き逃さない。強まった雨音と人々の声の中、そのセリフだけが、かつての記憶と共にやけに大きく耳に届いた。
「これでまた、面白くなりそうだわあ」
あっという間に和やかになった会場の中心で、ウテナの時間だけが幾年か昔のあの日に戻る。たたみかけるようにドッキリを成功させた夫人は、とても嬉しそうに笑っていた。
どんなに文句を言う事があっても、これから先、自分はずっとこの面倒臭くも慈悲深い人の世話を続けるだろう。
小間使いとして。着せ替え人形として。つまらない男子代表として。
そして、美しく咲く薔薇の花弁を支える、ウテナとして。
★「光合成」おわり